安息の音楽(土曜日に投稿すべしこと)

ベートーヴェンを聴いている、などと言えば「へえ〜何で今さら」という感じかもしれないが、齢(よわい)四十にしてやっと室内楽の深さと素晴らしさに気付き始めたのだから、私はまだまだツイていたというくらいのことなのだ。失われたマスターテープが再発見されたWestminsterという老舗レーベルから出ていた、バリリ四重奏のものが、現在CDで復刻されている。最近それらの素晴らしさに魅了されている自分は、片っ端から(とは言っても経済が許す範囲で)購入しているのだが、ウィーンの50年代の演奏家達が奏でる音楽性の魅力、フィデリティの驚異的な良さなどで、完全にどこかへ旅に出てしまうような時間が過ごせる。

私の特にお気に入りなのは、ウォルター・バリリというヴァイオリニストとハンス・カメシュというオーボイストである。特にバリリの方は、10代で戦時中にウィーンフィルハーモニックの団員となり、二十歳前にコンサートマスターになるという早熟ぶりを発揮したが、なんと身体上の問題で39歳で「引退」しているのである。私は39の時にバリリを知りようやく聴き始めたわけだが、そのとき既にバリリは引退していたのである。考えてみると、Westminsterで聴ける彼の演奏はほぼすべて20-30代で録音されているものだと言うことになる。

さて、話をベートーヴェンに戻すが、弦楽四重奏曲第14番というのがある…


いわゆるベートーヴェンの弦楽四重奏曲中、「後期に属する」ということで、多くの愛好家から評論家、実際の演奏家に至るまで、多くの人々の間ですでに高い評価を受けていて有り難がられているようだから、私が敢えて取り上げる必要もないのかも知れないが、やはり特別な音楽のひとつであることに変わりがないと言っておきたいのだ。

作られた順番からすると、16曲ある弦楽四重奏曲の中で14番目のものではなくて、最後から2番目に作られたものであるらしい(http://www.kanzaki.com/music/hanabi/pn05-lb.html)。しかし、どのような事情でそうなったにせよ、それが現在「第14番」となっていることにある種の暗合(暗示的意味合い)を感じる。そもそも「7」という、ある意味特殊な楽章数からなるこの曲は、嬰ハ短調(C# minor)という、これまた特殊な調で作曲されているのである。嬰ハ短調はホ長調(E Major:シャープ4つ)の関係調なだけだと言ってしまえばそれまでであるが、この調はそもそも葬送曲の調なのである*。短調はすべて同じ調子で「暗い」のではなくて、それぞれに異なる「暗さ」のニュアンスがある。嬰ハ短調は、死を連想させる響きを持つ。しかも、「7」という「安息の数字」に関連させられていることも見逃すことはできない。

* マーラーの交響曲第5番の1楽章 Trauermarsch(葬送行進曲)も嬰ハ短調である(http://www.kanzaki.com/music/perf/mlr?o=sym.5)。

非常にゆっくりしたアダージョでこの曲は始まる。とらえどころのない程に延びきった半音階的な動機で始まるこの寒々とした空気は、一体なんだ。まるでショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲かと思わせるような「現代的」なところがある。もちろん影響を受けた方はショスタコーヴィッチのはずなんだが。この楽章も中間部に差し掛かってくるとだんだんそのメロディーは明確になってきて、間延びしたと思われたそのメロディーが、実はフーガを作りだしていくための伏線だったことが分かる。永久に続いて欲しいこの最初の楽章のアダージョが、この曲の特殊性を決定している。

http://www.kanzaki.com/music/mw/sym/beethoven

不思議と言えば、弦楽四重奏曲第13番もである。6楽章からなる変ロ長調 (B flat Major) のこの曲は、面白いことに作品番号で言えば、Op.130。しかも、Westminsterの復刻版CDでもカップリングされている同じ調で書かれた「大フーガ」という単楽章の弦楽四重奏曲 (Op.133) とも、何か関連もありそうだ。「大フーガ」の名に相応しく、この1曲で弦楽四重奏曲13番の第1楽章から第4楽章まで(あるいは第4楽章から第6楽章まで)を足した長さにほぼ等しい。

しかも変ロ長調(B flat Major / B Dur)である。Cをトニックとするダイアトニック・スケールの「第6音のA」と「第7音のB」の中間に位置する音 (B flat) を基音としている。関係調はG minor / G mollで、Gは言うまでもなく7番目のアルファベットである。弦楽四重奏曲第13番と「大フーガ」には、どうも「6」と「7」の数性の呪縛があるのだ。

ライナーを読んで調べたら、そもそもなんとこの「大フーガ」は13番の第6楽章として作曲されたモノだったことが分かった(ライナーを読む前にあれこれ自分で考えるんですね)。つまり第1楽章から第4楽章までを足したような長さの、異常なる「最終楽章」を書いていたのだった。発表当時、それが「不評だった」ために、ベートーヴェン自らもっと短い第6楽章を書いて、それに置き換えたというわけだ。そうして押し出された「大フーガ」だけが、単独で残されたわけだ。もちろんこれは、まれに単独で演奏されることもあるだろうし、「大フーガ」が、第13番の第6楽章とするベートーヴェンの当初の意図を尊重したオリジナル版出版されたりもするらしい。

くわえて、その「大フーガ」そのものの構造が素晴らしい。まず冒頭、8つの音列が提示される。その主題が3つの異なる形で奏される。これはまた独立した曲であるものの、7つの部分からなるという驚くべき入れ子構造になっている。だから、私はこの“Westminster版”の録音、すなわち、6楽章からなる「第13番」が終わって、長い長い「大フーガ」が、その後に続いて、あたかも第13番の「失われた第7楽章」のように演奏される、という演奏スタイルのコンセプトを尊重したい。その理由は、もちろん説明するまでもないだろう。

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