音楽から何が分かるか

ボクの周りには、音楽を聴くとその人が分かると断言する人がいる。しかも一人や二人じゃないんだね、そういうことを言う人は。あるいはかつてボク自身もそんなことを口走ったかもしれない。

音楽を聴くと、それを創ったひとの人柄や人間性などが分かるか? ボクに言わせるとそれは、「Yes and No」だ。奏する人の音から何も全く分からないかと言うと、もちろんそういうことはない。分かる(と思える)こととそうでないことがある。だが、その人の何が分かって何が分からないか、ということをきちんと区別して自覚的に論じる言葉をそうしょっちゅう聞く訳では、ない。

[確かにこれについて語るのは難しい。だって「分かる」と言っている人が分かっている(と思っている)ことをボクがその人の身になって体験出来ないからだ。つまり、その人が、思い込みであるにしても「分かる」と思うことは出来るのであるし、万が一、「分かっていることが正鵠を得ている」可能性もある訳だし。ただ、その言葉を信頼に値するものであるかを個別に判断していくしかないんだ。]

以前、音を聴くことに関して自信がある(と自負する)人が、「音を聞けばすべてが分かる」みたいなことを言っているのを聞いて、さっそくボクは尋ねたことがある。じゃ、ボクはどんな人間なんですか、と。実は、こうしたことを断定的に論じる人ほど、こうした質問に対して案外準備ができていない。「… enteeさんは、熱いよね。音にもそれが出てる」。それがそのときボクが聞いた答えだった。

enteeさんは熱い、か…、ふ〜ん…。それはそうなのかもしれない。それに熱いヤツだと言われて悪い気もしないしね。そこで思考停止しかかる。だが考えてみれば、なんてバカげたほどに「差し障りのない」答えだろう。「熱いかどうか」なんて、別にボクの音楽を聴かなくたって分かりそうなことじゃないか。ボクの音楽を聴いて熱いヤツだってことが分かった、なんて、あまりにもお粗末な話だよな。だんだん憤慨してくるね。そんなことじゃなくて、ボクが善人か悪人か、大物か小物か、聖人か俗人か、信仰者か無信仰者か、ボクがどんな秘密を知っているか、ボクがイニシエーションを受けた入門者かそれとも先覚者か、女好きか男好きか!、etc. etc. みたいなことが、音楽からにじみ出ているのだろうか? そのあたりが、気になるところではないか。だって、もし音楽では嘘をつけないということであれば、すべてが人前でアカラサマになっているということだろう? だが、そんなことは正面切って相手に言うことじゃないためもあってか、もちろん出てきやしない。


ボクが「音から人が分かるか」ということについて、「Yes and Noだ」というのは、たとえばこういうこともあるからだ。もし、音楽の作者の人格なり性向がその人の創る音楽に現れるのだとしたら、モーツァルトの音楽から、彼がスカトロ趣味の変態性欲者で、金遣いにだらし無く、奥さんには弱かった…、なんてことも分かるとでも言うのだろうか? そうしたモーツァルトの性向はつとに知られたことではあるが、露骨に彼の趣味について歌うスカトロ趣味の音楽を聴くならまだしも、誓ってもいいが、彼の器楽曲や一連のオペラなどからそれを憶測出来た人はいないと思う。それは、彼の書簡やらの記録によって後から確認出来ただけの話であろう。

実際、モーツァルト好きがモーツァルトの性向の何たるかを知って、聴くのが嫌になったなんて話もあまり聞かない。つまり、モーツァルトの音楽と彼の人格とを分けて音楽を楽しむ、ということをわれわれは当たり前のこととしてやっているのである。

もし、モーツァルトの「人となり」を読んだり聞いたりして、「モーツァルトを聴くのを辞めた」なんて人がいるとしたら、それこそ偏見と言うべきことである。作られた音楽に対する偏見であり、ある特定の人格的性向に対する偏見であり、二重の偏見を自分に許したことになる。それはまた、自分の耳でその内容を判断せずに、噂で人を判断するということと同じである。要するに、本当は作曲者の人柄なんてものがその音楽からは分からないということなら誰でも当然だと思っているし、そんなことは音楽を聴くにあたって差し当たり、最重要課題ではなかったのだ。

それでも「分かる」と主張する人には訊きたいが、じゃあ、たとえば何がいったいモーツァルトの音楽から分かるというのでしょう? その答えは未だに分からない。誰もそれが何なのか真剣に考えてやしない。しかし、ある局面において、音楽と音楽家というのは当然のように結びつけて論じられる。つまり音楽作品の価値は、その創作者の人間性とは別個に存在している、ということを受け入れるのに抵抗する人がたくさんいるのである。反論を覚悟の上で一度こう言ってみよう。「音楽とその作者の人格のあいだには何の関係もない」と。

だが、そんな「考えれば考えるほど当たり前のこと」が当たり前のように思われていない音楽分野がある。自由即興の世界がおそらくそうであり、またちょっと古くはジャズの世界がそうであろう。伝統芸能のような精神性が強調されるような分野でも大同小異かもしれない。その場合、すばらしい音楽はすばらしい人間からしか生まれてはならないし、すばらしい音楽が人格破綻者から生まれるなんてことはあってはいけない、と不文律的に信じられているかのようにさえ思われる。他所者からすれば、全然当たり前ではないこうした音楽精神論が、割に「当たり前」に受け入れられているのが、そうした閉じられた音楽世界のような感じがするのだ。それが本当なら、われわれ音楽家は音楽なんかをやっている場合ではなく、人格の錬磨に邁進しなければならないし、「不道徳」な習慣を持っている人はそれを克服するところから始めなければならない(なぜなら、「そういう人の音楽は濁ったものになるから」だそうだ)。だが、たとえば音楽をやっている人がそんな精神的錬磨に時間を費やしているという話を寡聞にして聞かない(ボクの周囲では特にね)。

音楽の世界では、即興に限ったことではないが、実にいろいろな場面で「何か精神的なもの」と結びついて論じられて来たことは認める必要があろう。60年代から70年代にかけては特に、われわれの先輩方が見本にしたアメリカの軽音楽アーティストたちの多くには、音楽における先達というよりは、むしろ「精神」的グルがいた。まるで音楽そのものよりも精神的な鍛錬の方が良い音楽に到達する早道である、と揃いも揃って信心したかのようだった。ジョン・マクラフリンやカルロス・サンタナには共通の精神的指導者がいた。キース・ジャレット*やロバート・フリップ、そしてボブ・ディランが、70年代グルジェフに傾倒していたことは知られるところだ。

[* Impulseから出ているキース・ジャレットのアルバムのタイトルやアルバムジャケットにはそうしたモチーフが隠されることなく出てくる。内ジャケットに出てくるジャレットの服のベルト・バックルには「3の法則」「7の法則」を表現したと言われるあのエニアグラムが刻まれている。また、アルバムタイトル「Fort Yawuh(ヤウー砦)」は、グルジェフの提唱した第四の道(Fourth Way)のスペルのアナグラムだという。]

一方、よくもわるくもキース・ジャレットとしばしば比較して語られるチック・コリアは、サイエントロジーという精神世界系のスクールに属していたことがあるようで、それは後に「ダイアネティクス」と呼ばれる爆発的なベストセラーとなった心理療法の書籍を書いた L. ロン・ハバードが打ち立てた新興宗教のたぐいである。それは早い話が宗教臭さをなくした宗教の団体(Church of Scientology International)だ。「Delphi」という名の即興曲集が出ているが、そのジャケットにはロン・ハバードが写真入りで出てくる。[Scientologyとは、縁が切れたのか分からないが、現在はその「Delphi」というタイトルの付いたポリドールから出ていたアルバムは、中古以外では現在入手出来なくなっている。]

かくも、音楽家というのは精神世界系に関わりを持った人が多い訳だが、それはある意味、音楽活動というものが、やる人にとっても聴く人にとっても精神的(内面的)活動であるから、当たり前に結びついて来られた訳である。だが、同時に、それは内面生活の話なので、そういうことが「ある」と人に証明してみせることが出来ないし、することが出来ないために、しないで済まして来られた。だから何を言っても良い訳だし、何を信じようと誰も知ったことではなかった。

さて、「Yes and No」の「Yes」の部分であるが、人が演奏中にアカラサマになるというのは、それはそれである程度分かる。実際問題、演奏者はほとんど裸も同然だ。そして、裸になっているものに音楽が見いだされた。だが、「裸である」ということと、その人の「すべてが分かる」ということは同じじゃない。ボクが裸の人間から分かることと言うのは、そいつが裸であるという事実だ。あるいは、裸になれるというそのひとの人格的(性格的)なある一面の存在が見て取れるということにすぎない。裸になったくらいでそいつの「人となり」などが分かるように思うのも実は錯覚だ。ただ、少なくとも「裸にはなっている」という創作家にとって「表現上の必要条件のひとつ」を満たしている、だけの話なのである。

人と本気でコミュニケーションをとらなければ成立しない音楽の分野(とりわけ即興のような共同作業)においては、誰かが誰かの後に隠れていてはそれがうまく行かないということがある。だから一度裸にならなければならない。だが、これは大衆浴場に服で入るわけにはいかず、入浴中の全員が結果的に裸であるということと似たようなものだ。やるからにはとりあえず脱衣してくれよ、ということなのだ、要するに。

一方、人間の気質が音楽の作り込み方に反映するということはあるだろう。細かなことが好きな人間が細かな仕上げをするとか、大雑把な人が大雑把な仕上げをするということはあろう。書でも細い筆を好むものもいるだろうし、「大きいことは良いことだ」式に太い筆が好きな人もいるだろう。あるいはどちらも出来なきゃだめだと言う教条主義者もいるはずだ。同様に、ソプラノのように主旋律のソロをとるのが好きな人もいれば、ベースのようにハーモニーの一番低いところを支えるのに快感を覚える人もいる。楽器の選択にその人の気質が反映するということもあっていい。それは、その人の体癖というか気質というか、生まれながらに持っているある種の「性質」がある種の「もの」に興味を持たせ、それを手に取らせるということなのであって、楽器の選択と人間の気質にある種の関係があったとしても不思議はない。

また、作曲活動と演奏活動では人柄の現れ方が違うという人はいるかもしれない。差し当たり、この文章では曲を書く人と曲を演奏する人を区別してこなかったからだ。「分かる」という人によっては、作曲から作曲家の人柄は分かると言うだろうし、演奏からその演奏家の人柄は分かると言うだろう。あるいはどちらも真だという人もいるだろう。

問題は、「音楽から人が分かる」と断定する人が、何を意図してそのようなことを口外するのかということだ。その意図(ねらい)は一体何なのか? そのひとの音楽そのものよりも、そういうことを口にするその言動によってこそ、その人の人柄が分かるような気がするのである。

だが、音楽から分かってしまう人間のある種の内面。それを言語化せずとも無意識に周囲の人々が受け取っているとすれば、結局自分は音楽を通じて何かを知られる(伝えてしまう)ということだ。それが何かは分からない。だが、言葉にできない何か、ということは確かだ。そして、結局音を出さない人からよりは、音を出す自分が人前で裸に近い状態でいるという、その事自体で、この問題は十分なのである。

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