私の怖れ:エリアーデに捧ぐ

私の人生の7分の5は、「経済活動」のために供されている。1週間のうちの5日間、その「全て」とは言わないが、その“考慮に値する”大部分が、「生きるため」、そして自分自身や周囲が思い込んでいる「社会的責任」のため、そして「飢えたくない」という恐怖のために費やされている。この「ただ生存するため」の活動に割かれる度合いが、これ以上になるということを受け入れなければならない時が来たら、私はむしろ「死」を選びたい。

この世のごく僅かな場所にまだ残されている「聖」の世界との連絡があるうちは、私はもう少し長く息をし続けることができるだろうし、そして、その<事実>を<事実>として受け入れることのできる後世の、わずかな人々に残すことができるなら、「生まれて来て良かった」と心底思えて死ねるだろう。

しかるに、人間存在が、経済的動物(エコノミック・アニマル)でしかない、という人間の精神生活に対する浅薄な理解を疑うことなく、その「動物」自体がその現実の「生の在り方」にたいして、何らの「批判」をも一切持たなくなったとき、そして、その生き方が「人間の生そのもの」であるということに疑念を抱かなくなった「社会人」あるいは「文明人」たちだけに囲まれて、完全に「生産活動への奉公」という「圧力」を受け続けなければならないのであれば、私はこの生を放棄してもいいと思う。

だが、幸か不幸か、そのような“新手”の、そして2000年以上前からすでに明瞭な萌芽のあった「歴史時代開始」以来の、「圧迫」が、なんらの懐疑もないただの生存活動と他者への「闘争」だけに塗り固められるやがて来る時代のほんの「入り口」に立ち会うのみで、この世を去ることができるなら、まだ私は「ついていた」と思って、運命に感謝するだろう。

それにも拘らず、私が身を捕縛され、いつ終わる知れぬ長期にわたって自由を制限され続け、せめて「生産活動への妨害を防止する」という名目で拘束され続けたとしたら、その「生」とすら呼ぶに値しない「自動的な生命」をただ守り抜くためだけに息をし続けてしまうかもしれない。そればかりか、最後のあり得ぬ希望にさえすがって、いさぎよく「絶望する」ことすらできずに、汚物と残飯にまみれて冷たい床を這い回りながらも「あともう一日」を生き続けてしまうのかもしれない。そんな自分であるかもしれない可能性を、私は怖れる。

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