Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [2]

■ 「J祖型」──ひとつの仮説

だが“I”が果たし得なかった名状し難いある役割を補完するものだというのが、ここでわれわれが「Jの祖型」ないし「J祖型」と呼んでも不当ではないアルファベット“J”の機能なのである。一見すると、代用なしでも表記可能だったある特定の「音」に対し、それに相当するアルファベットを当てずに、その変容した形のアルファベットを充て、そればかりかその新しいアルファベットのために多くの単語の「音」自体の変容が生じた。そこには歴史的なある種の秘密が隠される余地がある。つまり、その特異な使用法によってある種の人名などのスペルは「区別」され「聖化」された、というのがわれわれの憶測である。

さて“J”に関しても以上のような事情から了承できることが幾つもある。それは、“J”という文字に担わされているのが、単に音を伝達するという役割以外の、極めて象徴的に重要な、ある種の目印として、この世界で機能している、ということ。そして、この推量には注意を向けるだけの価値がある。ここからが話の核心である。

■ 聖書における“J”

日本語で「ヤ行」を表す音を表記するアルファベットには“Y”や“I”が存在するが、何故か英語圏を始めとして多くの欧州圏では“J”に変換された。したがって英語のスペルにおいては、イェホヴァ(ジェホヴァ)、イエス(ジーザス)、ユダ(ジューダス)、ヤコブ(ジャコブ/ジェイコブ/ジェームス)、ヨハネ(ジョン)、ヨセフ(ジョゼフ)、ヨナタン(ジョナサン)、ヨブ(ジョブ)、ヨナ(ジョナ)、イェレミア(ジェレミア)、ユダヤ(ジュウ/ジュデア)、などなど、聖書において鍵となる重要人物(男性)や地名の多くのイニシャルに、英語圏を始めとして多くの欧州言語において“J”が当てられており、その例は枚挙に暇がない*。その現れ方はほとんど異常ではないかと言うべき頻度である。重要なことは、頻度だけではなく、これらはラテン語やギリシア語では“I”が当てられていたはずが、かつて同じ母音を表していた“J”に(一見して確たる理由なしに)置き換えられ、やがてそれに与えられた子音表記としての役割のため、英語やスペイン語においては別の音で発音されるに至るのである。

このことは言語発展の理論上も異常なことと思える。つまり単語のなかのある種の音が、伝播される過程で風化し失われていく(ディミニッシュする**)ということは、よくあることだが、例えば「イ」という子音から「ジ」という音に変化するというのは、ほとんど「オーギュメンテーション」(拡張)とすら呼ぶべき現象とも言うべきである。音的には人工的に付加されないと「i」(「イ」音)は「ji」(「ジ」音)になりえない。同様に「iu」(「ユ」音)は、「ju」(「ジュ」音)になりえない。意外にもこれは「拡張」だが、実際にそのような事態が生じたのである。

* 聖書時代から知られる土地の名前の中にはイニシャルにヨルダン、イェルサレムなどが「J」を持っており、またイスラエルには「I」がある。これらをすべて偶然と考えるのかどうかはわれわれ次第である。

** 実際に存在していた音がなくなるという言語発展上の範形は、例えばひとつの言語から別の言語に伝達される時にも起きる。ドイツ語でKnecht(クネヒト)は、英語ではknight(ナイト)という単語として伝わっているが、英語の場合、最初の「K」音は黙字となっていて発音しないこととなっている。だが、時代的に後から出てきた英語単語において(聖書に出てくる人物名が)、それに先立って存在する参照先としての聖書原点よりも音が「複雑になる」ということは、何らかの人為が働かない限り説明がつかないのである。

また、現在英語において“J”で表記されることになったあるヘブライ語やギリシア語の音を“Y”のまま、あるいは“I”のまま伝わったとしたら何が起こったであろう。「音を正しく伝達する」狙いは叶ったであろうが、それが特殊な意味を持ったものと捉えることは難しかったかもしれない。なぜならそれは頻発して使用される母音の記号に過ぎないからだ。それら特殊な意味を持ったコード名を敢えて新手の“J”にすべて相続させることで、語彙の少ない“J”から始まる単語リストに“J”で始まる単語(人名)の一揃いのリストが加わった。これはそれらの単語に特殊性を与え、「目立たせる」のに十分な方策である。これが聖書が翻訳される時点で生じた、比較的新しい表記上の出来事であることは確かで、それをわれわれは皮肉まじりに「Jの陰謀」と呼ぶのである。

ここで起こったことは「音を正しく伝える」ということではなく、年齢的にも歴史的に「若い記号」を使って、特定の名称に「目印を付ける」ということと考えられる。使用頻度の低い記号を、逆に特定種のジャンルにおいてこのように過剰に繰り返えすことによって、特定のニュアンスを保持し始める。

このように観ていくことで、「現代の聖書」や「特定の国名」などが、ある一定の目印として機能しており、われわれに何らかのメッセージを伝えようとしている実体を検討できる。こうして何に注目させようとしているのかという問題にようやくわれわれは移っていくことができるのである。

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