二つの視点(通時的にしか語り得ぬ物事について)

親しい友人から、私の言説が、地上俯瞰的な(神のような)視点で「国家を論ずる」という一見して「いわゆるゲオポリティクス(地政学)」的な政治評論のように受け取られる危険があるとの指摘があった。言い換えると、そこには生活する人の姿がなく、まさに権力によって押しつぶされるかもしれない具体的個人という視点に欠いているような印象を持たれるということでもある。ここ2回ほど私がアップロードしたような文章(「例えば朝鮮半島の対立が…」「大国の防弾チョッキとしての日本」)だけを読む人がいたとすれば、そういう(全体主義的な)類のものの考え方だけをする人間だと思われる可能性があるというのだ。

確かにそのように受け取られる可能性はある。だが、大きな視点から今の時代や権力勢力図を見るというのと、そうした動きのために大いなる影響を被る個人への眼差しという二つの異なる視点というのは、どうしても行ったり来たりせざるを得ない。そのどちらかを語って好しとするのはどうしても片手落ちの感がするのだ。

俯瞰図とそれを作り出す個々人の人生の両方を同時に「視る」ことはできるかもしれないが、まったく同時に「語る」ことは出来ないのである(いや、詩や映像を利用した「優れた言葉」なら可能かもしれないが…)。それはレコード再生はどうしても一本の針で通時的に行なうしか方法がないということにも似ている。つまりレコードというのは再生されるべき音楽作品が溜められているが、その中身を再生するには一本の溝を一本の針で最初から最後まで地道になぞって行くしかやりようがないということである。それは機械がマルチタスクに対応していないというだけではなく、それを受け取る人間自体が(聖徳太子でもない限り)マルチタスクに堪えないのである。

要は、個人に対する眼差し(仁)があって、そして権力勢力図を視ると言う俯瞰的な視点(賢)がある。このふたつは、心にその両方を思い描き、同時的に鑑みることが可能であっても、それを第三者が分かるように「再生」するには通時的に行なうしかない。レコードの最初の部分を再生するのか、最後の部分を再生するのか、それとも途中だけを再生するのか、ということは再生者に選択の余地があり、またそのようなランダムアクセスは実質的には可能なのであるが、一時に再生される部分というのはどうしても一ヶ所だけなのだ。

そうしたときに、地上俯瞰的な権力図を見る視点は、それに終止すればもう一方の視点の明らかな無視・排除になるが、もう一方の視点に必ず帰ってくるという方針が明らかであれば、その両方を行ったり来たりして検討することは赦されるものと思う。そもそも何度も断っているように、どうして地上俯瞰的な視点に価値があるかと言えば、個人の人生が掛替えもなく大切であるからなのだ。おそらく、その部分が見えないと、人類を権勢だけで(あるいは経済活動だけで)見切ったようなその道の専門家/評論家が出て来てしまうのだ。

Leave a Reply

You must be logged in to post a comment.