音楽は、叫ばない(それは個人の心に届くもの)

かーっ、感動した! 「パギやん」こと趙博さんの日記(04/24/2005)。ほとんど何も付け加えることがない音楽家/歌謡家/語り部/芸人の言葉。ふと、昨年に観た南アの反アパルトヘイトの音楽家たちをドキュメントした力作“音楽”映画『アマンドラ』を思い出した。パギやん氏曰く、

 野外でやる意味があるのか、6時間という時間の長さは必要なのか?

 なによりも、音楽の質を問いたい、いや、問い合いたいのだ。

 魂が響かない。

 音に酔いしれない。

 アジテーションなら、それに徹すればよい。

 「歌」は、残念ながら生まれていない。

 すてきな人々、すばらしい反戦思想の輝きがあればこそ、

 よけいに僕は問い返したい。「基地はいらない」「基地は作らせない」

 「オジィ・オバァの願いを…」「ジュゴンの海を守れ」

 −−それを何万回連呼しても、歌にはならないのだ。

 何度も言う、俺は歌を聴き、唄を歌いに来たのだ。

 音楽は、時には暴力になる。

 敵を打ち倒す暴力ではなく、味方をめげさせる暴力だ。

 「世界は一つ」「平和な世を」という一般的正義を呈したフレーズは、

 幼稚な旋律に乗れば空虚な呪詛になる。 etc. etc.

アジテーションはアジテーション(それ自体の意味は音楽とは別のもの)。音楽は音楽。歌は歌。それぞれが、それぞれの持ち場や表現手段の役割について自覚的であるかどうか。何ができて何ができないのか。そこに勘違いがないのか? おそらくそれを問うている。ただ、パギヤンの言葉に自分が「感動して」無邪気に喜んでいるだけでは、ダメだ。ボクも音楽をやりまくって、ものを知りまくって、言葉を書きまくって、喋りまくっていくだけだ。安易な共感や同意も要らない。共に闘う勇気ある者、そして魂に響く言葉を投げ返してくれる友だけを求む。

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