あるのはブラックサバスである

Sabbath

あるのはヘヴィーメタルでもハードロックでもプログレでもない。あるのはメタリカであり、ブラックサバスであり、フランク・ザッパである。あるのはハードバップやフリージャズやフュージョンではない。あるのはアート・ブレイキーであり、コルトレーンであり、ジョン・マクラフリンである。ジャンルはすべて幻想である。あるいは評論家諸氏の頭で複雑な音楽の宇宙を「理解」し、ちんまりとそのなかに収めるための利便である。


つまり、あるのは個々の音楽家と個別なひとつひとつの作品だ。ある種の影響を既知の作品や表現者の個性から受け、それが自分にとって切実なものである時、次の表現者は、かつての創作者の方法を知らず知らずに採っている。あるいは意識的な模倣がある。だが、模倣されたのは具体的な作品であり、ヘヴィーメタルやハードロックではない。ましてやフュージョンやジャズでもない。模倣されたのは具体的な作品だった。

加えて言えば、模倣の連鎖が「結果として」歴史を作る。歴史は「結果」に過ぎない。ありうべき一つの結果に。したがって、「これから起こること」が、歴史の解釈から導き出せる「予定」の通りでなければならない理由も、ない。少なくとも「音楽史」の領域においては。

とりわけ、われわれが創作者の側にある時、われわれは何かに連なる「系譜」的な存在の一端であるというこれほど強烈な意識が必要なのであろうか? われわれはどこかの組に属したいのだろうか? それともある学問領域における学会に、あるいは協会に? あるいは組合に?

確かに、マーケティング的にはそうした個の集団への帰属意識は、成功のための一つの道筋(梯子)として有効かもしれない。何故なら、色眼鏡の掛かっていない「自分の裸の耳」を信頼できない(あるいはそんなものを自分が持っていることさえ知らない)凡百のリスナーたちは、新しい音楽を全く新しい音楽のあるがままの姿ではなくて、ハードロックとして、ヘヴィーメタルとして、パンクとして、あるいはブルーズとして、はたまたジャズとして、(言うことに事欠けば「インディーズ」として)、でなければ何らかの「既知の精神性」を引き継いだものとしてしか聴けないのであって、まだ名の付けられていない未知の何かを聴きたくて音楽を聴こうというのではないのだから。

したがって、そのようなリスナーを攻略するために「音楽をする」時、彼らの音楽は全く新しい何かではなくて、何かに似たものでなければならない。あるいは過去の歴史によって保証された(こう言って良ければ権威付けられた)ポピュラーで親しみの持てる「何か」の反復でなければならない。少なくとも、すでに名前の付けられた何かに範疇分けされなければならない。(だが、そこまで「何か」的なものでなければならない時、どうして潔くカバーバンドにならないのだろう? これほど容易かつ確実に人を喜ばせる方法はないのに…)

もう一度断っておけば、これらは特定のリスナーの攻略法であり、マーケティング戦略に外ならず、われわれの行おうという《音楽》とは何の関係もない。伝統芸能に関心があるのは、それが伝えてきた「意味内容」に関心があるからで、われわれは歴史になろうとしているのではなくて、単に《音楽》になろうとしているのだ。なぜなら、真に音楽となった「それ」は、その中にすべてを入れ子状に含むのであるから。掛け値なしに、すべて、をである。

そのすべてを含み得る音楽に旋律があり、それを謡う心があれば良い。音を出すこと、とはそもそもそれが目的であったのではなかろうか? モードやリズムが何なのかは専門家に解析させれば良い。

そして、何よりも私が思い出さなければならないのは、私が評価すべき対象は、何かの系譜に連なろうという彼らの「考え」や「思い込み」や「思想」や「哲学」ではなくて、彼らの「出す音そのもの」であって、彼らの考えや思い込みが彼らの出す音楽を損なうことも、彼らの音楽が彼らの考えを損なうことも、そのどちらもないということだ(「ある」という意見が多数派だが…)。

つまり、考えと音楽もまた「個別に語らなければ」ならないのだ。

(簡単に言えば、私の好きなあるアーティストが何を信じていようが、どんな考えに染まっていようが、関係がない。彼が造り出したものが、正直な音楽である時、それはどんな考え方や思想よりも雄弁に歴史の真相や秘密を語る)

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