Archive for the ‘At an Exhibition’ Category

審美眼ならぬ《審意眼》を育むべきわれわれの時代

Wednesday, June 29th, 2011

6月28日にアップしたカンディンスキーに関するエッセイについてのツイートを備忘録として転載。

自分の書くもののポイントはいつも同じ。音楽は特権的に(例外的に)「意味の表現」という義務から逃れている。だが他の創作物(特に美術や映像)は、意味の呪縛から逃れられない(し、逃れる必要がない)。

そもそも無意味に人を付き合わせるなよ、っていう正論があって欲しい。壁紙の柄に意味を求めないような意味で、「美術や映像に意味を求めるな」と言うのであれば、そのような「創作品」に、われわれ意味の世界を追求している者たちが付き合う気はないし、皆もそんな物の鑑賞は時間の無駄と知るべきだろう。

だが、壁紙にも実は意味の残滓はあり、それでさえも、意味の呪縛から逃れ得ぬ。そして逃れようとする必要さえないという問題圏も別に存在することは認めてもいい。

一方、壁のシミのようなものである限り、人が「意図して」作る必要もない。そんなものは自然と偶然の営為に任せれば良い。それは壁自身に、朽ちて行く人口構造物に、あらゆる変化して行く無常の世界と時間の営為に任せれば良い。見渡せばいくらでも落ちている、自然界に、そして廃墟の中に。美を見出しうる要素だけなら。

カンディンスキーのような卓越した表現者への対峙法として、ゆるされるのはただひとつ。「意味、意味、意味」である。美を美として感情的に享受する嗜好品であるであるようなものを作るのに、どうしてあれだけの思惟が必要であろうか?(つまり、彼の作品は美の探求とも嗜好品の制作とも関係がない。)

そうした真摯なる芸術家の営為としての作品に対しては、明確に一定のテーマを持った中世の宗教画に対峙するのと同じ態度で臨むべきだし、そういう態度で臨む必要のないものに、そもそも価値などはない。カンディンスキーも、時代の影響を免れ得なかった点で、一度は「無意味への傾斜」があったが、幸運なことにそれは一過性の「病」だった。彼はすぐにその病から立ち直った。彼が幾何学的な表現を見出すまでの長い過程は、その抽象への病と解することができる。

創造的作品のそれぞれにはそれぞれの得意とする役割がある。非対象性などという「手法」は、音楽に任せておけば良い。われわれの世界には「抽象画」などというものがあるらしいが、音楽がその本質的な意味でそうであるようには、抽象であり得ない。対象を持つのが、絵画であり、映像なのだ。

したがって映像の詩人などと讃えられたタルコフスキーも抽象の映像作家ではない。つねに具体的な対象を持ち、すべてのカット、セリフ、音楽、あらゆるものが意図通りであり、一定の意味を持たされている。どう受け取られても良い、などという表現者としての動機を放棄するようなことは一切ない。

われわれは意味を込めた作品をそうでない嗜好品から区別する審美眼ならぬ審意眼を持たなければならない。

6月29日

「カンディンスキーと青騎士展」についての覚え書き

Tuesday, June 28th, 2011

レンバッハハウス美術館所蔵「カンディンスキーと青騎士展」について、本年3月には書き終えていたが諸事情あってアップロードできずにいた「覚え書き」を今頃アップ。

2010年11月23日─2011年2月6日
三菱一号館美術館
(東京都内での展覧会は終了したが、4月17日までは愛知県美術館で開催。その後も兵庫県など国内各地を回る予定。)

■ 方法論のための美術鑑賞という時代

作品にいかに深遠なる内容が潜んでいようが、表現の方法が拙ければ人に振り向かれない。多くの人々がカンディンスキー作品にこれほどまでに惹かれるのは、控えめに言っても、その《内容》についての議論がどうであれ、少なくともその《方法》によって十分に魅了されているから、と言うことはできよう(カンディンスキーには申し訳ないが…)。例えば、広告がこうあっては困ると思うのだが、実際問題、多くのTVコマーシャルは、表現や手法が思い出せてもそのプロダクトが何であるかを思い出すことができないといった点で、似た状況にある。

作品批評は良くも悪くも作品の伝えようとする内容より、その方法についての関心に終始しがちだ。さらには、その道の専門家にこそ強く訴えかける体のものだというのは、現実としてはある。「前衛芸術」という悪名高き分野に一瞥を与えるまでもなく、このことをわれわれは不承不承であっても認めなければなるまい。少なくとも、カンディンスキーに対して抱くわれわれの「感心」は、その手法や表現上の《際立ち》を、「カッコいい」「心地よい」と感じる、言わば通俗的な感受性を前提としている。少なくともそのような面をきっかけとしてわれわれは何らかの作品の虜となる。幸か不幸か、近現代アートは、とりわけその内容ではなくて、よくてその「印象」についてであり、最も一般的には、その「手法」について関心を専ら集めてここまで至っているのだ。

■ 「方法」は内容に昇華するか?

ところで、カンディンスキーを始め、抽象表現の「ハシリ」を論ずべき課題とする限り、非対象性(描かれる対象を現実世界に持たない)に関する問題は避けて通れない。この非対象性あるいは抽象への傾斜が、19世紀半ば頃から知識人達の元へといよいよ押し寄せつつあった科学主義と唯物論への異議申し立てとして、「現実世界の写実」に反抗するというコンテクストで理解できる。むろんこうした「反抗」が突如始まったわけではなく、ロマン主義の時代にはすでに萌芽を見せていたヨーロッパ精神史の一面ではあるのだが。

ところが、厳密な意味で――カンディンスキー自身大いに関心を抱いていたらしい音楽がそうであるような意味*で――「対象を持たない」「外的な目的を持たない」「作品の有り様自体が内容である」という「作品」としての絵画なるものは、そもそも存在しないのではあるまいか、という日頃の持論が今回の作品を観ていても頭をよぎるのだ。とりわけ、抽象絵画と呼ばれる分野の作品展示に対峙すると。つまり抽象はどこまで行っても抽象であり、抽象が「対象を持たない」を意味しないのではないか、と。

その持論を補強する様に、今回の『青騎士展』で公開された作品群は「カンディンスキー史」的な文脈を除いてしまえば、それらの題材自体に語るべき《内容》があるとは思えなかった。極論を承知で言えば、である。いずれもほとんど明瞭なまでに日常的な「内容」でしかなく、あくまでも、のちに彼が獲得して行くことになる、生涯掛けて追求する価値のある《普遍的題材》と、そうした内容にこそ相応しい表現手法、その両方を獲得するまでの、長い道程のごくごく一部に一瞥を与えるものでしかないのだ。何故ならば、後により抽象的な《教会/塔の見える風景》に集約されていくことになる《教会のあるムルナウの風景》や、《大洪水》へと変容して行く《万世節》などを除けば、この『青騎士展』が見せた作品の「題材」となったのは、ほとんどが彼が仲間と過ごしたひと気のない、お気に入りの田舎、ムルナウの風景にすぎないからだ。どこまで行ってもこうした題材が、われわれの心を動かす訳ではない。われわれが関心を示さざるを得ないのは、やはりカンディンスキーの採った手法や技術と言うことになるのである。

* カンディンスキーの音楽への傾倒は、この展覧会のチラシや看板でも採用されていた《印象Ⅲ (コンサート)》という絵からも十分に伺える。これはカンディンスキー本人が当時欧州の伝統的な音楽界に波紋を投げ掛けつつあった「新ウィーン楽派」の宗 祖とも呼ぶべきシェーンベルクのコンサートに、大いなる好奇心とともに立ち会い、それをテーマに作品を描いたことからも了解可能だ。つまり、分かりやすく 言えば、表題を持たない種類の音楽(音楽学的には「絶対音楽」と範疇分けされる)というものは、描かれるべき対象を持たず、単に音として存在する「芸術」 なのである。そうした音楽上の作曲作品(composition)や即興(improvisation)の有り様に大いに感化を受けて描いたのが、カン ディンスキーの《Composition》や《Improvisation》などの作品であると言うことができるかもしれない。

■ 美術発展史的「パラダイム」の中の『青騎士』という党派

さて、今回の展覧会が取り上げた作品の制作時期からすれば、主たる展示作品は「具象から抽象へと移行するその過渡期」のものとなるが、それも、相当の単純化を恐れずに付け加えれば、第一次世界大戦前後のきわめて限られた時期の、カンディンスキーと、《青騎士》という名の旗印の下に集まった同志作家たちの作品展示会といった趣きである。カンディンスキーの高邁な目的意識に合流したマルクやマッケ、また、弟子で理解者であり、また愛人でもあったミュンター等々の作品が観られたのであった。

抽象に関する議論を蒸し返せば、もし、非対象性の作品をこそ言葉の最も厳密な意味で《抽象》と呼ぶ、その狭義の定義に依るならば、この時期のカンディンスキーやその「取り巻き」の作品は、最大で「疑似抽象」的で、かつ大きくデフォルメされた物質(モノ)の形態や変換された色彩を表現手法として採用したものではあっても、われわれの住む現実世界内にほぼ明らかな「由来」と「対象」を持つものであり、その意味では、『青騎士展』で観られたものは、《Composition》などの幾つかの例外を除いては、まだ抽象の黎明以前のものがほとんどであったということもできよう。つまり、一部の神智学者が志向したと後々に語られるような「精神(世界)の物質化」と呼ぶような、「疑似オカルト」レベルの抽象表現、ないしは抽象化行為*というものにまでは展開(ないし解体)されていないレベルのものなのだ。

* 忘我の中で行うアクション・ペインティングのような即興的美術を想定。

それよりも、《青騎士》の同人作家相互の手法的な影響というものが明らかすぎるほどに実に明瞭で、それがおそらくこの展覧会の見せたかったテーマだったのではないかと思われる程である。例えば、ヤウレンスキーのすべての作品とは言えないが、特に《夏の夕べ、ムルナウ》などを、試みにカンディンスキーの同時代の作品である《コッヘル──まっすぐな道》などの隣にタイトルもなしに置いておいたら、どちらがカンディンスキーの絵であるかを言うのは難しいかもしれない。興味深いことに、この二つの作品に限って言えば、ヤウレンスキーの方がおそらくほんの数ヶ月早い時期に完成している。その狭い同人誌的な世界におけるカンディンスキーと他者との間に観られる影響の双方向性は、カンディンスキー・ファンにとっては、ややショッキングなことかもしれないが、否定しがたい事実であるように見える。

つまりカンディンスキーでさえが、極めて広い裾野の広がりを見せた20世紀初頭のロシアン・アヴァンギャルドのムーヴメントや、それに先立つフランスの印象派との関係性も無視できない、などの一般論を鑑みても明らかだが、どんなにユニークでオリジナリティに富んだと言われるような作品を生み出した表現者であっても、作家は生きた時代のパラダイム(時代によって画される価値観)を逃れられないことを垣間見させるものだ(当たり前のことだが)。また、ひとつのトレンドは、たったひとりの人物の甚大な影響力と発想によってのみ造り出されるものではなく、何よりも忠誠心ある理解者、そして複数の共感者による意図的なムーヴメント生成(あるいは組織化)、つまりそれへの「ある程度まとまった人数の合流」抜きにはあり得ないということだ(それは、ヴァン・ゴッホにしても然りだが)。

また同時に、こうした抽象的・観念的思考──ある種の理想への宣言──と、実際に生み出される作品の間には、必ずしも絶対的なつながりが認められないケースもあるということである。つまり「宣言」的なものは、人と人を結びつけたり割いたりはしても、それ自体が生み出されるべき作品の有り様を規制できないということである。つまり「創作は思考に先立つ」というあまり語られない側面がここにも見出せるのである。

■ 『青騎士』という方法

「青騎士」(「青い騎手」と訳されることもある)というキーワード自体は、ヨハネの黙示録に出てくるいわゆる「四騎手」(4頭の馬)のうち、第四の封印が解かれた時に登場する四番目の馬(実際には青白い馬: Pale Horse)と「之に乗るもの: Horseman」への暗示を前提としている。言ってみれば、キリスト教文化圏の人々にとっては畏れながらも「親しみ」のある記号だ。もっとも「之に乗るもの」の名前が「死」であることから、カンディンスキーが採用したこの組織名も、「ひとつの時代が破局によって終わり、新たに世界が生まれ変わる」という、19世紀末に始まり20世紀初頭のロシアを席巻していたある種の終末思想とも関連しており、ひとつの挑発として機能する。大洪水、最後の審判、倒れる塔、といった破局を連想させる彼の好んだ題材も、そうした「死」による現世の終焉と新たな再生への憧憬なしには説明できない。

雄弁な論述家でもあり、またある種の扇動家でもあったカンディンスキーは、この時期も、そうした啓蒙的活動に精力的に従事した。その努力によってもたらされたものは、残されている同時期の作品そのものの持っている影響力以上であったと言えるかもしれない。その一例は、1912年に発表された論文『芸術における精神的なものについて』であり、またミュンヘン新芸術家協会の発起人の一人であった事実にも見出される。また、この協会からも袂を分かって、敢えてそれにぶつける形で《青騎士》を立ち上げ、協会からの離脱と新党派への参加を友人達に呼びかけたことなどにも表れている。つまり最終的には反発して袂を分かつ協会さえも、彼をひとつの流れの中に導くために必要な「応力」となる役割を果たさせるのである。

いずれにせよ、こうした彼の行為の一切が、ひとつの「ブランド」を築き上げるための役割を等しく果たしたという言い方は可能だろう。それはカンディンスキーが影響を蒙ったと考えられている、同時代の神秘家・教育者であるルドルフ・シュタイナーが、自己の思想の普及の手段として神智学協会を利用したように、カンディンスキーも自分のブランド構築のために組織を利用した。

カンディンスキーは「カンディンスキー」という名のブランドをおそらく必要とした(少なくとも、結果的に彼の目的達成を助ける役割を果たす)。そしてそのブランドは築かれ、彼は今日知られる様にメジャーとなり、「抽象の大家」としての崇拝と多くの鑑賞者と愛好者の一群を獲得した。そして仮にだが、もう暫し後に、例えばその内の一握りの人間、コリン・ウィルソンの言うような「指導的5%」が、カンディンスキーによっていよいよ追求されることになる物質的世界の外部に実存する《普遍的》、とも呼びたくなるような内容について関心を払うことができるようになるならば、それは彼のような表現者にとって、初めて成功と呼ぶべきなのである。その点で言えば、鑑賞者の内容への喚起以前の、手法の議論に終始するカンディンスキー作品は、まだ十分に評価されておらず、「彼の時代」はまだきていないと言う以外にないのである。

■ 「方法」に盛られるべき内容について

真の成功が伝えるべき内容の確実な伝達であり、鑑賞者の数の獲得は、ひとつの《方法》なのだ、という見解は保守的に聞こえるであろうか? 広告も同様で、視聴者の関心を掴むのは当然のことながら、内容を確実に伝えることがその最終ゴールだ。その点において、「非対象」性の芸術などというものは、後にカンディンスキーが獲得することになる、より深化された抽象表現作品の一群を以てしてもあり得ず、名状し難い非物質的世界の、「物質化を目指した」という作品のどれもが、いかに曰く言い難いものではあっても、明らかに伝達されるべき、われわれにとっても深刻な意味と内容を持つものだ、ということを図らずも伝えている。これは皮肉なことだが確かなことだと同時に思うのである。

前掲の意味で、今回公開された作品群は、その多くが意味性や内容の点で筆者の関心のストライクゾーンに嵌まる作品ではなかったのであるが、それでもカンディンスキーが、どのように「不遇の時代」から精力的な作業開始への転換点を経て、その後の地位を築いて行くのか、という表現の発展史の一部をイメージ化するには、十分な価値があったと言うべきであろう。

実際に鑑賞した具体的作品のひとつにも触れることなく締めくくることは許されない、との向きには、以下の作品についての簡単な感想を残しておこう。ミュンターとの生活の巣であったことが伺われる一幅の絵の色《室内(私の食堂)》(1909) についてである。あのピンク色にカラーバランスを「シフト」された室内の絵画は、部屋のすべてを活写している訳ではない。質素なダイニングを通して2つの隣室の一部が見えているのみだ。ただこの部屋壁の色変換には単なる実験以上の意味を感じることができる。描かれざるものを、描かれたものとして視る、という知識を総動員するような「行間を読む」作業をわれわれに強いるまでもなく、《印象 III》などよりも直截的に当時の「愛の巣」を眺めるカンディンスキーの暖かで幸せな心象が伝わってくるのだが、そんな風にしか捉えられない自分の「感性」は、単なる通俗的錯覚の賜物に過ぎないのだろうか?

『全共闘の時代』

Tuesday, October 23rd, 2007

…などと、書くと、またぞろ何を言い出すのかと思われそうだが、

これは現在銀座のニコンサロンで行われている写真展の名前だ。

この週末にツレと友人二人で観に行った。

「ひとみ わたなべ アーリー ワークス(hitomi watanabe early works)全共闘の季節 1968-1969」。

全共闘の季節ポストカード

ウチに来た案内状で知ったのだが、この写真家・渡邊眸さんはツレの古い知り合いで、以前世話になったらしい人。ツレ曰く、自分の写真についてはこの眸さんから影響を受けたことが多いとか。

ご一緒した友人の《ぴ》さんは「どの風景もどの写真もあまりにも痛ましい」と評してらっしゃる(し、確かにそのようにも見えるのだ)が、私は暢気にも写真自体の美しさに魅入られてしまったり、機動隊や闘士の若者たちの真剣な表情やあどけない表情、そして彼らの姿と供に捉えられた周辺のさまざまな背景(建築物や装飾)などにも釘付けになってしまった。そして眼を奪うのは檄文である。

このような生々しい現場の内側から撮られた写真があったこと自体、驚くべきことだったが、このような重要な記録写真がツレの身近な知り合いが撮っていたことも実に驚きだった。

渡邊眸さんの写真は、グッドマンがかつて荻窪にあったとき、カウンターの内側にあるいくつかの本の間にあった、『猿年紀』という題名の、猿を撮った写真集の題名に惹かれて*マスターに見せてもらったのが最初だ。(どうやらこの写真集が詩人の石内矢巳さんの紹介によってグッドマンによってもたらされたようなのだが、その写真家がツレの知り合いだとはそのとき知る由もなかった。これは事実と言うより憶測を含む。)

その後、蓮の花ばかりを撮った巡回展が《ちめんかのや》で行われたとき、ツレと一緒に観に行ったのが眸さんと会った最初だった。その時の印象が強く、静物的なものを撮る方だと思っていたので、今回公開された古いが生々しい写真の数々は、報道写真のようであり、また動きがありながらも詩情に溢れる表情豊かな作品でもあったので、きわめて大きな印象を得たのだった。

これは10/30(火)までなので、写真に興味がある人も、当時の政治に興味があるひとも、是非足を運ばれることをお薦めします。

渡辺眸 「early works - 全共闘の季節 1968-69」@ Tokyo Art Beat

「ニコンで渡辺眸の全共闘写真展」@ 銀座新聞ニュース

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* 『猿年紀』という題名に惹かれたのは、世界の大きな時代区分(エイオン)で、現在が「鳥の時代」であり、その前が、どうやら「猿の時代」であったらしいことに思いが至ってそれに取り憑かれていた時分にこのタイトルが眼に飛び込んできたので、大いに衝撃を受けた。言わば、まったく個人的なシンクロニシティを体験したのだった。これは西洋占星術でいうところの、言わば「水瓶座の時代」とかいうのに近い、より大きな時間についての話。

宮殿とモスクの至宝 11.12.2005

Saturday, November 19th, 2005

これは本来11/12の日記として書かれるべきであったもの。すでに1週間経っているが、どうしても多くの人に知ってもらいたくて、今週末はここに置いておこう。会期は12.4(日曜日)まで。世田谷美術館に走れ!

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http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html

http://www.enjoytokyo.jp/TK/TK050920mosque.html

http://www.aii-t.org/j/ads/img/Islamicart1.jpg

http://www.aii-t.org/j/ads/20051004.htm

それらが「至宝」である理由。それは意味を伝える記号とその解き明かしうる文法が存在するというその理由において他にない。

われわれはこうした象徴的記号、あらゆる先達者の骨身を削る努力によってこの時代まで伝えてきた図像に再会すると言う幸運に恵まれている。これはあらゆる予定や都合を繰り上げて、馳せ参じる価値のある「至宝」との「再会」を可能にする絶好の機会なのである。

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「ケルビーム展」へ:あるいは「見えない学校」の「見える形」を賛美する

Saturday, May 28th, 2005

怒濤の2日間、土曜日の第1弾(アップロードは前後する)

梅崎幸吉氏の率いるグループ展「ケルビーム展」に出掛ける(半ば興奮気味に)。楽しみだったのだ、心底。場所は目白の『新樹画廊』。「ケルビーム」とは、梅崎氏がかつて銀座で開いていたという「画廊」の名前だそうだ*が、美術、文学、演劇、音楽、などなど、あらゆる「創造的人間関係」の磁場の中心点であり、梅崎氏自身の創作におけるパッション、人との関係における仁愛、そして人間的魅力が大きな牽引力をとして機能していた、ある種の「学校: school」のようなもの**であったらしい。もはや、その名は彼を囲む創作への衝動を心に抱く人々の集合の旗印として機能しているのであり、単なる「グループ展」の名称、あるいは昔あった「ギャラリー名」という以上のものになっている。むしろ、梅崎氏の移動するところにケルビームはあり、梅崎氏の呼びかけるところに人が集まればそこが学びと共感の場となると言う、言わば「移動式の見えない学校」(mobile invisible school)が存在するのである。

* 「…だそうだ」などというやや消極的な伝聞のかたちでしか記せないのは、梅崎氏の往年の活躍ぶりを残念ながらリアルタイムで私が体験していないからで、飽くまでも連れ合いから聞き続けた噂と梅崎氏から若干伺った話でしか知らないためである。

** それを「学校」と呼ぶのが最適であるとは分からないが、そのような場として機能していたことが話から伺えるために、これ以上相応しい呼び方があるとは、今の私の想像力からは考えられないのである。

「ケルビーム展」には、梅崎氏本人を含む17名の方々が出品。私たちが訪れた土曜日は、このグループ展の最終日。しかも1週間の会期日中、週末はこの日だけだったので、自分らにとっては選択の余地はなかった。店舗を兼ねたギャラリー1階には17名の参加者全員の作品が1点ずつ展示されている。それをひとつひとつ矯めつ眇めつ眺めていると、2階から梅崎さんそして来訪者と思われる方達の談笑する声が聞こえる。絵の眺めながらゆっくりと2階に上がってみると、そちらの方がどうやらメインの展示会場となっている。階段を上る頭上右側には梅崎さんのやや大きめの作品が掛かっており、階段を上り切ると、階下に展示されていたモノクロの作品とは打って変わって、色絵の具(不透明水彩?)を使った石塚俊明さんの作品が2点目に飛び込んでくる。まるでナヴァホの砂絵が描いているようなある種の曼荼羅のようなもの、見ていると日本のいなかの原風景のようにも見えてくる。

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『梅崎幸吉個展』@ 青山『HAYATO NEW YORK』

Sunday, May 8th, 2005

美術三昧の4日目。最終日の今日は梅崎幸吉氏の個展に行く。

HAYATO NEW YORKは、骨董通りに入ってほどなくした通りの右側にある。美容院の建物の地上入り口から3階までの階段と踊り場、そして美容院の店内に至るまで、すべてのスペースを利用してのユニークなギャラリー空間。梅崎氏の作品が入り口から見る者を奥へと誘う。一体この奥に何があるのだろうと思って階段に足を一歩踏み出せば、そこにはあらゆる日常的に入手可能な素材と本格的な画材が絶妙にブレンドされた梅崎氏のパッシオの世界が始まる。[パッシオとは「憂」と「仁」をまとめたつもりの言葉である。]

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(Photo by entee)

以下のことをうかつにも言葉にしたら、3秒と経たない内にあきれ顔の連れ合いによってきっぱり否定とともに教示される結果となったが、極端に単純に言ってしまうと、最初、私にとっては「きわめて抽象性の高い図象」であった。つまり、意味を考えずに、ただ造形の美しさに打たれる作品もあるのだが、意味ある図象として圧倒されるという感じでないものもあった。だが、スパイラルビル内の喫茶サロンで梅崎氏と会ってひとしきり会話して別れた後、再びHAYATO NEW YORKにちょっと立ち寄ってみると、そこには永山が言うように、「明らかな具象」ととるべきイメージが、その抽象的な絵から浮かび上がって見えてきた。そうなのだ。永山が言うような「心眼」、梅崎氏の語るところの「本当の視力」を以て対峙すれば、そこからは宗教的と言っても差し支えないあらゆるパッシオの場面が浮かび上がってくる(それが唯一の見方であると主張するつもりはないが)。

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(Photo by Aquikhonne)

例えば、結果として私が観たもの。シナイ山から戻ってきたモーゼが十戒の石板を高らかに提示する図。三美神が舞を踊る姿。聖母とも菩薩ともとれるようなベールと長いロ−ブを纏った普遍的「女神」の姿(部分:photo by Aquikhonne)、など。

日常のあらゆるものに意味があり、「美は見出すもの」であり、あらゆるものに美を見出す人の心に美が到来する。そうした日常意識の一枚障子*を隔てた向こう側に、無意識の美術とも言うべきものが控えている。このようなことは、新しい知覚の扉を爆裂的に開け放ってくれたカンディンスキーの絵画 (Sur Blanc II) との瞠目的で神秘的な出会いを通じてすでに「学んだ」はずのことであったにも拘らず、いまさら改めて教えられなければ気が付かないとは!

* その障子は、そこに映る影に気付くこともなく、また開けてみようとさえしなければ、その「向こうの世界」が存在することさえ、伺い知ることのできないものであるが。

白を基調とした不思議な素材の上に乗せられる黒の油絵の具やインク。木材を画材として大胆に用い、赤のアクリル絵の具で着彩した作品、髪を洗うエリアの壁にひっそりと掛けられた「黄」を貴重とした小振りな作品。これらが私には気に入った。

しかし、店内入り口左側に掛けられていた大胆にもカンバスを水平に切り裂いた作品を見た時、その手法で実現してみたい自分の作品の具体的イメージが頭に浮かんだ。こうした「ぜひ自分でやってみたい」と思わせてくれる触発性を持った作品というのが、実はもっとも有難いものでもあるのだ。

クリックすると写真がポップアップ↓ (photo by entee)

店内の様子 #1

店内の様子 #2

まるで、店の一部のように作品がとけ込んでいる。とけ込む梅崎氏の作品が素晴らしいのは言うまでもないが、とけ込ませる店は店で、それがまた作品自体のようでもある。

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ゴッホの「黄金色」そして梶井基次郎の見た「檸檬」の輝き

Friday, May 6th, 2005

美術三昧の3日目。だがその前に…。

先日のライヴでピアノの上に放置した財布に「足が生えて」立ち去った事件であるが、練馬の警察署からの連絡で財布が拾得されたと通知される。出てきたのである。足が生えて立ち去ったが、自分の足で私のところには戻ってこず、その代わり人に拾われて、しかも出てきた場所が阿佐ヶ谷ではなく、私が行ったこともない某所からである。実に面白いな。電車とバスを乗り継いで「遠方」の警察署に出向く。いずれにしても、すでに凍結して現金を下ろせなくなっている銀行のキャッシュカードやら、もはや期限が切れて使えなくなった運転免許やら、もろもろのカード類がそのままになって出てきたのである。だが、現金の類は小銭を含めてきれいさっぱり「吐き出された」状態であった。財布そのものが戻ってきたのは良かった。だが、全く選択的に財布の中から金品がなくなっていた。「不幸中の幸い」と人からは言われたが、そうだろうか。お陰さまで、カードからは知らない人の指紋やら何やらがついているし、気持ち悪いったらない。

鬱陶しい雨と気分を転換すべく、駅近くの珈琲屋に入って席に着くと、ゴッホの複製画が目の前にある。気を取り直して、竹橋の国立近代美術館へゴッホ展を観にいくことに。雨が降っていたことに加えて「平日」であったためか、5/3に初めて来た時よりは全然混んでいなかったのは幸い。とりあえず、舗道まで溢れるほどの行列とかはなかった。中に入ってみると確かになかなか進まない列や人の頭で観づらいところはあったが、イライラしたり耐えられないほどではない。また、あまり近距離で観たくない絵もあって、列から離脱したり、隙間の空いているところに適当に移動しながら縦横に鑑賞することも可能だったので、その人の数さえあまり気になるほどではなかった。もちろん、人は少ないにこしたことはないが、私もその集団のひとりだから不平を言っても仕方がない。

ゴッホの原画というのは今までも「単品」であちこちのミュージアムの常設展示とかでいくつかを観たことはあったが、これほどのまとまった数で、しかも適度に調光された光の下で観たのは初めてである。また、同時代の画家による作品との併設展示もあっていろいろ見比べられるのは、私のような美術に関してシロウトにとっては、いろいろなことを憶測したり学習することができて有り難いのである。

よくご存知の方なら反論もあるかもしれないが、それにしても、ゴッホの画風がまったく突如として突然変異のように世に出現したというよりは、ある種の同時代の作家のさまざまな手法(例えば点描など)を自分なりに試したり取り入れたり、取り除いたり、はたまたミレーなどの「古典」の熱心な模写を行ったり、という試行錯誤の果てに到達したものだ、という感を新たに得た。また、色彩のない初期の<<職工>>などのスケッチを見るに、きわめて精緻な素描テクニックを確固たる基礎として獲得しているということ。知っている人には当たり前のことだろうが、そうしたゴッホの作風の発展史を概観できたことには、非常に得るところの多かった。

それにしても、油絵の具の「照り」と輝くような色の艶やかさは、とても百二三十年前の古典絵画を見るような感じはしない。私はまずその絵の具の、つい昨日描かれたように見えるその新鮮さに、原画からしか感得しえない感動を覚えた。これは、最初に特記しておきたいことだ。

■ 職工 ─ 窓のある部屋 (1884)

正面の窓を通して黄金色の光が美しく描かれていて、逆光の中で織物をする職人の顔の輪郭や糸がそれを反射して黄金色に輝いている。これは、1889年から始まるサン=レミの燃えるような一連の作品群に先立つこと5年前の作品だが、黄金色に輝く「あちらの世界」の光の萌芽があるように思った。

■ レストランの内部 (1887)

併設展示のシニャックやリュスといった点描の画家たちの追求したのと同様の作風が濃厚に見られる作品。なんと言ってもレストランの壁にかけられているファン・ゴッホ自身の絵というのが、同じ日に珈琲屋で見たように、あたかも現在ゴッホの複製画が当たり前のようにレストランや喫茶店の壁に掛けられているのを預言するかのような作品(Aquikhonne曰く)で、楽しくも明るいレストランの内部の風景は、実際のゴッホの人生を思うに、かえってやるせない気持ちにさせるものである。ゴッホの悪戯はおそらく彼自身の祈念を反映している。

■ 芸術家としての自画像 (1888)

手にパレットを持つ自画像。解説によると、このパレット上の「絵の具が、色彩を混合することなく用いられた」形跡を残しているのであり、それはつまり印象主義や新印象主義の影響を物語っているらしい。その辺りは、どれだけエポックメイキングなことなのかはよくわからないが、混ぜられることなく絵の具が展開されていることは確かにキャンバス上からも伺える。しかし私が印象深く感じたのはそういうテクニックのことではなくて、ファン・ゴッホ自身が羽織っている、ボタンのひとつだけ付いたマントのような衣服であった。これが実に、同年に描かれた<<夜のカフェテラス>>の夜空のように、青地に黄金色に輝く地色で、あたかもゴッホが星で輝く「天球の空」を身にまとっているように見えてくるのである。しかもそれは常にある極点を中心に回り続ける蒼穹をカメラの「解放(バルブ)」で撮影したかのように、回り続ける夜空なのである。

■ 夜のカフェテラス (1888)

今回の「ゴッホ展」のポスターにもなったいわゆる展覧会の目玉のひとつ。この絵を見てただひとつだけ書きたい個人的なこととは、梶井基次郎の「檸檬」の次のくだりである。ちょっと長くなるがそのまま引用する。

「そう周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。

 その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。」

断言しても良いが、ファン・ゴッホが見たものと梶井基次郎が見たものは、ほとんど同一ものだ。そして基次郎を魅せた檸檬の輝き、「電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛」「裸電球が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ射し込んでくる」それとは、ゴッホの描き続けた「黄金色」に他ならない。われわれは、その色に魅せられる。

■ サン=レミの療養院の庭 (1889)

あまり手入れに行き届いていないような雑草が生い茂り、花をつけた木々の葉のひとつひとつが生命の息吹を発散していて、ほとんど「やかましい」ばかりである。ベンチが草に埋もれそうなほどの手入れの行き届いていないこのような庭自体が、最も美しい。解体が始まっており、近々「やがて記憶の景色」と化してしまう我が家周辺の都営住宅廃墟周辺や公園予定地の草むらを思い出させる。ゴッホは狂気と正気の狭間で、そうした息吹に美を見出していたのだ。

■ 糸杉と星の見える道 (1890)

解説によれば(あるいはゴッホ自身の記述によれば)、これは夜景であるそうだが、絵自体からは、描かれている糸杉の右手にある「三日月」からかろうじて推測できるものだ。だが、これが夜景であると諒解しなければならない理由が私には分からない。白っぽい道も、そこを行く人々の姿も、それが夜の道であるというなんの証にもなっていない(私には)。三日月であれば、道をあれほどの明るさで照らす「月明かり」であるはずがない。題名から伺える「星」も、その輝きは、誇張されているとは言え、まるで太陽のようだし、三日月よりも強烈な光を発しているように見えるその天体は、明らかに「太陽」を意識したものだ。そのことから僅かな私の知識の告げるところは、この絵画の描いているものが、夜景でも昼間の景色でもない、ある抽象的な(というか、現実にない)風景であるということである。それは、中央に堂々と据え付けられた燃え立つ糸杉によって左右に分断される。そしてそれぞれの世界は、三日月と太陽のように輝くもうひとつの天体、によって象徴される。これはまさに、われわれの住む「非対称の世界」そのものである。

そればかりではない。「月の下」にある右手の遠くの世界から、「太陽の下」にある左手の近景へと蛇行しながら進行する白い川では、人が押し流されているの図なのである。そして、白い道の向こうに描かれている黄色い穂をたわわに実らせる「畑の階層」は、右奥から左手前へと近づくに従ってまるでグラフのように幅広くなり、「収穫」が近いことを告げている。これが、単に「夜景」にほかならず、黙示録的なものでないと一体誰が言えよう?

■ 全体として(あるいは「神話解体」への立ち会い)

今回のゴッホ展は、展示作品の図版集に収録されているエフェルト・ファン・アイテルトによる論文が冒頭でも断っているように、「ゴッホに関する神話」の客観化がさまざまな研究によって進行する*今という時代を、おおいに反映したものであったのではないか。それが、今回の「ゴッホ展」の特徴とさえ言えるのではないだろうか。良い悪いを言っているのではない。ゴッホ神話とは、アイテルトによれば「近代芸術が社会の評価を得るための苦闘の中でたおれた殉教者」「社会によって自殺させられた犠牲者」という天才画家のイメージである。神話を信じる理由も経緯(いきさつ)も、われわれの間にさえ、さまざまあるだろう。だが、その殉教者のイメージというのが、「精神を病んだ不幸な画家(殉教者)に自分自身を重ね、ファン・ゴッホの名を借りながら、世間一般の順応主義に対してあらん限りの怒りをぶつけた(アイテルト)」らしいアルトーのように、ある創作家に対する評価が私怨によるものが幾分でもあるのだとしたら、私はそれをそのまま字義通り受け入れることはできない。すくなくとも、その「古典的ゴッホ像」でゴッホを知るに事タレリとするのは、やはり十分ではないと考えるのだ。

* 「今日では、フィンセントの作品がいつどのように売られ、彼の名声を築き上げ永続させるために遺族がいかなる努力を払ったかを含めて、彼の生涯と死後の評価の形成を正確にたどる事ができる」(同アイテルト)というのだ。

すなわち、神話とともにある作家の幻影を、自分の受け入れたい形で受け入れている状態よりも、神話が解体されて、再び作品と各自が向き合うという状態の方が、遥かに健全であると私には思えるから。私は、作家への幻想の喪失(“幻滅”と言ってしまっても良い)によって、作品を見る目が変わるくらいなら、それだけの事だったわけだし、ファン・ゴッホの作品が、「幻想の喪失」によってその質自体が簡単に失われてしまったり「再評価」されてしまうほど脆弱なものとも思えない。つねに、初めてそれに出逢ったような目で、われわれ自身が何度でも作品と「出逢えばよいこと」だと信じている。

フレデリックの描かれざるキリスト像
(ベルギー象徴派展を観る)

Wednesday, May 4th, 2005

休日中は遠出をすることをスッパリ諦め、午前中は12日のライヴに備えて練習をして午後からは展覧会へ行くという美術大食漢コースに決めた。決めたので、「ベルギー象徴派展」(於・BUNKAMURA)に行く。昨日鑑賞してきたルオーの深い衝撃からまだ立ち直りきっていないせいか、あるいは作品に質そのもののせいも当然あるだろうが、かえって昨日観たルオーの衝撃が減衰して行くどころか、大きな銅鑼やら釣り鐘が初期打音よりも数秒経ってから残響するときの余韻の方がむしろ大きな音になってくるが如くに、自分の体内でより大きな音響の衝撃となって広がり始めているほどである。これについてはもっと書きたい。

だが、気を取り直して今日のベルギー象徴派について書く(「ルオーの残響」がすべてを覆い尽くす前に)。全体の印象としては「嫌いではない」だが「夢中になるほどでもない」というのが正直なところ。だが、いくつかの特筆しておきたい作品についてだけ、備忘録としてしたためて置くに留める。

レオン・フレデリックの大作「聖三位一体」と「祝福を与える人」の2作。

■ 聖三位一体:いわゆる3つ1セットのトリプティック(triptych)の伝統を踏まえた作品であるが、きわめてモダン。連れ合い曰く、右翼にある「少女」の作品は以前も別の展覧会で公開されたらしいが、そのとき単独で公開されたらしいことからも、必ずしもtriptychとして扱われなければならないわけではないらしい。

左翼にあるのは、「天地創造」の場面。主は両手の各掌にひとつづつ玉(ぎょく)を持っている。主の頭部の周囲に五芒星が散りばめられているところがきわめてモダン。だが、見逃してならないのは星のひとつが「迷子」のように雲の切れ間から地上に落ちようとしていることだ。これこそが地上に炎をもたらすプロメテウスの第一のトーチとなる。

中央の絵に描かれている二人の可憐な子供の天使は、おそらく四大天使の二人である。左側にいて右手で百合の花を高く掲げている方が後に「受胎告知」をするガブリエルで、右側にいて左手で百合を低く持ち蛇を手なずけているように見えるのが龍と闘うミハエルである。6弁(3弁)の百合は「祝福」であると同時に、「敵を殺めるもの」である。その二人の「大天使」が広げているのが、「布上のイコン」=「マンデリオン」である。時系列的には前後するが、その顔は、全時代を超えてまぼろしのように“疾走するもの”である。「私はあなたの陰に寄り添って走ります」。アルファでありオメガであるものが、それぞれイエスの「旗」の左右に配されているのである。

右翼の少女は、「フレデリックによる創作である」と会場にて解説があったが、とんでもないことである。彼女こそ、エデンの園において蛇に騙されて禁断の木の実を取り、それを食したイヴ。幼い少女イヴは、泣きながら自分を誘惑した蛇を足で踏みつけている。そしてその周囲を囲むすべての天使たちも同様に嘆き悲しんでいる。だが後悔は先にたたずというのはわれわれの知るところである。これは、楽園追放に通じる場面に他ならない。

左翼において「天地創造」、そして右翼において「楽園追放」というように1セットでふたつが同時に描かれるというのは、ジョヴァンニ・ディ・パオロの「天地創造および楽園追放図」から試みられている挑戦的な手法と同様のものを感じる

■ 祝福を与える人:ほとんど写真のようなリアリズムによって描かれている「祝福を与える人」は、現在でも世界の各所で現存しているような非文明的な「知恵者」の姿であるが、その雛形になっているのは洗礼者ヨハネ (St. John the Divine) である。これほどのリアリズムによって描かれた他の「ヨハネ」を私は知らない。ヨハネとは一言も断られていないが、それが「荒野に呼ばわる声」の主であることは私の目に明らかであった。こうしたリアリズムによって眼前に出現したヨハネが祝福を与えようとしている相手が、画面には描かれていないにも関わらず(というか、描かれていないからこそ)、その祝福を受けて(画面外の)そばに跪いているのがイエスであり、この「祝福を与える人」が持っている写実性を以て我が眼前に迫り来るのである。これは、「イエス不在のキリストのイコン」と呼んでも言い過ぎではない。

この上に言及した2作品だけでも、「ベルギー象徴派展」を見る価値があったと今は思うことにしている。

ルオー断章

Tuesday, May 3rd, 2005

展示#21「二人の友」これは、第二次欧州戦争が間近に迫った1938年の作品。色彩的には暖色系が少なく、やや目立たない印象の作品であったが、そこにはひとつの明瞭な秘技伝授系の伝統を感じた。向かい合う二人の顔は、波頭や神話上の獣や動物などが側面から描写されるのと同様に捉えられており、彼らが身にする黄色い服の色彩がそうであるように、ポーズ的にも構図的にも対峙し合うその対称の配置が強調されている。そして注目すべきは、右側の人物の頭上に描かれている窓からは、いつもの白い太陽、そしてそれとは正確に線対称の位置には置かれていないものの、左側の人間の頭上に、室内の明かりなのか、黄色く彩色される人工の灯火が、あたかも月(あるいは目)であるかのように、欠けた天体として描かれている。対称な二人の人物とその頭上の月と太陽の配置は、錬金術絵画のウェヌスとマルスの婚姻(そして生まれ出ずるはメリクリウス:水銀)の図と相似である。そして、この伝統的な構図を完成させるものは、向き合った二人の「友」の間に置かれている「花瓶」である。その花瓶からは暖色系の花々がまさに「炸裂せん」と咲き誇っているのである。これを私はブレイク風に「fearful symmetry」と名付けている。

展示#65 <<受難>>25「善い盗人…悪い守銭奴…」この2人の罪人とのイエスの磔刑を捉えたイコンは、ゴルゴタの丘に立てられる3つの十字架上の典型的な磔刑図のひとつのようでありながら、左右の罪人の十字架は、左右脇ぎりぎりに押しのけられており,それらはもはや十字架ではなく、イエスの左右に打ち立てられる2本の柱のようにしか見えない。そして、左右に伸ばしたイエスの腕はその二人を結びつけ、あるいはイエス自身がその2本の柱によって支えられているかの如くに見えるよう巧妙にデフォルメされている。左右ふたりの磔刑者の肉体は、柱に刻まれる文様パターンに半ば変容しており、右側の罪人はイチヂクの木に絡み付くイブを誘惑した蛇のようにさえ見える(こちらがおそらく磔刑によっても改心することのない「悪い守銭奴」の方であろう。となれば、左が、十字架上の改心を遂げる聖ディスマス、すなわち「善い盗人」ということになる)。

展示#103 <<受難>>63「聖心と三つの十字架」においては、左右の磔刑者がルオー一流の「絵の中の額」のように、絵の中に描かれた木枠となり、とりわけその左右が絵を支える「人柱」であるかのように、すでにあたかも「トーテムポール」と化している。そしてその構図の奥に、丘の上の3つの十字架が朝焼けの逆光の中に黒く浮かび上がっている。この二本の柱のモチーフは<<受難>>1「受難」、<<受難>>2「聖顔」、<<受難>>22「燃ゆる灯火の芯のごとく…」、<<受難>>48「マリアよ、あなたの息子は十字架の上で殺されるのです」でも繰り返し現れている。そしてその「柱」の通常ならざる特徴は、人間の頭部が柱の上に載っている点である。この門のような「二つの柱」はメイソン・ロッジの左右の柱においては、柱とその上に載っているグローブ(地球儀)の形でそのバリエーションが今に伝えられている。

展示#92 <<受難>>52「おお主よ、唯一の顔…」これも「fearful symmetry」のひとつ。「二人の友」と同じ対象の構図を採っている。対面する二人が互いに手を差し出しているところも同じ。だが、花瓶の位置に置かれているはずのその「華」は、聖ヴェロニカの差し出した亜麻布の浮かび上がったイエスの顔である。イエスが対称な配置の人物に挟まれるよう中央に、「今にも届こうとするそれ」として描かれているのである。

(一度イエスの血を拭ったその布は、その痕跡をその布地に残す。そしてそれは、地図のように浮かび上がって「炸裂」するのである。顔の存在自体がひとつの福音の伝播として機能する。すなわち「enlightenment(「光」をもたらすもの)」として。)

監獄の「監視窓」から覗いているのは誰か(ルオーの窓に啼く)

Tuesday, May 3rd, 2005

清澄白河(きよすみしらかわ)の 東京都現代美術館 へ、「ルオー展」を観に行く。実は、「ただ券」を入手した関係で竹橋の東京国立近代美術館のゴッホ展を観に行こうとしたのだが、美術館前の舗道まで溢れ出した「70分待ち」の無慈悲で長大な行列に恐れをなす。そして結局夕方再び戻るつもりで、一旦、竹橋を立ち去る(だが今日は決して戻ることはなかった)。5月の紫外線を浴びながら喉には乾きを覚えつつ皇居の内堀沿いを大手町まで歩く。そこから半蔵門線に乗り、初めて赴く清澄白河に向かったのだが、この番狂わせが実に幸運であった。ジョルジュ・ルオー。そのステンドグラスを思わせる黒く太い輪郭線。青や赤の光。三次元的に迫り出してくる油絵の具のクラスター。そして苦悩する人々、キリスト像。受難の道行き。

展示物の最初の方から、本物の木枠の額の中に、さらにルオーによって描かれた「額縁」がある。フレーミングされ、その中にはめ込まれた顔がある。まるで「絵」を絵の中に押し込めたような絵。「肖像画」という顔の絵をカンバスの中に大事に収めた絵の絵。つまりそれは肖像画という絵を対象として扱う絵画なのである。ルオーの「フレーム(額縁)」を絵の中に取り込んだそうした手法に、最初すこし興味をそそられたが、多くの受難画を観ている間にそれを忘れた。やがて展示物の最後の方に出てくるシュアレスの詩による「受難」のシリーズにおいて、そのフレーミング(場面の切り取り)そのものに、重大な意味が込められていることに気付き、慄然とする。

切り取るということ。切り取ることで絵の中に選択される場面とは、穴のこちらからあちらのシーンを覗いている自分が、実は覗かれる側でもあるのだ。だが、これまでこのルオーのフレーミングについて語っている人というのはいるのだろうか? 

大きさを自在に変える小さな「監視窓」によって切り取られ描かれた(様な)、聖書時代を扱った囚獄の図は、それを窓から覗いている自分こそが、実は現世における囚獄の身であり、その受難を生きている主体そのものに他ならない。

ミセレレ12の「生きるとはつらい業…」で、やがてくるだろうこの世の地獄を想い、そしてミセレレ13の「でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう」のふたりの見つめ合う顔と顔に、そしてミセレレ22の「さまざまな世の中で、荒れ地に種播くは美しい業」に私は涙した。そして誰ひとり人の姿のない街角を描いたミセレレ23「孤独者通り」にひとり佇むルオー自身を見た。

欧州の二つの大戦に挟まれたその時期に(というより二つ目のより大戦の直前まで)描かれるキリスト像、そしてミセレレ。「懊悩」と呼ばれるに相応しい深刻な課題に正面から取り組んだ黒の版画。これは、20世紀の半ばまで続くキリストのイコン像の絶えない系譜の生き残りであるに他ならず、また、時代を正確に照らし出した証言でもある。

そしてこれはひとつの必然か、キリストの顔を描き続けている梅崎幸吉氏の絵を思い出していた。