過去における他者の《死》が未来におけるあなたの贖罪になる理由(あるいは詭弁)

Pieta

拙論は、

イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれたから、とキリスト教では教えている*

というキリスト教の中核ともいうべき(だが大胆な)教義の記述についての解釈論である。

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれの罪を消し去る「贖罪 しょくざい」であったという考えはどのように成立しうるのだろうか?** そのようなことが論理的に成立するのかと言えば、どうしても否と言う誘惑を感じないわけには行かない。。だが、こうした不可解もキリスト者にとっては当然のこととして躊躇いなく受け入れている部分のようである。そもそもどうして過去の聖者の自ら選んだ死が、未来の人間の過ちまで含んでそれらを消し去ることに通じ得るのか? 

* 「新約聖書とイエスの歴史的受容」Wikipediaのという項目からの引用。

** こうした疑問は決して真新しいものではなく、キリスト教に対する懐疑の発端としては古典と言うべきものである。例えば、「贖罪【しょくざい】論 」として書かれている解説にもそうしたトーンが反映されているのを見て取ることができる。これは一読の価値がある。

ある意味、これは現世を生きる人間にとって大変「便利」な教えである。現世を生きるわれわれがこれほどまでに堕落し、「間違って」いるのは、この免罪符をすでに手に入れたと考えたためではないかと思われるほど、われわれにとっていかにも有利な教えである。もし、「イエスがみずからの身を十字架にかけることにより贖罪を全人類のために果たしてくれた」と受け容れることが、キリスト者への第一歩であるとすれば、そこには信心することに付随する苦悩が存在しないように思えるではないか? 一体このような「決心」のどこが困難な修練となるのであろうか? 聖書時代から視れば、すでに未来の時を生きているわれわれの犯した(あるいはこれから犯す)罪が、過去の“聖者”による行為によってあらかじめ「消し去られている」のであれば、われわれは何をやっても良いという風にさえ、あえて解釈されはしないだろうか?(いや、現にされているのではあるまいか?)私ならそうするだろう。


例えば、かのアメリカ合州国大統領が原理主義的なまでの「キリスト者」たることを標榜しつつ、他民族や他国(隣人)に対しては到底信仰心を持っている人間とは思えないような大量破壊と殺人とを、自国の利益のためと称して実行指導しているような事実は、彼の様な「キリスト者」の行いも過去の贖罪によって、おめでたくも「あらかじめ許されているから」と考えているからなのではないか、と揶揄したくもなる口実を少なくともわれわれに与えている

いずれにしても、キリスト教注釈者らの伝統的解釈にみられる(恐れずに言うなら)「詭弁の神学」から一旦離れて、虚心坦懐に初めて聞くようにこのキリストの磔刑の贖罪説??イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれた??に接すれば、事によると、「後に自分でやった行いに対して(これから)きちんと報いを受けるのだから今は何をやっても良い*」と考えているようにすら聞こえてくるではないか。だがそうだとすれば、必ずやその報いはやって来よう。いや報いは来なければならない。

* まるで親鸞の「善人なおもて成仏す いわんや悪人や」を彷彿とさせるものだが、この世であれほどの悪をなし得る自称キリスト教徒がいることを思うにつけ、彼らが信じている贖罪説とは、要するに「悪人正機説」のことなのではないかとさえ思えてしまうのである。

だが、ここには解き明かしうる秘密があることにあらためて注意を留めようではないか。(なぜなら、キリスト教の《本質》を理解した上で信仰を選ぶキリスト者にとっても、それを理解した上で批判的な立場を取る人間にとっても、キリスト教が今日そうであるような世界宗教となるべき必然、あるいは「秘密」が、まさにこの贖罪論にこそあることは自明なのであるから。)

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれにとっての「贖罪」となるという考えには、端的に言って、まず時間の観念についての特有の混乱がある。通常、罪は犯した者が罰せられる(裁かれる)ことで初めて購う(あがなう)ことができる。これに反論はなかろう。すなわちことの起こる順序は、まず罪科ありきで、その次に懲罰ありきである。つまり購いは、まず罪科があってそれが裁かれることで達成できる。これが通常の因果であり時間の概念である。

あえて繰り返せば、聖書を字義通りに解釈する限りにおいて、磔刑は??約二千年前の??過去に起こった出来事であり、それはそのまたさらに過去に溯って刑罰を受ける対象(キリスト)の行なったさらに旧い行為の結果として、時代的な文脈の中でもたらされたものである。キリストの磔刑とは、少なくとも聖書においてはキリストの刑死という結末に至るまでの物語の中に、ことの起こりとともにきちんと因果関係の中に論理的に記されているのである。キリストの死が贖罪でありうるとすれば、キリスト以前の人類の行ないについて購われたと言うなら話は分かる。だが、キリストの死後に犯された罪まで購うとするには、人為的な論理の操作なしにはなし得ないのである。「キリストの磔刑は(未来の人類を含む、全人類の)贖罪を意味する」としたのは、後世のキリスト者によるご都合的な考えであり、あるいは神学者の詭弁的解釈なのである。

だが不思議なことは、これほど不自然で非合理的な考え方が、広く疑いなく信じられていることである。ここにキリスト教にまつわる全課題が横たわっているのかもしれないという推理は、おそらく当たらずとも言え遠からずである。

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だがここで、キリストの磔刑が単なる過去の出来事ではなく、現在も進行中のある出来事についての象徴的な物語であるとすれば、すべての謎は氷解し、疑問を感じていた者は腑に落ちるであろう。

いやむしろそうした象徴的な物語であると解釈しない限りはその本質に到達することはできないのである。そしてそう解されたとき、新約聖書におけるイエス受難の物語が、人類の歴史的《帰結》についての予定(預言)を含むものとなる。《キリスト》は語り伝えられた如く、またしても磔刑に遭うことになるし、その受難をまたしてもわれわれは目撃し(体験され)なければならない。そして未来におけるキリストの死(あるいは殺害)は、まさに《われわれ》の行なってきた(行ないつつある)罪を背負って死ぬという因果を、時間の経過通りに表現しているとも言いうるのである。

こうして2000年前に起きた《過去》の記録としての新約福音書は、過去にそのような聖者が現れたという「旧いニュース」であると同時に、その名の通り、未来の予定を含む読み物??福音??としての二重の役割を果たすことになる。

そのとき、われわれがまさに福音書で「預言」されたようなキリストの「数々の奇跡の行い」が今まさにわれわれの眼前に展開している事実を直ちに了解しようし、やがて《キリスト》というコードで知られる全体系に降り掛かる受難が、われわれの生存を可能ならしめているこの体系の通過(イニシエート)する、最大の受難となることを大悟するであろう。

そして、われわれの犯した罪の積み重ねの応報として、われわれは自分たちの「主人」を野蛮な仕方で(またしても)失うのであり、こうした「主人」の喪失という出来事が最大級の「試み」として容赦なく降り掛かるだろうし、むしろわれわれ自身の犯した罪の真の《贖罪》となるのである。つまり罪を犯したわれわれ自身が、ついにわれわれ自身の肉体を通じて報いを受けることで、われわれの罪は清算されるのである。ここには、最初に述べたような何らの「便利さ」も存在しない。だが、この最も真剣な解釈によって、初めて福音書がわれわれの今と未来とに関係あるものとして、そして贖罪を受けるべきわれわれの《そもそもの罪》が、太古より伝えられし抽象的でもはや現実味のない「原罪」よりは、われわれ自身の個別な罪の集積の果てに、われわれを最期的に突き落とすというニュースを伝えるものであることも了解されるであろう。

つまりわれわれが、こともあろうにすでに贖罪された(清算された)とする、勝手気侭な聖書の伝統的誤解釈が、われわれの多くを今この時点でこれほどの規模で誤らせているのである。そしてキリスト教の教義にはこうした誤解釈があらかじめ内包されている(かにみえる)からこそ、われわれは判で押したように(数千年前の)かつての人間のように再び過つのであり、そのためにわれわれは結局、意外な仕方で《主人》(= 安全な文明体系)を失うという形で《贖罪》と《洗礼》を経験することになるのである。

これを一旦知る瞬間とは、キリスト教が悪魔的な宗教であるという局外者による浅薄な理解も、自らがキリスト者であると信仰告白する者たちの理解も、そのどちらもが「ひとたまりもなく」自分の与している体系が、全体の出来事においてどのような位置を占めるものなのかを諒解する瞬間となるだろうことは間違いない。

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