神の恩寵に与ることは原罪を背負うことと同義であることについて

Fall

罪の意識とは、そもそも論理的には関係性や条件性の中にしか存在しえないものだった。「○○をしなければならなかったのにしなかった」とか「すべきでないのに○○をしてしまった」というような、「罪が犯される」に先立って、すべき、せざるべき、という何らかの約束や契約などの条件がなければ、そもそも罪は成立しない筈のものである。これは、善や悪がそうであるのと同様で、あくまでも善は悪の存在を前提としなければ存在できないし、悪も善の存在を前提としなければ存在できないという二者の相互依存にも似たもので、罪と契約(約束)は、相互に切っても切り離せないペアなのである。約束のないところに罪はない。したがって、生まれながらにして罪を持っているとか、祖先から相続されてきた罪があるというような、条件を必要としない罪というものがあるかの説が信じられるには、一体どのような「前提」が必要になるのであろうか。


もちろんアダムとイヴがエデンの園で犯したと言われる「罪」にまで遡るというのは、キリスト教社会における常識であろうし、そうした聖書の記述にまで遡ることができるいう説明は、ひとつの修辞上の利便ではある。だがそうした伝統や教典の伝える罪の起源というような説明でわれわれが満足することは決してない。伝承されたものが何を象徴しているのかを諒解した上で、それが無条件なものであって、しかも事実無根のものに過ぎないと理解すべきであるのか、あるいは反対に、十分に条件的なものであって、論理的にも(倫理的にも)理解できる類のものであるのかを、この危機の時代にあるからこそ、改めて誠実に検討すべきなのである。

祖先の犯した罪によって、その子孫であるわれわれも罪を背負っているとする「罪科の相続」という考え方は、一見すると、すでに述べたように決して論理的な考えでもなければ合理的な考えでもない。(人はそもそも自分の成した約束に違うことをしたときのみ、罪を問われるべきであるから。)だが、アダムとイヴの堕罪のエピソード自体が象徴的価値を濃厚に持ったもので、解読可能なメッセージであると認識を新たにすれば、それを正しく理解することなしには、われわれの「罪」、いや無条件的に背負っているとされる「原罪」を理解することは、いつまで経ってもできないであろう。

ルドルフ・オットーの著作*においてきわめて直截的に断じられていることのひとつに、キリスト教の特殊性(ないしはヒンドゥー教との違い)はまさに「罪の意識」の存在にある、というものがあったが、その指摘をきわめて妥当なものとして受け入れた上で論じれば、「西洋の宗教」と化したキリスト教の信仰者、ないしはキリスト教文明による文化的洗礼を受けた周辺の人々が「罪の意識」をある程度当然のこととして持っていることは、「われわれが間違っているということ」について、きわめて強い印象づけがなされていると読むことができる。つまり人間が人間であるということ自体に、生得的な間違い(エラー)が存するのではないか、ということである。だが一体人間が生得的に何を「間違って」きたというのだろうか?

* 『インドの神と人』(人文書院) [原書名: Die Gnadenreligion des Indiens und des Christentum, OTTO, Rudolf]

現在人間の文明が着実に向かっていると考えられている行き先は、人類自身の文化的種としての絶滅である。あるいは滅亡とまでは言えないまでも、農業革命(定住革命)以来、着実に地球上の表面のあちこちで爆発的に増えつつあった種の、文明の「恩寵」によって初めて生存を許されることになった「余剰なほどの人口」が失われ、一気に革命以前の人口にまで引き戻されるという暗澹たる(だが十分に予測可能な)事態の発生である。こうした全地球規模的に起こる人類の大量死を伴う大事件が、とりわけ人類自身の採ったかつての選択によって引き起されるとすれば、それは人類自体が未来に対して罪を犯したことになる。これは、未来の人類(子孫)に対して、(自分たちの選択によって子孫を産むかぎり、)持たなければならない「住むに値する生活環境」の保障という責任を放棄しているという点で明らかな罪科なのである。そしてひとたび生まれた者が等しく生きる権利を持っているという人類共有の約束を前提とすれば、なおさら疑う余地のない罪なのである。したがって、未来に対する無責任とは、ほぼ無条件的に子孫に対する罪を成立させるのである。だがこれは単にわれわれの近視眼的な虫のような想像力がそこまでは遠く及ばないということで赦免されてきたのである。

そうした来るべき壊滅的破局を結末(結果)とせざるを得ないような文明という体系が、文化的人間の生存にとっての必要条件であるとしたら、それについての思惟・反省・回顧は、まさに古代の倫理学や宗教が扱ってきた筈のテーマにそっくりオーバーラップすることになる。換言して、今日を生きる大部分の人間の生存そのものが歴史のある時点で採られた「過ち」によって可能になったのだという洞察が、聖書における原罪の概念と重なってこなければならない。

だが、こうした古代の人類によって採られた誤選択としての文明化や啓蒙化は、のちに西洋の文化が基盤として採用することになる《キリスト教》によってもたらされたのか、過ちを受肉化させる《文明》を身に纏うことでしか生存することができないことに自覚的であった西欧(西ヨーロッパ)の精神がキリスト教を発見したのか、そのどちらが正しいのかを判断するには精密な研究が必要だろう。だがそのどちらが先であるにせよ、地上を人間にとって暮らしやすい環境へと改変し続けることによってしか安全に暮らすことができないと考えた人類が、環境改変の積み重ねの果てにやってくる最期的な事変が、自分たちの子孫の生存を危うくするという見通しを漠然とでも予感していたとすれば(予感するだけでなく、かつての悲劇的大量死を「伝承してきた」とすれば)、われわれの生活の積み重ねの果てにくる事態を十分に認識していたことになる。そればかりか、どうなるか分かっていて*それを繰り返してしまうことに対する先見的な予想は、「罪の意識: 原罪」という形で記憶され、語り継がれ、そして無意識に共有されたとしても不思議はない。

* 「悪いと分かってそれを行なえば、償えない罪を犯す」G. I. Gurdjieff という言葉が想起されよう。

人類の生存活動が、環境へのインパクトとなり、それがめぐりめぐって天に唾するが如く、自分たちに降りかかって来るという図式と、それについての認識は、彼らの祖先たちの犯した過ちについての記憶を早い時期に「罪の意識」として心の最も深いところに沈潜させた。こうした文明的行為という大規模の環境への関与は、経験や知識の獲得なしには成すことができない。したがって、「知識の実」を食するというエデンの園で行われた原初の人類による最初の行為が、「堕罪」であるとされるのは、人間は人間に対する罪を犯すことなくしては生存自体ができないという、いわば「子殺し」の宿命性*を暗示しているのである。それは確実に自身の産み育てた子孫を滅ぼすのだ。その点で理解することなしには、《原罪》という名で呼ばれるものが論理的にも存在する筈がないのである。

* そしてそれを予知した子供たちは、自分たちがすっかり殺されてしまう前に、遅かれ早かれ自分たちの親かもしれない「主人」に向かって欺きの矢で報いるのである。それが神話に伝えられたる「王殺し」のもう一つの動機である。それは王の持つ豊饒性の神通力が弱まってしまう前に若い王にすげ替えるという比喩に富んだ説明をさらにもう一歩進める理論なのである。

罪を購うという贖罪は、文明自体が自己壊滅によって被ることになる最大の被害を通して実現する。洗礼は断じてかつての人類(文明)が受けた水による洗礼と文明の更新、という事態を象徴的に(模式的に)繰り返す儀礼であるし、儀礼として残っているのはその記憶を忘れないためである。

したがって天にまします「父たる神」は、人間のもとに「一人子」としての文明(人の子)を遣わしたし、それを「贈る」ほどに「父」はわれわれ人類を愛されたのだ、という信仰には一定の正しさがある。しかるに、その「一人子」は、人類を超大スケールの網を用いて「救済」するのと同時に、それに対する代価、すなわち「水による洗礼」と「炎による世界の更新」という購い(あがない)をも引き換えとしてわれわれに賜る。キリストとはまさにそのような「合理的矛盾」そのものとして、われわれの前に現れたのだ。

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