音楽と音楽に外在するもの
E・フィッシャーを読む

「彼(ベートーヴェン)に霊感を与え、彼の音楽的思索を特徴づけているのは楽器なのだ…しかし哲学者・道徳家それに社会学者たちがベートーヴェンに関する数限りない著書の中で論じているのは、本当に彼の音楽なのであろうか。第三交響曲を作った動機が、共和主義者ボナパルトにあろうと、皇帝ナポレオンにあろうと、どうでもいいことではないか。音楽だけが問題なのだ…文人たちが、ベートーヴェン解説を独占している。その独占を彼らから奪い去らなければだめだ。独占できるのはかれらでなく、音楽の中に音楽を聞き慣れている人々なのだ…ピアノ曲に於けるベートーヴェンの出発点は、ピアノであり、交響曲・序曲・室内楽における出発点は、総譜なのだ…彼を有名にした記念碑的な諸作品は、彼が楽器の音を精いっぱい活用したことの論理的な結果である──こう主張しても間違いになるとは思えない。」

(エルンスト・フィッシャー著『芸術はなぜ必要か』(河野徹 訳)に記載されているストラヴィンスキーの記述からの孫引き)

今日、ストラヴィンスキーの主張をここまで読んで共感する人は多いと思われる。実際問題、私自身も相当の共感を以て途中まで読んだ。だが、ストラヴィンスキーの「正当性」に共感できる人間が、そのあとに展開されるフィッシャーの批判的主張に耳を貸すに値しないと思うのは、早計である。そもそも一方が正しければ、他方が間違っているというような二律背反の公式のようなものではない。ストラヴィンスキーの言っていることが正しい一方で、フィッシャーも正しいという「次元」とも言うべき問題圏が、それぞれにあるのだ。どういうレベルでそれぞれが自説を主張しているのかという次元の相違を無視してそれぞれを一刀両断に語ることでは、片手落ちなのだ。

芸術作品は、それぞれがそれぞれの語る方法(形式)自体に「眼差しを与える」とか「耳を傾ける」とかいう直接的な鑑賞行為を通じて、その作品の中からしか、その価値を認識する方法がないという主張には、一見反論を寄せ付けない「正当性」を感じさせるものがある…


実際問題、作品から何か意味的なものを「受け取る」のだとすれば、確かに「その作品自体から」であるということ間違いはない。事実、それが音楽という純粋性の高い芸術、そしてその構成要素たる音一つ一つには、日常言語的な意味での「意味性」が基本的に存在しない“ただの音”にほかならないという捉え方がある。すなわち抽象性の高い「音の美/現れ」自体に自立的な価値があるのだという主張の前では、あらゆる“文人”たちによるその哲学的・歴史学的・社会学的解釈は、「音楽以外の何かと結びつけられて」初めて語られることが可能なのだということについても、ほとんど反論の余地はない。

したがって、ストラヴィンスキーが語った内容、すなわち音楽論は不当に“文人”たちによって僭奪されてきたのだというベートーヴェン作品の価値論議は、まさにそうした音楽の自立した価値を、純粋に受け取り直すべきだという主張としてなら了解することができる。

つまり、「なぜ、文学者達がベートーヴェンの価値を語るのか? どうして、文学者たちがわれわれの“専門分野”に関して、その価値云々を外野から語ることを当然のように音楽家達は受け入れてしまったのか? 音楽は音楽家によって、その価値や意味を取り戻すべきではないのか?」とストラヴィンスキーは正直に思ったのだった。そこには「音楽家に音楽を取り戻さなければならない」という分かりやすい思想がある。そして、そのようにストラヴィンスキーが思ったことにも、なんらかの事情があることも十分に納得可能ではある。なぜならベートーヴェンが「楽器から音楽を学んだ」という側面があっただろうことも、疑うべくもない。また、楽器の持つ音色や性質というものと無関係にそれらのために音符を書くことはできないし、楽器への深い理解なしにあれほどの音楽を創ることができたとは考えられない。これらのことは、実際に確かだ。

(だが、と、ここではまだ反論を開始しない。断っておくべき課題があまりにたくさんあるからだ。)

加えて、ストラヴィンスキーのような、こうした意見を表明する傾向にある表現者というのは、音楽について言えば、自身が優れて純粋、かつ音楽的な表現者である可能性が高く、純粋に音楽のエッセンスに取り組んできた創作家であればあるほど、「音楽を音楽家のもとに取り戻そう」という思想には共感したとしても不思議はないのである。したがって、音楽の当事者と“文人”たちの意見が一致を見るなどということ自体が、そもそも不要なのかもしれない。しかるに、ここで論じられ得ることは、音楽家本人が音楽をどう考えているかということではなくて、ひとつにはむしろ音楽がどのように捉えられるのか、という話でもあり、また、「鑑賞者」≒「創作当事者以外の人々」の立場に立っての話なのである。

さて、ストラヴィンスキーの言葉を引用したエルンスト・フィッシャーは、ストラヴィンスキーのその主張に対して、“文人”からの更なる反論をすべくこの言葉を持ち出してきたのであった。そして、そこにはわれわれ「音楽家」が、容易に「音楽は自分たちのものだ」と言って「独りごちる」ことを許さない主張が展開されるのである。

まず、それに先立って、エルンスト・フィッシャー論文そのものがすでに旧弊なものになっているという種類の反論は、今日の先端的な芸術論者(批評家)から出てくることはある程度まで自然のことであろうし、予期しうることだ。マルクス主義的世界観から展開する芸術論・芸術史観である以上、そこで語られていることの相当の部分が、すでに「間違い」あるいは「時流にないこと」であることが分かっている面もあろうし、一表現者としてというよりは、共産党の芸術官僚としての一面を持っていたフィッシャーの、「何々すべきである」というような今日の芸術領域を現場からでなく、芸術の理想像と言う「高見」から概観するような鼻持ちならない指導者的トーンというものが散見されることも確かである。だが、その辺りは彼の立場やその時代背景というものを考えれば、誰もがその時代における支配的思想の影響を免れない以上、差し引いて読むことが可能である。そうした部分については、われわれは批判的な読み方が可能でなければならないが、それでも依然としてフィッシャーの主張する意見の中に、多くの反論の余地のない、現在でも立派に通用する芸術観が各所に見出されるのである。

さて、ストラヴィンスキーの主張に対するフィッシャーの反論に戻る。

一字一句をただ再現するだけなら、フィッシャーの引用をすれば良いだけの話だが、それなら、彼の著書を読んで頂ければ良い話だ(後ほど、若干引用する)。むしろ、フィッシャーの批評以前の段階でこのストラヴィンスキーの語ったことを自分なりに検討することが先決なのだ。実は、フィッシャーによる反論を待つまでもなく、いくつか言えることがある。

「音楽の本領は、音楽家以外の人によって僭奪されてこそ発揮されるのではないか」ということがひとつにはある。音楽は音楽家によって作られ、音楽家以外の人々によって鑑賞されるのだということをストラヴィンスキーは、一つの音楽家としての怨嗟によって忘れてしまったようにさえ聞こえるのだ。

そして、脱線を承知の上でもっと穿った見方をすれば、ストラヴィンスキーを始めとして、20世紀初頭に始まった無調主義や12音技法、またセリエ主義というようなものは(それを全面否定する気もないが)、音楽をより曖昧なものにして、音楽を“文士”たちからの評価対象から逃れるための「逃走のための抽象化」ともいうべきものとして発展・機能したのではないか、さらには、その「抽象化の方向」によって、音楽を「音楽」専門家の手に「取り戻した」のではなかったか、そしてそれは実際彼が意図したように、ある意味「功を奏し」てしまったのではないか。音楽は、より抽象的で曖昧なものとなり、どこに主張や意味があるのかが分からない、ただの「自然音」あるいは「偶然音」、果てには「雑音」となってしまった。曲が<音>を通じて語りかけてくるものではなく、作曲家が<作曲技法>を通して別の作曲家とコミュニケーションをしたり、技法上の「着想」を競い合うといった事態…。かくして、ストラヴィンスキーは「音楽を自分たちに取り戻した」のだ。だが取り戻したはずの音楽は、音楽家が“文人”から奪い返したようでいながら、音楽家も通り越して、音楽の聴取者からさえも奪い取ってしまった、そのように考えてしまいたくもなる論議なのである。[これはストラヴィンスキーの言葉から憶測できる「思想」面での批評であって、彼の作品への評価を全く意味しない。]

話が脱線してばかりいるので、ここで真面目に本旨へと「引き戻」さなければならない。

ストラヴィンスキーが言うように、音楽の即物的側面、すなわち、音楽は楽器によって演奏されるものである、という部分は否定し様のないほど正しい。だが、フィッシャーが言うように、「音楽は楽器が音を奏でる以上の何かを伝える」ものであるということも正鵠を得ている。その辺りは、フィッシャーが実際にベートーヴェンの交響曲を例に挙げて、それらが「顕わしている」ものが、時代の具体的な反映なのだと主張する。この点に於いて、私はほぼ無条件にフィッシャーの意見と洞察に賛同する。例えばこうだ。

「革命だけが、偉大な作品に霊感を与えうるとは誰も主張しない。しかし、ベートーヴェンにとっての決定的体験が──ナポレオンの帝国でも、またたとえば、メッテルニヒ体制でもなく──フランス革命であったという事実は、ベートーヴェンの作品と人物を理解するのに、まちがいなく重要なのである。(略)われわれがベートーヴェンを賞賛するのは、形式を申し分なく駆使しているだけでなく、同時に革命時代の壮大な内容を表現しているからなのである。(略)偉大な音楽の内容は(略)それを決定するものが革命であっても革命に対する背信行為であってもかまわないほど、まったく不明確なものではない。」

「(ショーペンハウァーの見解によれば)一曲の音楽にこもった「歓喜」が、株式市場でだいぶもうけた投機者の喜びからこようと、クリスマス・ツリーをみる子供楽しさからこようと、シャンペンの栓を抜いた愛飲家の嬉しさからこようと、自分の主張を貫き通した闘志の心地よさからこようと、さして問題にはならないのであろう。(だが第九交響曲の)合唱付き第四楽章でどっと湧き上がる歓喜は、性格不在の歓喜、抽象的な歓喜ではなく、様々の大きな矛盾の中から失意と絶望にもめげず、いやむしろそれらに挑んでうまれてきた歓喜であり、きわめて意識的に形式づけられたその絶望の否定なのである。しかもそれは、都市の大衆を前提とする歓喜であって、田園的な陽気さ・とり入れ(ママ)・農民の舞踊などとは無関係のものである。」

「『英雄』の葬送行進曲は、特殊な意味に全く欠けた抽象的な哀悼ではない。それは、革命的な情感に満ち溢れた英雄的な哀悼である。それは死んだ愛人に対する哀悼ではないし、またあのような熱情では、イエスのはりつけを悲しむキリスト教徒の心情にもふさわしくあるまい。ベートーヴェンのこの交響曲に表現されている哀悼は、革命論者の、共和主義者のそれなのである。」

以上のフィッシャーからの引用は、確かにストラヴィンスキーの言うような“文士”からのもうひとつの「余計な音楽評」を追加したに過ぎないと思う「純粋音楽愛好家」もいるかも知れないが、私はそうは思わない。これは、音楽以外の何かを知っている人が、音楽を聴いて、その中から内容を汲み取るという、実は誰もがやっている通常の行為である。そして、驚くほどにフィッシャーのベートーヴェンの音楽評は、自分の感覚から照らし合わせても共感を覚えるし、大いに信頼の置けるものだと感じるのである。

最後にフィッシャーが引用したひとつの重要な洞察的記述を孫引きして終わる。ここには、表現形態の内側(音楽なら音楽の中)にではなく、「外在するもの」を作品が指し示す、という「芸術の当たり前の本性」がより観念的かつ晦渋に表現されている(ごめん、ヘーゲルさん)。

「外面的な対象を一切持たないという意味における内容と表現形式のこの観念性が、音楽の純粋に形式的な面を明示している。音楽は明らかに内容を持つが、それは、われわれが造形美術や詩をさしていうときの内容ではない。それに欠けているのは、現実の外面的な現象をさすにせよ、知的な観念や心象の客観性をさすにせよ、とにかく客観的他在のこの外形なのである。」(ヘーゲル『芸術の哲学』)

(く〜っ、こういう難しい文章は書きたくないものだ!)

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