Archive for the ‘ビデオ鑑賞ログ’ Category

ムーアの『Sicko』を観る

Sunday, May 9th, 2010

Moore's Sicko PosterMichael Moore監督は、どこまでもアメリカ人のドキュメンタリー映画作家である。彼の主たるターゲットはアメリカ人だし、「アメリカ人であるわれわれ」がどこまでも特殊であるのかという視点から、「自分たちアメリカ人」を目覚めさせなければという明瞭な使命の元に、主旨を訴えかける努力を止めない。その点で言うと、「日本人であるわれわれ」が、なかなか共感も理解もできない面があるのは否めないかもしれない。銃の問題を扱った『ボウリング・フォー・コロンバイン』もそうだったし、今回観た『Sicko』はとりわけそうだ。だが、そうした明らかなターゲットをもって撮り続ける彼の姿勢は、むしろ「共感」できるものだ。

今回、『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』 を観たいと考えていて、順序としては『Sicko』を先にビデオで観ておこうと思いレンタルしたのだが、見終わって上で書いたようなことが頭に去来した。それは彼の視点が明確に「アメリカ人当人である」ことを軸にしていることのためであろうが、説明のスピードも編集の作法も、国内の医療問題をまさに体験している人々をターゲットにしているためになされており、決して外国の鑑賞者にとっては親切な映画ではない。そうしたことによって起こる、ある種の「違和感」がなくはない。だが、それは観る側の学習の度合いや想像力、そして何度鑑賞するか、どこまでこの問題を「理解したい」と思うのかという熱意次第でも変わるだろう。当然のことながら。

この映画によって提示されていることは、アメリカ合州国の医療制度というものが、力を持った資本家たる企業や医療関係の当事者の利益追求が大元となった構築がなされており、あまりに明確な腐敗が原因となっているのであり、そもそも彼ら企業や制度の存在が、傷病者自身の利益のためにはないということである。そして国民皆保険制度は世界中の多くの場所で実現しているにも関わらず、合州国ではそれがどうしても企業から政治家たちに送られるロビー活動(つまり多額の献金)のために実現できない。

企業がその経営者や出資者の利益のため、という動機で企業活動を展開する限り、どんな美辞麗句で「カスタマーファースト」を表面上謳おうとも、「お客」は結局自分たちが利用するカモであり「食い物」に過ぎないのである。保険会社は自分たちの利益を守るために、それが最も必要であるそのときに、契約者への保険金の支払いをあらゆる手段をとって回避しようとする。そしてそのための特務を帯びた人員が確保されている。こうした特務を帯びたかつての被雇用者で、良心の呵責に耐え切れなくなった者が、企業を糾弾するためにムーア監督の映画の中ですすんで証言をする──企業活動の中でしか知り得ない情報を、より広い社会の利益のために公開するのだ。

ある公聴会における医師の証言は心を打つものがあった。この医師はある保険会社において契約者の必要とするという医療が適正であるかどうかを、その企業の利益を確保する視点で審査する役割であり、その役割によってどれだけ多額の報酬を得ていたかを、そしてその「職務」によってどれだけの契約者が不利益を被ったか(つまり必要な医療を受けられずに死んだか)を、説明したのである。

アメリカの企業が、企業外の人間たちをどれだけ食いものにし、利益を悪辣なまでに追求しているのかは目に余るものがあるが、それは対岸の火事だと思うのは大きな間違いとなるだろう。何故ならば、現今の日本の政治が選択し、日本の国民を導こうとしている大きな方向性こそ、アメリカ流の企業経営であり、またそうした企業が日本国内で利益追求のための活動をしやすくするための舵取りの結果なのだという事実があるからである。

アメリカ流の会計システムや、法律事務所経営というものが、まず日本に上陸してきている。これは、対岸の火事だと考えていたはずの、いわゆる訴訟社会へと日本が移行していくための布石なのだ。そしてすべてを「民営化する」という流れこそ、当然受けられるべき社会福祉や行政サービスの質を悪化させて、「自己責任」とする社会への改悪なのである。

映画『ミリオンダラー・ベイビー』からの教訓

Tuesday, June 26th, 2007

milliondollar baby

以前、どこかで映画作家で批評家の西周成氏の書いていた評論を読み、クリント・イーストウッドの監督作品である本作を意外にも肯定的に評価していたのに興味を抱き、いつか観てみたいと思っていたのだが、ビデオをレンタルしてついに観た。

以下は、それで得た感慨。

1)人生の価値は、それがどう終わるかによっては判断できない。

(人生の価値は、その始まりにも過程にも終わり方にも、どの段階にもあるだろう。)

人生の終わり(死に方)の有り様は、その生き方の中に原因が求められるが、生きる者すべてに終わり(死)が来る以上、その死に方はひとつの結末ではあっても、人生そのものの価値とは関係がない。

人生の価値がその終わり方(死に方)にのみ見出されるとする者には、終わりだけを「良く終わらせる」ための追求が長い人生の中身となろう。人生の半ばは、全て手段であり、方法であるということになる。

だが、一体生を受けた何者が自分の死期や死に方を正確に予期できよう?

2)ひとが他人と関わり、コミュニケートし、何事かを伝えるという行為は、何事かを達成するための手段であるに留まらない。それ自体が価値であり、人生の中身である。

【結論】

「終わりよければすべて善し」は、人生の本質を捉え損なう、余りに単純化した言い方ということになろう。

PS. それにしてもモーガン・フリーマンが狂言回しとして、とつとつと語るあの語り口は、『ショーシャンク』のときも然りだったが、映画の成功の一要因となっているようにも思え、ちょっと演出家としては「ズルイ」ところかもしれない。それほど別格の「語り部」だ、フリーマン。

「死と再生」と「世界の更新」から観た
『タイタニック』考

Wednesday, October 5th, 2005

■ 「死と再生」の祖型パターンとしてのタイタニック・ドラマツルギー

映画『タイタニック』で描かれている物語の核は、タイタニック級の巨大客船が正に地球上の人類の造り上げた文明世界の縮図であるという一点に尽きる。そしてそれは「建設」され、文明を沈むはずの無いと信じる大量の人命を抱えたまま「崩壊」するという法則を描いている。例えば、それはエリアーデ風に言えば「インド・ヨーロッパ諸民族の間に観られるイデオロギーの三分割を表現している」。すなわち、呪術的・法的な支配の機能(バラモン:ジュピター)、軍事力を司る機能(クシャトリア:マルス)、豊穣と経済的繁栄をもたらす機能(ヴァイシャ:クィリヌス)となるわけであるが、それは船を水平に三分割し、「法的至上権」を持つヨーロッパの貴族達とアメリカの新興の成金階級達が船の最上部を占めており、二等、三等と下に行くにつれて、アイルランドやスコットランドなどの社会的下層(非支配階層)となる。「力を司る者達」は、沈没直前まで途切れることなく電力が供給するために船に残る。また最期まで救命ボートを用意し人々を移す役割に淡々と専念する。彼らこそクシャトリアの名に相応しい存在である。そして新天地を目指す貧困層は第三階層の「ヴァイシャ」に相当し、さらに下には、「不可触民」たる地下世界の住民(夜昼なく奴隷のように働かされる石炭焚き達)が、ほとんどその存在さえ気付かれることなく船を動かすための燃料補給をしている。

船長の「短い不在」(睡眠)の間に、船の命運を決める災害が起こる。それから起こることは、緩慢だが確実な「水による世界更新」の洗礼である。

特に、主人公の女性に起こることを通して、典型的な通過儀礼(イニシエーション)によって文字通り「生まれ変わる」人間の姿を描いている。まず、自分の生き方を変えようと決心したとき、彼女は船の突端で「鳥」になる。これはすべてを鳥瞰する「天界への飛翔」の瞬間を意味している。むろん、この手の「飛ぶ」イメージというのは宮崎駿映画などでも常套手段となっている程一般的な「日常」を超える至高体験描写であると言ってしまえばそれまでである。

だがその後の「世界の破局」を迎える彼女には、愛する者のために地下に閉じ込められている少年を救い出すという英雄的な「地下の迷宮行」と極寒の水を超えて延々と進んで行く道行きを含んでいる。また、主人公を命に関わる試みに遭わせた悪漢は火を噴き出す地面の割れ目、すなわち「地獄の業火」の中に落下する。そして愛を貫くヒロインの行為は、その絶対的な自己滅却の傾向を表す反面、「自分が救われる」ための結末へと近づく。彼女は愛する者を救うことなしに自分を救うことは出来いからである。「救命ボート」に乗ることは旧世界との関係を断ち切ることを不可能にしたし、沈み往くタイタニックに戻ることは自力で生き残る戦いが不可避の選択となるからである。しかし、当然のことながら独りの女の「生まれ変わり」を描く以上、彼女は愛する者と真に生きるための死闘を選ぶ。そしてその後は、選び取った者(若い男性主人公)の冷静かつ本能的な生存への直感的指導に疑うこと無く素直に従うことで、自らの「生還(死と再生)」を成就するのである。

沈み往くタイタニックの水で満たされた「丸天井」のある広いサロンに、一瞬ヒロインを思わせる白いレースを来て漂う「高貴な女性」の水死体が幻想的に映される。これは今にも船尾を垂直に立ち上げ、最期の断末魔を挙げようとする船の「頂上」に向かって意を決してまさによじ登ろうとする女主人公であるはずがないのであるが、同時に旧世界に属した彼女自身が一旦「水死」したことを象徴的に見せている訳である。

いよいよ巨大な渦を発生させながら船が水没し、その渦に巻き込まれ海中に沈むことで「完全な闇」の苦行を体験する。その後、凍てつく海上に漂うところで「氷の洗礼」を受ける。やがて急速な低体温症によってほとんどの最後の生存者まで凍え死に叫び声さえ聞こえなくなった海に、女主人公だけがひとり残される。これが絶望的な「完全な途絶」を体験する。こうした一連の通過儀礼の経過が完璧なシナリオによって描かれるのである。

※ ※ ※

■ 沈没事故の「現実」と現代文明

タイタニックが北大西洋の海に沈むとき、その乗客乗員の中で、その出来事の影響を被らなかったひとは一人もいなかった。それは僅かな生き残りの含めてである。沈むに際し生存の機会は富める者達に有利に働いたことは言うまでもないが、数の少ない救命ボートへ乗り移る機会に与らなかった者達にとって、その「世界」の社会階層はもはや意味をなさないほどの大混乱となった。船とともに、海底深くまで引き摺り込まれて行った者、海に引き込まれずに救命胴衣を付けたまま凍てつく零下の海上に浮かんだ者、運良く救命ボートに乗れた者、救命ボートから落ちた者、三等客室から出られなかった者、人を救った者、救われた者、人を押しのけた者、押しのけられた者、船に残ることを選んだ者、肉親と別れることを選んだ者、肉親と留まることを選んだ者。海上に浮かぶ者を救出に戻った救命ボート、みるみる凍り付いて声を上げなくなった海上を漂う遭難者のところに戻らずに、ただじっとしていた救命ボート。船上のあらゆる存在の中で、船に乗り込むことを選んだ者達の中で、その沈没という<出来事>の影響を被らなかった者はただの独りもいなかった。誰一人として。船が生きる縁(よすが)である限り。これが「一蓮托生」の意味である。それはタイタニックという名の惑星に張り付いた一本の根を持つ植物なのである。その<出来事>の中で1500人を超えるという人々が、北大西洋の何の救助も期待できない孤独な海上で、海に飲み込まれたか投げ込まれたのだ。

そしてわれわれの住むこの世界もそのタイタニックの運命と如何ほど違うというのか。違いは70億近い人々が一つの運命を持った母船に乗っているということである。この地球上で起きる<出来事>は、誰一人としてその影響を被らないでいることが不可能なほどの規模で進行している。すでに氷山とは接触した。水の浸入は始まった。あるいはこれから接触するのかもしれない。氷山接触への海路をひた走っているのかもしれない。浸水であるにせよ、氷山への驀進にせよ、その出来事の規模が大きいが故に、その衝突によってこれから起きる<出来事>の深刻さに気付かずにいるだけだ。そして、規模があまりに大きいためにまるで静止した様にしか見えない。しかしその進行は力強く確実だ。いくつかの兆候は起きている。船の舵取りを廻って熾烈な戦いが起こる。その結果、運の悪いことにわれわれの船の操舵室と一等客室はごく僅かな人間どもによって乗っ取られた。その選択の方法も極めて狡猾なやり方だった。<民主主義>の理念を反映しない議会制民主主義と呼ばれる方法が注意深く選ばれ、われわれ一人一人には選挙権が1票だけ与えられた。これを行使することが民主主義としての政治に参加することであると耳には告げられた。ありとあらゆる既得権者保護と優先権取得のために力を持った極一部の者だけが甲板に集結できるようにした。そして操舵室には自分たちの向かおうとする目的地へと、好きな速度で疾走してくれる船長、そしてクルー達を送り込んだ。彼らがどう(それ自体が身代わり*かもしれない)その船を動かすかは、この僅かな人間たちの奢侈な「社交界」で決まった。彼らは必要ならもっとも快適な甲板の日を浴び、また外が寒ければ毛皮を羽織って葉巻とブランデーの待つ暖かいサロンに避難することも出来た連中だ。片手には身体を温めるためのブランデーがあり耳には心地よい音楽があった。そしてそのサロンに集合する極僅かな連中が彼らにとって都合よく「船が運営される」ためのあらゆる法を造った。合法的な手段で悪法を成立させ悪法はあらゆる悪を実行した。そして合法的に世界を破滅させる舵取りをさせ、僅かな船上生活の中で少しでもよい場所を陣取ることに邁進した。法律は唯一にして平等に適用されるべきものであるにも関わらず、不平等を実現するための手段と化した。工場のような巨大な機関室は大勢の石炭焚きを残したまま真っ先に密閉式の閉鎖扉で断絶され最悪の焦熱地獄は一転して非情なる水攻めの密室と化した。三等客室の人々は檻のような扉に閉ざされ避難路さえ断たれた。舵取りは誤った。連中の「思い通り」の運営さえ、自分たちを護れないほどの判断過誤を犯して船の針路は氷山へと方向が確定した。激突か接触か。いずれにせよ氷山との邂逅までは時間の問題だ。それまでの時間をどう過ごすかをわれわれは求められている。舵取りを彼らに任せたままにしているのか。操舵室を占拠する者から舵を奪回するべきなのか。船底で石炭を炉に放り込む石炭焚き達はこの出来事が定まっていても作業を続けるべきか。彼らに船の進む方向を知らせなくて良いのか。もはやすでに運命が変えられないほどの速度で破滅に向かっていることが明らかな時、どのようにわれわれはその時間を過ごすべきなのか。僅かな生存空間を求めて僅かな残り時間を争って過ごすのか。愛する人とともにその時間を過ごすのか。愛する人と別れても、自分の役割を淡々と果たすのか。はたまた愛する人と過ごすことが自分の役割なのか。この単純な構造、沈み往く船、という「現象世界の世界的現象」の中で、われわれはその判断を迫られている。

※ ※ ※

■ 消えてなくなる巨大客船

「現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が消化され、残りも約90年で消滅するだろうと言われている。」ウィキペディアの「タイタニック」の項

つまり、僅か200年足らずの間に鉄骨なんかもすべてなくなるという訳である。恐るべし、海の力。われわれの「乗り込んで」いる鉄文明たる「タイタニック」も、たったこれだけの時間で「水の洗礼」を受ければ消滅できると言うこと。科学が扱える「実験的に証明できるような正確な対象物」は、これほど脆く地球上から消え去るのである。

* タイタニック身代わり説:

J. P. モーガンの子会社である船会社ホワイトスターが、外観が全く同じ新品のタイタニック号と古いオリンピック号をすり替え、経営不振からの脱却のために、保険金入手目的でタイタニック号(実際に「事故」に遭ったのはオリンピック号)を氷山に衝突させ沈没させたという陰謀説。その真偽はともかくとして、陰謀動機と実行可能性、そしてそれを裏付けるかに見えるいくつかの状況証拠は、非常に興味深い。

豪華客船「タイタニック号」は沈められたのか

7.7と来て、8.8と来れば…

Thursday, September 8th, 2005

数字の並びについて

「数字の並び」というのは、スロットマシンのお陰か(笑)、「777」など特に、「芽出たい」ものと思われているようだ。それが芽出たいか不吉なのかどうなのかはともかくとして、「ふたつ以上並んだ数字」というのが(エソテリズムや象徴主義の伝統の中では特に)重要な意味を持つことは知る人も多いだろう。大いに語りたいことだが、ここではそれには深入りしない。だが、数字が二つないし三つ並ぶことで「意味ある日時」などを「記憶」しやすくしたり、「注意」を喚起したりすることができる。「繰り返し」というのは一つの心理的効果なのだ(「記憶術」や「陰謀論」の一種)。

例えば今年ロンドンで起きた「同時テロ」は、7月7日。覚えやすい。世界(というか、ウォールストリート)が見守る中、参議院本会議において郵政民営化関連法案が否決。これは8月8日。そして明日は9月9日。朝の9時と言えば、ラッシュ時だ。しかも、奇しくも誰もが忘れもしない「9.11」に予定されている“郵政”衆議院選挙のぎりぎり2日前だ。何もないことを心から願う(自民党が「圧勝する」とのまことしやかな投票前情報が出回っているところからしても、東京は当面「安全である」可能性が高い。安全なのは願ってもないことだ)。あとは変な番狂わせがないことを心から祈るばかりだ。

こう言うことを書くことは、自分にとっては「防衛」の一種だ。単なる被害妄想狂の戯言かもしれないが、映画『隣人は静かに笑う:Arlington Road』(1998) は、人ごとでない。犯罪の成就をもっとも怖れる主人公(研究者)が、単に「犯罪の成就」に手を貸すばかりか、そのテロ犯罪の道具とされてしまうという恐るべき逆説。世間にとってもっとも信じ難い「途方もないこと」が、実は真実であり、もっとも信じ得るストーリーこそが虚構であるという戦慄すべきプロット。あらゆる細かな事柄が「彼がテロ実行犯である」ことを見事なまでに指し示してしまうという天才的なテロ組織の作る完璧なシナリオ。

こうした映画を作ってしまうアメリカという国の二重性を表す好例だが、まったくもって、ひとりでも多くの人に観てもらいたい最近のアメリカの産んだ佳作である。9.11前に作られたということも特筆に値する。

…と、突然映画話に成ってしまう「数字のゾロメ」話であった。

映画『パッション』を斬る:
われわれにはもうそのような巨大なイコン(遺恨)は要らない

Tuesday, March 15th, 2005

映画『パッション The Passion of the Christ』の映画の示した製作陣の想像力と創作力の欠如は、あまりに明らかである。メル・ギブソンがカトリックの信者であるとか、巨額の私財を投じたとか、あらゆるこの映画を伝説化する多くの美辞麗句を用いた風説が語られ、日本でも、呆れたことに、おおむね肯定的にその「衝撃」を受け入れているかに見えるが、それら一切が本作品の本質を語ることとは無関係である。

この映画は人間の想像力の衰退を映像的に補うという目的で正当化できるとでも言いたげな、だがその実、人々の想像力の欠如にむしろつけ込んだ映画であるとさえ言える。映画が、人間イエスの肉体的苦痛(だけ)にフォーカスしたことは、福音書の映画化というかつても存在したいくつかのプロジェクトの中でも、確かに今までにないアプローチであることは認めても良い。だが、人間イエスが通過した肉体的苦痛の映像的な再現とその強調表現というものを通して達成出来る「彼ら」のゴールとは、怒りと悲しみ、そして、それを成就させたある種のグループへの遺恨というネガティブな感情の醸成でしかないだろう。その結果としてなされることとは、「人と人を分つ」ということである。

確かに、聖書そのものに、そうしたネガティブな感情を作り出す側面があるということが、この際より明らかになったという意味で、別の評価も出来るものかもしれない(だが、それへの極端な反応が映画を見た人々による現代を生きるユダヤ人への憎悪の亢進という、ある程度予測可能だった異常な事態である)。だが、本稿は、聖書そのものの、あるいはキリスト教そのものへの批判を眼目としたものではない。そのような考察は容易にこの批評の範囲を超える。*

[* ましてやアンチキリスト教信仰者でもないばかりか、キリスト教のもたらした象徴的世界の<実現>のまさに渦中にわれわれ自身がいる以上、その宗教への安っぽい批判は、実のところ、その象徴的な出来事の<成就>に手を貸すことにはなっても、「批評できる以上客観的である」ということにも依然としてならず、いつまで経ってもその影響下から抜け出すことが出来ないというパラドックスに陥るのみである。だから、ここでは映画に対する批評にその射程を絞ることにする。]

もちろん、イエスが痛みを感じる存在 — 人間である以上、彼が体験した肉体的苦痛というのは、映像化されるまでもなく、新約聖書の福音書を読み、中世の時代から繰り返し描かれてきたキリストの受難を描いた絵画(イコン)を見れば、十分に想像出来るものである*。映画化されたショッキングな映像を通して初めてイエスに起きたことを悟るというのでは、まずは信仰者としてあまりにお粗末という以外にない。だが、映画はそうした現代人の想像力の欠如を最大限に利用して、むしろ宗教に対して熱心なばかりで怠惰であり続けられる自称信仰者を容易に間違った方向へ導くものである。

[* イエスが人間である、と(とりあえず)断定するこの文章を、イエスの神(もしくはそれに準ずる存在)であると信じる信仰者の側からすれば、笑止なものであると受け取る可能性があるが、「イエスが人間ではない」と信じたい人々に逆に訊きたいのは、もし人間でないとしたら、彼の体験した痛みに一体どんな意味があったことになるのだろう? 彼がわれわれと同じ肉体を持った人間であったからこそ、その「受難」に意味があるのではないだろうか?]

映画『パッション』は、新約聖書の(福音書の)中で描かれるイエスの肉体的な受難だけを、しかも最期の12時間だけを選択的に映像化したものである。そして、その抜き出し方そのものの中に、制作者の具体的意図がある。言うまでもなく、今回映像として抜き出された部分だけが聖書のすべてではない。しかし、受難だけを選択的にドラマ化したことによって、聖書を自ら参照することをせず、また自習しない極めて多くの一般的な(自称)クリスチャン、もしくは若いクリスチャンの精神に与える影響は無視することが出来ないほど絶大であると言わなければならない。

聖書の詳細を幾分なり知る者たちや、ある程度の自覚を以て読んだ者たちとっては、映画の大半を占める受難シーンの中に出てくるいくつかのエピソードは、一般教養のレベルで知っていることであろうが、映画で初めて知るというのに近い非キリスト教圏のほとんどの鑑賞者、そしておそらくほとんど日常的に聖書を読むことのない非常に多くのキリスト教圏の鑑賞者にとってすら、説明なしにそれがどのような意味を持ったエピソードであるのかが分かるような映像構成にもなっていないのである。

人間の残酷さとそれを受けるイエスの痛みという肉体的受難を描くことにひたすら傾注しているこの映画は、束の間、フラッシュバック的に描かれる「過去の出来事」として、聖書で言及されるいくつかの重要なエピソードが断片的に見せるだけである。だが、それは聖書を知っている人によるひっきりなしの注釈が必要なほど、不完全かつ不親切に描かれている。その点だけを考慮すると、最期の12時間に起こるいくつかのエピソードの扱いが、それらをある程度ベーシックな知識として了解している鑑賞者をターゲットと想定しているとも考え得るのである。また、極端な暴力シーンの連続であるこの映画は、残虐な暴力シーンを含む映画に対してもっぱら厳しいレイティングを施す合州国では、大半の子供が観ることが出来なかっただろうことは想像に難くない。この2点から言っても、イエスの受難劇をある程度了解している人(おとな)が、自分の聖書体験を映像で追体験、あるいは再発見しようというのが、鑑賞者にとって『パッション』を観る動機であるように思える。だが、もしそれが正しいとすれば、このことはイエスに起きた肉体的な受難が「どれほどにひどいものであったのか」という下世話な興味を満たす位の効果しかないことになる。分かりやすく言えば、この映画から学べることはほとんどなく、サディズムやマゾヒズムを満足させる映画なのではないかと邪推したくなるほど程度の低いものなのである。

したがって、逆にこの映画で初めて聖書の世界に入ってくるという人々にとって、これが適切なイントロダクションになり得るかということは、十分に検討されなければならない。

この映画を観る前と観た後で、われわれはどれだけ賢くなっているか。このことを問う必要がある。この映画はわれわれに何か新しい哲学的省察の端緒を提供しているだろうか? あるいは、聖書や宗教に対するあらたな視点というものを提供してくれるだろうか? イエスという「人物」の持っている根源的な矛盾や、イエスのもたらすメッセージ中のダブルスタンダード、さまざまな人間臭い悩み、そしてやがて「救世主」に成っていくことに付随するパラドックス、ユダヤ律法者やイエスの弟子たちのコミュニティに発生する対立や困難、親友の裏切り。こういった肉体以外の「受難」、人間集団にもたらされる受難をこの映画は描いているだろうか? あるいはポンティス・ピラト自身の立場やローマ辺境の地の政治的背景は描かれているだろうか? マグダラのマリアが一体どういう役割を果たしたのか? そうした一切が描かれていない。映画に登場する人々の半分は野卑に預言者に苦しみを与えることに喜びを見せ、残りの半分は苦悶するばかりであるが、何を苦悩しているのかが分からない。苦悩しているらしいことが、母マリアの顔を絶え間なく伝う涙や苦痛の表情を通して表現されるだけである。そこでは即時的な苦悩は表現されるが、人間のドラマが描かれることはない。息子が痛めつけられて苦悩することを描くのなら、普遍的に現在でも世界の至る所で起きているのであり、イエスと母マリアでなくてもいいはずなのだ。

以上のような聖書や人間イエスの周辺に現れるあらゆる矛盾や苦悩、そして何よりもイエス自身が通過しなければならなかった精神的な受難と変容。こうした内容がふんだんに盛り込まれているのが、ニコス・カザンザキスの原作を元にマーティン・スコセッシによって監督・映画化された『最後の誘惑 The Last Temptation of Christ』である。

様々な点で、『The Last Temptation of Christ』は、メル・ギブソンの『Passion』を凌いでいる。ほとんど比較するのもバカバカしいほどである。サウンドトラックの音楽に関してだけ言っても、後者のは、前者のサウンドトラックにおいて実現されたあらゆるアイデアの恥ずべき盗用と評価したくなるほど、「いいとこ盗り」である。聖書ものの映画にあのような音源を当てることを考えついたのは、Peter Gabrielの業績なのである。

メル・ギブソン曰く、「私の望みは、ユダヤ人を非難することではなく、キリストが我々の罪を償うために味わった恐ろしい苦難を目にし、理解することで、人の心の深いところに影響をあたえ、希望、愛、赦しのメッセージが届けられることだ」(公式サイトからの引用)。一見、いくらでも良心的に解釈できそうなコメントだが、彼は自分の語るところの「キリストがわれわれの罪を償うために味わった恐ろしい苦難」という彼なりの聖書「理解」を語ることで、図らずも現代における典型的キリスト教信者に共通して見出されるキリスト教に対する「大いなる勘違い」の領域から一歩も踏み出していないことを自ら露呈する。メル・ギブソンを含めて、過去の「実在の人物」に起こった受難が、その未来を生きる「今日のわれわれの罪」まで償うことになるというご都合者的な欺瞞、現在のわれわれを故なく免罪する論理上の破綻、その両者を容易に見逃す。キリストに起こった受難とは、その「4つの福音書」を通じて預言された<現在>を生きるわれわれにこれから起こる、そして既に始まっている受難を、象徴的に表しているものであるということにまったく気付いていない。

いくら語っても足りないほどだが、映画自体を(そして聖書そのものを)理解し、批評的に鑑賞することなしに、この映画がわれわれを哲学的省察に導くことはない。だが、もし人と人を分つことに働くならば(そして、おそらくそのようにしか働かない)、それは本来聖書の意図したことから大きく逸脱したものと言わざるを得ない。

聖書自体が最後にこう断っている。「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、私は警告する。もしこれに書き加えるものがあれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉を取り除くものがあれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」(ヨハネの黙示録22-18)と。これは、新約最後の預言書の、そのまた最後に書かれた警告であるが、それは、聖書全体に対する「取り扱いに関する注意」のようにも見える。聖書を一部引用してそれを「作品化」した映画『Passion』は、その点ではキリスト教原理主義者を喜ばすような体裁にはなっていても、聖書自体を正しく参照していないという点で、すでに原理(原典)主義的アプローチからもほど遠いのである。その点、一方の受難映画『最後の誘惑』は、何を参照しているのか、すなわちニコス・カザンザキスの哲学的省察をもとに作品化したことがきちんと最初に明記される。だが、映画『Passion』は、そのような断りもなく、大いに権威的なプレゼンをするのである。だが、よく言っても、あくまでも2時間に渡って延々と描かれる、メル・ギブソンの私財27億円をつぎ込んで造られたイエスの壮大な「苦しみのイコン」再創造プロジェクトに過ぎなかったのである(映像作品的には多くの盗用の末にできた再創造であるが)。誇大妄想狂の至った最後の作品が、キリストの受難だったというのは、いかにもありそうなことではある。

「聖書からの抜き出し方そのものの中に、制作者の具体的意図がある」最初に言ったのはまだに、そのためである。

『恋人までの距離』を計ってみる

Friday, February 4th, 2005

見目麗しき男女の出会いと、気の利いた会話。魅力的な舞台設定と心憎い選択の音楽。そしてやがて来る切ない別れ。

敢えてこの映画『恋人までの距離』の“特殊さ”をあげるなら、それら映画を成り立たせる要素が、ありそうでいてやはり現実にはあり得ないようでもあり、現実にありそうにないようで、だがひょっとしたらあり得るかもしれないという、リアリティに関して絶妙のところを選んでいる点であり、その点に付いて言えば、まずはクレバーである。だが、待てよ。それは特殊性ではない。どんなドラマもその辺りを狙っているではないか。いずれにしても、脚本家のスマートさ、博識は、セリフからある程度明らかだ。そしてこれらの台詞を覚え、淀みなく捲し立てられる俳優の技量に関しても舌を巻く。このひたすら心憎いまでのクレバーな映画は、それでも、果たして映画と言えるのだろうか? 換言して、これで芸術としての条件を満たしていると言えるのか、ということには疑問の余地があるのだ。これは、おそらくひたすらクレバーなエンターテイメントに過ぎないのである。そしてより適切な表現をすれば、「駆け足の観光映画」なのである。

おそらく、この映画で主人公たちに感情移入が出来て心底共鳴し、「こんなメにあってみたーい」とさえ感じる若い鑑賞者(がいるとしたら、彼ら)は、私の疑いに対してもうすでに反発を感じていることであろう。

いいのである。これをいい映画だと思える人は。これで満足できることに何の問題もない。

この男女がどのような「再会」を果たすのか、続編『Before Sunset』をわくわくしながら期待すればいいのである。だが、この映画『恋人までの距離』(原題『Before Sunrise』)は、もっと良い映画になれる可能性を持っていたし、あるいは、もっと良い映画が将来作られるための、ヒントの宝庫であることに違いはなかった。そうは言っても、依然、反感を感じるひとは感じるであろう。だがこうして続編が出来てしまうと、制作者(あるいは主人公)たちが、再会までの9年でどのように「成長」したのかが、さらにジャッジされることにもなる。もちろん、主人公たちに起こってしかるべき成長がなかったら、それこそ問題である。そして、「主人公たちに起こってしかるべき成長」とは、映画を作る者たちにこそ起こっているべき9年間の成長でもある。『Before Sunset』で、この映画製作関係者は、はたして成長したのであろうか? もっともそんな「高みから見る」ような映画の鑑賞を万人に推奨したい訳ではないのだ。

ディテールこそがこの映画の主たる要素である。そのディテールとはつまり登場する二人の男女間でのべつ幕無しに展開される会話である。しかも映画のほとんどが2人の男女間の会話であるのだから、ディテールこそが同時に全体でもある。だが、このディテールはドラマの強度によるものではなく、あくまでも会話自体によるものなので、いくらでも話題はあちこちにリープし、ひとつの緊密に統一されたテーマとしてまとめられることがない。映画は、「思想」らしきものや、センスの良い「発見」らしきものの断片を会話を用いて無造作に投げ出すばかりだ。この知的ひけらかしはそれ自体が驚きではあるのだが、一切深められることはなく、また、本質的なレスポンスが相手側から返される訳でもない。彼らは「急いでいる」のであり、そのような時間はそもそもないのである。そのような会話を可能にしている自分自身の隠れたセンスやそのような会話を可能にしてくれる相手の存在に酔っているのである。それは現実にあっても不思議はないことだ。だが、そんな会話をつなぎ合わせているのは、シナリオと手慣れた編集の技量によるのである。

ストーリー上、ウィーンを舞台にしなければならなかった必然性もない。それは、おしゃれなヨーロッパの一都市なのであり、おそらく、ドラマの舞台として使い古されたロンドンやローマであるのではなく、やや憂鬱なウィーンが戦略的に選ばれているにすぎない。極端な話、あれは東京でもシンガポールでも良かったのだ。

映画の冒頭でH・パーセルのオペラ「Dido and Aeneas」の序曲(しかも古楽演奏で、朝もやのように曖昧な出だしのバージョン)が使われる。これは、決して結ばれることのない運命にあるカルタゴの女王ディドとトロイの王子エアネスの物語である。二人の出会いを象徴する音楽としては、このオペラの序曲が使われたことも極めて賢明であると評価できる。二人が結ばれないということは、一番最初に暗示されていたのである。だが、この朝もやのような曖昧な序曲自体が、その始まりが決して引き延ばされることはなく、すぐに忙しいドラマへと移行する。これは、まさにこの二人の関わりに相応しい短い序曲なのである。

2人の出会いのときにそれぞれが列車で読んでいた本というのが、男の方が『クラウス・キンスキー自伝』で、女の方がバタイユである。見る人が見ると、おそらくなるほどと思わせるクレバーな選択なんだろうが、もはや若いとは言えないボクには何の関係もない。だが、そんな若い知的ツッパリである彼らが、プラターの大観覧車に乗ったときも、それが映画『第三の男』において二人の男が密会する場所として使われたことを、この若い二人が知る風ではないのもまた興味深い。そんなことは、おそらく基本中の基本なんだろう。何よりも現実感が乏しい部分は、ジュリー・デルピーが、若いフランス人にしては上手すぎる英語を話し、英語で押し通すほかない典型的米国人のイーサン・ホウクの方は、英語で会話を押し通すその方針を「バカで粗野なアメリカ人さ」風の軽いジョークではやくも免責される。この点に関しては、リアリティがあると認めても良い。

こうした一切は、要するに彼らがシャレモノであることを意味しているだけだし、実現不可能そうな再会の約束をするのかしないのか、その辺りだけに現実の恋人同士の間にもありがちな緊張感として存在している。その再会か否かの一点に関してのみ、真剣な会話は何度か戻ってくる。

さて、鑑賞者はこの映画から一体何を?み取るのであろう。ひとつひとつの会話の断片に感心するだけか? それとも、いかにも賢明に見える離別の決意とそれを自ら覆す「果たせないだろう再会」の約束に、ほろ苦い情緒をみいだすのか?

どちらに楽しみを見出すにせよ、映画がより良くあろうとするなら、あらゆる批評に耐えなければならない。本来、映画における会話は退屈な男女の逢瀬を飾るためだけの時間つぶしであってはならないし、結末をより意味のあるものとするために、結末と関連のあるディテールを提供しなければならないはずだし、映画の結末は、気の利いた詳細をより納得出来るものとするための、いわば結論であるべきだった。しかし、この作品はそのような賢い哲学的断片をよどみなく披露出来る男のスマートさと女の感受性の豊さを表現し、そんな男(女)と恋に落ちてみたいという凡百の若者たちを熱くさせるものではあり得ても、何ら具体的な思想上のブレイクスルーも提示出来ずに終わる。つまり、会話は気の利いた人物を描くための手段に他ならず、ストーリー全体を強化することに役立たない。

この作品の重要な存在意義は、以下の何点かに尽きる。

つまり、会話という形式で思想や哲学をよりさらっと披露することが、映画では可能であるということ。ということは、交わされる会話の中に重要なメッセージを入れ込むことが可能だということ。きちんとした必然性を持った場所やシチュエーションの設定で、会話の内容により深い意味を発生させることが出来ること。一方、会話の内容を強化することの出来るより究極的で非日常的な場面を設定することが考察可能であるということ。

だか、以上のような学べる価値というのは、おそらく観るものにとっての価値ではなくて、映画を自分の表現手段として有効だと思っている人たちにとっての価値にすぎないのだ。

ここまで相対化が可能な『恋人までの距離』(Before Sunrise)であるが、パリを普通の人の目線から、しかも美しい画面でもう一度見たいという、いかにも世俗的な欲求を満たしてくれそうな映画であるという理由だけで、続編『Before Sunset』を観てみたい気もするのである(そして登場人物たちの「成長」も)。結局、観てしまったら映画製作者の勝ち(売った者勝ち)であるが。

競馬がこんなに…

Thursday, February 3rd, 2005

映画『シービスケット Seabiscuit』を観る。こんなに良いんだったら映画館で観ときゃ良かった、と心底後悔。

動物モノの映画は、どんなにショーモナイものでもそれなりの客の動員がある、というようなことをどこかで聞いたことがある。それほどに、ボクらは“動物映画”に弱いらしい。考えてみたらこの映画もある種のドーブツ映画であるのかもしれないが、見終わるまでこれをドーブツモノであるという考えは一度も頭をよぎらなかった。映画に関してもだいたいジャンルを意識して鑑賞するということがないのだが、これはあくまでも人間モノ、その中でも、「敗北者人生挽回」映画なのである。「年齢不問青春映画」と呼んでも良い。

ある意味、Seabiscuitというのは、動物でありながら、あくまでも人間の操る乗り物(競争馬)なのであって、「動物と人(特にこども)との間の心温まる異種間交流」というような展開にはならない。むろん、Seabiscuitという名の馬自体を映画がまったく描かない訳ではない。描かれるにしても、その馬に関わる周囲の人間たちを描くような距離感(あるいはそれ以下)を伴うものでしかなく、小説で言うなら、複数の主人公たちを結びつける「ハブ」のような役割を果たす登場「人物」の一人のような役割を担っているに過ぎない。だから、カメラは過剰に馬に近づかない。馬のいかにも人好きするような愛らしい目、とか、同情を誘うような哀しい目、とか、そういうものを強調する「卑怯」な方法をこの映画は採らない。かといって、過剰に馬を即物的に描くわけでもなく、結果として、映画に出てくる登場人物が劇中でそうなるのと同じような意味で、馬に対する感情移入がやがて生じてくるのである。疾駆する馬から発せられる美は、映画の過剰な演出によるというよりは、語られる物語から鑑賞者が自発的に見つけていくよう(な錯角を覚えるみたい)にうまく仕組んである。

むしろ、最初から最後まで描き通されるのは、その馬に人生挽回を賭けるどろどろしたヒューマンたちなのであり、必ずしも愛されるようなタイプのハンサムガイたちではない。だが、みな魅力的である。

■■■【以下はあらすじ含み注意】■■■

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映画『生きない』、そして、生きようとした実録『全身小説家』

Wednesday, February 2nd, 2005

■ ビデオ鑑賞第1弾 『生きない』

借金を抱えて多額の生命保険をかけた自殺願望の「有志」だけが13人集まって、事故を装った「集団自殺」を決行するために企画した「沖縄バスツアー」。そのなかに、行けなくなった人の代理人として事情を知らずにツアーに参加してしまう若く前向きな女性。さあどうなる? という感じの、ダンカン主演の『生きない』を鑑賞。監督は、清水浩。清水さん。昭島で即興工房やっていると思っていたら、こんな映画創っていたんだ。やるじゃん。すばらしい出来です。(なんて、爆!)

それにしても、死ぬには体力と工夫が要りますな。死ぬための体力と行動力。事故と見せかけるための工夫と計画。実に面白い。あれだけの行動力と未来を見据えられる想像力があれば、ボクより元気に生きられるよな、という感じ。死に向かって疾走するバスの中で、ある自殺志願者に発作がでる。すると皆で必死に介抱する。死のうとするほどに、生き生きとした生があり、生きようとしたときに死は突然やってくる。これは、実に良いテーマです。なんかカミュかカフカの小説を読んだような感じ。ダンカンさんって、初めてちゃんと見たんですが、はまってましたね。良い作品でした

■ ビデオ鑑賞第2弾 『全身小説家』

その後、先日観た、原一男の映画『またの日の知華』がきっかけで、以前からビデオに録っていた『全身小説家』を「再読」することに(一体いつ睡眠とるんだ?)。二度目の鑑賞のせいか、今度はその映像の捉えた内容が以前より頭に入ってくる。本を読むときと同じだ。井上光晴という人が何者だったのか、小説一つ読んでいないが、今はそれが分かる気がする。

多くの弟子たちの前で、権威者然としているが偉そうにではなく、むしろ爽やかに、そして、容赦なく、挑発的に弟子たちを叱咤する。ほんの15, 6年前の映像であるにも関わらず、とても古い時代の日本人を観るような気もする。叱咤され、否定され、それでもそれを快感に感じて付いていこうとするように見える弟子たち。こうしたメンタリティというのは、日本人にとっては案外まだ当たり前に師弟関係の中には生きていそうだし、かく言う自分の中にも「だめな自分を否定してもらいたい」という、ややマゾヒズムに近いメンタリティがいまだに巣食っていないとは言い切れない。

正確な言い回しは覚えていないが、井上光晴が言いたかったのは、「裸の自分を発揮せよ」というようなことだったと思う(そして、実際に弟子たちの前で率先してストリップをしてみせる。それは象徴的な)。「まだまだナマ緩い。もっとエゴを!」と言っていたようにも聞こえた。これは結局ボクというフィルタを通して自分が勝手にこの映画から受け取ったメッセージであるのだけど。

癌を告知されて入院、手術を受け入れた時点で、彼が病人になっていく過程がまた瑞々しくも痛々しく描かれている。病院と家族と本人のガップリ組んだ三位一体で病人は病人らしく造られていく。あんなに大きく肝臓をとられたら、どんなに元気な人でも骨抜きになるだろうというような、摘出された肝臓のなんとも大きかったこと。そもそも病人ドキュメンタリーを撮るつもりはなかったのかもしれないが、一球の病人ドキュメンタリーになっている(これは連れ合いの弁)。

病人に対して「顔色良いじゃない」とか「いやいや元気そうだね」と元気づけている見舞いの人が何人もでてくるが、その声やその言い回しが、形になった映像作品からは、なんとも紋切り型で工夫なく聞こえてしようがなかった。それがしかも思想家や宗教家の言葉なのだ。

元気のない人に「元気なさそう」ということを言っては行けないとはよく聞く。そのことで一度怒られたこともある。本当に具合の悪い人に具合が悪そうと言ってはいけない、と。でも、本当にそうだろうか? 空虚に響く紋切り型の見舞いの言葉よりも、「お前ほんとに大丈夫か?死にそうか?すごく気分悪そうだぞ!」と言われた方が、ボクなんか却って元気が出そうだからである。「そうだろ、気分悪そうだろ。悪いんだよ。死にそうなんだよ。ちぇ。死にそうだ。くそー死んでたまるか!」となる訳です。だから、「本当に具合の悪い人に具合が悪いと言ってはいけない」というのも、紋切り型の考えなんです。ケースバイケースだし、人によるんじゃないでしょうか? 元気ないと言われて元気が出る人もいるんです。

と、大いに『全身小説家』から脱線したところでおしまい。

『歌行燈』

Monday, October 4th, 2004

実は、昨夜、今度の日曜日に久しぶりに共演する黒井さんが拙宅にやってきて、しばし話し込んでいきました。前回のライヴCDを一緒に聴いて腹を抱えて喜んだり。別に、今度のライヴのための具体的な「作戦」を練りに来たわけではありません。ただ、黒井さんの身に最近起こった「あること」を私の耳に入れるためだったようです。それについては、???・・・ふむふむなるほ ど...と言う感じです。(その話は...おっと興味のある人は黒井さんに直接訊いて下さい。)

その興味深いお話への「お返し」という訳ではありませんが、私は自分の大好きな映画『歌行燈(うたあんどん)』(1943, 監督:成瀬巳喜男 http://www.jmdb.ne.jp/1943/bs000130.htm )をビデオで一緒に見ることにしました。 黒井さんなら劇中の能やその物語の素晴らしさ、そして山田五十鈴の芸に感動し、歓びを共有できるに違いないと思ったからです。

この映画については、いずれ書こう書こうと思っていたんですが、書かず仕舞いできましたが、ようやくちょっと書いてみます。これは、「歌/音楽/芸」 が、人を出会わせたり、殺めたり、再会させたり、結びつけたりするという、 正に人の世の「音楽つながり」「音による縁」の不思議を、実に鮮やかに描いた類い希な映画だと思っていました(黒井さんも「ベスト五指に入るかも」 と言っていましたが、私もそれはまったく誇張じゃないと思います)。これは、とても帝国日本が戦争をしているときに創られたとは思えないほど、「戦意昂揚」などとも縁遠い、純粋に芸道に関する傑作映画です。泉鏡花の原作(私は未読)を元にしています。

映画を見ていて感心するのは、能楽師の身に付いた作法、近親でも節度を保った相互的な礼儀、真に善い芸を見出したときに見せる率直(素直)な反応と互いに払う敬意、理解し合える者同士が集まると自然に始まってしまう即席の音楽行為 (セッション)と言った、あらゆる音楽に関わる者達がそうであって欲しいと思わず願ってしまうような、理想的な音楽の在り方や関わり方が、すべて出てきているような気がするのです。

「歌はこころの外に掲げて道を照らす提灯(ランタン)なんだ」とでも言いたいような映画(原作?)ですが、そこに描かれているような音楽絡みの不思議は、実際に自分の周りでもちょくちょく起きています。でも私の作る音楽がそれを起こしているとは、未だ言えないような...。

さて、今度の黒井絹さんとのデュオライヴですが、そこで作られる音が「歌行燈」ならぬ「音行燈」となって人を結びつけたり出会わせたりするのだろうか、とすでにわくわく期待を感じているのです。