反対物の一致 #1:原初的な前提

夜があるから昼がある。そしてその逆も然り。闇があればこそ光もある。あるいは焦熱の日射地獄があればこそ木陰の楽園がある。冬があってこその夏であり、終わりに向かう秋があってこそ、年の始まりである春の喜びがある。こうした差異、あるいは反対物の存在によって、あるモノやコトの価値、ひいてはあらゆる概念自体の認知が可能となる。

善だけの世界もなければ悪だけの世界もない。真実も多くの虚偽があってこそ意味を持つ。これらの言わば認識論的な価値の存在の仕方の中にわれわれの住む世界がある。つまり苦も楽も、それらは互いにその反対物の存在によって存在を許されているのだ。考えてみて見るが良い。一体、全くの不正の無い世界で、どんな正義が意味を持つというのであろう? 一体、まったく自己中心性の無い世界で、どんな自己犠牲が意味を持つというのであろうか? 不正や利己主義の全くない世界において、どんな救世主(キリスト)が意味を持つというのであろうか?

われわれの世界が永遠にして不変であるなら、その存在の《価値》はないのかもしれない。われわれの生や人類の文明が、かくも「かけがえのない」ものとして考えられていること自体も、それらの不在、もしくは終わりが約束されているからこそなのかもしれない。いつでも在るものにわれわれは価値を見出し得ない。われわれは亡くなるものを得ようとし、また既に無いものこそ求めようとする。そしてわれわれがそれを求めたとき、それは善なるものである。であるならば、不在こそ存在の価値の基盤となる点に於いて、これもまた善である、とも言い得るのである。つまり死(=悪)という不在は、生という存在の基盤となる点に於いて、善なのである。

かくて、《反対物の一致》という価値観の大転換が行なわれるのである。

無題

貧困は理由を作った

病むものは憎悪を正当化した

憎しみは敵を想定した

処罰は身内を敵地へと赴かせた

処刑は結果だった

誤解は作戦に組み込まれた

敵は確定した

裏切りはそれに付きものだった

母を去るのは強制された

最初から最後まで隣人が前提であった

そして落涙と流血はそれの本質だった

それは戦(いくさ)と呼ばれた

貧困と疾病と憎悪と無慈悲と処刑と誤解と敵と裏切りと母の落涙と自らの流血

それらが戦の顔だった

貧困がなければ施しができなかった

病むものがいなければ癒しができなかった

憎しみの世でこそ愛が説けた

処罰がなければ寛大を薦められなかった

処刑がなければ寛容を実践できなかった

誤解がなければ理解を演じられなかった

敵がなければ味方になれなかった

裏切りがなければ信頼を乞えなかった

母を拒まなければ人類の友になれなかった

最初から最後まで隣人が前提であった

そして落涙と流血がなければ、それになれなかった

そのものはそれなしにそれになれなかった

貧困と疾病と憎悪と無慈悲と処刑と誤解と敵と裏切りと母の落涙と自らの流血

それらがなければ、そのものは救世の主になれなかった

貧困はなかった

病むものはいなかった

憎しみはなかった

処罰する法はなかった

処刑は行われなかった

誤解は生まれなかった

敵対するものはいなかった

裏切りは生じなかった

母を拒むものはいなかった

隣人はいなかった

そして落涙も流血もなかった

それはそれがないためにこのよに生まれなかった

貧困と疾病と憎悪と無慈悲と処刑と誤解と敵と裏切りと母の落涙と自らの流血

それらのない世に戦はなかった

そして

それらのない世で救世の主は生まれなかった

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