作曲作品は誰のもの?
武満作品は誰のもの?

先日、下に引用したような文章に先頃遭遇した。

残念ながら、原文自体のURLは失われてしまった。そのコピーをベースにして起こしたと思われる似たようなコピーを記載する別ページは、ネットの各所に存在する。たとえば、これもその一例である。幸いにして、原文はコピーしてあったので以下にそれを掲載する。

武満徹・響きの海─室内楽全集(全5巻)

2006年1月19日 (木)

武満徹(たけみつ・とおる 1930.10.8-1996.2.20)は、現代音楽の分野で国際的に評価されている日本を代表する作曲家です。没後、以前にも増して世界中で作品が演奏されるようになりましたが、反面、作曲者が望んでいなかった解釈もしばしば見受けられるようになりました。

 そこで生前に作曲者と深い親交のあった音楽家たちが集い、「作曲者が本来望んでいた意向を汲んだスタンダードたりうる演奏を残す」という意志のもと、特別に結成されたのが「アンサンブル・タケミツ」です。2001年から2004年にかけて全6回の公演で、65曲の室内楽作品が演奏されました。

(中略)

 日本を代表し、国際的にも活躍する当代一流の演奏家たちが、作曲者の生前に直接アドヴァイスや対話を通して得た、音の身振り、表情、速度など、真にオーセンティックな解釈によって一曲ごとに精魂を傾けて奏でた、まさしく唯一無二の演奏です。

(略)

これは、「音楽が作曲家の頭の中や譜面の段階で、すでに音楽が完成している」かの幻想にのっとった言葉の典型的事例である。このような言葉の数々を見て「聴いてみたい」と思うのは通俗的な音楽愛好家的素人である。ここでの言葉を怪しいものと感じた人はマトモだ。だが、音楽作品が、譜面それ自体ですでに作曲家の頭にあるものをすべて具現化していると思っていたり、作曲者の頭自体が現実世界において鳴り響く《音楽》のすべてを予想できていると考えるなら、それが勘違いであることに気付くべきであろう。

今回のCD制作者の意気込みは買おう。武満徹が作曲家として第一級であることも敢えてここで問題にするべくもない。だが、この推薦文を読む限りでは、ひとつの原則が完全に無視されていると言わざるを得ない。そしてそれは心ある現場の音楽家や演奏家の反感や失笑を買っても可笑しくないような言説を含んでいる。

音楽というものは、それを演奏する具体的人間が演奏して完成するものである。演奏する以前にすでに「オーセンティックな解釈」というものが存在すると考えること、そしてそれを目指すことが演奏者の努力であると思い込むこと自体が、最初の誤謬である。それは陥りがちなことであろうとは思うが。そもそも「音楽的完成」が、演奏者なしに作曲作品として自立的に存在していると考えることが幻想である。それはほとんど身体なしに抽象的思惟が存在しうると考える程に非現実的なことである。

演奏家は、作曲家が思いもよらないような解釈や演奏方法やその他の諸々の表現で、その意図以上のものを目指すのが役割なのであり、また、作曲者本人が気付かないようなことが、その作品の行間にさえ潜んでいるわけで、演奏者が、作曲家の「思った通りのもの」を再現する(できる)のが彼らの仕事で、それ以上でも以下でもないと思っているとしたら、それは死んだ観念的「音楽」のリピート再生に過ぎない。

武満徹も確かに誰かに訊ねられれば「このような音」とか「このような流れ」とか「あのような響き」とか、自分の作品のイメージについて語れたに違いないし、事実、語ったであろう。だが、それが可能な音楽的実体の唯一のものであると作曲家の彼が本当に考えていたかどうかは、別問題である。彼の中に確固たる音響や調和のイメージを持っていたことは疑いがないが、私は彼が彼の頭に存在する音楽のアイデアが、唯一価値を持つものだとそのように思っていたと信じることは難しい。

生前の武満をよく知っていて、またどんな音に彼が満足していたかを知る演奏家たちは、確かに演奏上、相対的にやや有利な地点にいることはあるかもしれない。だが、それも、武満が彼自身の音楽から期待している自覚できて「言語化」できる部分であり、また、こう言って良ければ音楽的理想や「好み」に外ならず、それが彼の書いた作品であっても、その結果を武満だけが独占的に制御したり承認したりできるものではなかったはずだ。ましてや、武満の音楽観を知っている(と思っている)演奏家たちだけが、作品の正統な解釈の継承者だと名乗ることもできないだろう。いや、名乗るのは勝手だが、それを周囲が真に受けなければならない道理はない。作品の解釈や実際の演奏結果というものは、作者の意図や狙いというものを容易に超えて行くものだし、乗り越えられるべきものだ。場合によっては、絶対に近づくことのできないものだ。それが実際に譜面を音に変換する人間の奮闘する理由であり、存在価値だ。

武満の作品の中で、強いて、武満の狙いや「真意」を反映したものがこの世にあるとすれば、それは、武満自身が音を出し、(録音作品なら)整音し、彼が納得ずくで完成させたいくつかの音源であると言うべきかもしれない。それらは、例えば、彼自身が音楽監督をしたり、自らマイクとテープを使って作り上げた、いくつかの映画音楽(サウンドトラック)などがそうかもしれない。

実際に音を出さない作曲家が、実際に音を出す演奏家よりも、尊重されなければならないということは、「現代の音楽」という状況において、すでに不文律としてはあるかもしれない。だが、それを無批判にそのようなものでそれ以外はあり得ないと受け容れて考えるのは、ひとつの観念(思い込み)に外ならず、決して絶対的なものではない。それは作曲家が実際に音の現場において、もの申し、制御し、納得できるまでOKを出さないという、生きていればこそ可能な、音楽制作における具体的な手法のひとつに外ならないのである。

武満徹が亡くなる前に、「これが武満の音である」とか「この人が武満の音の継承者である」というような、自らが「芸術様式の始祖」たることを宣言し、それを正統に継承した人間以外の演奏を邪道(ないし逸脱)としたのならば、それは閉じられた家元制度のようなシステムを彼が希求したことになる。だが、少なくとも、私が想像できる限りにおいて、それは彼の生前の発言やさまざまなオーケストラのために数多くの作品を書いたという事実から導きだせるような人物像ではない。彼がそのような硬直した状況下でしか自分の音楽が実現できないといった狭量な音楽観を以て創作活動していたとは考えにくいのである。理想は高かっただろう。だが、彼は彼の譜面を使って演奏され、実際に鳴り響く音楽を自分の意図と違うということもって全否定しただろうか? もし、それを裏付けるようなことを本人がどこかで言ったり書いたりしているのであれば、それを是非見せて頂きたいものである。

繰り返す。音楽は、特に作曲作品を取り扱う場面において、如何に作曲家が尊重されなければならないという至上命令があったとしても、出来上がったものとその当初の意図とは、違ったものであるはずだ。それが生きた《音楽》の真実である。そして、作曲家が演奏された自作品を喜び、演奏者を讃えるとき、それは自分の予想を遥かに超えた結果に対する驚きと、自らの意図と現実の間隙にある《音楽》自体の神秘に触れたときであるに相違ない、と。

Note: 念のために断っておくが、以上のような「意図」を持って集まり演奏したからと言って、その実際の演奏が詰まらないものであるとか、価値のないものであるというつもりはない。何度も言うように、何を演奏を通して目指したかということと、実際の演奏結果というものの間にも、乖離があって当然なのである。つまり、どんなに詰まらない意図で集まったとしても演奏が途方もなくすばらしいという可能性だってあるのである(実際そうかもしれない)。音楽家(作曲家)の意図と音楽は、「個別に語られる必要」があるのである。

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