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パット・メセニーをどこまで支持し続けるべきか

Friday, January 17th, 1997

これは、もうかれこれ3年以上前に書いたパット・メセニーに関する短い評論の試みである。

筆者は、そもそもどのような方法で「意味のある評論」が可能かを考え続けていたが、こと音楽に関するものとなると、俄然筆が進みにくくなる。ひとつには、音楽を造る側に身を置こうとしている自分が、容易に人の作るものをあれこれ言うのはどうかと思う、といういわゆる心理的抵抗がある。加えて、雑誌やレコードのライナーノートなどを通して、あまりに多くの「プロの評論家達」のお粗末な「評論」を読むにつけ、そんなものに関わってたまるか、という気持ちにもよくなるわけだ。そして、それとも関わりがあるが、そんな評論行為に費やす時間があったら、何か自分で演っていたい、と言うのが2つ目の、そして「正当な理由」だ。

しかし、他でもないアマチュアだからこそ、実は評論に関わるべきなのだ、という考えもある。いや、評論こそ、素人の独壇場だ。CDやレコードを買う側である、一般オーディエンスこそ、音楽を売り物にしている人たちに対して、色々注文を付ける権利こそ持っているものの、遠慮しなければならない謂われはないのである。つまり、アマチュアや一般消費者だけが、公平、かつ、他の一般オーディエンスのためになる真の評論が可能なのである。「評論家は勝手なことを言う」と人は言う。プロがそれを言うのは、ひとつには自分のやっていることを評価して貰えないと、即飯の食い上げになる、という深刻な状況を考えれば、理解できないことではないが、そのプロ自体が日常的には、プロの評論家達によって喰わしてもらっているのが悪い、とも言える。「アマチュアは勝手なことを言う」と誰かが言うなら、「当たり前だろ、バカ」と言われてもしかたがない。あくまでもプロの音楽家に対して、金を払う側にいる一般オーディエンスこそが、勝手なことを言っても何ら罪にならない人々なのである。

そして、公平な評論家たろうとしたら、決してプロの評論家になってはいけない。プロということは、「評論家」=「プロの創作家」のがっぷり組んだ互いが互いを利用する利害関係の抜けがたい関係に参入しなければならないからである。良いことを書いてくれるプロの評論家には、プロの音楽家やその関係者から原稿の依頼がある。正直に思うところを書くばかりの評論家のところに、どうしてライナーノートの仕事が行くものか。評論家にはプロの音楽家の需要に応える機能がなければならず、音楽家の世間での広い成功には、名のあるプロの評論家のお墨付きが必要なのである。

さて、このパット・メセニーに関する評論の試みは、あくまでも筆者のパットへの個人的思い入れと、むしろさまざまな期待があったからこそ可能なことであって、そこここに見出される辛辣な批判も彼へのかつての過剰な期待の裏返しに他ならない。そして、ましてやこんな短い論考で、パットを語り尽くすことになったとも思っていない。「過去の記録に戻ってつねに鑑賞することが可能な今日の音楽状況」を考えれば、今のこの瞬間の彼のありかたを全く視野に入れずに、過去のある時期の彼の音楽に対する愛着を表明したりするだけで済ませてしまう「評論」も十分に可能だ。つねに公平な批評家たろうと考えるのであれば、現在存命の創作家が今何を考え、何に努力を傾けているかを把握せずにそれはできないはずだ、という正統的かつ良心的な観点は欠かせないものになる。

その点で言うと、ここで私が試みようとしていることは、そうした正統的観点を欠いたものであるとのそしりは免れまい。誤解を恐れずに言うと、結局のところ、この論評だけを読めば、私が「今の彼より昔の方が良かった」と信じる部類の人間だと思われてしまうだけのものかもしれないが、パット・メセニー氏が現在も続けている(と信じたい)音楽的冒険のひとつの時期に過ぎなかったある時期の、私の不満を正直に吐露したものであるとまとめてしまうこともできよう。しかし、私はいわゆるECMでの「デビュー作」“Bright Size Life”が唯一の代表作である、と思うほど保守的なリスナーでもない(現にそのように主張する人を私は知っている)。パットの音楽との個人的な思い入れやライブ体験を長大な時系列的な作文にすることも可能だが、「他人に役立つ評論」を目指すなら、それをする意味があるかどうかはきわめて疑わしいのである。(July 20, 2000)


パット・メセニーをどこまで支持し続けるべきか (January 17, 1997)パット・メセニーの音楽が商業主義的であると言い切るのは簡単だ。しかし彼が商業主義者であるかどうかを状況からだけで論証するのは簡単なことではない。じつはこうした断定自体がパット・メセニーに限らず、どんなミュージシャンに関しても難しいのである。たいていの音楽の発信者は、良心的に言って、多くの方々に「聴いて貰いたい」と思っている。本当に「たくさん売りたい」とだけ思っているかどうかは判らないのである。したがって、いわゆる商業的にすでに「売れている」ミュージシャン達に関して、彼らの商品としてのCDなどの録音媒体が、それを提供する側にとって、何を意味するのか、動機はなんなのかという一般的な疑問を抱くのは、聴取者にとってある種当然の態度である。

しかし、敢えて挑戦的に断定するなら、私はパット・メセニーが、ここ数年の間に世に問うてきた一連のアルバムの中で、『Zero Tolerance For Silence』や『Quartet』ほど商業主義におもねた作品もないと思う。一見すると私が主張していることは、ちょっとした「天の邪鬼」な発言にしか聞こえないかもしれない。が、正直に私はそのように思えるのである。私は、彼が今まで世間に発表してきた、いわゆる「売れた」アルバムほど商業主義から遠いのではないかと常々思ってきた。彼の本当に「恰好がよい」と思える音楽への追求が、一般聴者の感性との幸運な一致で、うまいこと商業的な成功を見てきたのではないか、ときわめて肯定的に捉えていたのだ。

果敢にもECMを去り、ゲフィンに移ってからも、彼の音楽がより一層のメセニー色を押し進めることで、自身の究極的スタイルの獲得へと到達してきた、と、このように私が彼の変遷を好意的にさえ見ていたことを考えれば、私が単なる[Metheny=ECM](本当のメセニーはECMに限るよ…)派、すなわち[メセニー-マンフレット・アイヒャー-ヤン・エリク・コングシャウ]によって創られたサウンドこそが、パット・メセニーの本質であるかの主張をするものでないことが分かるであろう。

もちろんこのことは、ECM時代のパット・メセニーが、グループとして当時考えられる最高峰とも評価すべき作品をレコード、もしくはCDの形でまとまった数発表していたことを否定するものではない。憶測だが、私はパットのサウンドの一部がこの頃の録音セッションを通じて確立されたという意見をむしろ積極的に支持するが、それよりも、ECMに在籍できたことが、彼を経済的に安定させ、生活の保証、ひいては新たな創造への集中を容易にしたということが大きいと思う。彼はレーベルを移籍しても自分の「これだ」という音楽(サウンドではない)が創作できるということにこだわったから、あるいは、「ECMサウンド」というたぐいまれなる録音に関わるファクターが、故郷カンサスとオスロのスタジオを年に何度も往復してまで優先することではない、と少なくとも天秤に掛けて考えたと憶測する。ある意味では、彼のゲフィンへの移籍はむしろ彼の中では、録音の質を含むトータルな意味を持つ商品としてというよりは、彼自身の音楽自体の質と創作環境を優先して考えた上での判断だったかもしれないのだ。

加えて、ヨーロッパの老舗(しにせ)より、新興の人気レーベルのゲフィン氏が約束した契約金のほうが高かったハズである。確かに「冷たい闇の中で熱く黒光りする」ような「オスロからのサウンド」は、もはやゲフィンへ移籍後の彼のアルバムからは望めなくなったわけだが、それで彼の音楽の質が落ちたかというと、私はそのようにはツユほども思わない。もちろんジャケットデザインや録音状態など、商品総体としての好みに関しては云々できるだろうが。(好みでいうなら、ゲフィンへ移籍後のアルバムジャケットは、それはそれでユニークなものであり、淡泊なECMのデザインより良いと思う人さえいても、驚きはしない。)

そう、私は彼が特にECMの時代に残した数枚の作品を依然として特に愛聴し続けている一方で、ゲフィンに移籍してからの作品もそれに勝るとも劣らない、いやある意味で、より一層「彼の音楽」に磨きがかかるきっかけとなったのではとさえ想像してきた。むしろ移籍後の彼の作品は、ECMのレーベル下では作成できなかったものであろうと思っている。これは、単に地理的に彼の住む場所が南米に近いということと、彼が追求したサウンドがいわゆる「ブラジリアン・サウンド」であるからとかいうことではなく、彼が得た精神的余裕みたいなものが、サウンドに大きなスケールの音楽として反映されている、といった趣であり、当然、同じ方向性の音楽をECMでつくったとしたら現在我々が聞くようなものとは異なったサウンドになっていたはずである。そうした歴史上の「If」には意味がないとしても、ここ数年ゲフィンを通して彼が達成してきた音楽の内容というのは、私にとって、単なる「商業主義」という一面的レトリックでは評価し捨てることができないものであった。

結論から言うと、『Quartet』を聴いたときに私が思った正直な感想は、その音楽を「ゴミ」とまでは言わないが、「お蔵入り」しても仕方がない類の‘Second Best Takes’集、「疲れたちょっとひと休みしたい」という印象だった。確かに全て今回初のオリジナル曲集であるには違いがないものの、ちょっと録ってそのままほとんど加工せずに出した「パット・メセニーの最新作なら何でも売れるわさ」式の安易さを嗅ぎ取らないではいられなかったのである。私は今回のこのアルバムが好きだという人の意見を否定しはしない。私もこれから数度、好きになろうと努めつつ聞き返しもしよう(だって、自分でお金を払ったんだからね)。そのうち好きになるかもしれない。実際、良い部分がないわけではない。

しかし、どんなにひいき目に見ても、これが彼の「到達した新境地」(ディスクユニオンの店頭での宣伝の仕方)であるとは信じられない。飽くまでも佳作のレベルである。ここ数年押し進めてきたパット・メセニー・グループの方法が、遂に袋小路のどん詰まりに来て、それを彼は「まともに闘って乗り越えよう」としたのではなく、「楽なセッション一発取り!」で、「また1枚(年に1枚ペースの?)ノルマをこなしました」というのが真相であろう。しかもそれを「好きだと思う人がいればラッキーさ」という、謙虚な態度からはほど遠い、あの一流企業となったゲフィンを通して、これがパット・メセニーの達した新境地、これがわからん奴はバカだ、と言わんばかりの鷹揚な態度で、流行(はやり)のクリアケースに立派なジャケットの最新の衣で身を固め、一見して完璧な商品としてリリースされたのである。そのマーケティング戦略にあの良心のユニオンも乗ってたくさん売ったに違いない。私も買った。それは彼に期待していたからである。でも明らかに「買った者負け」「売った者勝ち」である。

加えて4人という小編成というのも何か深遠なコンセプト状のモノを感じさせるのに一役かっている。パット自身がスリーブの中で語っているように、「あちらこちらの状況で録られた」、というのはおそらく本当だろう。むしろそのような説明がなくても音を聴けば凡そのところは分かる。しかし、それで今回の『Quartet』は「なるほどだから良い」とはならないのである。むしろ「だから最高のものとはなり得なかった」のだ。ツアーやノルマは忘れて、ちょっとここらで彼には休息でもとって貰った方がいいかもしれない。

さて時間が前後するが、『Zero Tolerance For Silence』に関してさらに辛らつに批評させて頂ければこういうことになる。すなわち、ゲフィン発のこのアルバムは最高に洗練された(と思われた)マーケット戦略物資であった、ということだ。これはパット・メセニーが単なる「商業主義的なポップ・ミュージックの量産者」ではない、という態度を表明するツールなのである。そうすることによって、いわゆる長年のパット支持者の自尊心をキープアップすることができるわけである。しかし私は、まったく感動できなかったばかりか、パット支持者として、このようなモノを商品として流通させることにパットが賛同したというズルさに情けないとさえ思った。この音楽は、パットが「ある夜、パワーステーションに現れ一気に録音した」云々のエピソードがあってはじめて意味を持つ、パットという「芸術家」を正当化するアルバムなのである。そこには何の音楽的なオリジナリティも発想も存在しない、むしろ彼の「フリー」な即興性の限界とアイデア自体の貧弱さを露呈する以外の何ものでもない作品なのであった。誰かが「王様は裸だ」と言わなければならない。

彼がオーネット・コールマンを尊敬しているというのは周知の事実らしい。そして同じゲフィンで録れた『Song X』という比較的秀逸な作品もそれを裏付けるように見えるが、そうしたオーネットに対する彼の逸話も、実は単なる態度(スタンドプレイ)に過ぎなかったのではないか、本当かよ、勘ぐってしまいさえする結果になっている。つまりせっかく良いと思っていたその『Song X』でさえも、その真意とはなんだったのか、といぶかしくさえ思わせる原因になっているのが、この『Zero Tolerance For Silence』の失策なのである。

私はこのような即興が彼の日課として独りでしばしばやっていることであるならば、彼にとって精神衛生上大変結構なことだと思う。本当にそうであってほしいものだ。が、おそらくメセニー氏はそのようなことはやっていないのである。商品化するのが目的で彼はパワーステーションに入ったのである。このような作品は、しかるべき人がしかるべきレーベルから命を張って発表するのが筋である。それでも厳しい選択の目をかいくぐって音楽の内容だけで支持されるというのが、こうした「フリーミュージック」のあるべき姿である。しかるに、どうしてこれがゲフィンから出されると、人々は騙されて買ってしまうのか? それはそのパッケージに‘パット・メセニー’のブランドが銘打たれているからなのだ。そんなわけで、これがホントーの商業主義だ、と私は主張するのである。

考えにくいことだが、百歩譲ってこれがパットの日課的作業で、本人には売るつもりもなく、勝手にゲフィンが売ったというなら、それはそれでパットの「爪の垢」でも商品化すれば売れるというCD量販屋の許されざる読みがあり、何かを生み出し人を感動させることができる職人、「アーティスト」パット自身のためにも、人々の時間や財布のためにも何にもならない。(もっとも、ゲフィンの社員、パットのセービングアカウント、パワーステーション、そして大量に中古市場に出回ることになって利益を受けるディスクユニオンのためにはなったかもしれない。いやはや数あるパットの名作を中古レコード屋で見つけるのが難しい一方で、何と簡単に見つけられる『Zero Tolerance For Silence』であることか。それはつまり、買ったのは良かったが二度と聴きたくないと言うことだよ。)

パット・メセニーに一言あり、ということで彼にこれから何を期待するかを書くことが、この拙論を単なる不平不満として終わらせない方法だろう。「金を払って、受動的に聴くしかないパット・メセニーの音楽の一聴取者に他ならない」人間の勝手な言いたい放題に過ぎないとの考え方もあるが、その通りだ、何の反論もない。でも何しろ、商品に対してわれわれは客なんだからね。言わして貰うよ、ここは。

50年代なら10年間くらい問題作を立て続けに連発して死んで名を残すということができたが、タバコも酒も断ってしまうようなあの健康大国アメリカでは、あの青年にはそのような夭折という蛮行に走らせる余地も残されてはいないにちがいない。彼に残されているのは、人から飽きられようともお構いなしに、いままで確立してきたメセニー流の音楽を、これまでのペースではなく、「このところのピンク・フロイド式」に6、7年位の長いサイクルで「待ってました」とばかりにリリースし、それに併せてワールドツアーを敢行し「ああ、やっぱパットはこれじゃなきゃ」とファンを喜ばすのが、本当に誠実な商売人(兼アーティスト)のできることかもしれない。

あるいは、ある時代のマイルス式に「いま本当にカッコ良い」音楽様式を次々に取り入れて、常に時代を反映した(それでいて、その中でも人をして「一番カッコ良い」と言わせるような)音楽を発信しつづけるのも手だ。また、別の時期のマイルスのように、まったく新しい音楽を次々に「発明」し、それを世間に問い続けて追従者をひとかたまりこさえて時代を創ってしまうのも一つだろう。いずれにしてもこれのどれも簡単だとは、これっぽっちも思わない。私にはひっくり返ったってそんなことはできやしない。

そこでだ。パット君にはもう少し悩んでもらって、もう少し自分の本当にしなければならないことを見つめて貰おう。それに成功しなければ、知らず知らずに(知ってて選ぶのではなく)ハービー・マンの二の舞になるのは避けられないだろう。特にパット君のように一時代を築いてしまった上に、一流レーベルと恐ろしくdevotedな聴取者達によって甘やかされた彼にとってはキツい試練になるかもしれないが、挫折なき永遠少年、天才ジャズギター弾きのパット君にとって、これからが本当のショウネン場となることを知って頂き、これからは‘Second Best Take’集モドキではない本当の彼の新しい音楽を創って貰おうではないか。それに臨み、この次は、『Zero Tolerance for Himself』なる題の下に、この際、まったくマイナーなインディレーベルから、変名してまったくの無名の新人としてアルバムをリリースしてもらって生まれ変わるのもテかもしれない。