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“独立採算性”の落とし穴

Wednesday, October 26th, 1994

経営体制を「部署別に独立採算性にしていこう」という方向性が日本企業に出てきたようだ。企業の赤字部門の撤廃を企業経営者は今必死になって考えており、特に肥大化した企業にとってはいかにして「生産せざるもの喰うべからず」式の経営を実現するかが生き残りの鍵となっているというわけだ。独立採算性への方向性こそがこれからは、より「リストラ」の手段のトレンドとなり基本となるであろう。こうした動きは日本企業の合州国流の合理性に学んだ「進んだ」考えであるらしい。また、自らを「生産的な構成員」だと信じている者にとっては、そうした企業経営の合理化の方向性こそが、社会への最終的貢献となると漠然と考えているばかりでなく、有機的な人の結びつきを財産だとする哲学を、単に感情論だの古典的思想だと片づけてしまうのである。が、果たしてそれはあらゆる面で社会の中心的構成員(マジョリティ)である「人」の仕合わせから遠ざける結果にならずに済むだろうか。私は大いなる憂慮と疑問をもってそれを観察せざるを得ない。

実のところ、日本の社会においては、かつて、そして今なお、大部分の企業が基本的に「全体として黒字になっていれば良い」という姿勢で動いている。例えば建設企業の中の「設計部」などというところは、彼らの人的働き(デザイン作業)に対して評価さえされない(これは日本人がソフトに関して知的所有権などを認めないという傾向と無関係ではない)場合があるという。従って、自分たちのやっている仕事の「どこからどかまでが仕事として認識されており、また金の支払いの対象にされているのかさえ明らかでない」ような仕事を「サービス」としてやらされるというようなことが出てくる。

このようなことで生じる弊害というようなことは大いにあろう。いわゆる「働き者」で、しかも商品で言えば「ソフト」に相当する見えない貢献を組織中で果たし、「創造的」な仕事をいくつも提供している社員にとってみれば、それが給与面で不確かな評価しかされないのなら不満も出よう。当然の事ながら、評価裁定の「完全に適正な基準」が設けられていない以上、例えば行っている仕事が「伝統的な方法」で全て人件費に換算され、その収支を計算するいうやり方で仕事の質を判断し始めれば、いくらでも「赤字部門」は出てくるはずである。

アメリカにおける給与算定法が「適正」であるなどとは、一切主張する気もないが、日本企業がアメリカと同様に、作業内容、人件費、そして時間で仕事の価値が決まるということになるわけだが、果たしてこれを適用することが日本全体に対して良いことなのかどうかとなると、簡単には答えられない。

そもそも社会に対する人的貢献がすべて給与で換算できるという考え自身に、問題はないのだろうか。例えば、「職場環境に明るい雰囲気を特別にもたらして人々の労働意欲に肯定的な影響を与え、そのために間接的に会社全体のプロダクティビティ向上に結び付いている人」がいたとして、それが「適正」に給与面で評価されうるだろうか。私はそうは思わない。彼が「周囲の者の気分を良くして生産性を上げた」としてもそれがどのように評価できるというのだろう。

会社における総ての「労働」に対して適切に評価できないのが依然として現実であるのなら、自分の仕事の質や量によって「自分の労働は独立採算性を取ったとしても絶対に黒字だ」などとは主張できないはずである。

しかし実はこの小論を通じて私が言いたかったのは(非現実的との謗りを免れないかも知れないが)、会社の合理化のために「会社に直接利益をもたらしている社員(構成員)を残して、そうでない者を可能な限り切り捨てよう」と言う現在の傾向は、むしろ哲学的、あるいは人間の尊厳的に許されないのではないか、ということなのである。すなわち、人が人の存在価値を決める事が出来るという幻想に対する懐疑である。

さて日本においては「会社」が「社会」そのものであるという単純化を敢えてしたが、ここで「会社」という特殊な組織の枠を取り払ってみるのもよい。人間社会はそもそも「万人の万人に対する闘いだ」というホッブス流の近代「人間わがまま」論を言い出せば、今回の文明のシステムは賢く立ち回り、自らの生産物を価値のあるモノだと人々に思いこませることができ、より高い値段を付けることができた者が勝ちだ、という社会の構造理論に逢着せざるを得ない。それはそれで真実であろう(それならそれで、誰が敵で誰が味方かは判断が容易になって良い)。つまり、人間の仕合わせや社会の調和的存続に対して、質実ともに貢献をしている者が富めるのではなく、社会の構造と自分にとって都合の良い評価法を築き上げた人が富む、と言うことになるのだ。

たとえば、絵を一枚も描くことが出来ない、社会的に「実体としての感動をもたらすことのできない人間」(これはわたくし流のひとつの人間評価なのであるが)でも、ゴッホの絵に高い値を付けて売り、組織に財をもたらす「実力」を持っている者もいるのだ。もっと卑近な例えを持ち出せば、外国語文献の翻訳をする能力がないのに、人にそれを依頼し、それを顧客に持って行くだけでマージンを取っている人など、社会に「質的貢献」をしているなどとは言い難い。しかし、社会全体が調和的に(民主的に)存続することが正義だと主張する者の口から、人間の行為にはそれぞれ段階的な価値の差がある、もしくは人間社会への「貢献度」が適正に評価できる、などという言葉を聞けば、断じて“bull shit!”と言わざるを得ない。

そもそも人の生存に関して本当の貢献をしているのは、食物を作ったり流通させたり、あるいは流通路を確保している肉体労働者だけだ。その他の者は、多かれ少なかれ人生において「装飾品」に相当するような物に携わっているに過ぎない。

いずれにせよ、社会の状態が悪化し、誰かが飢えて死ななければならないという究極的な状況を想定すれば、それは会社の存続などのために「システムの改革」を叫んでいるエリート達が先、では断じてなく、社会に対して実体ある貢献をしている者たち(製造、アーティスト)の方だ、という理不尽が厳然として存在しているという事を見つめなければなるまい。

個々人の「生産性」の評価法が一般的に生活や仕事の中に浸透し適評されていけば、最も先に「虚業」として切り捨てられるのは、現代風の言い方をすれば、あらゆる種類の「アート」に携わる人なのである。もちろん、ここで改めて自己の諸活動がどのように有用なものであるのか、というのを再確認する機会ではあるかもしれないが。