理想主義は体癖である

理想主義や現実主義は、「主義」と名付けられた言葉だが、厳密には主義ではない。なぜなら、それは思惟、省察、思想、などの「思考の過程」を経由しないからだ。それはむしろその人物の気質に属するもので、行為によって示されるものだ。したがって、「私は“理想主義”的かもしれないが…」という、何かを話す時のその枕言葉は、私の思想や観念的性向とは何の関係もない。それは単に、私の「気質」が、どちらかと言えば、それらの内の一方の側に傾いているということを、便宜的に「主義」という言い方で表現しているに過ぎない。だから、私が「理想主義」という言葉を吐いたところで、それは私が観念論者であることを全く意味しない。私が「観念的思考が必要なときそれを選べる」としても、「理想主義」を口にすることを以てして、私の思想的偏向の実例として挙げるのは不適当なのである。

むしろ、それは私の気質がこの世の現実をそのままそれで善しとして受け入れるよりは、この世に不合理や不条理を「感じ」取り、それが本来的な人間の姿でないと「感じる」性向、そして不寛容、自分の「感受性」というか「気質」を負っている、ということを言っているに過ぎないのである。

一方、カール・マルクスの思想を条件的、無条件的を問わず、その思想を信じたり、共感したりするのはマルクス主義である。同じように、毛沢東の思想を奉じ、それに従う者たちが、毛沢東主義者である。私は生まれながらの「マルクス主義」や「毛沢東主義」という「気質」を想像することが出来ない。それは、現実社会に対する学習と、不条理のメカニズムの研究と、飽くなき省察と他者との議論、闘争などなどを経由して、最終的に到達しうるものだと考える。そして、そうしたものこそが「主義」という名によって表されるにふさわしいものだと思う。つまり、本当のカギ括弧抜きの主義者とは「成る」ものである。私は生まれながらのマルクス主義者は、マルクス以外にはいなかったと思うのである。

いずれにしても、私は「理想」や「現実」を「信じる」思想というものがあるとは思えない。それはやはり「気質」「体癖」の問題なのである。

One Response to “理想主義は体癖である”

  1. 座布団 Says:

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