《宗教学》が、信仰から分けられる必然

これは、筆者自らの内部に生じている宗教や宗教現象についての、永久に葛藤する考察を二者の対話の体裁をとって表現した「宗教学者と宗教家(信仰者)の対話」というシリーズへの補遺である。


言ってみれば、大なり小なり熱心な宗教の研究家というのは、単に行き当たりばったりに個々の宗教関連事象を対象化したり、研究成果たる関連書籍を渉猟したりしているのではなくて、往々にして宗教的事象を「文脈:コンテクスト」として捉えられるほどのまとまった量で対象化するものであるし、そうした横断的な研究がもたらす宗教についての概括的様相には、個々の宗教的事象から単独で得られる発見や体験の質自体の重要性と同等か、もしくはそれ以上に興味深いことがある。少なくともそのことを知っているということなのだ。そして宗教史家が宗教史家であり、宗教学者が宗教学者である理由というのは、こうした歴史的文脈で「宗教の遷移を理解する」ことができるような歴史鳥瞰的な眼を獲得したということに外ならない。だがもちろんこれは専門的な宗教研究家だけの特権ではなく、あらゆる信仰者や宗教家が持っていても「損はない」ひとつの視点ではある。そこまでは便宜上、認めても良いだろう。(もちろん、信仰者が自分の信仰の対象たる神を相対化するなどということは百害あって一利無しだと言われそうなことであるが、20世紀に書かれた神学者による記述を読んでいると必ずしもそうではないことがすぐに諒解されようし、少しでも思弁的傾向のある宗教者なら、他の宗教に対する一通りの関心は抱いているものであって、信仰者でありながら、相対化の第一歩は踏み出しているものなのである。)


したがって、こうした宗教の歴史的文脈についての理解という対象化自体の価値は全面否定のしようがないし、否定したところでおそらく得るところもないだろう。だが、宗教者や信仰者が、人生を通じてそれぞれ個々に得られた(と少なくとも思われている)神秘体験や宗教体験の発生の必然性や、各時代に改革の波によって洗礼を受けながらも続いてきた古今東西の宗教の持っている存在論的かつ歴史文脈的な発生の蓋然性を了解するという分類学/博物学的な歓びだけでなく、個々の宗教体験自体が放つ、信仰的生活のもたらす特有の快感性や官能性、あるいは固有の意味, etc. に気付かないとすれば、そもそも神についての考察や生死観についての考察を愛するのではなく、神自体や信仰生活自体を愛するという信仰という行為の原初の目的を忘れていることになり、本末転倒である。

(これについては宗教学者のルドルフ・オットーによる考察が明察的である。)

したがって、宗教に関する「歴史文脈的理解」は、研究行為に指針を与え、信仰者の精神に一定の「豊かさ」を添加するだろう。だがそれはそれだけのことであって、その添加物のみでは宗教家の態度としては、なんとも不十分なのだ。(これが宗教における信仰という内面生活について語る言葉を持たない一般信仰者の持っているかもしれない一般的傾向とさえ言うことができるかもしれない。)

ましてや、宗教者によるそのような歴史文脈への理解や歴史軸に於ける立ち位置の自覚が、信仰者としての価値(あるいは宗教者の信仰の程度)を決める、などという言説の登場に至っては、どうして個々の宗教体験がそもそも経験されなければならなかったのかという最重要な動機部分を空洞化させることになるとしか言いようがないのである。

(だが、このロジックにこそ宗教者が外部の論客から自己を護る論法として利用される余地が残されているのだ。)

そこでわれわれは、いわゆる専門家(マニア、あるいは控えめに愛好家)たちの持つ宗教諸事象についての鳥瞰的視点が獲得される以前の状態、すなわち神秘体験を体験自体の価値を通して個々に判断するという原初の態度につねに立ち戻る必要があるのだ。

つまり、宗教の発展や変遷についての歴史認識や歴史解釈が、宗教家にある種の使命感や自覚をもたらす可能性を否定はしないものの、信仰や信仰生活の中身というのは、そのようなものばかりではないということだ。宗教研究家などによって容易に言語化可能な文脈的解釈のなかに位置づけられる「信仰動機」のなかに信仰の本質はない。(いやその程度の本質で済んでしまう「信仰」や「宗教」もあるかもしれない。) 時に、宗教の本質は信仰者らの自覚のレベルを超えて??あたかも信仰者本人たちによっても認識されないような無自覚な“動機”が内部に潜んでいるかのように??立ち顕われ、同時代人や後世の人々を動かすダイナミズムを生起させることがあり得るのだ。ここでは「自覚」や「認識」なるものが何の意味も成さない。あるのは、「信仰者の自覚があったに違いない」という後世の人間の憶測と解釈に過ぎない。

いずれにせよ、宗教の出現を時代文脈的に捉えて説明しようという誘惑に歴史学者は負けがちであるし、信仰についての現実が、そのような次元の解釈で範疇分けされてしまうことはつねに可能であったし容易でもあった。だが、宗教の真の価値は、歴史的文脈やその解釈のなかにあるのではなく、その信仰生活自体のなかに潜んでいる。

そして「伝達されるべき意味」において、厳密に《教義》を踏まえつつも、今日でも宗教が、それぞれ個別に認められる信仰や信仰生活という中身が存するものが、実は真に宗教の名に相応しいものなのである。

そしておそらくそのような性質を秘めた宗教は、逆に、歴史的な位置づけという後知恵的な「解釈」にも十分に耐えることができるだろうことは想像に難くないのである。それが信仰や宗教(そして神秘体験)の本質とは無関係であるにしても。


以上は6/29/2007に掲載した拙論、“「解釈」や「自覚」を越えて”を利用して、そのまま自己パロディー化の上、「再生産」した文章である。音楽の愛好家と宗教研究家が、如何にもその対象への偏愛によって、その中身を生きるのではなく、研究活動という生活の中身を行きてしまいがちであることを、否定せずに、その価値を認める論である。何故なら自分は、音楽については中身を生きられても、宗教とはそのように関われないから。

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