監獄の「監視窓」から覗いているのは誰か(ルオーの窓に啼く)

清澄白河(きよすみしらかわ)の 東京都現代美術館 へ、「ルオー展」を観に行く。実は、「ただ券」を入手した関係で竹橋の東京国立近代美術館のゴッホ展を観に行こうとしたのだが、美術館前の舗道まで溢れ出した「70分待ち」の無慈悲で長大な行列に恐れをなす。そして結局夕方再び戻るつもりで、一旦、竹橋を立ち去る(だが今日は決して戻ることはなかった)。5月の紫外線を浴びながら喉には乾きを覚えつつ皇居の内堀沿いを大手町まで歩く。そこから半蔵門線に乗り、初めて赴く清澄白河に向かったのだが、この番狂わせが実に幸運であった。ジョルジュ・ルオー。そのステンドグラスを思わせる黒く太い輪郭線。青や赤の光。三次元的に迫り出してくる油絵の具のクラスター。そして苦悩する人々、キリスト像。受難の道行き。

展示物の最初の方から、本物の木枠の額の中に、さらにルオーによって描かれた「額縁」がある。フレーミングされ、その中にはめ込まれた顔がある。まるで「絵」を絵の中に押し込めたような絵。「肖像画」という顔の絵をカンバスの中に大事に収めた絵の絵。つまりそれは肖像画という絵を対象として扱う絵画なのである。ルオーの「フレーム(額縁)」を絵の中に取り込んだそうした手法に、最初すこし興味をそそられたが、多くの受難画を観ている間にそれを忘れた。やがて展示物の最後の方に出てくるシュアレスの詩による「受難」のシリーズにおいて、そのフレーミング(場面の切り取り)そのものに、重大な意味が込められていることに気付き、慄然とする。

切り取るということ。切り取ることで絵の中に選択される場面とは、穴のこちらからあちらのシーンを覗いている自分が、実は覗かれる側でもあるのだ。だが、これまでこのルオーのフレーミングについて語っている人というのはいるのだろうか? 

大きさを自在に変える小さな「監視窓」によって切り取られ描かれた(様な)、聖書時代を扱った囚獄の図は、それを窓から覗いている自分こそが、実は現世における囚獄の身であり、その受難を生きている主体そのものに他ならない。

ミセレレ12の「生きるとはつらい業…」で、やがてくるだろうこの世の地獄を想い、そしてミセレレ13の「でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう」のふたりの見つめ合う顔と顔に、そしてミセレレ22の「さまざまな世の中で、荒れ地に種播くは美しい業」に私は涙した。そして誰ひとり人の姿のない街角を描いたミセレレ23「孤独者通り」にひとり佇むルオー自身を見た。

欧州の二つの大戦に挟まれたその時期に(というより二つ目のより大戦の直前まで)描かれるキリスト像、そしてミセレレ。「懊悩」と呼ばれるに相応しい深刻な課題に正面から取り組んだ黒の版画。これは、20世紀の半ばまで続くキリストのイコン像の絶えない系譜の生き残りであるに他ならず、また、時代を正確に照らし出した証言でもある。

そしてこれはひとつの必然か、キリストの顔を描き続けている梅崎幸吉氏の絵を思い出していた。

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