クローン牛に対する本能的警戒を論理(言語)化する試み

クローン牛の解禁が近いというニュースを聞いた家人が、それについての「本能的な警戒」を表明し、それがきっかけになって不快な家族間論争となった。このニュースに対する「いやなかんじ」については、自分もその感覚を共有する者と思っているが、それをただ表明しているだけでは何かが不足している感が否めない。それにクローン牛なるものがどんなものなのか、純粋な好奇心もある。

そのことを口にしてみたら、自分の言葉足らずだったせいもあろうが、あたかも自分が「クローン牛の解禁促進派」のひとりであるかのような言われ方をされ、非難された。返す言葉で、クローン牛だって母牛から生まれた牛であって、牛は牛だ!別に人工的に一から作り上げた牛ではないのだ、みたいなことを言い返す。当然、言われた方は一層刺激されよう。痴話話はこれ位にしよう…

おそらく実際問題、クローン牛を批判する以上、一度くらい(あるいは一定期間)クローン牛なるモノを食べてみるかもしれないし、不注意のために、たまたま入った牛丼屋の牛丼がクローン牛だったので食べてしまう、などということもあるかもしれない。

ひとつ分からないのは、どんなニュースでも「クローン牛が解禁の方向だ」ということを報道する一方で、クローン牛がどうして必要なのか、どこで、誰たちがそれを生産し、どんな業者が、どこに輸入するのか、日本でそれを使う業者は誰なのか、という消費者にとって最も関心のある「肝心な部分」が完全に抜け落ちた情報だということだ。ひょっとすると、いかなる具体性もないまったく机上で書かれたシナリオなのかもしれない。

それに、クローン牛の解禁への方向性はおそらく日本政府の“某宗主国”に対する相変わらずのゴマスリの意味に過ぎず、政治的なメッセージとして発信されただけ、という可能性もあるような気がしてならない(その場合は、クローン牛の輸入などという政治的決断だけが在って、実際は日本の消費者が見向きもしなければ、全然売れずに市場がそれを排除して終わるという可能性も一方ではある。だって市場経済至上主義なんでしょ?某国は!)。

話の裾野を広げるのは止めよう。必要なのはおそらくもっと単純なことだ。

シロウトなりにどうしてクローン牛が生産されるのかということを、「生産者側の立場」で想像して、考えてみる(こういう想定そのものも、家人は気に入らないらしいが…)。例えばここに、病気になりにくい牛がいて、しかもそれが好き嫌いをせずにどんな飼料でも食べ、どんどん育ち、大した抵抗もせず、屠殺場へはおとなしく赴く、しかもその肉が柔らかく、そこそこに旨いとなれば、その牛とそっくりなヤツをもう一頭育てたくなるだろう。おそらくクローン技術を借りてでもそれをしたいと願うのは、そうした「合理的な牛」が、自分の商売を楽にして、しかも最大の生産性を上げることができそう、という読みからだ。

さて一方、やはりシロウト的に、この近視眼的な牛肉生産業者の採るだろう選択肢について、もうちょっと思いを巡らせてみよう。クローンの技術によって同じような「ソックリ牛」が大量に生産されることになった場合、その牛特有のクセが、われわれの健康に特定の影響を与えてしまう可能性がある。脂肪の量などの、目に見えて測定できるようなレベルの性質が均一であるばかりでなく、その牛しか持っていない(かもしれない)言わば「毒性」のようなものが、クローン牛のどれを通して、ずっと一定のレベルでもって、われわれの身体に取り込まれることになる。これは、自然界が本来なら同じものを生産せず、生命が多様なものとしてこの地上にもたらされるなら、自然に回避できるレベルのリスクだ。だが、食べる牛が総て同じ、ということになれば、「毒性」は加算されて行き、それがわれわれの体内に蓄積されるとなれば、その影響は徐々に表れる可能性がある。これは、自然界の持っている自然回復力の利用という点では、真っ向から対立する方向性である。

それにもし、このクローン牛が突然ある病気に罹ったら、すべてのクローン牛が一斉に同じ病気に罹って全滅する怖れもある。これはクローン牛でなくたって、現在のDNA操作によるあらゆる作物が持っている潜在的な危険である。だが、そんな「掛け合わせ」のレベルの均一性ではないのだ、クローン生物は。遺伝子的には「まったく同じもの」が出来上がるのだ。問題が起これば、経済性を優先したために起こる、食料の安全保障への壊滅的ダメージとなるだろう。

ことによると(われわれがラッキーであれば)そのクローン牛の害なるものは、日本の農林水産省管轄の研究所が主張するように「ほとんどない」ことで済むかもしれない。実際問題、そういう可能性はある。だが、こうした人工的な生命の操作によって起こりうる事態は、われわれの想像を超えたところからその牙をむく可能性がある。

われわれの本能がわれわれに告げる「いやなかんじ」とは、このように言語化することによって、より広い範囲で共有することができるのである。これは、食卓での団欒でできる対話のレベルから遠ざかるかもしれないが、一旦理解してしまえば誰でも説明のできる「不安」の論理化なのである。

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