G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』を読む #2

Blake God

レーウの「神」に関する議論の続きを。

恣意によって苦しめられた者のみが、意志を発見する。太陽は、その気になれば、姿を隠し、光るのをやめることもできるのだと考えた古代のアニミズム的エジプト人は、太陽を永遠に昔ながらの正しい軌道から外れさせない、鉄のような運命の女神(デイケー)がいると信じたヘラクレイトスよりも、キリスト教の神概念に近い。盲目的な力や法則よりも、恣意的な神を信じる方がよい。最初によるべのない人間が、その生存の危機の中で、圧倒的な現実の背後に一個の人格的意思──それが呪うべき意思であるとしても──を想定するのでないならば、復讐の神も、正義をつかさどる神もまたわれらの主イエス・キリストの父なる神も考えられないのである。

人格神から唯一神への進展は、かなり速やかに起こる。しかし、有神論(Theismus)はやはりいつの時代にも一神論(Monotheismus)よりは重要であった。唯一の神のみがあるという理論的確信を許容する宗教は一つとしてなく、あるのはただ人間が仕えることのできるのは一個の力のみであるとの強い信仰を許容する宗教だけなのである。もし他の神々は存在しないと言われるならば、それはこの、われわれの神の他にいかなる神も存在しないという意味でである。

G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』(田丸徳善/大竹みよ子 訳 東京大学出版)「神」(の章) 16 多神教 page 132

われわれの世界が、全く機械論的で揺るぐことのないメカニカルな法則によってのみ突き動かされているという、言わば「神不在」の世界観に対しては、実に古い時代から、その是非を巡ってさまざまな考えが提出されてきたということだ。喩えてみれば、玉突きやドミノ倒しのような「原因と結果」という因果の連鎖があるだけ、という機械のような世界よりも、世界の現象が、《その者》の気まぐれであったとしても、《なにがし》かの意思によって、どうにでもなるのだということの方を信じたくなるほど、人類は自然の「恣意」によって苦しめられてきたということになる(らしい)。しかも、その苦しみは単なる偶然によってもたらされる苦しみであると考えるにはあまりにも大きい。したがって、それが同じ苦しみであっても、単なる不幸な「事故」ではなく、何らかの至高な意志者による、われわれの理性では計り知れない計画と意図を持った者(至上者)による「恩寵」であると考える方が楽なのである。その点では、“暗い哲学者”ヘラクレイトスの方が現今の無神論に近く、キリスト教の方がアニミズム的古代エジプト人に近いというわけだ。つまり神々とともに生きていたギリシア人の方が、いつでも奇跡が起こる神のいる世界ではなく、神不在の、遥かに冷厳な宿命論を受容していたとも解釈可能なのだ。

いずれにせよ、神がいるかいないかという議論に対し、人類は「いる」という回答──つまり「有神論」──を選ぶのを好み、そうした「有意志的な世界」(有神論)に対し、汎神論に向かう別の軸を想定する。

一神教か多神教かという議論については、単純な二項対立ではなく、つねに「他の神」という、半ば「客観的」な存在者へのアンチテーゼでしかなく、自分らが想定する神以外の「神々」が存在するという他者への強烈な意識が、かえって「仕える対象としての神」が唯一でなければならないという希望的な観測を裏付けている、ということになる。つまり、そこには意識的な「信仰」という選択が求められる。

さて、汎神論について言えば、「神がその名前を失うこと」とレーウが説明するような面が確かにある。エジプトの原始汎神論者は古い神の名「アトゥム」を「万神」と解釈したという。ゼウスはギリシアでは特定の(つまり「至上の」)神の固有名詞ではなくなり、例えば、エウリピデスがそうしたようにゼウス・自然法則・世界理性の三者間に区別がなく、同じ概念を表す言葉として恣意的に活用したという。またゲーテは絶対的力への信仰をこのように表現したという。

「私がそれ(神的なもの)をトルコ人のように百の名前で呼ぶとしても、まだ不足であり、そのあまりに際限のない特性に比べれば、まだ何も言わなかったに等しいであろう」。(page 135)

この言葉で思い出すのは、福音書における次の記述だ。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるなば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書 21. 24-25) ゲーテは神の名前について語っており、福音書家ヨハネは行為について語っているので関係ないとするならば、それは想像力の欠如である。行為の数だけ名前がある。そして名前の数だけ異なる行為があったのだ。この世界で起こったあらゆる奇跡的な出来事はすべて、イエスという「汎神」にその原因を求めることができる。イエスはヨハネ伝においては、神と人間をつなぐメッセンジャーであったというよりは、まさに絶対の至上者そのもの、すなわち汎神論的な意味での「神自身」、換言して、文明世界の隅々に浸透しわれわれの世界をかくあらしめる《絶対神》的な存在へと昇格しているのである。

それは神道を国家神道という形に変形し、天皇という至上者を想定し、それをあらゆる神(八百万の神々)のヒエラルヒーの頂点に座するものとしたのと比肩しうるかもしれない。つまり、この世で起こっているすべてが、この生ける神の意志次第になっている(いて欲しい)という概念は、ある意味、きわめて西洋的、いや、少なくともヨーロッパの宗教では馴染み深いものである、ということはできよう。

この回は、自分の至らない見解で締めくくるよりも、レーウの本書における最後の引用をそのまま引用して締めくくるのがいいだろう。そこにはイエスが自らを「アルファでありオメガである」と言ったその語り口(修辞法)の範型(元型)とも言うべきものが見いだされるのだ。そして、イエスが父と呼んだ存在、そしてその後の聖母信仰の範型とも言うべき、処女マリアの役割さえも、ひとつの神(ゼウス)が果たすのだ。これこそがヨーロッパのイメージした究極の汎神論的な神の姿なのであろう。

その(バガヴァッド・ギーターの)ほかに例えば、ギリシアのオルフェウス教でも、汎神論は全盛をきわめていた。「ゼウスは最初の者となり、ゼウスは最後の者となり……ゼウスは頭であり、ゼウスは胴体であり、ゼウスから万物が作り出される。ゼウスは大地と、星ちりばめられた天空のどだいである。ゼウスは男性として作られ、ゼウスはまた不死の乙女となった。ゼウスは万物の息であり、ゼウスは永遠の日野力であり、ゼウスは大地の根である。ゼウスは太陽であり月である。ゼウスは王であり……一切の存在の支配者である。

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