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ナンセンス!藤井まり子のコラム

Thursday, April 21st, 2011

藤井まり子のアップした『宮崎アニメ「ハウルの動く城」に込められた「原子の火を絶やすな!」という強いメッセージ』に反論。

これは、信じやすい人がぱっと飛びついて広がりそうなので、念のために釘指しておく。宮崎駿の映画『ハウルの動く城』におけるカルシファーが示すものは、別に「原子力の炎」に限らない。これは結論。少なくとも宮崎は『ハウル』に「原子力の炎を絶やすな」というメッセージを込めているはずがない。まったくのナンセンスである。それは『ナウシカ』を含む初期作品から続く、それらの根底に流れている内容を掬いとればあまりに自明なのである。

伝統的な象徴体系の中で、炎が核エネルギーを暗示しているかに読めるものがあるのは確かに事実で、そのようなことはこのentee memoも取り扱い、さまざまに論じてきたことだ。繰り返すことになるが、炎の象徴が文明を動かす「動力」の意味で登場するのは、至極理解可能なことだが、それが原子力でしかないと断ずるのはいかにも早計なのである。もちろん後述するように、原子力の炎を他の炎から区別するのは、まったく非論理的なことでもないのであるが、まず最初の前提として、藤井まり子のこの文章における宮崎を引き合いにする判断が間違っている。

そもそも、原子力に先立って、薪、石炭、石油、鯨油など、文明を支える炎にはさまざまな形態があり、そうして得た炎を「絶やさないようにする」というのは、古今東西どこでも見られる先人達の努力だった。加えて、「絶やさぬ炎」には、歴史や知恵を次世代に慎重に伝えて行くという抽象的な別側面もあり、まさにそれが伝統的な宗教の果たした役割でもある。

つまり文明そのものを維持する動力としての炎と、その炎が「副作用」としてわれわれに何をもたらしうるのかという知識の両方が、文明を運営・維持するための両輪だからだ。そして、今風にいえば、「リスク」と「リターン」という善と悪の両義性をまさに端的に表しうる点でも、炎の象徴というものはきわめて秀逸だ。それはプロメテウスが手に入れた炎のことを思い出すまでもなく、普遍的に見出され続けた火の抱く潜在性なのだ。その意味で、この《炎》というシニフィアン(象徴自体)に、鯨油で作ったロウソクから核エネルギーを炸裂させる原子爆弾まで、幅広い意味(シニフィエ)を見出すことは、実際可能だ。

だが問題は、核の炎が他の炎*とはまったく異なる由来を持つもので、それを完全に制御し、また不要な時に廃棄する技術をほぼわれわれが持ち得ないという点で、区別することに一定の意味があるにも関わらず、それに気付かぬ人が多いことだ。

* 薪から化石燃料まで、燃やされる燃料も、風力や水力といったエネルギーも、すべて太陽に由来を持つが、核の炎だけがそうではない。