宗教学者と宗教家(信仰者)の対話 #01

あるいは

「宗教と信仰に関する交差しがたい平行的関係について」

●:宗教学者/宗教史家

○:信仰者/宗教家

●どのような結果をもたらすものであるにせよ、宗教を正面から捉え、その重要性をわれわれほどに認識しているグループもあるまい。宗教について語らせるなら信仰者による特定の宗教や教団の弁護やの勧誘の言葉ではなく、われわれ宗教学者、宗教史家の言葉にこそ耳を傾けるべきである。

○「宗教の中身」とは、信仰そのもの、そして信仰生活のなかにある。したがって、あなたがた宗教学者たちが宗教を扱うようにそれを「研究」することによっては、その内実を明らかにすることは一向にできないだろう。問題は、そこに信仰があるかどうかなのだ。信仰が宗教的問題のすべてなのだ。「重要なのは信仰なのだ」。

●なるほど。いかにも信仰者が言いそうな予想通りの言葉だ。信仰がわれわれの扱う範囲を超えているのは確かかもしれない。然様、われわれは対象化できるものを研究の主題としているのであって、当面はあなたがたの心の問題や内的体験にまで立ち入る気はない。人間社会における宗教というものの占める領域、社会的影響力、すなわち知覚可能な世界における宗教の果たしてきた役割やその影響を調べ、それを言語化するのがわれわれの第一義の仕事なのだから。


○信仰があなたがたの扱う範囲を超えているということを分かって頂いているのは意外なことだ。その「研究」とやらで宗教の全てを解き明かせるものと考えているのかと思ったからだ。

そう。「宗教」としてあなたがたが対象化している部分は、宗教の外見についてだけである。それは宗教の本質でも宗教体験の本質でもない。何度も言うが、本質は信仰そのものなのだ。

●本質論については、われわれの行なっていることについても同様のことが言えるだろう。外面を扱うにせよ、世界に対する影響を調べることが、本質から遠のくことであるとは断じて言えないからである。勘違いされては困るが、われわれは宗教という「事態」の表層だけを対象としているのではない。近代になって流行となった単なる宗教批判でもなければ、底の浅い比較文化論をしようというのでもない。(批判はその後の作業である。)われわれが行なっているのは、きわめて精緻で網羅的な宗教全般についての真面目な研究なのである。むしろわれわれが宗教の重要性を積極的に評価していることをあなたがたは忘れるべきではない。負の側面を見つめつつも、最終的には宗教の存在価値を認めているからこそ、われわれは宗教についてこれほどの熱心さで対象化し、真剣にそれを学問することを止めないのだ。むしろ「宗教を弁護できる立場にいる」のがわれわれだということをお忘れなく。

○ふむ。われわれ宗教者や信仰者は、あなたがた研究者の助けがなくとも、われわれの信仰の力で自分たちを護ること位はできるだろう。そればかりか、いずれわれわれの元に救済の問題で相談に来るかもしれない。そして近い将来、われわれがこれほどまでに重要であったことの理由が証される筈である。

●それについてはわれわれも興味を持って見守っているところだ。さて、あなたがたが先ほど「宗教の外面」と呼んだところのものは、宗教のもっている役割や性質のひとつである。そしてそれは世界と接して存在している以上、「外面性」が常に問題になるのだ。あなたがたが「外面」と呼びたがり、過小に評価している部分こそ、われわれにとっての宗教現象のきわめて大きな部分だからだ。宗教や宗派の対立、宗教戦争。こうした「外面」に属する宗教がらみの事態は、宗教に関するより一層の研究とより深い理解を通じて回避できる可能性がある。それは宗教に関して当事者であるあなたがた信仰者や宗教家よりも、われわれのような客観的立場の人間の方が正しく導くことができるかもしれないのだ。むろんそれがわれわれの到達しようという最終的な目的ではないとしても。

それに、われわれの行なう種類の研究によって捉えられない部分が「存在しない」などと不遜にも主張しようというのではない。

ただ、こう言っては何だが、信仰はどこまで行っても信仰である。それは人間の認識についての「飽くなき検討」からわれわれを免責し、われわれを甘やかす落とし穴でもある。そこには世界の現実について客観的に捉え、我が身を振り返り、人間が人間としてできることについての限界から目を反らさずに、厳しく自分たちの内奥を追及するという点で、欺瞞の滑り込む余地を残さない意味でも、重要なことだ。信仰が実体的な力を持つ「現実」を認めないほど、われわれの視野は狭窄していないのだ。

○そう。信仰が思考停止であり、われわれ自身を「客観的な事実の検討の義務」から免責するものだというあなたがたの主張は理解できないことではない。だが、いったいわれわれは世界の現実というものに、その世界のなかだけで直面し、すべてを解決できるほどの力を備えていると考えるべきなのだろうか? それこそが人間の人間の力の過信とは言えまいか? 地上を這い回るわれわれ人間が、知力の点でも無限の可能性を持っているなどと信じるべきなのだろうか? そうした人間の知性に対する過信こそが、人間の愚かさそのものではないのか? 「信仰を持たずにすべてを対象化して把握できるばかりか、人間の問題に対してすべて回答を用意できる」などと考える人間主義こそが、信仰を持つわれわれが最も危険性を感じる部分である。人生はそのような不毛な作業に費やされるほどに長いのだろうか? 

宗教の外側から事態を把握しようというあなたがたと、宗教体験を内側から追求しようというわれわれの、一体どちらの方が状況を見誤っているのだろうか?

●われわれはすべてを把握し理解することはできないだろう。しかし分かって頂きたいのは、そこまでわれわれもわれわれの学問というものを過信しているわけではない。だが、それについての研究は決して無駄なものではない。私たちが問題にしているのは、あなたがたの信仰生活そのものではないかもしれないが、そうした信仰という心の問題を除くあらゆるものが、あなたがたを含む世界をどこに導くのかということが無視できないほどに重要なのだ。つまり、世界における解決しがたく見える問題の多くが、その信仰というものを起源としている可能性が排除できないからだ。信仰が人を殺すとしたら一体宗教を通じての救済とは何なのであろう?

○いや。われわれの文明の抱える問題は、宗教や信仰にだけに起源が求められるものではない。そうした問題は、むしろ宗教のもたらしたものというよりは、人間そのものの限界に根ざすものだ。だが、残念ながら人間は人間そのものに宿命的な限界が備わっていることを正面切って見つめることができるほど賢明ではない。そこでそうした文明的な問題は、宗教に責任が転嫁されているだけなのだ。問題なのは宗教や信仰ではなく、人間そのものなのだ。

どこまで行ってもあなたがたの研究というのは、宗教の真の意味??恩寵と救済??に到達することを助けやしないだろう。何故なら、宗教に如何に肉薄したつもりでそれらに近づき比較研究したところで、宗教自体の内部、すなわち信仰そのものをあなたがたは体験しないので、それがどのようなものであるのかを結局は知るに至らないからだ。そして信仰を体験として保持しない限りは、宗教や信仰の真の意味の表層を擦るだけなのだ。したがってあなたがた研究者は、宗教を扱っているようで、実はそうではない。その学習を通じて得られるものはどこまで行っても宗教の本質的体験ではない。

●宗教の内実を言語化できるのは宗教以外のメタな何かだ。厳密には宗教そのものが宗教の問題を扱うことはできない。なぜならその宗教自体が問題なのだから。経済学の限界は経済学以外の何かによってしか明らかにできない。なぜなら経済学とは経済そのものを扱うものであって、それ自体の問題を扱う言語を持っていないのである。あるいは心理学にしても同様である。心理学の限界は心理学そのものによっては客観化できない。心理学の問題は心理学以外の学問(こう言ってよければ超心理学のようなもの)によってのみ明らかにされる。同様に、問題の主体である宗教が、宗教を対象化することはできない。われわれ局外者だからこそ、学問的に宗教というものの実存を解き明かすことができるのだ。実存とは、つねに外に立つ(existする)ことによってこそ、その中身を掴むことが出来ることの意だ。

○宗教家が宗教自体の問題を扱えないなどというのは、詭弁以外の何ものでもない。人間であるあなたが、人間であるという理由で、「人間の問題を扱えない」などと言うことはあるまい。われわれはわれわれ自身を対象化することができるのだ。そしてそれができるのが人間なのだ。そして宗教家なのだ。そして、20世紀の神学とは、まさにわれわれ自身の引き起してきた問題を扱うものでもある。宗教は宗教自体を反省することができるのだ。

(続く)

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