マイノリティ《左利き》を巡る断章

偏見や差別というキーワードとの出会いで、自分にも思い当たることがあると感じて急いで備忘録とする。

いまとなっては左利きであることはさまざまな点で有利だとさえ思っているが、幼少の頃までは相当の偏見や不便に苦しめられた。父の田舎に帰れば、親戚に「どうして左を使うのか」としつこく難詰されたし、ご親切に「左手は不浄の手だ」と教えを垂れるおとなまでいた。学校では左でボールを投げれば、「おまえ、ギッチョか!」と、まるでハンディキャップの人間に期せずして出くわしたかのように、ぎょっとした調子で教師に指摘された。学校には手に合う左利き用のグローブが少なかったのが実に不利だったし、家庭科の授業で使った裁縫鋏は、手になじまず力を込めて使うと痛かった。まだ左利きに対する意識が低かったその時代、そのあたりの文房具屋ではついぞ左利き用の小刀に出会わなかった。

「ギッチョ」という言葉はいまでは少なくなったが、それでもそれを差別用語だと意識さえしないで本人に向って投げつける人がたまにいる。それを言う本人には「左利きです!」と訂正するが、その意図を理解しない人が殆どだ。つまり歴史的に偏見を含んだこの言葉を、無知とは言え、そうと知らずに使っているし、左利きの本人たちに投げつけて平気だ。チビとかビッコとかメクラとかを本人に向って使わない人でも、こと「ギッチョ」に関しては存外無関心・無知な人が多い。

「ギッチョ」という言葉は当方の考えでは、おそらく「不器用」(ぶきっちょ/ぶぎっちょ)あたりから来た語彙だ。右利きの人から見ると左手で何か作業をやっている人を見ると、ぎこちなく「不器用に見える」からそのように言い倣わされたのだと想像している。実際、右利き用に作られた道具を左で使うのだから不利なのがそもそもの前提だし、ぎこちなくなるのが実際なのかもしれない。だが使う本人たちがそう感じている以上に、見た目が「不自然」だから不器用に「見える」だけだというのが、右利きの人たちには分からないのだ。どうしてそういうことが言えるのかというと、左利きである自分自身、筆記だけを右手に矯正したので、文字だけに関しては、左手で書いている人が「ぎこちなく」見えるのだ。だから文字については大勢の右利きの人と同じ感覚で見ているのだ。

ギッチョは「利き手」とか「器用」という意味だという主張があるようだが、「左ギッチョ」とは言っても、その逆の「右ギッチョ」という言葉は存在せず、「ギッチョ」が単なる「利き手」や「器用」という意味でないことは明らかだ。それはその言葉を投げつけられた人だけが感じることのできるものだ。

ウィキペディアの「左利き」の項中の「左利きの不便」というチャプターを見ると、左利きである自分でも意識してこなかったような不便と危険の長いリストを見出す。これだけの不便を強いられて来たのかと知って改めて愕然とする。(逆に言えば、随分右利きの人たちは自分たちを甘やかしているんだな、と思う。)

単に不便であるというだけでなく、左利きは右利きの社会において多くの危険に曝されている。(実際に事故で死ぬ確率は高いという統計もある。)この意味では「ユニヴァーサルデザイン」あるいは「アクセスビリティ」などが盛んに言われているが、左利きの人々にとっての真の《アクセシビリティ》は、この圧倒的なマジョリティである右利きによって支配されている社会において、まだまだ改善していない。誰も声高に言わないから、そもそも問題として認識されていない。マイノリティである左利きの人々が立ち上がって、運動を起こさなければいけないのかもしれない。右利きと左利きに対して、その発生する割合に応じた社会整備を行うのを義務付けるとかできないのか、とも思う。左利きはどんな社会にも10%前後存在するというのだから、その割合に応じた道具や社会整備をすれば、本当の意味でユニヴァーサルデザインになるだろう。僅か10%でいいのだ。世の中の設備の半分をそうせよと言っているのではない。こんなことを、特に改札口を通過するたびに思う。

文字も逆に書かれた鏡文字を正規の文字として認めろ、とか主張したりしてね。

ところで、文字だけ右手利きに矯正した自分が、左手で鏡文字を書くと分かるが、筆跡は右手で書いたものと全く同じで、筆跡は手に存在しているのではなくて、脳内に存在することがよくわかる。

女性はマイノリティと言われることがあるが、生まれてくる確率からすると男女は五分五分だから、数の上で女性はマイノリティ(少数派)の存在ではないが、左利きはどこの社会でも10%前後と言えば、真性のマイノリティなのだ。

でも、親切な右利きの親たちは、右利き社会において苦労させてたくないから、右利きにしてあげようとする。左利きとして生まれてくる本人たちにとて、それがどんなに迷惑なことなのかも知らずに、自分たちが左利きに矯正されたらどんな苦労をするのかということについていかなる想像力も使わない。

その問題は認識されているが、そんなに危険なら「右利きになればいいじゃない」というかもしれないが、「いやいやそういうあんたが左利きになればいい」という主張は、右利きの彼らには想定できない。

ピアノを弾くと分かるが低音域を分担する左手は、メロディーを主に分担する高音域の右手と違って、「伴奏」や「通奏低音」の役割を果たすことが多い。特に古典期以降は。だが、バロック以前に遡ると、鍵盤楽曲において、右手と左手は、比較的同じ比重を持たされていて、時にはともに同じメロディーを弾くことがある。特にフーガになっているとそうだ。自分がバッハを弾くのをあまり苦に感じなかったどころか、喜びに通じたのは左利きだったからかもしれない。いつも左手の伴奏がうるさいと両親から指摘されていたのは、バッハとの出会いで終わった。

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2 Responses to “マイノリティ《左利き》を巡る断章”

  1. 理子 Says:

    私も左利きです。

    正月に行われる火祭りのどんど焼きの別名に、左義長、さぎっちょうという別名があるそうです。この漢字は、本来、三毬杖という別の漢字だそうで、毬杖は、毬を長柄のような枝で打つ遊び、だと言うので、enteeさんが、Ω祖形とは何かで、バトミントンのシャトルコックについて書かれていましたが、それにも共通するテーマかもしれません。又、ラケットのフレームは、木製だったそうなので、木=三鈷杵と、シャトル=Ωとの関係性は、祭儀からスポーツ、利き手とその偏見に至るまで、同源の問題かもしれません。

    それとラケットのガットと、楽器の弦の関係も面白いです。

  2. entee_o Says:

    ラケットのガットも弦のガットも、動物の腸(ガツ)で「アイツはガッツ(腹)がある」のガツですね。

    だれの記述だったか出典は忘れましたが、楽器の本体の多くが木で、それに動物由来の弦が張ってあるあるのは、十字架とそれに架けられたイエス(肉体)の関係と同じで、あの十字架は神への供犠物として「楽器」なのだというものがありました。弦楽器の弓も考えてみたら木製で張ってある馬の尻尾の毛は動物由来です。

    バドミントンもテニスも東西に分かれてシャトルコックや球(タマ)を敵の陣地に向けて「落とし合う」ゲームであって、その本質は、神の前での競技であり供犠(つまり神儀)だったのかもしれません。そのラケットが木製であり、生き物の一部であるガットを張るというのは、楽器と同じ意味をもつかもしれません。ガットに跳ね返るボールのやり取りはひとつのヴァイブレーションの交換とも言えますし。

    いつもいろいろ気付きの多いコメントを下さり、感謝しております。また楽しみにしております。

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