音を捉えようとする言葉《目次》

May 10th, 2012

音楽からひとの何が分かるか(実は何も分かりゃあしないことについて)
反精神論の音楽論 あるいは、非・霊的音楽論
「即興」さえも相対化するという視点
音楽と絵画に見出される根本的な相違:同列に論じられない部分についての考察
作曲作品は誰のもの? 武満作品は誰のもの?
音楽は《内容》を持つか?
あるのはブラックサバスである
希望骨・灰 “異論”──あるいは、『Front Page News』礼賛
オルフ《カルミナ・ブラーナ》に見られる音楽の達成した秘教的結実
マーラー「幸福は破局の淵で栄えること」について

田中宇の《米国の「アジア重視」なぜ今?》を読む

December 6th, 2011

中国対米国という二大国の「対立」は、周辺国が大国の影響力を恐れるあまり、大国双方に都合の良い支配構造を自発的に提供する。それによってこれら大国が結局小国支配を巧くやり遂げるという意味では、かつての米ソ冷戦構造とも非常によく似ている。世界を二分するかに見えるいわゆる「冷戦構造」は、結局、米ソという大国にとって世界支配を容易にした。彼らが表面で険悪に対立しているかに見えるほど、周辺の衛星国は、「寄らば大樹」の傾向を強め、結果的に周辺国を従わせやすくする。

日本ではソ連などの社会主義国のアジアにおける覇権伸張を恐れて米国の国内駐留を歓迎したが、これはベルリンの壁崩後の世界においても継続した。「仮想の米中対立」、特に中国のアジアにおける勢力拡大という「そこにある危機」によって、日本を含む軍事的な弱小国家は米国への依存を余儀なくさせ、結局、TPPなどを通して米国の思うような支配構造の維持を助ける。つまり、中国は自国のアジアにおける影響力を堅持のためには、米国の覇権維持に協力するし、そのためにはアジアにおける脅威を演出し続ける。それによって米国の凋落を少しでも遅らせることができれば、自分たちのアジアにおける影響力のみならず、顧客としての米国の健全さを維持することができる。そもそも米国債を大量に買わされている中国は米国を簡単に凋落させることができない。

われわれは「何があっても」、米中が本気で対立しているなどと思ってはならない。中国は日本がアメリカに助けを求める程度には、南沙諸島などにおける国際間の緊張を高めることはやり続ける。そしてそれは米中両国の利益にかなったことだから終わらない。

以上のような観点からも、田中宇の《米国の「アジア重視」なぜ今?》における分析は相当信頼できるものと思われる。彼は米中の演出された対立を通して維持する世界覇権というコンテクストの中でTPPを説明する。彼の洞察によれば、やはりTPPは米国以外の諸国にとっては国を衰えさせるものと映っていることが分かる。

コラム終盤の…

アジア諸国は経済的に中国への依存を強め続ける。米国が今、アジアでとっている戦略 は、中国の優勢を強めるものだ。アジア諸国が弱体化した米国を見限るころには、アジア諸国は経済システムをTPPなどによってぼろぼろにされて弱くなり、 今より強くなる中国に従属せざるを得なくなっていく。米国のアジア重視策は「中国を封じ込めるふりをして、中国を強化する」「アジア諸国との同盟を重視すると言いつつ、アジア諸国を中国の方に押しやる」(略)。

また

米政府は「アジアから出て行かないから、アジアが駐留費を出せ。しかもTPPや米韓FTAに入って、米企業が儲かる国家システムに変えてくれ」と言っている。米国は悪くない。日本などアジア諸国の対米依存心が、米国に狡猾な戦略をとらせている。

というのはわれわれを目覚めさせるかもしれない観察を含んでいる。

敵味方の色分けで利するのは真の《最大の敵》であること

November 15th, 2011

敵は、Divide and rule(分裂させて支配せよ)と云う帝国ローマの時代から実践されている戦略でわれわれを支配している。

考えてもみよ。一体自分の意見総てに賛同してくれる人間がどれだけ世の中にいようか? ひとつの重要な哲学を共有すれば、どんな争点に関しても賛同できるはずだというのは理屈の上でだけの話だ。

世の中には実に多くの議論があり態度を決めなければならない案件がある。その総てに関して賛同できる人としか共闘できないなどと云う方針を立てたら、われわれは本当に全員が孤立するしかない。

今議論を賑わしていることは原発とTPPだが、それ以外にも重要な争点というものはたくさん存在する。例えば妊娠中絶をどう考えるべきか、から始まって、外国人参政権をどうするか、外国人の捺印問題は、などと様々な政治的判断を要する課題がある(あった)。数えきれない問題があり、議論がある。そこで、それら総てに賛同できる人としか運動協力できないということでは、「今そこにいる最大の敵」とは闘えないだろう。

他者を敵と味方にだけ色分けして分類しても、総ての議論に賛同する人間を見つけることは事実上不可能だ。したがっていざある特定の争点で勝とうとしても、敵に分類される人の数が圧倒的に多過ぎて、その時は十分な友軍を得られない。われわれはここで十分に聡くあらねばならず、絵に描いた理想ではなくて現実的な勝利を目指さなければならない。

「原発に関しては賛成だがTPPに関しては反対」という立場があって(現にある)も、あるいはその逆があっても、残念だが仕方が無い。

だが例えば脱原発に勝利し、TPP反対も実現しなければならない時、そのどちらについても最も説得力のある論理を敵味方の関係なく採用しなければ、われわれにとって最大の目的である両方の理想の実現は望めない。

ある争点で勝つためには、垣根を取り払って、不動の論理と最強の説得力とを持つ人間の、その《言葉》を虚心坦懐に採用しなければならない。それが「誰が言っているのではなく、何を言っているのかを聞かねばならない」と言っている理由なのだ。理念はそれを語る人格以上に尊いのだが、凡人には敵味方を色分けすることばかりに夢中で、どうやって真の解を見出し、また議論に勝利するかを考えられない。

つまりAという案件では敵だがBという案件では共闘しようという太っ腹の寛容がなければならないのだ。その寛容にこそ、敵と見做されている人間を実は味方の論陣に引き入れられるかもしれない唯一の契機が潜んでいる。だがそのことに気付く者は、驚く程少ない。

もう一度言おう。他者に艦砲射撃のような遠距離からの言葉による攻撃をして、事実上の敵の拵えることではなく、敵こそ身近に引き入れ、敵の考えやアジェンダを知り、必要に応じて利用し、味方であると思わせる程の許容量を身に付ける必要がある。そして、気付いたら「敵」が本当の味方になっている可能性も在るのだ。だからわれわれは敵味方の分類を忘れ、真に聡くあらねばならない。

TPP議論を馬鹿馬鹿しいと一蹴した貴殿へ

November 11th, 2011

TPP参加不参加の議論を「馬鹿馬鹿しい」(=どうすれば良いのか分かりきっているだろ)と一蹴できる方は、私の知り合いの中で唯一無二だったので、興味を抱き、コメントさせていただきます。おそらく不快に思われるようなことも書きますが、我慢して読んでいただけると誠に幸甚です。

まあ、あと、意見を同じくする人同士で集まって「反対だ、賛成だ」と息巻いてもあまり生産的ではないので、意見を異にする人の意見こそ聞いてみたいなと考えました。

私の近況をご覧になったことがあれば(1500人以上の友達がいらっしゃるのでお気づきにならないかもしれませんが)、お分かりになると思いますが、私の立場は明確で、TPP参加は断じて反対です。

まず、貴殿のコメントからはTPPという経済協定への参加不参加の問題が農業問題(つまり日本の農業を守るべきかどうか)であると認識されているらしいことが伺えるのですが、その認識で正しいですか? 当方、TPPの問題を農業問題とするのは、この問題を矮小化する認識だと考えます。もちろん農業も議論の重要なターゲットのひとつにはなるでしょうが。

次に「グローバル化に取り残される」とありますが、グローバル化というのが善であるという前提を感じるのですが、グローバル化というのは結構なことなのでしょうか? 私には巨大資本を持った大国の「既得権益者」(= アメリカの巨大資本)が、その所属する国家の軍事力等を背景に、マーケットを求めて経済基盤の弱い(あるいは、外交や防衛の弱い)国に進出しやすくし、他国市場でも優位に立ち、その国の富を奪うことをだと認識していますが、そういう視点はございますか? 世界中に現在巻き起こっている「反グローバル運動」というのを、単に「既得権益者」のジタバタしている醜い反動でしかないと、ご覧になっているということでしょうか? 私には「グローバル化」などという聞こえの良い言い方で押し進められるのは「盲目的な米国化」でしかないという認識です。米国流が善であるというご認識であるのであれば、仕方がありません。でももしそうなら、今のアメリカ社会で起こっているさまざまな歪みや不公正にもう少し関心を抱くと宜しいでしょう。

次に、「アメリカ以外の国は日本よりも経済力が低いのだから」とありますが、この記述は看過できません。ここにこそ貴殿の本音が見えるのですが、これはつまり「強い者は弱い者から奪い取るものだ、強いアメリカからは奪い取られるが、弱いところからは奪い捕れ」と言っているようにも聞こえるのですが、そういう弱肉強食が世界の現実であるという「世界観」なのでしょうか?(まあそうだとすれば、奪い取られるということがどういう意味なのかをより深く知るのは人生にとって有益なことだと思います) それとも、今度の経済協定をWin-Winの関係を築くチャンスと本気でお考えですか(弱小国に対しては主導権を握る、と言っている限りそうは思えませんが)。

最後に、「既得権益者」を、漠然と古い価値観にしがみついたり、制度によって守られている旧弊で後ろ向きな受益者とお考えのようですが、他ならぬわれわれが例外なくさまざまな制度や「既得権益」に守られていることをご存知ですか? 例えば、国民皆保険制度、安心して食べられる食品、仕事や住む場所を選ぶ権利(日本に生まれたという事実こそ貴殿の努力で得たのではない既得権益ですね)、年金、いやいや、すべてのすでに得た所有物は「既得権益」ですよ。既得権益は自分の関係なさそうにみえる他人様だけが持っているのではなくて、自分も持っている。それを個人が所有してはならない、すべて撤廃と言うなら、すべての財産の国家による所有、つまり共産化しかないです。そうすれば、撤廃を声高に主張する方々の夢は叶いましょう。(☜ もちろん、これは私の本音ではなく逆説として申しております。)

あ、そうそう、当方の言いたいことはこの方も代弁しておりますし、ほとんど付け加えることもないほどよく書かれていますので、反対意見というものが、どういう価値観や哲学から生まれてくるのかをお知りになりたいのであれば、参考になります。お勧めです。
http://blog.tatsuru.com/2011/10/25_1624.php

当方、TPP賛成の方がどういう意見や資料を参考にしているのか是非知りたいので、教えていただけると助かります。

PS. あと、アメリカと中国の間に立ってキャスティグボードを握っているという意見がありましたが、TPPに中国はまったく関係なく、蚊帳の外に置かれているので、その意味は不明ですね。

《もんじゅ連》についてのお知らせ

October 28th, 2011
《もんじゅ連》について、バンマスのenteeより、皆様にアナウンスメントがあります。2000年から11年に渡って活動して来たメンバー不動のアクースティック即興とリオでしたが、諸事情により11月19日(土)の記念すべき「第50回」となるこのライヴをもって、無期限休止に入ります。何度も足を運んで下さった皆様方へ、これまでのサポートについて御礼申し上げますと共に、この最後となるライヴの立ち会いに奮ってご参加いただきたく、お願い申し上げます。

あえて、「解散」とは申しませんが、次回どのような形でこの三人が共演するかは全く未定です。このチャンスをお聴き逃しなく。ぜひ!

この50回目のライヴが皆様のご記憶に残るようなものにすべく、「三人寄ればもんじゅ連」の底力で、熱く音楽したいと思います。

もんじゅ連 [Vol. 50]
場所:高円寺グッドマン
http://koenjigoodman.web.fc2.com/
開演:20:00 start
メンバー:
entee: piano, double reeds
池上秀夫: contrabass
渡辺昭司: drums and percussions
料金:¥1600(one drink 込み)

マーラー「幸福は破局の淵で栄えること」について

September 29th, 2011

マーラーがオペラを書かなかった理由。音楽の進行に沿った当たり前な内容の通時的体験、つまり、「この後どうなるのか」ということについて、オーディエンスの不安と期待を掻き立てる類のドラマを描く事にマーラーは興味がなく、例えば、ミケランジェロの壮大な天井画のように、始まりも終わりもない、爆発的に、言わば「共時的」にしか大悟しえぬイベント、換言して、過去も未来も現在もすべてが同時に起こるという内容に関する、(止むを得ず行なう)時間軸上の展開しか可能でない凝縮された《一瞬》の通時的な顕現を試みる。つまりマーラーの音楽は、不当にもよく指摘されるところのその「長さ」にも関わらず、《時間に属さぬもの》を描こうとする労作なのである。

Michaelangelo

解りやすい例を挙げるなら、交響曲第5番の四楽章、有名なアダージェットや「リュッケルトの詩による歌」などを思い出せばよい。音楽は確かに演劇のように時間軸に沿って流れて行くにもかかわらず、音楽が見せているものは愛の悲しみを深く湛えた澄んだ湖のような静止画的な画像であり、クライマックスがあるにも関わらず、それもあらかじめ「織り込まれ済み」の運命の様なものとして立ち現れる。それは、このような分かりやすい例でなくとも、彼の全交響曲作品にも歌曲にも一貫して観察できる性質なのである。それは《大地の歌》の終楽章『告別』のような、ややドラマ仕立ての作品においてさえ、同様なのである。彼の「ドラマ」は進んでいかず、常に、ある場面を写真で捉え、それの起きたらしい時間的前後の要素さえも、コラージュ的に同画面内に収めたような静止画なのである。

この点では「マーラーにあって幸福は破局の淵で栄える」という正にアドルノの指摘したその大方針通りである。彼のどの作品も、まさに崖っぷちから落ちようとしている寸前の幸福をカメラが捕らえたかのように「聞こえる」。これは音楽の持っている宿命的な通時性に対する抵抗であり、今さら芝居がかった語り物であるオペラなど書きたくなかった理由に違いない。マーラーの音楽は、それがどんなに大袈裟な身振りを持っていても、作り物ではなく、音楽を通してわれわれの住む世界に関する「本当の事」を伝えることに傾注しているのである。

(これがおそらくアドルノが別のところでマーラー作品を「絶対オペラ: opera assoluta」と呼んでいることにも通じていくはずなのである。)

ドメイン削除事故の顛末

August 17th, 2011

今回の「クラウド(当ブログ)」をボタンひとつで消してしまった「事故」について書く。 その様に意識していなかったが、結局自分のブログをまさに原稿専用の「いつでも何処からでもアクセス可能なクラウド」の様な扱いにしていたのが大きな仇となった。

ローカルには下書きから起こして様々なバージョンの原稿が存在しているが、本物の最終原稿はすでにリモートの中だ。何故なら最終に近くなるとブラウザ上で通し読みをするし、何か問題を見付けたら管理画面上で修整してしまう(誰でもやっている事だと思うが)。こうしたリモートにしか最終版がないなんていう状態は、案外何処にでもある現象なのではないだろうか。

今回起きたドメイン自体の消去、などというあるまじき事故は、完全にヒューマンエラーで起きた。誰も責められない。何故この様な事が起きたかと言えば、数日前に数年来会っていなかった友人から「メールを送ったが届いていないか」と訊ねられたのがきっかけだった。いつものアドレスに届いていなかったので、に旧いメールアドレスがまだ生きたままなのではないかと考えて、久し振りにブラウザメールで心当たりのあるアドレスのページに行ってみた。すると、やはり存在していた。どういう判断でそうしたのか思い出せないが、新しいアドレスを作ってそれをアナウンスした後も残していた様だ。或いは何らかの理由で一時的に復活させたのか…

直ぐにドメイン管理画面に行き、「不要なメールアドレスの削除」のアクションをとろうとしたが、ドメイン名がこの旧いメールアドレスと酷似していたため、ブログ専用に確保していたドメイン自体を管理ページにて確信を込めて《削除》したのだった。

しかもその自分の行為の誤りに気付く事なくしばらくはメールアカウントを削除しただけだと思っていた。気づいた時は自分のやった行為が信じられず、心拍数は上がり冷や汗が出て、暫くの間、放心してしまった。しかもこのエラーが後戻りできない決定的なものだということも同時に理解していた。

あるのはあちこちのリモートやフラッシュメモリーなどに下書きとしてバラバラに書き散らしたデータだけだ。これからやる事は一年と四ヶ月書き溜めた原稿の地道な復旧なのである。「一度無くなったものは諦めるのも選択肢」のように言うひとのいるが、それを受け入れるのは到底無理だ。自己の重要性を課題に評価している部分もあろうが、書いたものは自分の子供のようなものだからだ。

いずれにしても、リモート上に最終原稿が存在しているというこの常態になりつつあるトレンドというのは、ハードディスクを初期化するよりも簡単に、自分の設定ページで2、3のボタン操作だけで「雲散霧消させる」ことが可能なほど、危ういものなのである。まさに「クラウド」なのである。

自分の教訓が今後クラウド化して行く世の中で参考になればと願う。やはりローカルとリモートの間の徹底した同期という基本を押える以外にないのだろうが、自分の判断を信じて行うエラー自体をある程度の確率で避けられない事態があるという現実を見据える必要もある。

【お知らせ】entee memo II データが事故により喪失

August 16th, 2011

《entee memo II》のタイトルで1年4ヶ月にわたり運営していたblogが思いがけない重大な事故により、一度すべてのデータが失われました。結果として、entee memo IIにて2010年4月以降に書かれた皆様のコメントを含む1年4ヶ月分の記事のデータが喪失しました。

回復には時間が掛かり、また回復したとしても完全な復旧は不可能と思われます。大変残念なことです。コメントを残して下さった方には本当に申し訳ございません。一刻も早い復旧に奮闘中であります。

なお、2010年4月以前に書かれた記事は、すべてentee memo (original)にても読むことができます。

▲本日21:30現在で 2010年4月以前に書かれた記事は、本blogにて復旧できましたが、それ以降の内容につきましてはまだほぼ手つかずの状態です。徐々に時間を見つけて復旧を行って参ります。

▲8/17正午現在で、GoogleおよびYahoo!の検索サーバー上に残っている《キャッシュ》が、ここ1年以上にわたって投稿した記事のほとんどをバックアップしているという事実を知りました。原稿の題名さえ分かれば、ほとんどどんな無くなった過去記事でも回収できることが判明し、それをすぐに実行に移しました。但し、皆様のメントにつきましては、 すべての復旧は難しいものと思われます。再投稿など、もしご協力頂ければ幸いです。

ツイートの転載開始

August 10th, 2011

Twitterは常に何かを叫び続ける持続力を持つ利用者が「継続的に世間の水面上に浮かんで居られる」という類の、積極アピール型の人間に美味しい機能を供給するものだ。勿論、叫び続けるためには、トピックも方法など慎重に選んでいられないという状況にも陥りやすい事は、誰にでも容易に想像がつくであろう。

このことについては何度か言及しているが、Twitterをはじめとしてこの頃のネットツールが時系列を基本的な設定としていることは筆者にとってあまり嬉しくない。Time Line (TL) などと呼ぶ機能があるが、「お気に入り」だって何だって実は全てタイムライン(時系列)上に並べられている。

実際問題として、どのようなblogにも似たところがあるが、最新の記事が無条件的にトップに現れる。だが実は一番新しいものが一番大事なものとは限らず、大事な記事ほど深い地層に埋れている可能生だってある。自分の場合は止むに止まれぬ事情があってブログを始めたが、その理由を強く感じていた立ち上げ当初にこそ重要な記事が集中しているということが大なり小なりある。

他人のツイートのタイムラインを下の奥深くまで潜って行って熟読するなんて人がどれだけいるかを想像してみても分かるが、特にこの「つぶやかせる」新しいコミュニケーションツールは、新しい発言ではなくより重要な記事に気付かせるという意味ではまったくお粗末としか言いようの無い代物だ。加えて、上から下に向って古くなって行く記事の配列は、どこまで遡って読み始めればいいのかの判断も難しく、ピンポイント的にある時間に遡ることもできないので、通時的に読み進もうと考える読者にとって、ストレスの多いものだ。もちろん、このツイッターにはそれに相応しい役割も使い方もあることを否定する気はないが、検索可能性についてもツイッターはあまり機能的なデザインが成されているとは言い難い。

それで、これまでにツイートした中で、読み手の皆さんがそう思う以上に実はこだわりがあったテクストを抜き出して改めてこのentee memoに転載することを昨日から始めている。

筆者がツイートを始めたのは、今年(2011年)の3/11以降だから、ここ4ヶ月あまりに書き、いくつかのツイートに分割してアップした比較的まとまった長さの文章を、若干の推敲を含めてここに転載することにする。それでもそれなりの数があるので、転載作業には数日掛かると思われる。

マイノリティ《左利き》を巡る断章

August 4th, 2011

偏見や差別というキーワードとの出会いで、自分にも思い当たることがあると感じて急いで備忘録とする。

いまとなっては左利きであることはさまざまな点で有利だとさえ思っているが、幼少の頃までは相当の偏見や不便に苦しめられた。父の田舎に帰れば、親戚に「どうして左を使うのか」としつこく難詰されたし、ご親切に「左手は不浄の手だ」と教えを垂れるおとなまでいた。学校では左でボールを投げれば、「おまえ、ギッチョか!」と、まるでハンディキャップの人間に期せずして出くわしたかのように、ぎょっとした調子で教師に指摘された。学校には手に合う左利き用のグローブが少なかったのが実に不利だったし、家庭科の授業で使った裁縫鋏は、手になじまず力を込めて使うと痛かった。まだ左利きに対する意識が低かったその時代、そのあたりの文房具屋ではついぞ左利き用の小刀に出会わなかった。

「ギッチョ」という言葉はいまでは少なくなったが、それでもそれを差別用語だと意識さえしないで本人に向って投げつける人がたまにいる。それを言う本人には「左利きです!」と訂正するが、その意図を理解しない人が殆どだ。つまり歴史的に偏見を含んだこの言葉を、無知とは言え、そうと知らずに使っているし、左利きの本人たちに投げつけて平気だ。チビとかビッコとかメクラとかを本人に向って使わない人でも、こと「ギッチョ」に関しては存外無関心・無知な人が多い。

「ギッチョ」という言葉は当方の考えでは、おそらく「不器用」(ぶきっちょ/ぶぎっちょ)あたりから来た語彙だ。右利きの人から見ると左手で何か作業をやっている人を見ると、ぎこちなく「不器用に見える」からそのように言い倣わされたのだと想像している。実際、右利き用に作られた道具を左で使うのだから不利なのがそもそもの前提だし、ぎこちなくなるのが実際なのかもしれない。だが使う本人たちがそう感じている以上に、見た目が「不自然」だから不器用に「見える」だけだというのが、右利きの人たちには分からないのだ。どうしてそういうことが言えるのかというと、左利きである自分自身、筆記だけを右手に矯正したので、文字だけに関しては、左手で書いている人が「ぎこちなく」見えるのだ。だから文字については大勢の右利きの人と同じ感覚で見ているのだ。

ギッチョは「利き手」とか「器用」という意味だという主張があるようだが、「左ギッチョ」とは言っても、その逆の「右ギッチョ」という言葉は存在せず、「ギッチョ」が単なる「利き手」や「器用」という意味でないことは明らかだ。それはその言葉を投げつけられた人だけが感じることのできるものだ。

ウィキペディアの「左利き」の項中の「左利きの不便」というチャプターを見ると、左利きである自分でも意識してこなかったような不便と危険の長いリストを見出す。これだけの不便を強いられて来たのかと知って改めて愕然とする。(逆に言えば、随分右利きの人たちは自分たちを甘やかしているんだな、と思う。)

単に不便であるというだけでなく、左利きは右利きの社会において多くの危険に曝されている。(実際に事故で死ぬ確率は高いという統計もある。)この意味では「ユニヴァーサルデザイン」あるいは「アクセスビリティ」などが盛んに言われているが、左利きの人々にとっての真の《アクセシビリティ》は、この圧倒的なマジョリティである右利きによって支配されている社会において、まだまだ改善していない。誰も声高に言わないから、そもそも問題として認識されていない。マイノリティである左利きの人々が立ち上がって、運動を起こさなければいけないのかもしれない。右利きと左利きに対して、その発生する割合に応じた社会整備を行うのを義務付けるとかできないのか、とも思う。左利きはどんな社会にも10%前後存在するというのだから、その割合に応じた道具や社会整備をすれば、本当の意味でユニヴァーサルデザインになるだろう。僅か10%でいいのだ。世の中の設備の半分をそうせよと言っているのではない。こんなことを、特に改札口を通過するたびに思う。

文字も逆に書かれた鏡文字を正規の文字として認めろ、とか主張したりしてね。

ところで、文字だけ右手利きに矯正した自分が、左手で鏡文字を書くと分かるが、筆跡は右手で書いたものと全く同じで、筆跡は手に存在しているのではなくて、脳内に存在することがよくわかる。

女性はマイノリティと言われることがあるが、生まれてくる確率からすると男女は五分五分だから、数の上で女性はマイノリティ(少数派)の存在ではないが、左利きはどこの社会でも10%前後と言えば、真性のマイノリティなのだ。

でも、親切な右利きの親たちは、右利き社会において苦労させてたくないから、右利きにしてあげようとする。左利きとして生まれてくる本人たちにとて、それがどんなに迷惑なことなのかも知らずに、自分たちが左利きに矯正されたらどんな苦労をするのかということについていかなる想像力も使わない。

その問題は認識されているが、そんなに危険なら「右利きになればいいじゃない」というかもしれないが、「いやいやそういうあんたが左利きになればいい」という主張は、右利きの彼らには想定できない。

ピアノを弾くと分かるが低音域を分担する左手は、メロディーを主に分担する高音域の右手と違って、「伴奏」や「通奏低音」の役割を果たすことが多い。特に古典期以降は。だが、バロック以前に遡ると、鍵盤楽曲において、右手と左手は、比較的同じ比重を持たされていて、時にはともに同じメロディーを弾くことがある。特にフーガになっているとそうだ。自分がバッハを弾くのをあまり苦に感じなかったどころか、喜びに通じたのは左利きだったからかもしれない。いつも左手の伴奏がうるさいと両親から指摘されていたのは、バッハとの出会いで終わった。