Archive for the ‘Other people's blogs’ Category

TPP議論を馬鹿馬鹿しいと一蹴した貴殿へ

Friday, November 11th, 2011

TPP参加不参加の議論を「馬鹿馬鹿しい」(=どうすれば良いのか分かりきっているだろ)と一蹴できる方は、私の知り合いの中で唯一無二だったので、興味を抱き、コメントさせていただきます。おそらく不快に思われるようなことも書きますが、我慢して読んでいただけると誠に幸甚です。

まあ、あと、意見を同じくする人同士で集まって「反対だ、賛成だ」と息巻いてもあまり生産的ではないので、意見を異にする人の意見こそ聞いてみたいなと考えました。

私の近況をご覧になったことがあれば(1500人以上の友達がいらっしゃるのでお気づきにならないかもしれませんが)、お分かりになると思いますが、私の立場は明確で、TPP参加は断じて反対です。

まず、貴殿のコメントからはTPPという経済協定への参加不参加の問題が農業問題(つまり日本の農業を守るべきかどうか)であると認識されているらしいことが伺えるのですが、その認識で正しいですか? 当方、TPPの問題を農業問題とするのは、この問題を矮小化する認識だと考えます。もちろん農業も議論の重要なターゲットのひとつにはなるでしょうが。

次に「グローバル化に取り残される」とありますが、グローバル化というのが善であるという前提を感じるのですが、グローバル化というのは結構なことなのでしょうか? 私には巨大資本を持った大国の「既得権益者」(= アメリカの巨大資本)が、その所属する国家の軍事力等を背景に、マーケットを求めて経済基盤の弱い(あるいは、外交や防衛の弱い)国に進出しやすくし、他国市場でも優位に立ち、その国の富を奪うことをだと認識していますが、そういう視点はございますか? 世界中に現在巻き起こっている「反グローバル運動」というのを、単に「既得権益者」のジタバタしている醜い反動でしかないと、ご覧になっているということでしょうか? 私には「グローバル化」などという聞こえの良い言い方で押し進められるのは「盲目的な米国化」でしかないという認識です。米国流が善であるというご認識であるのであれば、仕方がありません。でももしそうなら、今のアメリカ社会で起こっているさまざまな歪みや不公正にもう少し関心を抱くと宜しいでしょう。

次に、「アメリカ以外の国は日本よりも経済力が低いのだから」とありますが、この記述は看過できません。ここにこそ貴殿の本音が見えるのですが、これはつまり「強い者は弱い者から奪い取るものだ、強いアメリカからは奪い取られるが、弱いところからは奪い捕れ」と言っているようにも聞こえるのですが、そういう弱肉強食が世界の現実であるという「世界観」なのでしょうか?(まあそうだとすれば、奪い取られるということがどういう意味なのかをより深く知るのは人生にとって有益なことだと思います) それとも、今度の経済協定をWin-Winの関係を築くチャンスと本気でお考えですか(弱小国に対しては主導権を握る、と言っている限りそうは思えませんが)。

最後に、「既得権益者」を、漠然と古い価値観にしがみついたり、制度によって守られている旧弊で後ろ向きな受益者とお考えのようですが、他ならぬわれわれが例外なくさまざまな制度や「既得権益」に守られていることをご存知ですか? 例えば、国民皆保険制度、安心して食べられる食品、仕事や住む場所を選ぶ権利(日本に生まれたという事実こそ貴殿の努力で得たのではない既得権益ですね)、年金、いやいや、すべてのすでに得た所有物は「既得権益」ですよ。既得権益は自分の関係なさそうにみえる他人様だけが持っているのではなくて、自分も持っている。それを個人が所有してはならない、すべて撤廃と言うなら、すべての財産の国家による所有、つまり共産化しかないです。そうすれば、撤廃を声高に主張する方々の夢は叶いましょう。(☜ もちろん、これは私の本音ではなく逆説として申しております。)

あ、そうそう、当方の言いたいことはこの方も代弁しておりますし、ほとんど付け加えることもないほどよく書かれていますので、反対意見というものが、どういう価値観や哲学から生まれてくるのかをお知りになりたいのであれば、参考になります。お勧めです。
http://blog.tatsuru.com/2011/10/25_1624.php

当方、TPP賛成の方がどういう意見や資料を参考にしているのか是非知りたいので、教えていただけると助かります。

PS. あと、アメリカと中国の間に立ってキャスティグボードを握っているという意見がありましたが、TPPに中国はまったく関係なく、蚊帳の外に置かれているので、その意味は不明ですね。

ボードゲーム《電力会社: Power Grid》の大きな穴

Friday, June 24th, 2011

ゲームを着想し、カタチにしたFriedemann Friese氏にまず敬意を。

作品を世に問うたパイオニア精神は評価されるべきだろう。持ち上げて突き落とすみたいだが、たとえそれがゲームであれ、世に問うた限りは批判も受け付けなければいけない。3週連続でワイワイ実際に遊んでみて感じたボードゲーム『電力会社: Power Grid』の《穴》について書こう。

まず、大大前提から。このゲームには「電気を売って、ガンガン儲けて、目指すは金持ち、電力長者」というコピーが付けられている。実際にはここまで単純ではないが、このゲームの本質を言い得ている。正確には「一番多くの街に電力供給できた」経営者がゲームの勝利者だが、ゲームの「上がり」が一番儲けた参加者であることに違いはない。これが実はすでに過去の価値パラダイムに属した経営理念だ。「一番社会貢献をした企業が勝ち」とか「一番環境インパクトの少ない商業的成功が勝ち」とかという設定だって良いはずなんだが、やはり「一番多く売り上げた」、つまり「儲けた者が勝ち」なのだ。

(この「資本主義的現実」は、「現実」として受け入れなければならないとしても、その資本主義の論理が、永久には持続できず(戦争などのリセット劇を挿入しない限りは)どこかで行き詰まるという点では、近い将来その徹底的な敗北が約束されている論理だ、とか何とか色々言えるのだが、論点が外れるのでこの点については深入りしない。)

いずれにしても、この価値観はメガトレンド的に逆行している。つまり「一番儲けたのが勝ち」なら、極論的には何をしても良い、どんな社会的無責任も関係ないということである。これはゲームの前提としては《穴》が大きすぎる。

例えば、資本主義的経済が現実であるのなら、「原子力発電のコストが一番安い」というのは、もはやまったく現実味がない。原子力発電を選んだら絶対に避けて通れない廃炉の問題。万が一(と言うか、現実に進行中なのだが)、事故が起きた場合の補償の問題。などなど、加味し始めたら安いなんてことはあり得ないことが、現実には分かっているが、それはおそらくゲームが想定している「安い原発」という抽象的な観念の中には入っていない*。

* ファクトとしても、例えば日本では1基たりとも成功裡に廃炉までこぎ着けた原発は存在しないし、仮に元あった場所から原発を跡形もなく無くしたとしても、廃炉に伴って大量に発生する高レベル放射性物質の最終廃棄処理をする場所さえも決まっていないし、それによって生じる(取り返しのつかない)作業者の被曝についても想定されていない。つまり捨て場のない猛毒のゴミが、処分地もないままどんどんできていくという、「トイレのないマンション」と揶揄されるに値する現実に対して、コストどころか、現実的な解決策さえも見えていない。つまり、お金では買えないファクターが介在しているのだ、この「原子力発電所の処分」という問題には。

原子力は火力発電に置き換わると夢見られたらしいが、実のところウランは極めて埋蔵量が少ない希少な燃料であり石炭や石油よりも早く枯渇する。一方、通常の原発から出てくるプルトニウムを使った高速増殖炉は、まだ商業的運用に成功した例自体がこの地球上に存在しない。(ちなみに、このゲームを紹介してくれた川田十夢さんが「プルトニウム」とTV Brosで書いていたのは、おそらくウランのこと。)唯一未だにその道を探っている日本の《もんじゅ》も、動かすことも廃炉にすることもできない非常に危険な状態で止まったままである。それをごまかすためにプルサーマルなる全くデタラメな使用法(要するに、使い道のないプルトニウムをちょっとだけウラン燃料に混ぜる)を行い、原発の危険性と毒性を上げている。つまり「安いプルトニウム」が、どんなに無尽蔵にあっても、それを利用する手段さえわれわれはまだ持たないのだ。つまり、そんな燃料を使うことを前提としているゲームとは一体なんなのか、ということだ。

そして、もうひとつの《穴》は、自分が拡張した供給ネットワークを維持するのに必要な電力量より、実際供給できる電力供給量が下回った場合、単に「儲けが少なくなる」ということだけでいい、とされていることだ。これはにわかには受け入れがたいルールだと感じる。供給量が需要を下回った場合、現実的には大停電が起きる。拡張した以上は、絶対に供給を持続するというルールにしないと緊張感もなく、ゲームとしてつまらないではないか。供給できなかったらその街は他のプレイヤーの手に落ちるとか、街の工場から訴えられるとか、銀行に抵当として取り上げられるとかのペナルティは無いのか? これが無いのだ。基本的にペナルティがないゲームなのだ、《電力会社》は。現実社会では沢山ペナルティがあって、それを避けるために企業は戦々兢々としながら企業経営を続けているのに。

最後に言及したいゲームの《穴》は、現実の世界(というか日本)では電力会社は自由競争に曝されていない点である。国内では1地域に付き1業者(ヨーロッパは知らないが、アメリカもそう)というルールの中で会社経営が成されており、東電も東北電力も中部電力も関電も、競争相手など、「いない」のだ。だから、「一番低コストの発電方法」を追求する動機そのものが存在しない。どんなに電力が高くても、この業者から供給を受けるしかないのだ、われわれは。現実世界では、このゲームの提供するような緊張がない。現実ではこのゲームのような健康的な競争原理そのものが働いていない。ことによると、このゲームから現実の方が学ぶべき唯一の点は、このことに尽きるのかもしれない。(おっとこれはゲームじゃなくて現実に対する批評になってた。)

それでもこのゲームはゲームとしてはそれなりに面白い。頭も使い、計算も必要。しかし逆に言うと、「計算だけのゲーム」とも言える。所持金、発電所代、燃料代、街の建設費、収入という5つの数字の加減だけでゲームできる。リスクや事故などがない。人生ゲームやモノポリーにだって沢山アクシデントがあったような気がする(病気や遅刻で1回休み、とか借金とか)。足し算と引き算という会計士みたいなセンス、そして競りでブラフを使うセンスがあればこのゲームに勝てる可能性は高い。

オークションという不確実要素はあるが、罰ゲームカードを引くとか、骰を振る、というような偶然によって自分の運が変わるというゲーム性がこのゲームには薄い。現実の人生は運・不運の類が渾然一体となって折り重なっている。つまり、ゲームを現実に近づけるもっと大きな要素とは、チャンス(偶然)やアクシデントの要素である。

現実社会では風の吹かない週があり、需給バランス以外で起こる原油価格の暴落や高騰(などの権力者による操作)がある。CO2を下げよという「議定書」からの圧力があり、また環境圧力団体からの脱原発運動があり、さまざまな原因による「事象」がある。こうしたことが、それぞれの発電システムにふさわしい形で襲いかかってくるのが現実だ。だから、このような「チャンス/アクシデント」カードのようなものがあれば、このゲームはもっと面白くなるだろう(すでに難しいゲームのルールが堪え難い複雑さを呈するだろうが)。

このゲームはこうしたチャンス(偶然)の要素が無くても十分に複雑である。マニュアルが手放せない難しさだ。それをさらに難しくする方向だとは分かっているが、ゲームをやりながらもっと複雑にしたい誘惑は抗しがたいものがある。

したがって、大きなリバイズとアップグレードを必要とする余地のある、発展途上のゲームであるという評価は、やはり甘んじて受けねばなるまい。そのためには、ゲーム制作者は「一番儲けた者が上がり」などという愚かしい前提の克服から、まず始めなければならないのだ。

最後にこれを紹介してくれた川田十夢さんに感謝。

この投稿は 2011年6月24日 金曜日 01:09 に Good/Bad Books Memo, Other people’s blogs, Politics! カテゴリーに公開されました。 この投稿へのコメントは RSS 2.0 フィードで購読することができます。 コメントを残すか、ご自分のサイトからトラックバックすることができます。
コメント / トラックバック1件

解釈の重層性は結果であって目的ではない

Tuesday, April 26th, 2011

Twitterに掲載されたエンデの引用より

芸術がひとつの完成したフォルムになったとき、それは単一の「正しい解釈」を生むものではなく、重層的な意味を持つものになるからです。それでいいのです。いや、そうでなければ困る。だって作者の方でも、創作に従事するとき一元的な意味を狙っているわけではないのですから。(ミヒャエル・エンデ)

筆者はエンデを尊敬していますし、多くの点で共感を持っておりますが、この言説は手放しで評価できません(ですます調になっているので、この文章もそれに合わせます)。《芸術がひとつの完成したフォルムになったとき、それは単一の「正しい解釈」を生むものではなく、重層的な意味を持つものになる…》ここまではいいです。次がいけません。「それでいい」はずもなく、また「一元的な意味を狙っているわけではない」というのも創作者として不誠実です。自分なりの言い方でもっと正確に言えば、こうです。

作者はどこまでも一元的な意味を追求し、それを表現すべきです。最初から重層的だと言う作者を私は信じません。たったひとつの、誰もに関わる普遍的に重大性を持った深刻な内容を象徴的に表現すると、それが如何に絶対的な確信を以てなされたとしても、それが受け手側に重層的に読めるというだけのことで、作品が重層性を持ってしまうのが現実であるということに過ぎません。しかも作者にさえ気がつかないようなレベルで重層性を持っているということに、後から気付かされるというのが正しいあり方です。

たったひとつの重要なものを伝える気概もなく、ただ受け手の数だけの意味がある、などと取れるような言説は、詐欺でしかありません。それはまた、受け手の洞察力や想像力をバカにした言い方です。

自分が緊急性を感じながら「あらゆる手立てを尽くして正否を明らかにしなければならないほどに例外的に重要な論件」を、なんらかの作品を通して表現する時に、それが重層的に解釈されて良い、などと思うはずがないのです。その重層性への許容というのが、このエンデのケースにもあるように、成功した表現者特有の余裕と寛容さを以て語られるのを聞くことがありますが、それはいかにも嘘っぽいと、われわれは即座に感知しなければなりません。実は創作意図は《ひとつ》であって、われわれが、われわれの理解のレベルに併せてさまざまに解釈しているに過ぎないということを、少なくとも受け取る側が思わなければならないはずです。

その上で、別の解釈が可能なことを面白がるというのは、態度としては正しいです。そして、ひとつの真実がある別の真実のありかたと似ていることに気付くのは無価値なことではありません。でも、それはひとつの真実に到達してこその言い分でなければならないのです。

繰り返しますが、「たったひとつのことを指し示している」というのが表現者の持つべき意図であり責任だというのが筆者の考え方です。反論や反発を覚悟の上で——論証にはなっていませんが表現する者の一人として——これを筆者は確信しています。

ナンセンス!藤井まり子のコラム

Thursday, April 21st, 2011

藤井まり子のアップした『宮崎アニメ「ハウルの動く城」に込められた「原子の火を絶やすな!」という強いメッセージ』に反論。

これは、信じやすい人がぱっと飛びついて広がりそうなので、念のために釘指しておく。宮崎駿の映画『ハウルの動く城』におけるカルシファーが示すものは、別に「原子力の炎」に限らない。これは結論。少なくとも宮崎は『ハウル』に「原子力の炎を絶やすな」というメッセージを込めているはずがない。まったくのナンセンスである。それは『ナウシカ』を含む初期作品から続く、それらの根底に流れている内容を掬いとればあまりに自明なのである。

伝統的な象徴体系の中で、炎が核エネルギーを暗示しているかに読めるものがあるのは確かに事実で、そのようなことはこのentee memoも取り扱い、さまざまに論じてきたことだ。繰り返すことになるが、炎の象徴が文明を動かす「動力」の意味で登場するのは、至極理解可能なことだが、それが原子力でしかないと断ずるのはいかにも早計なのである。もちろん後述するように、原子力の炎を他の炎から区別するのは、まったく非論理的なことでもないのであるが、まず最初の前提として、藤井まり子のこの文章における宮崎を引き合いにする判断が間違っている。

そもそも、原子力に先立って、薪、石炭、石油、鯨油など、文明を支える炎にはさまざまな形態があり、そうして得た炎を「絶やさないようにする」というのは、古今東西どこでも見られる先人達の努力だった。加えて、「絶やさぬ炎」には、歴史や知恵を次世代に慎重に伝えて行くという抽象的な別側面もあり、まさにそれが伝統的な宗教の果たした役割でもある。

つまり文明そのものを維持する動力としての炎と、その炎が「副作用」としてわれわれに何をもたらしうるのかという知識の両方が、文明を運営・維持するための両輪だからだ。そして、今風にいえば、「リスク」と「リターン」という善と悪の両義性をまさに端的に表しうる点でも、炎の象徴というものはきわめて秀逸だ。それはプロメテウスが手に入れた炎のことを思い出すまでもなく、普遍的に見出され続けた火の抱く潜在性なのだ。その意味で、この《炎》というシニフィアン(象徴自体)に、鯨油で作ったロウソクから核エネルギーを炸裂させる原子爆弾まで、幅広い意味(シニフィエ)を見出すことは、実際可能だ。

だが問題は、核の炎が他の炎*とはまったく異なる由来を持つもので、それを完全に制御し、また不要な時に廃棄する技術をほぼわれわれが持ち得ないという点で、区別することに一定の意味があるにも関わらず、それに気付かぬ人が多いことだ。

* 薪から化石燃料まで、燃やされる燃料も、風力や水力といったエネルギーも、すべて太陽に由来を持つが、核の炎だけがそうではない。

EconomicalはEcologicalだ(この際、断言)

Monday, December 15th, 2008

畏友いしかわはじめ氏のblog「エコロジカル・エコノミカル。」に刺激を受けて、書く。Linklogのtrackback機能が死んでいるのでこのようにリンクを貼る。言うまでもないことだが、彼の文章は心から楽しませてもらったし、その主張を一旦受け入れての話であるし、ましてやタメグチを叩ける間柄だからできる「問題提起」ってものに過ぎねー。したがって「反論でさえねえんだ」ということで、その辺りは外野の方々にはじゅうじゅう承知して頂きたいんである。前置きは以上。

「EconomicalをEcologicalと混同するな」という議論は、サービスを受ける側の論理としてならその問題圏設定はじゅーぶんに理解できる。したがってエコロジカルを装ってサービスそのものを劣化させるのはゴマカシだというその主張も大筋は共感できる。

だが、その問題圏を一旦取り除いて、自分がより良いサービスを受ける権利があるとかの考えを一旦忘れて考えると、「economicalは大体の場合においてecologicalだ」というのは認めても良さそうな気もするのダ。

そもそも大量生産・大量消費は大体においてecologicalではない。人間の生産活動そのものが「ecologyに非ざるもの」である以上、生産行為にコミットしない生き方というのが一番ecologicalである。人間全員が一斉に集団自殺すればいちばん「地球にやさしい」。それが極端なら、人間ぐうたら必要のない時はゴロゴロ寝て過ごし、必要な時だけシブシブ生産活動に従事する、というようなナマケモノの生き方を全体でするのが、おそらく2番目くらいに環境負荷が低い。サービスだって無駄に笑顔を作ったり「いらっしゃいませありがとうございます」などと連呼しない方が個人の消費するエネルギーは少なくて済むかもしれない。少なくて済めば食べるメシの量も減らせる。これはエコロジカルだ。

その延長で考えると、これから来る可能性の高い「長期的で深い景気停滞期」というのは、長い眼で見ると、「ここ百年で一番二酸化炭素排出量が少なかった時期であった」などという観測結果を招来させる場合もあり得る(ホントか?)。もちろん、そんな「長期的で深い景気停滞期」が、戦争のような極端な大量消費(資源消費)に結びつく可能性もあり、その場合は全く逆の結果になる可能性もあるケド。

いずれにしても現在進行しつつある金融危機というのは、小手先の処置だけでは同じことを繰り返すばかりのハナシで、生き方そのものを切り替えて、「スローに生きる」みたいなことも、十分に視野に入れなければならない問題を自分たちに突きつけているのだとも思える。つまり「お金はない。ならばお金を使わない生き方を」みたいな話だ。あるいは、せめて他人のグウタラな生き方やサービスに対する寛容を涵養するとか(シャレです)。

むろん、大量生産・大量消費という世の中を成り立たせる経済基盤そのものを変えずに、単に手を抜けるところだけ手を抜いて行く、という様なやり方をして行くと、公害が大発生した60-70年代の日本や、人口が優に13億を越えると言われる隣国で今進行しつつあるような「危ない世の中」になる可能性もある。今の経済的な基盤の上で、ecologicalを追求することが、「手を抜く」どころか「手をかける」ことであるのは、確かにもっと共有されてしかるべき常識だとは思うが、バイトスタッフに分かってもらうには、さらに一手間掛けなきゃならないのは確かだろうねえ。

「にほんブログ村」に今さら参加

Tuesday, March 11th, 2008

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 美術ブログ 美術鑑賞・評論へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 宗教へ

そりゃあ問題ですよ、樹さん(続編)

Friday, October 12th, 2007

昨日の日記で若干の“反響”があったので、

もう少し書いてみることにする。

====================================

「温暖化が進行すればより深刻な事態があるだろう」

というものと、

「温暖化が進行しても大して深刻な事態はないだろう」

という、“計量的にどちらも蓋然性がない”らしい2つの言説が存在するとき、いざその結果が出た時に、どちらの言説の方がわれわれの生存にとって有益だったことになるだろうか。このことは、われわれの想像力の問題である。

「ひょっとしたら被害があるかもしれない」と悪い事態の予想をして行動する方が、多くの場合「安全のためになる」とするのが、安全保障確保の基本である。われわれが危険を感じる時に、例えば、狭い路地の200メートル先でこちらに向かってくるクルマの挙動に何かおかしなものを感じる時、それをわれわれは「計量的な蓋然性」として認識するのだろうか? ひょっとすると何の問題がなくても、「おかしい」と感じた自分の第六感に従って行動する方が、その人が生存できる可能性は高い。「クルマの挙動はおかしいかもしれないけど計量的に証明できないからいいや」と考えて敢えて無視する人が、そのクルマにはねられる方が蓋然性 probability は高いのである。

気候が温暖になることと気候が寒冷になることを、気温の次元だけで比べて済ませるなら、私の見解も内田氏の見解とそう変わらない。温暖化それ自体(温度)が直接人を殺すことはなく、どちらかと言えば、寒冷自体の方が人を殺すだろうという点で危ないということは賛同できる。だが、それは気候を温度というパラメータだけで判断するという近視眼的な判断だと言いたいのである。気温の上昇がより多くの氷を海の中に落とすという誰にも分かる現象自体だけをとっても、「その影響が巡り巡って、それでも何もない」と断定することの方が、“計量的な蓋然性”がないだろう。(それにしても“計量的な蓋然性”というのは不思議な言葉だ。)

あと重要なのは、われわれはもはや「温暖化があるかどうか」というレベルの話をしているのではなくて、少なくともほとんどの観測データが「温暖化は(おそらく)進行しつつある」という結論に達している点である。内田氏も文章のタイトルが「地球温暖化で何か問題でも?」と言っているところから見ると、「温暖化がある」点については疑問視していないように思える。おそらく彼が言いたいのは、人為(二酸化炭素増加)と温暖化の間にあるとされる相関関係が、広く世間で言われているほどにはまだ証明されていないだろうという様なことだろう。それは分かる。だが、それは温暖化そのものの進行の否定ではない。「温暖化はある。だがその理由は分からない。」ということに尽きる。でもこれだけで話を終わらせるのは、余り生産的ではない。主張されるべきは、その先にあるだろう。太陽系の話をするのは、ひとをケムに巻くには充分だろうが、それで停止するのは樹さんらしくないではないか。

樹氏が「温暖化そのものが眉唾物だ」と言っているのであれば、議論の次元を変えざるを得ないだろう。だが、おそらく環境変動の原因について所々対立している学閥が存在していても、温暖化そのものを否定しているサイドがそう多くないのはほぼ認定できる。それは少なくともこの20年の間に目に見える環境の変化を捉え損なわない限り、共有できることである。

(「温暖化があるかどうか」という“レベルの話”は、今年の3月時点で温暖化議論の相対化を目指した「地球温暖化を巡って考えられること」でも取り上げた。)

したがって、われわれに残されているのは、その原因が何であるのかという(内田氏が言うようにおそらく容易に突き止められないだろう)問題と、(奇跡的に)原因が突き止められたところで、われわれにその進行とそれによって引き起される事態を阻止できるのかという問題があることになる。そして、「来るべき事態」がある程度予測可能(計量的に蓋然性がある)になったときに、それへ対策を開始したとして、原因が証明されてから行なって間に合うのかという点である。

黄昏を待って飛び立つミネルバの梟は、われわれを救わないのではないか?そう思えて来るときに、私は悲観的にならざるを得ない。

そりゃあ問題ですよ、樹さん

Wednesday, October 10th, 2007

いつもなら樹さんのブログにおけるコメントはなるほどと思うところが多いのだが、今回は素直に頷けない。申し訳ないが…

もちろん、アル・ゴア氏らが中心となってアジられている環境問題意識に便乗しようと言うのでもない。内田樹氏によれば、問題は温暖化ではなくて寒冷化だということで、温暖化における被害よりも寒冷化による被害の方が人類にとっては深刻さの度合いが大きいということである。

1年生のゼミで「地球温暖化」が取り上げられた。

地球温暖化を防ぐために、京都議定書の規定を守り、急ブレーキ、急発進を自制し、わりばしをやめてマイ箸を使いましょう・・・というような話を聴いているうちに既視感で目の前がくらくらしてきた。(中略) 地質学的なスケールで考えても、現在は「間氷期」である。地球は氷期と間氷期を交互に経験する。最後の氷期が終わったのが、約1万年前。黙っていても、いずれ次の氷期が訪れて、骨が凍えるほど地球は寒くなる。そのときには海岸線がはるか遠くに退き、陸の大部分は氷に覆われ、動植物種も激減するであろう。だから、私は温暖化には類的な立場からはそれほど怯えることもないのではないかと思っている。地球寒冷化よりずっとましだと思う。

(引用:「地球温暖化で何か問題でも?」@内田樹の研究室)

一面、それはそうなんだろうが、件の気温変動そのものがどうして起こるのか、そのメカニズムについては太陽を原因のひとつに挙げるだけで、人為の介在が温暖化、ひいては寒冷化を引き起す可能性についてまではあえて考えていないように見える。太陽そのものの生涯にまで言及し始めるが、それが何を導きたいのかはよく分からない(太陽そのものも不変ではなくて、いずれは滅びてしまうわけだから、そんなことを心配しても仕方がないというのだろうか? 地球環境の温暖化がそのようなレベルと同一に論じられるのだろうか?)。

このところ、自分にとって最もcredibleな環境変動論は、急速な温暖化(それが《何》を原因とするものであるにせよ)が、重篤な寒冷化の引き金になることを主張している。万が一にも温暖化の原因が人為によるものでなく、よりメガなスケール(たとえば太陽系規模)の要因があったとしても、人為が温暖化に拍車をかけることをして良いことにはなるまい。あるいは、少なくとも(何が原因であれ)温暖化が引き金になって起こるかもしれないことについて知っておいて心構えをつけておくことは無駄ではあるまい。

「The Coming Global Superstorm」の共著者の一人であるWhitley Strieber氏によれば、来るべき氷河期は急速な温暖化による極地方の氷山の大規模崩壊によって海に大量の氷が溶け出すことで海水が急速に冷却し、それによってドミノ式に「スーパーストーム」と呼ぶに相応しい文明のほとんどを死の縁に至らしめるような規模の激しい吹雪に地球の半球見舞われ、その際の雪や氷に覆われることによって、一気に地球は氷河期に突入するというシナリオを描いている。欧州の様な高緯度地域が現在のように、氷河に閉ざされていないのは、「メキシコ湾流」と呼ばれる暖流によるものだが、そのコースが変動することで欧州などはまた氷に閉ざされてしまうほどで、文明というものはそれほどに脆弱なのだ。映画『The Day After Tomorrow』は、その説に則って作られた超近未来SFだが、もっともあり得そうな暗黒の未来像だと思う。

だから、「怖いのは寒冷化で温暖化は問題にならない」とも読める内田樹氏の主張は、半分は正しく半分は正しくない可能性がある。まさにその「怖い寒冷化」が「大して怖くない温暖化」によってやってくる可能性について、われわれは意識を向けなければならないのだ。

(過去数万年における、氷河期と間氷期の交互の出現は、私の直感によれば、実はすべて地上に現れた「外ならぬ人類の登場」が引き金になって引き起されている、のである。これはまだ(おそらく)誰も言っていない新説である。)

ときに、環境論と科学者の関係についてフリーマン・ダイソン Freeman Dyson の述べていることは興味深い。ある種の科学理論が初歩的なところで間違っていても、それが導き出そうとするところが、大局的に「正し」ければ、その論全体を簡単には全否定できない(できるだろうがするべきでない)というようなことを、フリーマン・ダイソンは著書「Infinite in All Directions(邦訳『多様化世界』(みすず書房)」の中で書いているのだ。彼はカール・セーガンの有名な「核の冬」の理論が極めて基本的なところで間違っているし核爆発は地球に冬などもたらさないということが、科学者としてのダイソンの眼には自明だったが、「核の冬」の結論が導こうとしている警鐘、すなわち「核兵器開発の競争は人類のためにならない」という結論そのものには深く共鳴していたので、セーガンのセオリーを否定することが「正しい」ことなのか、科学者としてではなくて、人間としてどうすべきなのか倫理的な苦悩を覚えたと述べている。このことは科学者の言説として、核開発に関わった人間の言葉として改めて受け止め直せば、その言葉の重みが分かるだろう。つまり「科学的に正しいことが戦略的な正しさを導き出さない」ということなのだ。

これは多くの温暖化理論が初歩のところで間違っていたとしても(ということは、ひょっとして人為と温暖化は何の関係もないとしても)、温暖化が後に引き起すかもしれない人類に降り掛かる試練をあり得ない(あるいはわれわれの問題として扱うことが出来ない)と問題そのものを全否定する論理への加担の必要もないだろうということに逢着するのだ。

脳内摩擦

Sunday, July 22nd, 2007

うそこメーカー
enteeの脳内イメージ

(more…)

「あのう… 一応とりあえず、ポツダム宣言無視っていうことで、よろしかったですか」*

Wednesday, March 1st, 2006

* 「広島への原爆投下」のほんの十日前(7月26日あたり)、首相官邸内で行なわれたであろう「話し合い」のさなかに聞かれたとされるある秘書官の言葉(うそ)

盟友石川が、自身のblogで日本語の「過去形」の持つ「ソフト化効果」と呼びたくなる言語習慣について、極めて深い洞察を含んだ文章を書いていた。これは必読。『時空をバイパスする迂遠な表現としての「よろしかったですか」語』

まずは、基本的に書かれていることには感銘を受けた。うむうむ。

「よろしいですか」よりも「よろしかったですか」の方が語気としてはソフトな感じの印象を受けるのは何でだろうという素朴な疑問からおそらく出発して、こうに違いないという興味深い結論を導いているのだ。つまり、<< 間違いの発生の原因が相手にあることはお互いに了解していつつも、その「明言」を避け >>る意図のせいではないかというもの。例えば、ウェイターが「○○の注文でよろしかったですか」について、仮に「よろしいですか」と言ってしまうと、<< たったいまこの場に提出された注文内容について、注文主のあなた自身は了解しているか、という有責「確認」であるのに対して、「よろしかったですか」は、注文された内容の責任を、お客からいったん引き取 >>るというわけである。そこで石川はこう書く。

>> 「私はあなたの注文は○○であると理解したのだが、この解釈は妥当だったか?」という設問、責任が「わたしに移った」というポーズなんじゃないだろうか。

実際、「私はあなたの注文は○○であると理解したのだが、この解釈は妥当だったか?」の「解釈」には、とても深い洞察があると思える。とりあえずこの指摘こそが重要だと考えられる。そしていろいろなことがこのセオリーで説明できるようになるとさえ信じる。これは、「日本語には時制(tense)というものがなくて、あるのはaspect(形勢/相)だけだ」という日本語の言語構造論をおそらくサポートするものであるかもしれない(たぶん)。

ただ、最後の部分なんだけど(実はここの部分が拙論の要なんだけど)、これはボクに言わせると次のようになる。

“「私はあなたの注文は○○であると理解したのだが、この解釈は妥当だったか?」という設問という体裁を採りつつ、責任が「誰にもない」ということにしてしまいたい、いや「卑怯は全員で分担しましょう」というサインなんじゃないだろうか”

つまり私は今回あなたの過失を責めません。その代わり今度私が過失した時も責めないで下さい、というものかな。もし共犯関係ならお互いにお互いのせいにしないということにするという「申し合わせ」になる。

こういうのが「まちがって○○ちゃんの日誌がウチのカバンに入っていました」という日常レベルの会話の中で使われるのは構わないんだけど、国家の一大事や、家族の生存に関わるような状況でやられると、「オイお前、それってどーゆー意味だ? 自分の言葉に責任を持て、もっとちゃんとワケの分かったような言い方で説明しろ!」と言いたくなるだろうし、絶対言うね、オレは。

でも主語がなくても成立すると言われる日本語に付きものの特性、こう言ってはなんだが、敢えて言えば「卑怯の分担」という慣習を、日常的に子供の頃から当たり前のように身に付けさせられてきて、それによって「互いが守られている」という甘チャンの状況が、ビルの「耐震偽造」といった重大事について、狡猾にも「どこの誰にも責任がない」状態を業界全体で作り出したり、60数年前みたいに何となくコクミン全員で戦争に突入しちゃおうという空気が出来てもそれを批判できないようなことにもつながってくる、とボクは「突っ込み」を入れたくなる。被害者は誰に不満や改善の訴えをすれば良いのか分からない。そして大悪党をみすみす見逃す原因にもなる。そして権力者は血税の好き放題の浪費という支配権だけを獲得するくせに、政策の失敗の責任は取らないし、「敗戦」という「政策の最大級の失敗」にさえ、ホッカムリをする。そして弱者は泣き寝入りするしかないという、ほとんど政治家が政治家と呼ばれるに相応しくないような状況を許してきた。

われわれの社会では、兎角「努力目標になってます」みたいな表現も含めて、努力すべきなのが、御上のあなたなのか私なのか、それとも両方なのか、それを決めたのは誰なのか、その発話者自身なのか、それとも発話者はすでにどこぞで決まったことを単に報告するだけの代弁者に他ならないのか、その辺りがぼーんやりした表現になっていて、そんなものはあちらでもこちらでもあって、それはもうわれわれの民族的性癖そのものになっている。ここまで言うと、日本を「卑怯者の天国」たらしめ、支えているのは、そいつらの喋る言葉にこそ元凶があるんじゃないか、とまで思ってしまうのである。

英語がエラいなどという気はさらさらない。だが、たまたま英語にしなければならないような状況があると、日本語の弱点も狡猾さも一気に露呈されるというのは、翻訳する人間の日常で起こっている。「主語不明にて翻訳不能」(解釈なしには英語に出来ない)みたいになることがしばしばだ。そして主語を不明にしてあるのは、単にそれで成立するのが日本語だから、ではなくて、実はそうした日本語を成立せしめている日本人の(書き手の)心理にこそ本当の原因があるんじゃないかとさえ考えたくなる。そして、やはりそうした言葉の成立にはちゃんと理由があって、ある文章が場合によっては自分についてでもあり、他の場合においては相手についてでもあり、と、事後にどちらにも恣意的に解釈できるような「あそび」として確保してある。ま、裁判とかになった時に、強い者が自分の都合の良い解釈が出来るようになっているのが日本語だ、と穿った言い方も出来るような卑怯者の天国における状況に支持を与える「喋り」なのである。

そんな言い方して、「よろしかった」でしょうか?