ナンセンス!藤井まり子のコラム

藤井まり子のアップした『宮崎アニメ「ハウルの動く城」に込められた「原子の火を絶やすな!」という強いメッセージ』に反論。

これは、信じやすい人がぱっと飛びついて広がりそうなので、念のために釘指しておく。宮崎駿の映画『ハウルの動く城』におけるカルシファーが示すものは、別に「原子力の炎」に限らない。これは結論。少なくとも宮崎は『ハウル』に「原子力の炎を絶やすな」というメッセージを込めているはずがない。まったくのナンセンスである。それは『ナウシカ』を含む初期作品から続く、それらの根底に流れている内容を掬いとればあまりに自明なのである。

伝統的な象徴体系の中で、炎が核エネルギーを暗示しているかに読めるものがあるのは確かに事実で、そのようなことはこのentee memoも取り扱い、さまざまに論じてきたことだ。繰り返すことになるが、炎の象徴が文明を動かす「動力」の意味で登場するのは、至極理解可能なことだが、それが原子力でしかないと断ずるのはいかにも早計なのである。もちろん後述するように、原子力の炎を他の炎から区別するのは、まったく非論理的なことでもないのであるが、まず最初の前提として、藤井まり子のこの文章における宮崎を引き合いにする判断が間違っている。

そもそも、原子力に先立って、薪、石炭、石油、鯨油など、文明を支える炎にはさまざまな形態があり、そうして得た炎を「絶やさないようにする」というのは、古今東西どこでも見られる先人達の努力だった。加えて、「絶やさぬ炎」には、歴史や知恵を次世代に慎重に伝えて行くという抽象的な別側面もあり、まさにそれが伝統的な宗教の果たした役割でもある。

つまり文明そのものを維持する動力としての炎と、その炎が「副作用」としてわれわれに何をもたらしうるのかという知識の両方が、文明を運営・維持するための両輪だからだ。そして、今風にいえば、「リスク」と「リターン」という善と悪の両義性をまさに端的に表しうる点でも、炎の象徴というものはきわめて秀逸だ。それはプロメテウスが手に入れた炎のことを思い出すまでもなく、普遍的に見出され続けた火の抱く潜在性なのだ。その意味で、この《炎》というシニフィアン(象徴自体)に、鯨油で作ったロウソクから核エネルギーを炸裂させる原子爆弾まで、幅広い意味(シニフィエ)を見出すことは、実際可能だ。

だが問題は、核の炎が他の炎*とはまったく異なる由来を持つもので、それを完全に制御し、また不要な時に廃棄する技術をほぼわれわれが持ち得ないという点で、区別することに一定の意味があるにも関わらず、それに気付かぬ人が多いことだ。

* 薪から化石燃料まで、燃やされる燃料も、風力や水力といったエネルギーも、すべて太陽に由来を持つが、核の炎だけがそうではない。

Tags: , ,

One Response to “ナンセンス!藤井まり子のコラム”

  1. hiroyuki kawahara Says:

    はじめまして、hiroyuki kawaharaと申します。

    ここにどのような縁があって来れたのかわかりませんが、毎日死について考えていました。
    ブログの記事のほうで死についての内容を読んだときにここに来る運命であったのではないかと思っております。
    ブログの内容を拝見させていただきましたが引き出しがいろいろあるお方だと思い、修行僧のような厳しいお方ではないかと感じました。

    私に知識はありませんが、ここに辿り着くまで結社の方が私を支援してくれました。その時に思ったのですがこの世とはナンであったのかを悟った気がしました。ひょっとすると気が合うお話ができるかと、思い、コメントを残しました。見知らぬ者がいきなり現れ、無礼であるとは思いますが災難だと思って少しのお時間おつきあいいただけないでしょうか。

    それとこの記事に対しての感想ですが、反論すれば藤井まり子氏の術中にはまってしまうと感じました。おそらくこの題材は意図的に反論を獲る内容であり、購読する者をひっぱってくるように仕向けられた内容ではないかと思っています。記事を掲載しているサイトの名前もアゴラと命名してあり、アゴラについて検索したところ市場や広場を指す言葉であるとありましたので、引き合いに著名な宮崎氏を出すことにも思惑が感じとれます。我々の先祖は核爆弾で命を断たれました。いくら文明が発達したと云えども悪き核の力を借りてまで利便性を追求する現代人がおかしくなったと考えています。生命尊重より大切な心を日本人は失ったと感じます。

    長くなりましたが自己紹介として受け取っていただければと思います。

Leave a Reply

You must be logged in to post a comment.