Archive for August, 2005

ボクたちの「覗く」権利

Friday, August 26th, 2005

時間のない方のための

ショートバージョン(笑えます)


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朝家を出る直前に、ワイドーショー的なテレビ番組を垣間観た。所詮、三面記事的「ニュース」を垂れ流し、似非評論家がとるに足らぬコメントを吐くという下らない番組だと言ってしまえばそれまでだ。だが、今朝たまたま観た番組の特集は「盗撮」を巡るもの。湘南かどこだかの海岸に「盗撮」だけを目的に現れる男たちが、海岸で遊ぶ水着姿の女性たちを携帯付属のカメラやビデオカメラを使って撮影してその映像(画像)を持って帰ると言う。そしてそういうことはケシカランということで、海のセーフガードたちが自主的な「取り締まり」をしているらしい。しかもこの“自主警護団”は「盗撮画像を提出しなければ警察に通報するぞ、二度とするな」という警告や指導をしている。こうして撮影された女性たちの映像は、違法な覗き映像のビデオやDVDとして違法プロダクションとの間で取引されたりする場合もあると言う(一部は確かに本当かもしれないが)。本番組では「自主的取り締まり」や「取り調べ」の映像や、盗撮する男性の隠しカメラによる映像などが、モザイク処理の上テレビに流された。また、水着姿でくつろぐ女性たちの「そういう人たちの行動は絶対いや!」というインタビュー映像なども紹介された。

最後に、司会進行者や評論家の集まるスタジオでの生放送映像に戻った。曰く、こうした「盗撮」を取り締まるための法律はなく、かろうじて自治体などで制定した禁止条例などで注意・指導することができる程度であるということで、つまり罰則はない。また、「盗撮取り締まり」の法律の早急な制定が望まれる、というような優等生的かつ予定調和的なコメント(宮崎哲弥)などで締めくくられたようだ(全部は見られなかった)。

この「盗撮」を巡ってはいくつかの想定できる議論がある。

被写体本人の意向を無視して映像/画像撮影、そしてそれらの取引が行なわれるということ自体は、当然非難されて然るべきかもしれない。これについては議論を単純化するために、いったん便宜的な前提としてもよい。

しかし、敢えて言うが、「女性の盗撮 = 悪」という、いかにも誰もが無条件的に不快を表し、「取り締まり」に賛同するというような分かりやすい文脈をもって「盗撮 = 悪」という図式が既成事実化されてしまって良いものなのだろうか? 筆者はここに非常に危うい「悪 = 取り締まり対象」という安易な法至上の論理を見出す。そもそも「本人の承諾を得て行なわれる撮影」というのは、どこまで実質的に可能なのであろうか? 

ちょっと考えてみても、たとえば、海岸で遊んでいる男女が互いにカメラで撮影するときに、背景に入ってくる無数の水着姿の「内輪でない人たち」をすべて画面から排除することは不可能である。それでは、彼らは撮影機器を持って海岸に来ること自体が許されないのか。そういうことではあるまい。もし「取り締まり」を徹底するなら、それをしなければ完全実施はできない。ということは、カメラの海岸への持ち込み自体は制限できないことになる。となれば「悪しき意図」をもった撮影と「良心的意図」をもった撮影の両者をどうやって区別する必要があるが、いかにしてそれは可能なのか? 服を着たまま海水浴場に入ってくる男性は、すべて「盗撮」目的なのか?

翻って、NHKの夜7時のニュースなどで挿入される「今の渋谷の映像」などは、いつカメラの前を横切るか分からないあのような不特定多数の人々に、いかにして「映像使用の許可」を得ることができるというのだろう(できやしないし、していない)。あれは、私に言わせれば公共のお金と電波を使った立派な「盗撮」である。あの時刻、あの場所にいてはならない事情をもった人が、あのカメラによって捉えられ、本人の承諾を得ずに全国に垂れ流されてトラブルになったというケースはないと言えるのだろうか? それは誰がどこにいようと自由であって、それを秘密にすることも自由であるという個人の持つ当然のプライヴァシー権の侵害ではないのか? 

あるいは、いわゆるジャーナリズム全般はどうなるのであろうか? 政治家と財界の癒着を暴くようなスクープ映像、あるいは戦場における軍の卑劣な行為を、いったいどの報道メディアが「本人の承諾」を得た上で撮影する(あるいは、しなければならない)というのだろう? もちろん、単なる下らないゴシップ記事を紹介して読者の覗き趣味を満足させるような下世話な「ジャーナリズム」もあろうが、政治スキャンダルというのは、一般の選挙権を持った人々に知らしむべき重大ニュースである。このような報道に、被写体になった本人の「肖像権」や「承諾権」というものが認められて良いはずがない。

筆者が断るまでもなく、「盗撮」というのは、ジャーナリストが確保していなければならない闘うための戦術のひとつである。しかるに、今朝の番組の意図は、「覗き」や「盗撮」はいけない、「だから取り締まりを強化せよ」という方向に安易な世論を誘導するものである。番組の意図は、「あらゆる盗撮の取り締まり」というような長期的視野まで持っていたのかどうかは分からない。だが、そのための布石にひとつなのではないかとまで「穿ちたくなる」ような内容であった。つまり、「正義の人代表」を誇らしげに演じる司会者や評論家やタレントたちが、その果てにある未来まで想像することなく、そうした悪しき布石を打っていくのである。

さて、法的に何らの権限も持たない海岸の屈強なセーフガードたちが自主的に行なっている「取り締まり」や「取り調べ」は、まさに「盗撮の取り締まり」が法的に可能になったときに警察などによって堂々と行なわれるであろう状況を先取りして象徴している。「盗撮」がバレた人は、強制的な同行を求められ、カメラを没収され、そのカメラに収められた映像の提供と破棄を求められる(番組で実写紹介された)。あの海岸で実際に盗撮をしていた連中でも気の弱い人たちは、大して抵抗らしい抵抗も見せず、逃げずに「取調室」に赴き、そこで強く求められるに応じて写真画像を提出する(これは本当にヤラセではないのか)。そして、「もう二度と致しませんから、今日は勘弁して下さい」と言って、その場を許してもらう訳だ。だが、カメラに収められている映像の提出を言下に断る人もいる。彼らは実際に盗撮をしていても、それが違法行為ではなくて、単なる「迷惑行為」に過ぎないことを承知しているから、絶対に自主的に提出などしない。

はたして「盗撮の被害やその深刻さ」を視聴者に訴える状況として、裸に近い男女が互いに視たり視られたりすることが前提である海水浴場という場が、そもそも適当なのであろうか? 彼らは互いに記念撮影したりはしないのだろうか? 当然多くのグループがしているはずである。これは所有者が決まっているプライヴェート・ビーチでもない公共の海水浴場における話である。そして、そもそも「視られる」ということに関して、肉眼でリアルタイムで視られることと、ファインダーやモニター画像を通して視られることと、彼ら水着を晒す若者達にとってどの程度の違いがあるというのであろうか?(不穏当な発言は承知だ)。もっと言えば、いったい、視る異性が誰一人としていない「女性専用車両」のような海水浴場があったとして、どれだけの若者がその海岸に魅力を感じるのであろうか?(もちろん、プライヴェートビーチにそういう類の「海岸」があったっていいのであるが。)確かに、これは「海水浴場で盗撮があり得るのか」という前提を問う議論になってしまうのは分かっている。

話が逸れた。

われわれは「盗撮取り締まり」の法律によって、当然持つべき自分たちを守るための方法や手段(権力の腐敗を監視したり知る権利)の放棄をしてはならない。われわれは、覗かれ取り締まられるばかりの「対象」ではない。我々は権力の乱用を監視する(覗く)側でもあり、そのための手段を維持しなければならない。それをくだらない「性的」画像の盗撮のために、権力者に売り渡してはならないのだ。女性の水着姿を盗撮させないための別の方策か、そのような事態が「ある程度は不可抗力である」ことを我々は知るべきなのである。

音楽と絵画に見出される根本的な相違:
同列に論じられない部分についての考察

Saturday, August 20th, 2005

即興を抽象表現としての絵画/視覚表現の生産の方法として取り入れる場合と、即興を音楽の生産の方法として取り入れる場合とでは、どうしてもうまく比較することができない部分がある。

これは、とりわけ「うまく譬えられた比喩(比較)」に潜んでいるかもしれない誤謬の可能性に対する警戒という、私が意識的に自分に課してきたテーマを再確認する意味もある。つまり、うまく言い表された比喩は、人を説得させ、感動させ、行動に駆り立てる力さえ持っている一方で、犠牲にされる側面というのがどうしてもあるからだ。つまりその両者を「芸術とか創造行為とか表現とかいう点で同じだ」という理由で大風呂敷に包みこむタイプの総括の中で、切り捨てられてしまう具体的な事象というのがあまりにも多くあるからで、しかもその具体的事象の中にこそ、それぞれの分野で追究されてきた成果があり、また独自の苦闘やら喜びというものもあるからである。だから、両者は「違うものだ」という前提で話を始め、その上でそれでも「やはり似た部分がある」という控えめな結論に至る方が、それぞれの当事者にとってフェアな態度だと思うのである。

絵画/視覚表現を得る場合の「即興」は、その結果がひとつのキャンヴァスなり諸々のメディア上にその軌跡を残し、まさにその軌跡が、静止した「抽象表現」としての体を成す。そして、その時間経過がメディア上に「凍結*」される。一方、音楽創作の場合、その音を聴いて音楽的なものとして了解できるものとするためには、イディオムを身につけなければならず(これは絵画と共通?)、その身に付けたイディオムを出現させ展開させるためだけに、リアルタイム(適当なタイミング)で止むことのない身体的なオペレーションを「その場」で維持しなければならない。[記録媒体を前提とした録音作品に関しては、必ずしもそれが当てはまる訳ではなく、視覚作品を作るのにより一層似た作業となる。つまりテープやハードディスクといった記録媒体をキャンヴァスとして音を塗り重ねていくという行為になる。]

* もちろん、その作品の中に凍結された「時間」を「解凍」して、解かれた時間を「体験する」というのが心眼をもった本物の鑑賞者のできる鑑賞方法ではあろうが。

ここで自分は絵画と音楽のどちらが難しいとかいうような話をしているのではない。また、どちらが高次元の表現だというような霊的不可知領域についての話をしているのでもない。ただ、単純で情緒的な二者の比較や比喩の無効性と、比較自体の困難さを言語化しようとしているだけである(むしろそのような言語化の過程こそ「比較可能な部分」をあぶり出すことにつながる作業とも言えるのだ)。

まず、音楽においては、それ自体が本質的に「抽象的」なもので、且つ時間芸術であり、したがって、それが作り出される現場でしか本来的に共有できないものであり、また、その「制限時間」内で把握する(しようとする)鑑賞者(立会人)の存在が最低限の条件である。そして、「抽象表現」自体が目指されるべき第一の目標ではない、ということがある。抽象性はすでに達成されているのであるから。

また、描写されるべき外在する対象を写真のように写実するというような役割を音楽は最初から担ってこなかった(一部例外はあるが)。音楽に於ける抽象性とは、提示される音素材のひとつひとつのパーツに生得的に備わっている本質であって、それらはどこまで行っても具体的な外在物を置き換えることにならない。そうした素材を組み合わせてはじめて「音楽体験」と言い得るもの──鑑賞者の体験は具象的かもしれない──が生み出される。そして、仮に音楽が何かを「表現」するのであるとしたら、それは世界に存在する「音楽同様に抽象的」にしか言い表せない「何か」(それは、筆者によれば<普遍的題材>)であって、その描写対象(題材)そのものが、「時間」に深く関わるものであれば、音楽が極めてその役割を担うのに「うってつけ」でもあった訳である。例えばつまり、「人の生涯」という時間経過の関与した物語を描くのに「演劇」がその表現手法として極めて好都合であるのと同じ意味で。

だがご多分に漏れず、元来本質的に抽象的であるはずの音楽の中でも、19世紀末から20世紀初頭に掛けて、とりわけそれが「抽象的」に聞こえるため、の努力が払われた。興味深いのは、音楽の「イディオムの解体」や音楽上の「因習破り」や「予想不可能性への到達」を目指した結果生み出された──すでにその成果や意味が明白になっている──諸作品の類は、西洋音楽に於いては、即興を通してではなくて、むしろ譜面に向かう厳密な「音符の操作」(作曲)によって試みられたということである(新ウィーン楽派など)。しかも因習的イディオムを深く理解した上で。そしてこうしたイディオム回避のための試行錯誤は、音楽について言えば、ヨーロッパという辺境の地域で発生した「伝統」音楽のフィールドだけの独壇場であった。つまり、世界中の、およそ音楽と呼ばれるあらゆる諸範疇の中でも「西洋の発展系音楽」のみが至ったひとつの手法(袋小路)であった。日本の伝統音楽も、インドの伝統音楽も、それが西洋近代の音楽と出逢うまでは、そうした「解体」や「予想不可能性」に魅せられた形跡がない。音楽は、破壊を志向して新たな刺激を求める一部の需要に応えるためのそうしたギミック以上の、何か神聖なもののための供物だったのだ。

音楽においては、すべてが根本的に<抽象>であるという前提を了解した上で、括弧付きの「抽象」と「具象」を論じることができる。例えば…

○ 音楽においては、一定のリズムの反復が起こるだけで、すでに「具象的」である。リズムを感じさせないパルスのランダムさは、自然界には多く存在する。このリズムの解体によって音楽は容易に「抽象化」される。

○ 音楽においては、一定のハーモニーが発生するだけで、すでに「具象的」である。調和を感じさせない不協和音や予定調和を裏切る手法は、音楽に「最も暗い闇」の成分をもたらした。ハーモニーの解体によって音楽は容易に「抽象化」される。

○ 音楽においては、モード(音律)が発生するだけで、それはメロディーとして認識されるべき基盤をなし、すでに「具象的」である。モードを感じさせない音列は、旋律の解体であり、もっとも音楽を掴み難いものにした。モード/旋律の解体によって音楽は容易に「抽象化」される。

無論、音楽における「抽象」表現は、それの登場した時代との濃厚な影響関係やそれを必要とする「思想的」「文学的」の需要上の意味合いもあって、その方法によってしか伝えられない一連のムードを代表することになった。だが、生涯そのような音を聴いたこともなければ聴いても音楽として認識できないかもしれない一連の作品を生み出した。そのような「音」でなければこの世の不条理を表現できないと「決めつけた」かのように(そもそも不条理なるもの自体が疑わしいにも関わらず)。そしてあろうことか、ロマン主義の時代、交響する音楽の時代は終わったと一方的に宣言されたのであった。そして、その「新しい音楽様式」の重要性は、もっぱら別の「新しい音楽家」やプロの「評論家」や「興行主」たちによって論じられた。実際の鑑賞や演奏よりも「論じられること」の方が多いと揶揄されるほどだった。そしてそれらの不断な努力の甲斐もあって、ついにその「音楽」は「社会的地位」を得たのである。音楽を本当の意味で必要とする大多数の人々を置き去りにして。

だが、いわゆる新ウィーン楽派らは、音楽が「音楽らしくなく」聞こえるようにすることを、生涯掛けてやった。あたかも音楽が「音楽らしくある」ことに対して怨嗟を持っていたかのように(そう、そこには「分かりやすい音楽」への遺恨があった)。だが、もはやわれわれの時代では(一部の教条主義者たちを除いては)それらの試みの数々はすでに乗り越えられており、その価値は相対化されているのである。今の西洋の音楽家は、それが超克された後の時代を生きている(もっとも希望的に発言すれば!)。

絵画については知らないが、音楽に於ける「抽象表現」は、その経験からその効果を学び、より具体的且つ「具象的」な音楽をより効果的に顕現するための「影/闇の要素」として利用されることになった。つまり、音楽上の「解体」は、新たな構築(コスモス)のための「耕作可能な混沌たる原野」として、もはや演奏家や作曲家にとって(言わば、「お決まり」となった)常套表現手法の一つとして獲得され身につけられたのだ。それは、絵画で言えば、もう一つ重要な絵の具や画材を入手したということに相当するのかもしれない。控えめに言って絵画については知識がないが、真の音楽行為において、「抽象」が至上のものとして目的化されたことは、あとにもさきにも西洋伝統音楽のごく一時期の、「あのとき」だけである。

もし、「新ウィーン楽派」やそれに追従する音楽家たちの目指す方向性を「抽象性」と呼ぶのであれば、現在は、「抽象と具象の調合」が、その時代である。そして、新ウィーン楽派やその心理的追随者によって「発明された」手法は、<より大きな音楽>の実現方法の一つとして「もっと大きな目的」のために取り込まれているのである。そして、皮肉にも音楽解体の努力は、真の音楽をより輝かせるための「闇」を作ってくれたのだ。

この最後の部分は、音楽の「解体」や「抽象性」の意味付けについて、その外部から語られた言葉としては、まだ誰によっても言語化されたことのないはずの言葉である。

これは、「抽象性」を巡る議論のほんの端緒に過ぎない「ありきたりの言説」のひとつとして捉えて頂ければ、幸いである。

「即興」さえも相対化するという視点

Thursday, August 18th, 2005

[タイミングがタイミングだから、これが何かに対する「反論」と思われるかもしれないが、反論を意図していないし、反論になっていない。]

これは長い長い(形而上学的考察に関わる)精神論的音楽論に突入する前にわれわれがまず大前提として了解していても「損はしない」話の一つである。

もうこの辺りは、私の足りない頭でも考え尽くし語り尽くした感があり、いまさら何か付け加えることがあるのか分からない感じが正直なところだが、あえて「知らない部分」をもう一度洗い出すために自己にこれを課す。まずは便宜的に、捉え難い「精神論」をすべて省いた純粋に現象面での話をする。(それだけでも長大な文章になるだけの課題がある。)

第一に、今日的な音楽表現に於いて、その手法が「即興か、プランか」というのは、結局は「程度の問題」にほかならないのであって、「完全に即興」であるか「完全にプラン」であるかというような前提で語ること自体がナンセンスになってくる。「全くの即興」ということはあり得ぬ話だし、「全くのプラン」ということも同様にあり得ぬ話なのだ。つまり、即興に対して「全か無か」というような二者択一があるのではなくて、それらをどう「ブレンド」するのか、つまりどれだけ「非即興」という要素も加味・想定できるのかということが、真の即興者にとっての自由の度合いでもあるはずだ。まさにそれはわれわれの人生そのものと同様に。

その点で極論を敢えて言えば、手法としての(あるいはカテゴリーとしての)「即興音楽」に何の幻想も過大な期待もない(実は、後に言及する?ように、これは部分的には嘘なんだけど)。以下に述べるように、「即興」とは、即興音楽やその他の芸術創作だけの独壇場ではないからである。生きることそのものが純然たる即興であるということを了解していればこそ、なおさらに音楽の即興性の側面だけに過剰な評価を加えることに対して、私は常に「それは公平さに欠いた精神論である」と批判して来たのである。即興を絶対視/特別視する一種の「精神論」だと言う意味で。当然、即興を実践している多くの人からは反論を受けるだろうことは覚悟の上で。

最初に音楽に限った話をすれば、古典楽曲を「楽譜通りに奏している」かに聞こえる演奏でも、すぐれた演奏であると感じられるものは、きわめて“即興”的で、しかも有機的である。つまり「作曲された音楽が人間を奏している」としか思えないような「特異な必然性」を具現化している場合がひとつ。そしてもうひとつは、「楽譜通り」とは言っても、音楽の全てが記譜されることがありえぬ以上、当然のことながら、速度、音量、アタック、音符の長さ、音色、その他の、あらゆる音楽表現に不可欠な、厳密な記譜が不可能な要素については、ほぼ不可避的にその場その場の判断でその「匙加減」が選択されていく。実は、これこそがむしろ音楽の「主要な部分」である。である以上、古典に関しては「解釈」が必須となり、古典楽曲の演奏行為さえ演奏行為の瞬間に於いては「即興行為」から不可分な訳である。これは能などの日本の伝統芸能に関しても同様のことが言えるはずである。

まったくもって、記譜されていること自体が作品実体のごくごくわずかな部分なのだから、音楽家にとっては、それらをどう解釈し、どう実際の行為に転化するのかという部分こそが表現の本体なのである。ここで言った「解釈」とは演奏行為に先立って行なうもの、演奏最中にスポンテイニアスに行なわれるもの、その両方である。後者の場合、「解釈」が即興的に行われる。

だから、古典楽曲演奏を完全に「即興に非ざるもの」と考えるならば、その時点で既に錯誤がある(そんなことを言う人がいるのかどうかさえ疑わしいのだが)。ひるがえって、社会通念的に「即興音楽」と考えられているさまざまなジャンルについて言えば、それらがすべて純然たる「即興」であるのか、と言えば必ずしもそうとは言い切れぬ部分があるのであって、逆にそのことの意味を関係者は持続的に問い続ける必要がある。自分のやっていることは「即興」だが、本当に<即興>なのか…と。

しかも、「本当に即興なのか」という問いについても、その本質論(精神論)に至る前段階として、それへの各自の関わり方の深さに見合った設問が、重層的に想定できる。そして答えも様々であり得よう。

例えば、有限な技巧上の「引き出し」を利用する気まぐれな「自己反復性」を基に、安易な即興を<即興>と看做さない厳格な即興上の「思想」や「教義」があるのも知っているし、表現者による「偶然」の能動的な制御不可能性を根拠に、そもそも即興演奏を「表現としての音楽」と見なすべきかどうかという根源的な(そして古典的な)問いがあることも知っている。一方、音楽を表現者の意思と完全な意識のコントロールの下に置くような即興を<即興>と呼ぶべきかどうかを問う向きもある。仮に偶発的要素の少ない「即興ソロ」などが、記譜されていないにも関わらず、その展開がほとんど想定範囲(予想可能の範囲)であるとき、それを即興と呼ぶべきなのか、という問いがある。そうだとしても、それはそれで理解可能である。だが、さらに「予想可能である」からと言って、その価値がそれを以て計れるというものでないという部分もある。もし「予想不可能性」こそが音楽の価値であると断じれば、今まで存在した全ての反復的に演奏家たちによって取り上げられてきた古典楽曲には価値がないことになるが、それはわれわれの認識に反する見解である。「予想不可能性」は、人生自体がそうであって、ご大層に音楽だけに求められるべき独壇場でも絶対的機能でもないのである。

だが、時代を遡ってもう一度「音楽の歴史」というものを鳥瞰したとき、結局「即興」は音楽創作上の「ほとんど唯一の方法」だった時代の方が長い。音楽に「作曲者」が誕生する以前の状態を思い浮かべてみるといい。職業的な「作曲家」が現れたのはせいぜい400年ほど前辺りからである。名前のある「作曲家」が認識され始めるのと西洋個人主義の萌芽はほぼ一致する。一部の例外があるものの、そうした「作家不在」の音楽時代は、ほんの500年から1000年前の世界がそうだった。場所によってはほんの数十年前までそうであった所もある。長く見積もっても「作曲者」の登場は、歴史時代以降(有史以来)の話なのである。歴史以前の時代の音楽は、ほぼすべてが無名の楽師もしくは“シャーマン”による即興“演奏”であったはずである。あるいは、記譜されたこともない「記憶された旋律」を基盤としてのアドリブであったはずである。あるいは純然たる打楽器などによる旋律を伴わない即興。すなわち[音楽]=[即興]だった。このことを思い起こせば、現在われわれが再び音楽創作上の手法として「即興」を取り上げること自体に、何の「真新しさ」もないのである。あるのは、即興を「再び取り上げる」にあたって、それを「正当化」しなければ済まないわれわれの「思想的傾向」である。

しかし、以上のことをすべて前提と考えた上で、言い尽くされないことがまだまだある(当然のことながら)。まず、上記の話には、何らの精神面での説明が加えられていない。だがこれは意識的に選択されていることだ。「即興」という言葉のもっとも平板な用法を巡っての、一般論以上でも以下でもない。一足飛びに即興行為の「精神性」乃至「至高性」を大上段から語ったり、論理的な思惟の手続きを経ずに一刀両断の精神主義に陥ることに対して、私には大いなる警戒があるからである。むしろ、それ以前の部分──それらを前提としてさえ、まだ語られていない部分──を可能な限りあぶり出すことが、「地上で精進する者たち」に課せられた宿題であり、真理に至る近道であるからなのである(と、いきなりこの辺りで「精神」論的な色彩を帯びてくる!)。

以上、言語的に網羅しうる即興の多面性については、自分は相当に自覚的だし集中的に考察をして来たつもりだ。特に、常に自分の追求する類の<即興>が行なえているかということについての点検は、厳しくありたい。だが、もし「即興」が手段ではあっても「目的」ではなく、必然性を帯びた「劇的」性の具現化が音楽表現のゴールであれば、その手法が「即興」を包含した「プラン」であってもよいし、プランされたものであっても、最終的には「その場で即興されたものとしか思えない」というような「必然」性を帯びた質のものを追い求めるだろう。その点において、<音楽>が上位であり、即興が下位なのである。

そして、もっと欲を言えば、人類にとっての<普遍的題材>を表現したとしか思えないものを即興音楽を通じて作り上げることである。それによって、聴者は過去から未来へ至るひとつの「絵」を視るだろう。それが成されたときに初めて“シャーマン”として<音楽>を扱ったことになるだろう。

一方、冒頭で「程度の問題」と断った「即興」が、音楽に限らぬより大きな領野へと話を拡大していっても、もちろんそれは通用する話だ。使い古された言い回しだが、「我々にとって生きるということ自体が即興」であって、予測不可能な世界において眼前で生起しつつあるあらゆる事態に対峙して、われわれの「態度」が、周囲との関係の中で自己の行為を「適材適所」と成すべく、どこまで柔軟かつ直感的で、また事態に乗り遅れないだけの敏捷さを発揮できるか、という「生きるための技術」といった文脈でも語ることができる。だが、それでもなお、「全てが即興」というような世界への「同時的対応」と一刀両断できるほど、現実も単純な話ではない。

その理由こそが「即興」が「程度の問題」であるとあえて言う所以である。なぜならば、日常生活に於いても全てが即興である訳ではない。プランをするときがあり、イメージを作り出す時間があり、思った通りの音を出そうとする修練があり、音を出すためだけの(リードを作ったりという)地道な個人的努力がある。それらが「すべて即興」という言葉で呼ばれるに相応しいものであるのかは、別途判断されれば良いだろう。だが、筆者は<即興>とは他者や環境があっての、社会的/集団的、もしくは外因との「関わり」の中でこそ考慮される方法であって、そういう限定的な言葉の用法こそ、その言葉の「精神」をより本質的に伝えるものだと信じる。

したがって、そのような文脈に於いて、むしろ初めて、即興と言う「日常行為」を改めて音楽に“持ち込む”ことの「正当性」を主張することが出来る。そして、そこには日常に於けるのと同様のリスク、そしてリスクを負う人間だけが得ることの出来るだろう精神的成果(失敗も成功も含めて)という果実が与えられるのである。

これについては、これまた使い古された言い方かもしれぬが、「人事を尽くして天命を待つ」という金言以上のことを今のところ私は思いつかないのである。

私の中では、最初に実践(行為)ありき、であり、「精神」は後から発見されるものだという考えを拭うことが出来ないのである。最初に音楽があって、それが「精神」を呼び寄せるのである。

(と、ここに至ってようやく「即興精神」というものについてフェアに論じる立ち位置を得るのである。)

朗読楽劇「解読」のリハ

Sunday, August 14th, 2005

日曜日、1時間ほぼぶっ続けで8/27の朗読パフォーマンスのリハをした。今回相方になるピアニストの河合さんの希望もあって、この日のアレンジしたのだった。本番と同じグッドマンにて。最初自分は「リハ」をすることに関してやや否定的だったんだけど、いろいろな意味でやってよかったね。まず、自分の話をすれば、あのテンションで読み続けることが「どれくらい大変なのか」が、よおーく分かった。あと、やってみて判明したのだが、テキストの「尺」が、全部読み終えても余裕がある感じだったこと。昨日のリハではオーボエによる即興をほとんどしなかったこともあったと思うが、十分に時間を掛けてひとつのテキストが読めるということが分かった。今回楽器はあくまでも副次的なものだから。慌てて読む必要がないことが分かっただけでもよかった。「解読」以外の作品も多分やることになるだろう。

読み方だが、テンションが上がり切ってしまうと、それはそれで単調になってしまうということだ。テンションを維持しながら表現を付けることがおそらく一番の難題になるだろう。高いテンションの中での細かい抑揚が難しい。音が「大きいか小さいか」というダイナミック・レンジの面だけ言えば囁き声から叫び声までかなり多様な表現が可能のように思える。マイクの助けもあるので楽器がある程度鳴っていてもそうした方法ができそうだ。しかし、声の音程の「高いか低いか」というフリークエンシー・レンジの面では、私の声は相当に狭いのである。テンションが上がると、いきおい同じピッチに留まってしまってそれ以上上がらない。しかもそれが結構低目の音域でそうなるから困るのだ。そしてテンションを維持しながらの声の音程の上げ下げが難しいのだ。おそらくちょっとやそっとの回数をこなしたくらいでは、そう思うようには行くまい。

テンションが上がり切ったところでそれが長く続くと、おそらく聴く方もすぐに「腹が満杯」になって集中も持続できなくなり、結果としてテキストを追うのを諦めるかもしれない。聴く人の関心をテキストに向け続けるための「語りの技術」の探求が必要になりそうだ。

河合さんのピアノは私が期待通りに(っていうか、期待以上だったと言うことなんだけど)自分の朗読と、合う。本番が実に非常に楽しみだ。リハ後に“ロイヤルホスト”で行った意見交換も、今後の考察の端緒となるものだった。河合さんは実に良く考えて今回の「朗読楽劇」に取り組んでくださっているのが感じられて嬉しかった。

これはかなりしんどい2週間になるぞ。

(とか何とか言ってますが、鬼神ライブの方が先にくるんだよなぁ。まずはそちらへフォーカスしなければ…)

(more…)

郵政民営化と「テロ」

Tuesday, August 9th, 2005

組員(国民)の最低限の安全と生活を保証するのが「ヤクザの親分」としての権力の役割だとすれば、組員を世間の厳しい競争原理に晒すことは、親分としての義務の放棄である。親分が、「もっと大きなマフィアが海外から攻めてくる。悪いが自分たちだけでなんとか生きていってくれ」と言い、それだけならまだしも、これまで組員が苦労して集めた資金を「攻めて来るマフィアに渡すが文句を言うな」と言えば、それは詐欺も同然の無責任/腰砕けなのである。そんな親分はさっさと首を取った方がいい。たとえ話だが、日本国政府による郵政民営化というのは、要するにそういう「親分」たる権力家の義務放棄に相当する。

自由主義経済の競争原理が必ずしも生活する人の「ため」にならないことは、すでにカリフォルニアでの電力の自由化ほか諸々の例によっても証明済みである。カ州においては電気の供給が滞ったのである。そのようなことは、郵政の民営化によって今後起こってくる。しかし、郵政三事業民営化というのはそのような「民間でできることは民間で」というようなことだけで収まらない問題を含んでいる。国の権威を利用したシステムによってこれまでに築き上げた(吸い上げて来た)国民の生活資金の保護という義務を、今度は国の都合によってそうやすやすと放棄していいのか、という議論に尽きるのである。「民営化による小さな政府の実現」など差し障りのいいコピーに過ぎず、状況が変われば幾らでも「大きな政府」へ舵取りを変えることを厭わない連中である。信用してはいけない。「小さな政府の実現」など、本気で考えているはずがない。

これまでの亀井静香氏の恫喝的な物言いなどイケ好かない部分も多々あるものの、今回の郵政三事業民営化法案への反対表明に限っては終始一貫した論理と呼べるものがあった。そして、今回のこの法案の持っている意味の核心を突いた意見を直截に述べている。

「350兆の膨大な国民資産を昨年12月のアメリカ国務省の郵政民営化を求める対日要求に応え、民間金融機関に流れ込むようにして外資が圧倒的にこれを飲み込んでいった場合、日本経済に与える影響は決定的にマイナスである。」

ここで書かれているように、郵政三事業民営化の計画など、竹中平蔵郵政民営化担当大臣を始めとする、アメリカからの「対日要求」に応えようという「属国の典型的な考え」にのっとったものに過ぎない。国民のなけなしの金を危険に曝すことが「国益」と言うなら、その根拠を隠し立てせずに国民に問うべきなのだ。それが「日本の安全保障」のために必要だと本当に信じているのなら、一体どのような恫喝を日本国政府が受けているのかを公開すべきである。その上で、日本が依然として属国であることが良いという国民の総意を得るならば、それが日本人の生きる道ということだ。

郵政民営化は、「民間でできることは民間で」という、まったく説明責任も果たさず、論理的でもなく、単にスローガンを繰り返すだけの、将来に禍根を残す悪法であって、実現されてはならない、そして阻止可能な「国家の過失」である。この法案自体は、単なる「郵便」事業の民営化というものとは全く異なる意味を持っている。これは国民のひとりひとりに大きな影響を持つという意味で、「国鉄の民営化」よりも、また別の、破格に大きな意味を持っているとさえ言えるかもしれない。

「郵便局」などの事業の民営化では「サービスを受けられなくなる地方が出てくるからダメだ」とか、「そんな地方無視はあり得ない」、とか「そういう不便が起こらない方策が民営化の方法の中にはある」いうような窓口業務についての争点で語られがちだが、その議論は、その法案の更に大きな目的を曖昧にする隠れ蓑に過ぎず、その法案の核心とは、日本人が働いて貯めてきた「お金」のリスク化ということに尽きる。

「郵便貯金が安全でなくなったら、預金を別の銀行に移せばいい」というような呑気な話ではない。他の銀行は、もっと早い時点で「リスク化」されているのだ。「ペイオフ解禁」という訳の分からない名称によって。つまり、金融機関に預けられているわれわれの「生存のために必要なお金」は、誰からも守られないということである。すなわち、リスクは郵便貯金でも同じであるということを決定付けるのが郵政事業の民営化の「本質的意味」である。

その辺りをまるで了解せずに、「自民党の票田を解体する意味がある」とか、そういう政局的な意味合いだけで民営化に賛成する「リベラル派」が一部にはおられるようだが、それは民営化のひとつの側面ではあっても、本質を無視した主張に過ぎない。

これは、実に最初から最後まで「お金のはなし」なのである。そして、それは全世界を見渡してみてもそのような額の資金源(350兆円)は、もはや地球の表面のどこにも見出すことの出来ないような、ハイパー超高額の「現金のプール」なのである。それが、それを稼いだ人々のために保存されるのではなくて、その国を力で支配している宗主国への貢ぎ物として恭しく献上されるということなのだ。他ならぬ親方日の丸によって。

その金が「自由化」されて売買の対象となること(日本人にとってはリスク化される)をアメリカの金持ちたちは、首を長くして待っている。喉から手が出るほど欲しいのである。この現金が「自由化」されたら、確かに日本はもう一度世界にバブルを起こすかもしれない。だが、そのことは、日本人をこれまでより自由にしたり豊かにすることはない。失われた老後の資金を再び稼ぎ出すため(つまり生き残るため)に、日本人はこれまで以上に奴隷のような長時間労働を強いられることになる。我々の将来は、「資金」という名の「数字」となり、投機の対象となり、売買されることになるのだ。そして、売った者はそれをもう買い戻すことは出来ない仕組みになっている。

したがって、外国の禿鷹たちがその「魅力的な投資対象」の確保が出来なくなるかもしれないとなるや、それを狙っている連中は手段を選ばない方法に訴えて、結局それを手に入れようとするだろう。その手段とは東京での「テロ」である。彼らを我々と同じような人間と考えてはならない。

それが9.11の参院選挙の前(直前)に起これば、危機管理体制の重要性を訴える現連立与党が、「郵政民営化選挙」を雪崩式に勝利してしまう可能性がある。一発の「テロ」が、民営化選挙を「テロとの戦い」という文脈にすり替えてしまう。そして、結局「郵政民営化」も実現してしまう。東京での「若干の犠牲」という人命やインフラ破壊という「トークン」を支払うことで、現与党は「宗主国」への献上金の自由な扱いを勝ち取ってしまうことになる。そのとき、そうした「テロ」が誰によって引き起こされるのかを考えてみるが良い。

もちろん一番いいことは、このような暴力沙汰(テロ騒動)は起こらずに、しかも現与党が野に下って、当面郵政民営化は出来なくなること、である。しかし、小泉にどうしてあれほどの自信と「据わった腹」があるのかと考えると、そうした「ウルトラC」の存在を視野に入れているからか、と勘ぐりたくもなる。

もし「テロ」が起きてしまったら、郵政民営化だけでなく、他のもっと最悪のことも同時に実現してしまう可能性がある。もちろんその「テロ」が、日本人の政財界における「訳の分かった人々」にとって、「金の亡者」からの明確な「脅しのサイン」としての意味を持ったとしても、「テロ」自体は、一般民衆からそのように了解されることは、ほぼ間違いなく、ない。それはイラク戦争に自衛隊を送っている日本国政府への「イスラム過激派による警告」と解釈されるだろうし、あるいは最悪の場合、「北の工作員」による日本の中枢の破壊活動と体よく解釈されるかもしれない。そのどちらに転んだとしても、「犯人」らしき人が捕まるか「自爆死」が確認され、それから急速に用意される「テロ対策」を、日本をより悪い状態(言いたいことを喋れない状況)に持っていくための口実に使うに違いない。一発の爆弾の炸裂がわれわれを不自由のどん底に突き落とす。

しかし、もし万が一こうした悲劇的な一撃が起こったとしたら、忘れてはいけないが、それはイスラムの聖戦でも「北の破壊工作」でもなく、われわれに笑顔でDMを送ってくる連中のためであり、言い換えればそれは「金のため」なのである。しかも莫大な。グロテスクな話である。人間は金に目がくらめば人をも殺すのだ。それは要するに平和な街角を舞台に突然起こる戦争なのである。

郵政民営化が実現してもしなくても、その後に待っている日本人の運命を考えると暗然とならざるを得ない。

これは、予言ではない。予言にはその的中を望む自己成就性の罠がある。しかし、「テロ」がこのタイミングで起こるとしたら、その事件によって誰が利益を得るのか、誰にその動機があるのかを推量するだけの想像力を皆が抱き、それを言語化して声高に叫べば、その計画の断念につながる可能性はある。「郵政民営化」も「テロ」も、そのどちらもが実現しないに越したことはないのである。それは何度繰り返しても多すぎることはない。

▼ 郵政事業民営化についての関連記述

日本の「民度の高さ」に乾杯!

日本の政治を分かりやすくする

記念すべき8.8

Monday, August 8th, 2005

政治的発言。

郵政三事業の民営化法案が参院本会議で否決。ビッグニュース。「記念すべき日」として思い出される1日となったと言っても良いだろう。だが、一方で、これは東京における「テロ」の危機が増したという別側面がある。分かる人にはこれの意味が分かる。

今後、このために自分が「より高い何か」を支払わなければならないとしたら、この瞬間が別の意味を持ち始めるだろう。いずれにしても、この「否決」に投じた幾人かの議員たちの英断を評価したい。

人質としての私たち

Thursday, August 4th, 2005

最近Go_gleの始めた住所から地図や同地の航空写真を見せるという「サービス」が各方面で話題になっているみたいだ。自分が世界のどの辺りに生息していて、どの辺りを這い回っているのかを自覚するのを趣味とする「地図系」の方々からすれば、これは途方もなく便利な?情報ツールであるのだろう。非常に利用価値が高そうだ。ややシニカルなトーンになったが、そうした趣味を持つ方々やネットの利用者に何の恨みもない。だが、これが一連の「情報革命」の中でも、極めて特異かつ重要な意味を持つひとつの「ブレイクスルー」であり、ひとつの象徴的出来事であることは認めざるを得ない。

それにしても驚いたのは、「ひょっとしてどの程度われわれの生活圏が拡大されて上空から見えるのか」ということが気になって、ちょっと私の両親の元実家の辺りを入力してみたら、恐るべきことに、実家の屋根とその色までがなんとか「目視」できたことである。かつて私が住んでいたその家から徒歩で通った中学校までの通学路を上空からしっかり確認することができたし、中学校近くの○田川の「源流域」、そして家の前の暗渠から水路が露出して、やがて「川」となる辺りまで、すべて眼で確認することができた。

そしてさらに嫌な予感がしたのだが、我が現住所。これもしっかりと「上空から確認」することができたのである。もう逃げも隠れもできない。

もちろん、そこまでハッキリ確認できるほどの詳細な上空写真の入手できないエリアも多い。だが、自分の住んでいる辺りは、十分に「上空捕捉可能エリア内」なのである。

もちろん、すべての場所が「捕捉」可能であるということは、「平等の精神」から言っても悪いことではない、のかもしれない。つまり、私の実家がどこにあるのかが分かるように、ホワイトハウスも、ホワイトハウスに勤める高官たちの自宅も、たぶんブッシュ氏の私邸も、Bill Gatesの私邸もすべて分かる。逃げも隠れもできない。「彼ら」の住所という個人情報さえ入手できれば(と、言ってもそう簡単じゃないかもしれないけど)、どのような位置に住んでいて、どこに川や橋があるのかも、どのあたりに森や高台があるのかも、すべてレジスティック上の情報が手に取るように分かる。いわば重要な「軍事情報の一般公開」な訳である。しかも、それは現在の「某政権」が最新鋭の軍事技術の中でも「公開可能」と判断できた「持てるもの」のごくごく一部に他ならないだろうことも、われわれはすでに知っているのである。

いま正に言った「平等」の話だが、それは皮肉でしかなく、確かに誰にでも地形などの戦略情報が入手できても、考えてみると「彼ら」と「僕ら」の間の圧倒的な不公平は、彼らには家一軒をピンポイント攻撃できるハードやソフトを持っている一方、われわれは奴らの家を「眺める」ことはできても彼らを「ピンポイント攻撃できない」という点である。

「だったらピンポイント攻撃の対象にならなければいいじゃないか」と言われそうだが、だれも好きでなろうと思う者はいない。良心に従い、平和に敬意を払い、戦争遂行者や戦争動機保持者を憎悪している、だけかもしれない。あるいは、いつもの飲み友達などの仲間が自分の家を訪れて一晩おもしろおかしく政権批判を酒の肴に気炎を上げているだけかもしれない。

こうした政権に対する批判的な言辞を、そこかしこで好きに話し合うということが、今は安全であっても、同じことが「やがて来る日」には十分に「攻撃理由」になっているかもしれないのである。あなたが「攻撃目標」となる訳です。この話を鼻で嗤う人にとって、「戦闘状態になっていない」今の日本で、突然平和運動をやっている人の家がピンポイント攻撃のターゲットになることは、確かに考えにくいことであるが、われわれには思い出さなければならないいくつかの「事例」がある。

近い所ではバグダッドのパレスチナホテルの一室が戦車の砲撃の対象となり、反米的報道をする報道クルー2人(カメラマン2人)が殺されたこと。また、ベオグラードで起きたNATO軍(米軍)による中国大使館に対する「誤爆」。

関連記事:

中国大使館爆撃について

信濃毎日新聞、99年5月20日、コラム潮流「大使館「誤爆」のウラ」

平和的な運動や反米は「誤爆」によって、これまで威嚇されて来たのだ。それらに特徴的なことは、「誤爆」であったことが直ちに公式に認められ、事件は「謝罪」や「賠償」によって、表面的には「解決」されて幕を閉じることだ。だが、イラク戦争のような戦闘状態の地域に於いては、誰がどのような殺され方をしているかはまったく「薮の中」だ。だが、分かる人々によってはそうした「事故」が、明確な「サイン」や「意思表示」として、確固とした邪悪な意思を伝える手法として機能することを知っているし、そういうものとして、日本でも日常的な「事故死」や「怪我」もある。誰かに駐車場で襲われて怪我をした人も、早朝に「バイク事故」を起こして顔面が麻痺した人でも、脅される身に覚えがあれば「単なる事故だった」と公式には認める訳である。それが「脅し」というものの本質である。

このように、こうした情報装置をどのような人たちがどのように利用するのかということを考えると、最初に考えついてしまうことは「悪用」の数々な訳である。

もっとも、私一人を殺すのに1発何億円もするようなピンポイント爆弾を使う必要はないだろうという「楽観的」な考え方はある。「ハエを殺すのに大砲はいらない」のである。戦時下でもない限り、家ごと私を吹き飛ばす必要もない。轢逃げされて路肩で事故死体として見つかるのでもいいし、伊丹十三氏のように「スキャンダルを苦に飛び降り自殺」でもいいし、中島らも氏のように「階段から落ちて事故死」でもいいし、永岡洋治衆院議員のように「自宅で首を吊っている」というのでも、いいのである。

話は逸れに逸れまくったが、われわれは皆、すでに「非常時に於ける人質」としての人生を生き始めている。意図してか、せずしてか、Go_gleによる新サービスは、私にはわれわれ一般人へ「おまえたちはすでに見られているのだぞ」という某所からの警告の一つと受け取ったのである。単なる被害妄想者の戯言であって欲しいだろ、君。

聞こえているものの先に、聞こえないものを聞こうとするする思い」に報いること。

Tuesday, August 2nd, 2005

うーむ、あっちでもこっちでもツナガって、「タコ足配線」地獄じゃ!

我が畏友、ランドスケープ実践家 兼 風景批評家 兼 GPS地上絵師の石川初のblogに、なんとも刺激的で、あたかもボクに対して「読め」と発信してきているような、ひときわ目を惹く題名あり。

『「見えるものの先に、見えないものを見ようとする思い」に報いるということ。』

今回石川が「孫引き」引用している加藤典洋の風景論というのに「足を止め」て思わず読み入ってしまった。ここでそっくり引用すると「曾孫引き」になってワケの分からないことになるので、このblogをお読みの方は、そちらで読んで頂きたい(だってそういうのが簡単にできるのが、ネット技術なんだから)。音楽についても多重にこの「エンガージュマン」と「デガージュマン」が適用されそうなことに気付く。ただし、今回はそう簡単に当てはめられない事情もある。

それは、人間の恣意が関与しない前提としての「風景」と、人間の恣意が関与するのが前提としてある「音楽」が、容易に同列に語れないという社会通念上の事情があるからだ。しかし、それでも、コトを見る目の高さ(心理的レベル)を変えてみると、それが適用されうる「断面」が、音楽においても浮かび上がってくるという興味深い事実にも思い至った。

いつものように、石川の「孫引き」に代入して適当に文章をアレンジする。(最近、代入が好きだな、ボク…)

まず最初の方は、「音楽内部についての話」として読む方法(必要)がある。たとえば下などは、容易に理解できる適用例だ。

>> 眼前にある様々な音のパーツのひとつを対象として注目している限り、「音楽」を聴いているという意識が生じないのだった。<<

実際問題、極端な例だが、聴者がオケのメンバーだったりすると、他のオケを聴いていても自分の普段担当している楽器のソロとか、あるいは内声部を選択的に聴いていたりして、全体として(作曲家の意図している意味での)音楽を聴いているという感じの体験とは違ったものになってしまう(もちろん、鑑賞の達人になってくると、そういう普段なら聞こえにくい声部を「耳」が抜き出して、セカンド・ヴァイオリンやヴィオラパートを楽しむなんていう“倒錯した”音楽の楽しみ方もある訳だが…)。そんな、極端な例を挙げなくても、案外よくあることなんではないだろうか。つまり、“「音楽」を聴いているという意識が生じない”というのは、言ってみれば「音楽鑑賞以前」の状態という訳である。

>>(だから、純粋に音楽の全体を「全体」として楽しむなら、)ひとつひとつの対象(楽器のひとつひとつの音やメロディーのひとつひとつ)へのデガージュマン[身の引き離し]があって、そのデガージュマンがそのままアンガージュマンを形成するような瞬間に「音楽」は聞こえてくる。したがって、ひとつひとつの楽器の音やメロディーではなくて、音が一旦「音楽」として聴かれ始めると、今度はそれ自身(作品全体)が注目されるもの、聴くことの対象になる。<<

ふむふむ。ま、最後の方は当たり前の話では、ある。音楽を全体として「一つの構造」として聴き取る、ということが、まさに「音楽を聴く」態度であり体験だからだ。だが、こうした言い方が成立するのは、ここまでだ。

>> こうした「音楽」の成立のうちに、・・・・・「音楽」は消えるのである <<

本当に「音楽は消える」のかと言うと、音楽そのものの内部の話をしている限り、あるいは音楽そのものの内部だけに関心が注がれている限り、そう簡単に音楽が「消えて」しまうことはない。音楽はたいていの場合、特に西洋音楽の場合、通常、作曲家や演奏家は「譜面に書いた音、鳴らされるべき音、そのものを聴いてくれ」と迫ってくるからである。(少なくとも、そのように思われているように見えるな、大概の西洋音楽は!)

したがって、こうしたレベルでは、相反する二つのものを同じ「音楽」の名で呼ぶことから生じる「音楽論の混乱」というのは、あまり問題にならない。ただし、例外的に即興音楽においては、そうしたことが大いに(鑑賞にとって)課題となる[後述]。そして、ある特殊な聴者の心理状態においては、ほとんど音楽的体験と呼ぶに相応しからざる「音楽体験」というものがあるのも確かだ。

つまり、これを音楽を含んだもっと広い環境・状況というところまで拡大すると、面白いことが言えるのだ。つまり、適用できなかった最後の部分が、適用可能であり、それこそが、音楽を鑑賞する体験の中でも、最も面白い部分ということになる。

>> 聴かれることの対象となった音を「音楽」と呼ぶなら(そして事実私たちが日常「音楽」と呼んでいるのはこちらのほうだ)、この対象としての「音楽」の成立のうちに、・・・・「音楽」は消えるのである。<<

たとえば、音楽会で音楽を集中して聴いていて、あるいは静かな環境でゆったりくつろいでレコードを聴いていて、「音楽が消える」という体験を想起するのだ。(オーディオマニアが、「本当に良い音は、オーディオ装置が消える」とか言うが、そういうことに、ここでは深入りしない。)すなわち、音楽にわれわれが本当に没頭したときに、我々は本当に音楽(音)を聴き続けているのか、という設問である。素晴らしい音楽体験とは、全くもって内面的(心理的)なもので、それは「音楽自体からの感動」とは別物であることがある(あるかなぁ、みんな!)。音楽がきっかけとなって、我々は別の場所に勝手に到達してしまうからである。こうした体験さえも「音楽の体験」と同じ言葉で呼んでしまうと、確かに混乱がある。

音楽家が作り出す作品(音)までは音楽家の責任だが、それを通して得てしまう「聴く側の能動的なはたらき」による体験は、必ずしも音楽体験そのものとは限らないからだ。そうしたことが聴く側の内部で起きる時、楽器ひとつひとつの音色やメロディーは、「既知のもの」でありながら、体験としては「未知の領域」に入ってくる瞬間だ。そして、更に言うと、鑑賞者が<普遍的題材>に触れる劇的体験があるとすれば、その刹那にこそやってくるのだ!

ここからは、ふたたび石川の言葉への「代入」となる。

>> (こうした聴者の内面で生じるかもしれない)「音楽体験」をあらためて「音楽」と呼ぶことにすれば、これと区別される「それ自身が注目されるもの」としての「音楽」を、たとえば「純音楽」と呼んでもいいだろう。今日、多くの「音楽」の議論はほとんど、「耳に聞こえてくる音場空間のみを」対象として、それをいかに「われわれにとって快い知覚経験をする場」とするか、が問題にされている。<<

あるいは(別テイク)

>> (こうした聴者の内面で生じるかもしれない)「知覚体験」をあらためて「音楽的神秘体験」と呼ぶことにすれば、これと区別される「それ自身が注目されるもの」としての「音楽」を、たとえばこれまでのように(カギ括弧なしの)音楽、と呼んでもいいだろう。<<

話は脱線するが、

石川の文章:

>>「ランドスケープ」は、デザイン「できない」ものが「ある」ということを前提にする。「ランドスケープ的アプローチ」をとるなら、何よりもまずはそこに「デザインできないもの」の存在を認めるところから始める。そして、それを「デザインできるもの」に置き換えたり、覆ったりするのではなく、そういう「デザインできないもの」「コントロール不能なもの」を示唆することを目論む。<<

の部分は、いわゆる「環境音楽」「アンビエント系音楽」などに関係した主張の典型として読むことも出来る。つまり、サウンドスケープや“ジョン・ケイジアン”の立ち場だ。

「サウンドスケープ」は、(音場に)デザイン「できない」ものが「ある」ということを前提にする。音楽の領域において「“ランドスケープ”的アプローチ」をとるなら、何よりもまずはそこに、環境音、すなわちカラスの鳴き声、虫の声、風、豆腐屋の笛の音、万年物干竿屋の拡声音、子供の泣き声、自転車のブレーキの音、などなどの「デザインできないもの」の存在を認めるところから始める。そして、それを「デザインできるもの」に置き換えたり、覆ったりするのではなく、そういう「デザインできないもの」「コントロール不能なもの」を示唆することを目論む。

というわけだ。なかなか「模範的解答」となるぞ、これは。

さて、「即興」について、通常音楽と区別して語ってきた事情から言うと、最後にそれを言及しないで済ませる訳には行くまい。ここからが、やっと本番だ。

即興音楽と風景の類似性について<ことさら>に発言したくなる理由のひとつとして、それらに共通なリアルタイム性、スポンテイニアス性がある。つまり、即興音楽家たちは、集団即興においては特に、それぞれがある程度自分にとって既知の「持ち札」(特定の楽器やテクニック)を持ってステージに登場する。だが、ひとたび音が出されるや、自分という音を出す主体以外の「未知な要素」「予想不可能な要素」というのに、必然的に遭遇する。そして、本人の演奏し始めて初めて分かる「体調の認識」と遭遇する。そして、それへのリアルタイムの「対応」が求められる。大きく分ければ、そうした「未知なる要素」に対して、それを「無視して進む」というのと、それを「利用して進む」という態度の「二大選択肢」があらゆる瞬間に出現し、それへの判断を忙しく行なわなければならない。音は生き物だから、待ってくれないのである。まるで、風景のようだ。しかも、どのように無視するのか、そのように利用するのか、というほとんど無限の選択肢の中から、もっともカッコいい方法を(ほとんど本能的に、瞬時に)選択しなければならない。

無視することによって生じる二つの(三つの、それ以上の)世界の、同時的な顕現が、まるで写真の二重(三重、多重)露出のような効果を以て生起し、とてつもなく象徴的な音場を築いてしまうこともあれば、単なるやかましい雑音に堕することもある。一方、「未知なる要素」に対して、互いに利用して進むということでしか発生しない、リアルタイムに醸成される協和的で調和的瞬間が—-まるで「人生」のように—-音楽的に「意味あるもの」を構成することがある。

いずれにしても、「風景のデザイン」と同じように、他者の存在や偶然という制御不可能性を受け入れることによってしか、立ち行かない「創作」の在り方が、即興音楽にはあるのだ。

即興音楽においては、「われわれを取りまく環境のある状態・状況を指しているものであって、その状況のもとにおいてデザインという行為が表象するものと、表象が指向する対象の間に」絶え間ない緊張の関係が築かれる。

石川が…

>> そこに意味のあるつながりを見出す観察者による「風景化」の「契機」の生成を試みる。つまり、ランドスケープデザインが「デザイン」しうるのは「風景」それ自体ではない、というわけだ…<<

と、いみじくも言っているように、音楽においても(即興音楽であればとりわけ)、演奏者は、そこに意味のあるつながりを見出す観察者(音楽鑑賞者)による「音楽の風景化/ドラマ化」の「契機」の生成を試みている。つまり、即興音楽家が、「デザイン」しうるのは実は「音楽」それ自体ではない、のである。

鑑賞者がその中からリアルな「劇」、あるいは「物語」と呼ぶに相応しいものを見出す「契機」を、即興音楽家は、あるいは音楽家は、試みるのである。そこには、予定調和的な大団円はない、かもしれないし、ごくまれなチャンスで、あたかも譜面にプランされたとしか思えないような、浪漫派的な「歓喜の物語」をリアルタイムで生み出す可能性を秘めているのである。

そこにこそ、即興音楽の醍醐味があるとenteeは、考えるのである。

かくして、かの石川のオツな導きによって、数年前に『ランドスケープ批評宣言』(INAX出版)に寄せた、拙文(即興性と計画性に見る風景と音楽のアナロジー ある即興音楽家の夢想的「風景」論)は、再び日の目を見るのであった。(と、せいぜい“我庭引水”して、終わるのであったー!)

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