『恋人までの距離』を計ってみる

見目麗しき男女の出会いと、気の利いた会話。魅力的な舞台設定と心憎い選択の音楽。そしてやがて来る切ない別れ。

敢えてこの映画『恋人までの距離』の“特殊さ”をあげるなら、それら映画を成り立たせる要素が、ありそうでいてやはり現実にはあり得ないようでもあり、現実にありそうにないようで、だがひょっとしたらあり得るかもしれないという、リアリティに関して絶妙のところを選んでいる点であり、その点に付いて言えば、まずはクレバーである。だが、待てよ。それは特殊性ではない。どんなドラマもその辺りを狙っているではないか。いずれにしても、脚本家のスマートさ、博識は、セリフからある程度明らかだ。そしてこれらの台詞を覚え、淀みなく捲し立てられる俳優の技量に関しても舌を巻く。このひたすら心憎いまでのクレバーな映画は、それでも、果たして映画と言えるのだろうか? 換言して、これで芸術としての条件を満たしていると言えるのか、ということには疑問の余地があるのだ。これは、おそらくひたすらクレバーなエンターテイメントに過ぎないのである。そしてより適切な表現をすれば、「駆け足の観光映画」なのである。

おそらく、この映画で主人公たちに感情移入が出来て心底共鳴し、「こんなメにあってみたーい」とさえ感じる若い鑑賞者(がいるとしたら、彼ら)は、私の疑いに対してもうすでに反発を感じていることであろう。

いいのである。これをいい映画だと思える人は。これで満足できることに何の問題もない。

この男女がどのような「再会」を果たすのか、続編『Before Sunset』をわくわくしながら期待すればいいのである。だが、この映画『恋人までの距離』(原題『Before Sunrise』)は、もっと良い映画になれる可能性を持っていたし、あるいは、もっと良い映画が将来作られるための、ヒントの宝庫であることに違いはなかった。そうは言っても、依然、反感を感じるひとは感じるであろう。だがこうして続編が出来てしまうと、制作者(あるいは主人公)たちが、再会までの9年でどのように「成長」したのかが、さらにジャッジされることにもなる。もちろん、主人公たちに起こってしかるべき成長がなかったら、それこそ問題である。そして、「主人公たちに起こってしかるべき成長」とは、映画を作る者たちにこそ起こっているべき9年間の成長でもある。『Before Sunset』で、この映画製作関係者は、はたして成長したのであろうか? もっともそんな「高みから見る」ような映画の鑑賞を万人に推奨したい訳ではないのだ。

ディテールこそがこの映画の主たる要素である。そのディテールとはつまり登場する二人の男女間でのべつ幕無しに展開される会話である。しかも映画のほとんどが2人の男女間の会話であるのだから、ディテールこそが同時に全体でもある。だが、このディテールはドラマの強度によるものではなく、あくまでも会話自体によるものなので、いくらでも話題はあちこちにリープし、ひとつの緊密に統一されたテーマとしてまとめられることがない。映画は、「思想」らしきものや、センスの良い「発見」らしきものの断片を会話を用いて無造作に投げ出すばかりだ。この知的ひけらかしはそれ自体が驚きではあるのだが、一切深められることはなく、また、本質的なレスポンスが相手側から返される訳でもない。彼らは「急いでいる」のであり、そのような時間はそもそもないのである。そのような会話を可能にしている自分自身の隠れたセンスやそのような会話を可能にしてくれる相手の存在に酔っているのである。それは現実にあっても不思議はないことだ。だが、そんな会話をつなぎ合わせているのは、シナリオと手慣れた編集の技量によるのである。

ストーリー上、ウィーンを舞台にしなければならなかった必然性もない。それは、おしゃれなヨーロッパの一都市なのであり、おそらく、ドラマの舞台として使い古されたロンドンやローマであるのではなく、やや憂鬱なウィーンが戦略的に選ばれているにすぎない。極端な話、あれは東京でもシンガポールでも良かったのだ。

映画の冒頭でH・パーセルのオペラ「Dido and Aeneas」の序曲(しかも古楽演奏で、朝もやのように曖昧な出だしのバージョン)が使われる。これは、決して結ばれることのない運命にあるカルタゴの女王ディドとトロイの王子エアネスの物語である。二人の出会いを象徴する音楽としては、このオペラの序曲が使われたことも極めて賢明であると評価できる。二人が結ばれないということは、一番最初に暗示されていたのである。だが、この朝もやのような曖昧な序曲自体が、その始まりが決して引き延ばされることはなく、すぐに忙しいドラマへと移行する。これは、まさにこの二人の関わりに相応しい短い序曲なのである。

2人の出会いのときにそれぞれが列車で読んでいた本というのが、男の方が『クラウス・キンスキー自伝』で、女の方がバタイユである。見る人が見ると、おそらくなるほどと思わせるクレバーな選択なんだろうが、もはや若いとは言えないボクには何の関係もない。だが、そんな若い知的ツッパリである彼らが、プラターの大観覧車に乗ったときも、それが映画『第三の男』において二人の男が密会する場所として使われたことを、この若い二人が知る風ではないのもまた興味深い。そんなことは、おそらく基本中の基本なんだろう。何よりも現実感が乏しい部分は、ジュリー・デルピーが、若いフランス人にしては上手すぎる英語を話し、英語で押し通すほかない典型的米国人のイーサン・ホウクの方は、英語で会話を押し通すその方針を「バカで粗野なアメリカ人さ」風の軽いジョークではやくも免責される。この点に関しては、リアリティがあると認めても良い。

こうした一切は、要するに彼らがシャレモノであることを意味しているだけだし、実現不可能そうな再会の約束をするのかしないのか、その辺りだけに現実の恋人同士の間にもありがちな緊張感として存在している。その再会か否かの一点に関してのみ、真剣な会話は何度か戻ってくる。

さて、鑑賞者はこの映画から一体何を?み取るのであろう。ひとつひとつの会話の断片に感心するだけか? それとも、いかにも賢明に見える離別の決意とそれを自ら覆す「果たせないだろう再会」の約束に、ほろ苦い情緒をみいだすのか?

どちらに楽しみを見出すにせよ、映画がより良くあろうとするなら、あらゆる批評に耐えなければならない。本来、映画における会話は退屈な男女の逢瀬を飾るためだけの時間つぶしであってはならないし、結末をより意味のあるものとするために、結末と関連のあるディテールを提供しなければならないはずだし、映画の結末は、気の利いた詳細をより納得出来るものとするための、いわば結論であるべきだった。しかし、この作品はそのような賢い哲学的断片をよどみなく披露出来る男のスマートさと女の感受性の豊さを表現し、そんな男(女)と恋に落ちてみたいという凡百の若者たちを熱くさせるものではあり得ても、何ら具体的な思想上のブレイクスルーも提示出来ずに終わる。つまり、会話は気の利いた人物を描くための手段に他ならず、ストーリー全体を強化することに役立たない。

この作品の重要な存在意義は、以下の何点かに尽きる。

つまり、会話という形式で思想や哲学をよりさらっと披露することが、映画では可能であるということ。ということは、交わされる会話の中に重要なメッセージを入れ込むことが可能だということ。きちんとした必然性を持った場所やシチュエーションの設定で、会話の内容により深い意味を発生させることが出来ること。一方、会話の内容を強化することの出来るより究極的で非日常的な場面を設定することが考察可能であるということ。

だか、以上のような学べる価値というのは、おそらく観るものにとっての価値ではなくて、映画を自分の表現手段として有効だと思っている人たちにとっての価値にすぎないのだ。

ここまで相対化が可能な『恋人までの距離』(Before Sunrise)であるが、パリを普通の人の目線から、しかも美しい画面でもう一度見たいという、いかにも世俗的な欲求を満たしてくれそうな映画であるという理由だけで、続編『Before Sunset』を観てみたい気もするのである(そして登場人物たちの「成長」も)。結局、観てしまったら映画製作者の勝ち(売った者勝ち)であるが。

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