Archive for May, 2006

宗教の「第三の機能」への一瞥
ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [1]

Wednesday, May 31st, 2006

The Gnostic Gospels

原題をThe Gnostic Gospels(グノーシス派福音書)という、非常に得るところの多い、真摯なキリスト教とグノーシス思想に関する研究書。特にキリスト教成立期における政治と宗教の関わりについての書である。エレーヌ・ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本 〜 初期キリスト教の正統と異端』荒井献・湯本和子 訳(白水社)から引用して、そこに見出される幾つかの課題について論じていこう。

彼(パウロ)の議論はしばしば身体の復活を擁護する論拠として読まれているが、この議論は、「兄弟たちよ。私はこのことを言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるもの(すなわち死すべき肉体)は、朽ちないものを継ぐことがない」という文言で結ばれている。

新約聖書の記述がさまざまな解釈を許容し得たとするならば、なにゆえに二世紀の正統的キリスト教徒は、復活を文字通りに解釈すべきだと主張し、他のすべての解釈を異端として退けたのであろうか。この教義を宗教的内容の観点から見る限り、われわれはこの疑問に的確に答えることはできないと思う。しかし、これが実際にキリスト教運動にどのような影響を与えたかを検証してみると、われわれは逆説的に、身体の復活の教義が重要な政治的機能も担っていたことが分かるのである。すなわちこの教義は、使徒ペテロの後継者として諸教会の指導権を自分たちだけで行使することを主張した若干の人々の権威を合法化することになったのである。(page 43)

「復活」の解釈に関して、この箇所から伺えるペイゲルスの記述は相当に的確であって、彼女のもっぱら対象とした問題圏においてはすぐさま付け加えることがあるとは思えない。とりわけ、「(復活の教義を)宗教的内容の観点から見る限り」と条件付けし、その意味は「重要な政治的機能も担っていた」という風に当時の政治状況を鑑みれば納得できることである、と述べているのであるから、それは事実であるとほぼ認定可能である。彼女の捉えたそれぞれの問題圏における彼女の記述になんら不足なことがあるとは思えない印象がある。例えば、一方においては「疑問に答えることはできない」と言い、他方(政治的観点)においてはきちんとした説明をなしている。

だが、ここで彼女が「的確に答えられない」とことわっているような「宗教的内容の観点」ということには、一瞬立ち止まって検討する余地がある。なぜならその「観点」には、宗教に対しての狭義の条件だけが前提とされているようにも感じられるからである。「宗教的内容」というのが、いわゆる個人の幻視者に生じるかもしれない内的(神秘)体験そのものであると厳格に定義付けて考えれば、その条件付けは間違っていないのであるが、「人間の組織としての宗教」というものの担ってきた機能というのは、単に「身体的神秘体験」を通して了解される純粋かつ正統なる「宗教的側面」(聖なる側面)と、「政治的機能」(俗なる機能)という二者択一的な言い方だけで片付けられない面がある。

グノーシス的な思想の影響下に置かれる程、「人間の組織としての宗教」が、如何に錯誤や欺瞞に満ちたものなのかということに、われわれは心を奪われがちだし、いよいよわれわれの多くが伸長させつつある現代的異端派の視点の獲得によって、教会の築き上げて来た数々の行状や今日の在り方に仮借なき批判の言辞を浴びせることは容易になりつつあるが、それでもなお、正統派教会というものが、そうと知らずに担って来た機能というものの知られざる価値──それはほとんど逆説的価値というべきものだが──は、正統派/異端派のどちらにも容易に与しない第三の視点というものによってこそ初めて捉えられる宗教の側面なのである。

そして宗教には、ひとつの人類の生き方の態度決定に影響を与える「道徳規定の機能」がある。言うまでもなくそれは顕教的な「善き人生や関係のための教え」や不合理な恐怖心に訴えかけるようなものを指しているわけでもない。人間の地上的生存を尊重した時に、そこを生きる人類の態度に多大な衝撃を与えるのが、宗教の「象徴的機能」である。つまり、《純粋に宗教的内容》を持った真に正当な宗教的(霊的)観点と政治的観点の他に、それらが総体として作り上げる「象徴的観点」という、いわば「メタフィジカル」とでも表すべき視点が存在するのである。これはそのもの自体では一見、何の役にも立たない、ある種、非合理な機能である。だが、いわゆる通常の正統派から見た「復活の教義」の重要さというのが、単に、宗教組織にとっての指導権や権威を自分たちだけに合法的に独占するため、というような政治的な意図だけであったと考えると主張すれば、宗教についての言説としては、まだまだ言い足りないのである。

「復活」の教義というのは、キリストが何を象徴的に表しているのか、ということに対する的確な理解なしには読み解くことの出来ない部分であり、ペイゲルスの視点の中ではそうした「象徴的存在としてのキリスト」という概念へ深入りは、ほぼ範疇外である。「復活の教義」は、一見してキリスト教の宗教としての独自性の部分であると彼女も本書でことわっている(p. 39)のだが、われわれにとっては、それがキリスト教の独自性ではないことは、あちこちで確認して来た如く、すでに明らかである。「死と再生」「滅亡と復活」とは、キリスト教だけの独壇場ではなく、あらゆる秘教的イニシエーションや神話が繰り返し表現方法を変えつつも執拗に伝えてきたものだ。キリスト教の「復活の教義」とは、まさにそうした秘教的伝統を真っ当になぞった部分なのであって、キリスト教哲学の独自性を意味しない。

したがって、「復活」を杭(アンカー)として教義の中にしっかりと根付かせ、その「実在」を字義通りに人々に記憶してもらうこと、そしてそれを未来へと伝承することには、単なる政治的意図以上の意味があるのである。それを教義の中核(のひとつ)として据えたカトリック教会自身が、それを「字義通りに受け取る」という陥穽に落ち込んでいるのはわれわれの眼にもはや明らかだし、またそれを「字義通りに受け取る」ことを信者に疑わせることなく強制した結果、その本質たる象徴的解釈から大多数の者たちをも当然遠ざけられてしまったのである。だが、「外部(他者)を欺くのに内部(自己)をまず欺かざるを得なかった」と考えれば、それはそれで納得のできることではある。自らをしてその「復活の教義」に帰依させることを徹底することなしには、これだけの「人の子イエスの復活」などという条理を逸脱した教理を、これほどの長期にわたって人に信じさせることができたとは思えないのである。

あるグノーシス主義者は復活を文字通り受け取る見解を「愚者の信仰」であると呼んだ。復活は、彼らの主張しているところによると、過去においては特異な出来事ではなくて、今日、キリストの存在を経験できることを象徴するものである。大事なことは、文字通り目で見るということではなく、霊的に見ることである。(page 49)

「霊的に見る」と、私なら敢えて言わないだろう。「心の眼」で視るというくらいに留めておくだろう。だがそのようなことはさして重要ではない。ここで、われわれが思い出さねばならないこととは、「字義通りに信じる」という言葉に、二つの意味があるということである。それは「字義通りのことが起こったと、それが告げる通りに信じる」という場合と、「字義通りに受け取った上で、それが象徴するところの意味を理解し信じる」というふたつである。いずれも「信じる」ことへは繋がっていく。だがこの二つの「信仰」は似て非なるものである。象徴の指し示すところを諒解させることは、まさに宗教の第三の機能、すなわちいわゆる「啓示宗教」の本質とも「支配宗教」の持つ政治的機能の観点からも異なる宗教の持っている重大な役割なのだ。そして、それを象徴的に理解するためには字義通りに一旦受け取らなければ、その重大な意味伝達という目標には適わない。

したがって、まず疑問の余地なく字義通りにその内容を人類に記憶させ、後にその意味をあらためて想起させるという意味で、その「教義受容」の強制という側面には、政治的な権威の保守と独占ということ以上に重篤な意義がある訳である。それがそもそもの宗教の発端とさえ考えられるのである。また、その点を肯定することなしには、これまでの宗教の誤謬や犠牲の一切を単なる無駄な浪費であったことになるのである。こうした評価は、訴える側にとっても訴えられる側にとっても、何ら得るところはなく、実に不幸なことである。

そしてその宗教の隠れた意義(秘教)へと個人が到達(参入)するためには、まさにペイゲルスが取り上げているところのグノーシス主義者たちの主張、すなわち「自分自身を出発点とする」ことから始めるべきであり、信じられ伝えられたところの教義の語る「字義」を、乗り越えるという内観的で孤独な作業なのである。だが、一旦、事物に現れる<兆し>や象徴の読み方(視力)を手に入れた個人は、もちろん宗教から学ぶことも多いが、宗教者をして宗教を再検討させる視点も同時に獲得する。幻視者にとって、あらゆる雑多な日常の間隙に顕現する象徴的な兆し(徴)から未来が透視できるのと同様に、宗教の教義が読み解き得る秘密の「宝の山」であることが分かるだけであり、「宗教が彼を分からせた」のではないのである。宗教は、彼のような登場によって、再び解釈可能な対象として我らが眼前に甦るのである。そして、それはG・ショーレムも語るように「正統派」との緊張関係を築きながらも、さまざまな時代と場所で起こった。今までそれが起きたように、その存在は、今日も、そして将来においても、個人に生起する《爆発的な洞察》の存在を通して、何度でも起こるはずのことである。

流行ったものは廃れてしまう(栄枯盛衰のことわり)

Tuesday, May 30th, 2006

ダ・ヴィンチの「異端」的傾向や、彼の更なる「天才」の秘密が明らかになったとしよう。あるいはレンヌ=ル=シャトーの秘密、そして「シオン修道会」の実在とその役割などがすべて暴かれたとしても良い。はたまた、イエスは磔刑で死んでおらず、マグダラのマリアと結ばれて子孫までもうけていた。メロヴィング王朝がその末裔だ。そんなことのすべてが史実として“証明”されたと仮定しても良い。

これらの「新たに証された真実」は、ある方面の人々にとっては衝撃的な話だろうが、われわれの人生にとってどれだけ関係のある話なのであろうか? 私はこれらの話の価値を否定しはしない(それどころか相当の興味を以て見守っていると言っても良い)。だがわれわれ日本人の生活にどれだけの関わりがあるのか、そういう視点でその重要性や影響の大きさを、納得のいくかたちで説明をした人がわれわれの周辺にはいるのだろうか? 私はその点で大いに物足りなさを感じるし、不満である。

例えばちょっと「旧聞」に属するが、グラハム・ハンコックが『神々の指紋』によって世間に引き起した波紋は大きかったが、一過性のブームとなって、その終わり頃には、正統派科学者の一通りの反論によって「擬似科学」のレッテルを貼られ、事実上葬られた。検討の余地があったかもしれないハンコックの幾つかの重要な(そしてなにより大胆な)超歴史的世界観を反映した諸説は、皆の記憶からも忘れ去られた(ように見える)。私が予測するのは、今回のキリスト教「異端」的なテーマを元にした「衝撃的」ドラマも、潮の満ち引きのように、『神々』と似たような軌跡を辿ると観ている。爆発的なブームと、まるで嘘のような人々による忘却である。流行ってしまえば廃れてしまう。逆に言えば、流行らないものは廃れもしない。流行ること自体が、数年後の忘却を約束するのだ。

この忘却は、今回揶揄の対象となったカトリック教会などにとってはまっこと好都合な話だろう。彼らにとって、今のこの迷惑千万な「嵐」を当面なんとかやり過ごせば良いのである。あるいは決定的な反論を行うべく準備を整える時間があるやも知れぬ。もちろん「嵐」の前と後が全く同じであるとは限らないかもしれない。何かが変わる可能性はある。この度の「レヴィレーション:啓示/黙示」によって、変わってしまうだけの影響を受けてしまう人間も僅かながら出るだろう。だが、おそらくほとんどの人々の記憶は「ダヴィンチ・コード? ああ、そういえばそんなのが流行ったこともあったね」という想い出の類になるであろうことはほとんど必定である。

ひとつには、イエスが独身だろうと既婚者であろうと、あるいはマグダラのマリアと懇(ねんご)ろであったか、などということや、「シオン修道会」や「テンプル騎士団」のことなど、自分たちの現実感や毎日の生活とはなんら関係がないからである。だから程度の高い、やや知的スリルを伴うミステリー小説の類となって終わることはほとんど疑いの余地もないのである。

贔屓目に見て、それが極上の娯楽的話題を提供することはおそらく疑いがない。だが「米国発・仏国(カトリック)への揶揄」という怨嗟と濃厚なまでに政治的意図を持った映画『ダ・ヴィンチ』が、いかにup-to-dateな“正しい歴史認識”を前提としていても、その意図が悪しければ、その作品が普遍的メッセージに昇華することなどはできない。それは聖なる題材(あるいは疑似・聖なる題材)を借りて行う、単なる俗権的な政治闘争という「象徴世界の別側面」でしかないことになる。それは言ってみれば、見えない「神々」の戦いなのだと言っても良いのかもしれない。だが、それはどこまでいっても、逆説を含んだ人類の苦悩をテーマとする文学にはなり得ないのである。そうした逆説と入れ子状の象徴構造の有無が、タルコフスキーやキェシロフスキ作品がそうであったような意味で、映画作品が他の如何なる娯楽作品からも一線を画させ得るか否かの境目なのである。

だが、私が断っておきたいのは次の点である。私が扱っている《象徴》と人類の歴史進捗の関係、ひるがえって《象徴》と未来の世界との関係、これらに関わる秘密は、《われわれやわれわれの子孫たちの生存と関わりのある話》だと言うことである。『ダ・ヴィンチコード』が裸足で逃げ出したくなるほどの重篤な意味を持った、しかも今のところ流行も廃りもせずに人類の数千年の歴史を生き抜いてきた《何か》についての学問なのである。

それは文明、したがってわれわれの生活や生命と関係があるという意味で、《普遍的題材》と呼ばれるに相応しい内容に深く関係しているのである。

そしてそのようなコンテクストで再読(再検討)することによってしか、この度話題を独占している《コード》の重要性が「われわれの問題」として再認識されることはないであろう。

以上。

“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [14]
“4”の時代〜「元型的水曜日」(下)

Wednesday, May 24th, 2006

[随時推敲中]

■ 天使と「数性4」の間にある関連

The Four Archangels and the Twelve Winds Robert Fludd Four evangelists on ceilings

東方密教における「四天王」は、ユダヤ=キリスト教文化(厳密にはイスラム教伝統を含む)においては「四大天使」に相当する*。あたかもインド・ヨーロッパ語という言い方が示唆する古代の世界観と一致を見るかのように、いくつかの仏教伝承(仏教を通して伝承されたヒンヅー文化の中の神話的世界像)と、キリスト教の伝統として保持されている世界像の間には相当の共通性が存在する。

持国天増長天広目天多聞天

東寺(教王護国寺/真言宗東寺派本山)の四天王像(貞観時代/9世紀)

左から持国天、増長天、広目天、多聞天

* 四天王と四大天使間の憶測的呼応性:

毘沙門天/多聞天(ヴァイシュラヴァナ):北方の守護神、右手に宝塔、左手に金剛杵[ウリエル]

増長天(ビルーダカ):南方の守護神、右手に長い棒[ラファエル]

持国天(ドリタラーシュトラ):東方の守護神。右手に剣[ミハエル]

広目天(ビルーパークシャ):西方の守護神、右手に筆、左手に教典[ガブリエル]

Archangels

四大天使 (Four Archangels) と言えば、通常、天使ミハエル、天使ガブリエル、天使ラファエル、天使ユリエル(ウリエル)を指す。ミハエルとガブリエルはとりわけ聖書神話において幾度も登場するので広く親しまれている。この二天使は、キリスト教文化において、言わば男性性と女性性を濃厚に保持したある種の対(ペア)を成しているかのように描かれてきた。とりわけ他の二天使に比べて多く登場するのでその対照的な現れが際立って感じられるのである。処女マリアのもとに訪れ受胎告知をする天使ガブリエルは、多くの場合、殆ど女性と見まごうばかりの柔和さと優美さを持って描かれるのに対し、天使ミハエルは、多くの場合、龍を槍で串刺しにして蹂躙する、極めて粗暴で男性的な図版群を通して頻繁にわれわれの前に現れる。いわば「闘争と支配の天使」である。

Archangel Michael & Gabriel Three Archangels with Tobias

左:バルカン半島のイコンより「聖ミカエルと聖ガブリエル」 この図版から感じられることとは明らかにミハエルとガブリエルが男女として描かれていることであり、そればかりかあたかも夫婦関係にあるかのような印象すら受け取れるのである。画像引用先:Balkan Icons 右:ボッティチーニの(BOTTICINI, Francesco / b.1446, Firenze, d. 1497, Firenze)の「三人の大天使とトビアス: The Three Archangels with Tobias」にはユリエルを除く三大天使が描かれているが、これにおいてもミハエルとガブリエルの描かれ方は性別的に対称的である。[ここでは、一対(ペア)の天使が、UK(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国:The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)における主要な二大王国、すなわちイングランド王国とスコットランド王国に呼応するということを示唆しておく。]

天使ラファエル (Archangel Raphael) は、新約聖書の中にはその名前が全く言及されず、かろうじて旧約の「トビト書」において主要な登場者としての記述があるのみである。ただしラファエルは伝統的にエデンの園に生えているという「生命の木」の守護者として知られており、癒しの力を持つ天使という側面を持つ(また、ヨハネ福音書において言及される天使がラファエルであるとする一説が存在する)。

天使ユリエル (Archangel Uriel) は、バビロン捕囚後にユダヤの伝統中に成立した天使であり、偽典「ペテロ黙示録」において罪人を永遠の業火で焼く「懺悔の天使」である(仏教の末法思想において登場する地獄の懲罰者「閻魔: Yama」の役割を果たす)。それまでは大天使 (Archangel)の名前で呼ばれる天使は前掲の三天使だけであった。ユリエルとつながりを持つ象徴は「太陽の統率者」そして「神の眼球」であり、その名前の意味、神の炎 (Flame of God)からも強烈な火(光)との関連がある。ユリエルは炎の剣を持ってエデンの門に立つケルビム(智天使)であり、「第一エノク書」において描かれる「雷鳴と恐怖を司る」天使であるとも考えられている。ただし、われわれの議論においてユリエルに関してとりわけ重要視されるべき点は、724年のローマ教会会議において教皇ザカリアスによって「堕天使の烙印を押された」ことである。これには民間で加熱しすぎた天使信仰にブレーキをかけるため、という政治的意図を持ったいわば「人為的な堕天」であっただけのようであるが、ユダヤ教伝統における原初からの三大天使ミハエル、ラファエル、ガブリエルだけを大天使として温存し、その一方ユリエルを差別化するという象徴的な意味合いがここで生じたのである。「四者の中における差別待遇」という図式は、後にまた論じられるであろう。

■ 新約福音書家: Evangelistsと「数性4」

現在のキリスト教の経典たる新約聖書の最初に掲載されている福音書は、四人の異なる福音書家による報告という体裁を採っている。そして福音書家が四人選択されている事実にも当然のことながら秘教的動機が潜む。

Four Evangelits

画像引用先:symbols of the evangelists

福音書家を表す“evangelist(英), evangelista(ラ), evangelistes(ギ)”という語にもangelos、すなわち「メッセンジャー:告知者」の意味がある。ギリシア語の“to announce”に当たる動詞は“angellein”という語が当てられ、その語彙の中に「使い:メッセンジャー」の意味が入っているのである。「福音書家:エヴァンジェリスト」には「bringer of good news: 福音(良いニュース)をもたらすもの」[eu (good) + angellein (announcer) ]という構造を持っている。「天使」は、その日本語からは語源を推し量ることが難しいのであるが、欧州言語においては、「天の使い」というよりは、メッセンジャー(言付けの運び人)の意味合いを未だに色濃く残している。いずれにしても「福音書家」に当たる“evangelist: ev-angel-ist”には“angel”が明確に内包されているのをわれわれを見ることができる。

現在の新約聖書に「福音書」が四つ選択されていることには、「四人」の福音書家がいること、ひいてはそこには「四大天使」との呼応性の暗示が意図されていることを思い出す必要がある。

Four Evangelists (Book of Kells)

図版:「四人の福音書家」(Book of Kells, ca. 800)

人、獅子、牡牛、鷹の象徴はそれぞれ福音書家マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに相当する。

evangelist

c.1175, “Matthew, Mark, Luke or John,” from L.L. evangelista, from Gk. evangelistes “preacher of the gospel,” lit. “bringer of good news,” from evangelizesthai “bring good news,” from eu- “good” + angellein “announce,” from angelos “messenger.” In early Gk. Christian texts, the word was used of the four supposed authors of the narrative gospels. Meaning “itinerant preacher” was another early Church usage, revived in M.E. (1382). Evangelical as a school or branch of Protestantism is from 1747.

この四人のエヴァンジェリスト(福音書家)であるマタイ: Matthew,マルコ: Mark,ルカ: Luke,ヨハネ: John,と四人の大天使 (Michael, Gabriel, Rafael, Uriel) との間に存する呼応関係は、エソテリズムの世界において十分に知識として共有されるところでもある。ここにある四大福音書と四大天使との間にある興味深い共通性について言えば「ヨハネによる福音書」について言及しないわけにはいかない。「ヨハネによる福音書」は、とりわけ現状の新約聖書に収録されている福音書中、比較的グノーシス思想の影響の濃く見られることはすでに知られていることである。「正統」を決定するキリスト教成立時代の初期において、すでにさまざまな福音書が「異端的」として「偽典(外典)・偽書」の類として除外され破壊された中で、この「異端的」な福音書が新約聖書の中に残ったことは、正統としての聖書そのものを内的に相対化する(裏切る)役割を、「ヨハネの福音書」という体裁を通じて組み込まれたと考える余地がある。

四大天使において「堕天使」として認知されることになったユリエルが、その性格にも関わらず、「天使のグループ」の中に組み込まれている事情は、単に偶然的な呼応性があるというよりは、まさに四大福音書の選択と構成にも反映しようという意図があったと視る一定の根拠があるのである。

■ 天使ミハエルと聖ジョージの間に観られる相似性(混淆)

美術的作品によって取り上げられるある種の範型が、異なる題材を持った二つの作品の間に共通して見られるとすれば、それが意図されたものである可能性を疑ってみる価値がある。例えば、「ある勇者が獣的な存在(龍)を懲らしめる」という題材があるとして、同様の題材を扱った美術作品が「別の人物を描いている」とすれば、そこには二人の異なる人物が同じことを成した可能性、ないし、あることを成した一人の人物が異なる名前で知られている可能性の二つが考えられる。(いずれにしてもある題材を取り上げる際、美術家が参照先として別の人物を描いた似たような場面を取り上げる可能性もあるのである。)

Archangel Michael by Martin St George (by Tzanes

図版

左:龍を刺し殺す大天使ミハエル: The Archangel Michael Piercing the Dragon

Martin Schongauer (German, c.1450 - 1491) c. 1475@ The Cleveland Museum of Art

右:龍を殺害する馬上の聖ゲオルグ(セント・ジョージ)Icon with a depiction of Saint George on horseback slaying the dragon. By the painter Emmanuel Tzanes (1660-1680) @ Byzantine and Post-Byzantine Collection of Chania

参考:Michael (archangel)@Wikipedia

事実、この「勇者が獣的な存在(龍)を懲らしめる」という題材の絵画は、二つの異なる名前で知られた勇者の絵として今日知られている。この「龍誅殺の伝説: dragon-slaying legend」のひとつは天使ミハエルのものであり、もうひとつは聖ジョージのものである。絵画で描かれている聖ジョージの伝説の成立時期は4世紀頃と考えられており、しかもその成立場所は小アジアであるらしい。しかも聖ジョージはイングランドのみならずロシアにおいても守護聖人として捉えられているので、イングランドとの直接の関連は薄そうである。しかしながら、興味深いことに、イングランドが実際にウェールズ国と戦い、それを支配した事実と関連づけて当地では理解されていることも事実である。実際問題、ウェールズは伝統的に国(民族)の象徴として「龍: Pendragon」の徴を持っているのである。

Welsh Pendragon

イングランド王エドワード6世の治世下 (1465年) に鋳造された金貨には、龍を誅伐する聖者として大天使ミハエルと思われる像が刻まれているという。イングランドにおいては聖ジョージと大天使ミハエルの両方が競って図像表現の題材として取り上げられる。

参考:“angel” @ Etymology Dictionary

龍というのはある種の旧弊な世界の徴でもあり、実は「時の始め」に当たって行なわれる「龍とその退治の物語」は、古い世界の更新(ないし「最古の記憶」:歴史の始まり)と関連している。すなわち、この範型的場面は、現在の世界を今われわれが知るような世界たらしめた何らかの重要な発端を表す神話の中に登場する傾向にある。それは日本の神話の中にも八岐大蛇とそれを退治した須佐之男命の形で見出されるし、フリーメイソン儀礼に影響を受けたモーツァルトによって書かれたオペラ『魔笛: Die Zauberfloete 』の中でも主人公が龍と戦う(襲われる?)場面がストーリーのオープニングとなっていることもわれわれは知っている。聖ジョージの退治する龍も、ある社会(国)がキリスト教世界になったその理由と関連づけて把握されている。聖ジョージは、龍の殺害を民衆のキリスト教への改宗の条件としたのである。すなわち「皆を苦しめる龍を退治してあげる代わりに、皆はキリスト教徒に改宗せよ」と聖ジョージは迫ったのであった。

美術表現に話を戻せば、イングランドの象徴である聖ジョージと、四大天使の一人天使ミハエルの間に観られる絵画表現上の共通性は、殆ど意図されたものではないかと思われる程のものである。まさに聖ジョージはあたかも天使ミハエルの姿を模したものとして現れる。そして龍殺害の武器は双方とも槍であり、龍の身体の上に乗り(あるいは単に上方から)蹂躙しつつ槍を龍の上に立てようとする場面なのである。このほとんど作為的とも言いたくなるような二者の「混同」と表現上の「混淆」は、むしろ聖ジョージで象徴されるイングランドが、少なくとも四大天使中の大天使ミハエルの役割を果たしたことを意図した(暗示しようとしている)と考えることができる。もしそうだとすれば、イングランドの象徴である聖ジョージは、大天使ミハエルに関連付けがされており、間接的にイングランドと大天使ミハエルの間に呼応性があると読めるのである。

龍と闘う聖人像として伝承されているものに、聖メルクリアリス (Saint Mercurialis: ca. 359-406) という人物がいる。これは聖ジョージほど広く知られていないようであるが、イタリアのエミリア=ロマーニャ県フォルリ市の最初の司教とされる人物である。注目すべきは、この人物の名前「メルクリアリス」こそ、「メルクリウス: Mercurius」すなわち「翼を持ったメッセンジャー:マーキュリー」を思わせるものなのである。この聖人の歴史的役割は、町を龍から護るという聖ジョージとほぼ同等のものであり、名称的には「天使」とつながりがある点で大天使ミハエルと同一視が可能なのである。

マーキュリーはもともとギリシアのHermesに相当し、後にローマの神となるが、ラテン語の“merx”、英語の“merchandise, commerce”(通商と商売)と関連がある。さらに、マーキュリーはオーディン (Odhinn/Odin, Woden/Wotan) との関連により一週のうちで「水曜日」と強い関連があると言われている。スペイン語において水曜日はmi?rcolesで、それはローマの神マーキュリーから来ている。日本語においては「水銀」や「水星」などと訳されているMercuryであるが、曜日においては第四日は「水曜日」となる訳である。マーキュリーにしても「天使」にしても、そのいずれもがまさに「第4日:元型的水曜日」の時代を席巻する国家の徴に相応しいものである。

参考:

“Saint Mercurialis” @ Wikipedia

Mercury (mythology) @ Wikipedia

■ 閉じられた世界と「数性4」

あるコンテクスト下において、「数性4」が「東西南北」すなわち「全世界」を表すという象徴伝統中のほぼ不文律的な「約束事」がある。四天王のそれぞれが、東西南北の守護神であるように、世界を四隅に分割して捉えるという考え方は、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武の「聖四獣」の存在によっても表現されてきた。これはそれぞれ「青・赤・白・黒」の色が宛てがわれてもいる。

ある限定的な領域、とりわけ海で他者から隔てられている島のような区域において、この四隅の世界像というのはとりわけ意識されるようである。言い換えれば、その地域における海によって限定された「島国」的な精神性が、その島を「あるバランスの中で完成した、ひとつの世界を表徴している」と考える傾向として現れるのである。すなわちヨーロッパにおいても、大英帝国が4つの王国から成り立たなければならないということも、また(後に大英帝国によって併合を強いられようとする当の)アイルランド自体が4つの領域からなっていた*ことにも、われわれは注意を向ける価値がある。一方、日本は本州、九州、四国、北海道の四つの大きな島からなり、そのうちのひとつには「四国」という四つの国から成る島があり、巡礼地(ないし聖地)としての機能を果たしているところは興味深いのである。

だが、大英帝国が執拗にアイルランドの併合を謀ったのも、帝国本土を四つの王国によって完成させるという象徴完成の力が働いたものと見ることが出来るのである。実際はアイルランド全体を併合することは適わず、アイルランドの北部 (Northern Ireland) だけを無理矢理大英帝国の支配下に置いた訳である。

■ 英国と天使の間にある暗示

ブリテン島のEnglandの地は、伝統的にAnglia(アングリア)とも呼ばれる。Anglo-Saxon(アングロ=サクソン)と呼ばれる民族集団の名称の「Angl-」の語幹はもちろんAngliaと同じ語源から来ており、この「Angl-」で表されるものこそ「天使」のAngelを思わせる語幹でもある。当然のことながら、Angliaは「アングロ人の地」なのである。また古英語では「天使」は、“engel”とスペルされた。したがって、EnglandはEngel Landと考えることができる。あまり広くは知られていないことだが、EnglandもAngliaも「天使の地」の暗示を濃厚に秘めた地名ということになる。

もし、その「天使」の象徴的暗合を英国 (the UK) が確実に持っている*とすれば、後に記述するように、大英帝国自体がそのまま「数性4」との濃厚なつながりを証す別の一例となるのである。

* クシシトフ・キェシロフスキのきわめて秘教色の強い映画作品『トリコロール・白』において、主人公カロルを故国に連れ戻す役を果たす男が登場するが、この男はミコワイ (Mikolaj: Michaelのポーランド語)と言い、しかも主人公と再会を果たしたとき、彼はブリッジクラブでブリッジをプレイしているのである。ここにはミコワイが「使い:天使」であるという暗示を含ませていることが明らかだ。ブリッジはとりわけ英国においてきわめてポピュラーな紳士のカード(トランプ)ゲームであり、四人のプレイヤーが正方形のテーブルを囲んで行なう複雑なルールを持った交渉のゲームである。

「英国が“天使の地”である」とする暗合は、政治的メッセージとして英国人が好んで引用するエピソードが起源であり、「ほとんど取るに足らない」伝説の類に過ぎず、史実としてわれわれがこのソースに依頼することができないのはあえて断るまでもない。だが、そのような伝承が存在すること自体にわれわれはその象徴的意味合いの一定の濃度を垣間みるのである。聖書に対する解釈と同様、史実にだけ価値があるという考え方にも、重要な《徴》として機能するものが史実にだけ依存したものであるという考え方にも、そのいずれにもわれわれは与しない。どのような神話や伝承を後世に言い伝えようとするのか、という意図や年月を超えた民族の格別の努力、そして無意識の憧憬の中に、伝承者にとって「伝えるに値する秘儀」、後世の人々にとって「信ずべき秘儀」としての価値があるからである。そして、どのようなことを「象徴的事実」として伝えたいのか、という伝承者グループに背負わされた宿命(運命の力)も、その部分に潜むのである。

英国に関するその伝承とは、ローマ法王グレゴリー1世(大グレゴリー)のブリテン島へのキリスト教布教活動に関わる言い伝えとして残っている。グレゴリー1世の法王在位が西暦590-604年だから、6世紀末から7世紀初頭に遡れる伝承ということになる。彼がローマにてイングランド出身の若者と謁見した際に「Not Angles, but Angels (Non Angli, sed Angeli): アングル人どころか、天使そのものだ」と驚き評したというのがその言い伝えである。何度も言うように、それが史実であったのかどうかというのは、二次的な重要性しか持たない。そのようなエピソードがあったということを伝えようとする英国人(さらには欧州キリスト教徒たち)の下意識的(超意識的)な“諒解”こそが重要なのである。少なくとも、グレゴリー1世とイングランド布教は切っても切り話せない史実であって、そのように驚き評したのに伴ってグレゴリー1世は聖アウグスティヌスの異教徒の地イングランドへの派遣を決めているのである。信頼性の面で取るに足らない「史実に非ざるエピソード」は、より信頼性の高い史実の隙間に置かれるのである。

また英国を代表する詩人ジョナサン・スイフトが、「Ah, Britain, land of angels!: おおブリテン、天使の地!」という嘆息の言葉を残している(Ode to Sancroft: 「サンクロフトへの頌歌」)ことは、そうした伝説強化の一助を担って、イングランドの人々の意識に影響を与えるものとなっている。

■ 産業革命と名誉革命

大英帝国は、欧州列強間の植民地獲得競争において、最終的な覇者の地位を手に入れた。複雑な原因と込み入った事情があるが、簡潔に説明すれば、この結果は「数性3」の役割を担った国家であるフランスが、革命後の農地改革などの政策や様々な階級闘争に収斂される国内的な混乱のために、強い近代資本主義国の基盤としての農業が、十分な集約的生産体制を獲得できなかったこと、また、別の「数性3」の国家であるドイツが、30年戦争後のウェストファリアの条約によって多くの国に分割されてしまい近代国家としてどうしても弱体化させられてしまったことなどの理由で、同じ帝国主義的な植民地競争において、どうしても不利な立場に甘んじざるを得なかったことなどが起因している。

大英帝国は、島国という絶対的な地理的優勢と、王政から立憲君主制へのスムーズな移行(「名誉革命」という無血革命:王政の段階的無化)という、フランスと比較して相対的に階級闘争的混乱の緩やかな社会改革というものが可能であったことなどのために、英国人たちは、産業革命という怒濤の経済活動体制の改変へと集中的に勤しむことができ、またそれのもたらす旨味を最大限に味わうことができたのである。

これらの理由により、結果的に植民地獲得競争に関しては、仏独両国は英国に追随する形となる。だが、大英帝国が得たほどの利益や地位を植民地から得るにはついに至らなかったのである。大英帝国の「“4”の時代」における主要な役割は、こうして決定されたのであった。

すでに言及しているように、ユニオン・ジャックを通して象徴的に表徴している帝国の歴史的傾向、すなわち「信仰」を克服し、「科学」的思考を採ることを厭わなかった大英帝国人が、まさに産業革命の立役者となった。また、とりわけ「新大陸」(後の北米大陸)という世界最大の植民地を獲得したことにより、地球上に於いて圧倒的な覇権を握り、「日の沈まぬ帝国」という呼び名を恣にするような成功を得たのである。

だが何よりも、この時代の立役者となったことの二重の意味は、文字通り英国人たちが「翼を持ったメッセンジャー: angels/mercury」として世界中を馳せ巡ることになった事実の中に見出せる。北米大陸における、「後の新興国家」が欧州本土以上に宗教的な様相を呈してゆく原因は、渡航した人々がきわめて原理主義的なキリスト教信者であるピューリタニズムの信条を持った英国における被支配階級であった事実が大きいが、それだけではない。後のアメリカ合州国における最も権威的にして最大の規模を持つ教会が、英国国教会 (Anglican/Episcopal Church) であるということも無視できない。この事実は、新地開拓の先兵として、被支配階級に属する「純粋な信仰者」が使命感を持って大西洋を渡って開発の先鞭を切った後で、それを追う形で多くの生粋の英国人のエスタブリッシュメントたちが、イギリスの国教(Anglicanism)と共に新大陸に入植したということを意味している。これはアメリカの独立に先立つ植民地時代が十分に長かったことを裏付けるばかりではない。後に述べるように、アメリカ合州国という覇権国家が、資本主義と自由主義の権化であると同時に、秘教大国として世界における独自の役割を担っていくことも、こうした英国国教会と深くつながりのある被教通暁者(フリーメイソンなど)が大西洋を渡ったことを表しているのである。合州国建国の中枢的立役者たちの多くがメイソンであったことや、さまざまな儀礼がメイソン的な儀礼を模したものであったという事実は、今さらここで断る必要さえもないだろう。これは「数性5」と歴史の記述をする事象において詳述されるであろう。

「翼を持ったメッセンジャー: Angel/Mercury」の意味とは、近代資本主義の種を、その経済活動(植民地支配)を通して、世界中に蒔くということである。英語が後の世界語(Lingua Franca)となることの最大の理由は、大英帝国人が英語を話していたということに他ならないが、その英国人の子孫たちが作った世界最大の植民地が後に独立を果たすとき、世界支配のための言語としての役割をも果たしていくのである。「天使の地」アングリアを出身とする「天使の言葉:English」を喋るこれらの人々は、こうして最後にして最大の「布教活動」(最大規模の通商活動)のために、世界へ、旅立ったのである。

冒頭図版

左:ロバート・フラッドによる「四大天使と12の風」The Four Archangels and the Twelve Winds by Robert Fludd 右:スピネッロ・アレティノによる「4人の福音書家」サン・ミニアト教会(フィレンツェ)”The Four Evangelists” by Spinello Aretino, a fresco on the ceiling of the sacristy of the church of San Miniato al Monte in Florence, Italy.

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映画『Touch the Sound』を観る(聴く)
人魂(ひとだま)としての「振動する私たち」と、光を通して描かれる《音》の世界

Tuesday, May 16th, 2006

耳 勾玉 Tomoe (ha) 55%

「もしかするとまだ僅かに聴覚が残っているのがいけないのかもしれない」。

ひょっとすると「聴覚障害者」がむしろわれわれの聞くことのできない《音》を捉えているかもしれない、というようことは以前から言われてきたことだ。だが、音と光しか捉えられないはずの映画が、所謂「健常者」が捉え損なっている「存在」や「認識」の別様態が《実在》することを、これほどみずみずしく描くことができたのはほとんど奇跡のようである。

そしてこの「奇跡的効能」は、映画を観た後、直ちに作用し始める。「映画館に走れ」と伝え、それを観て来た友人は、その作用により「映画館から走った」という。それは最後にもう一度言及するように、実にこの映画の本質を言い当てた表現だ。

まず映画は、ドキュメントの主体であるエヴリン・グレニー (Evelyn Glennie) が即興ギタリスト、フレッド・フリス (Fred Frith)とのセッションシーンを通して、彼女にほとんど音が聞こえていないとはにわかに信じ難いほどの音楽性を見せつける。トーマス・リーデルスハイマー監督は、われわれの最大の関心事であり得る「彼女の秘密」を証さず、心憎いことに「前提」として冒頭では敢えて断らない(その秘密はあちこちで既に行われている様々なレビューや日記などによってほとんど無化されてしまっているのだが)。

聞こえなくなったために、伸長させざるを得なくなったエヴリンのある種のセンス(感覚)。それは、存在の振動性を「別の耳」で捉えるという方法だった。その方法を伸長させ体全体を共鳴体とし、全身で存在の振動を受け止めること、「触る: Touch」ことを始めたために、彼女は「音が耳で聞こえる人は、自分がしているように音を聞いて(触って)いない」ことを知っている。だが、彼女の音楽に匹敵するような驚くべきことが彼女の発言を通して「Touch the Sound」全編を通して紹介される。「もしかするとまだ僅かに聴覚が残っているのがいけないのかもしれない」。そのように彼女をして言わしめた実存の振動性。それにわれわれの関心は移っていき、それがその実在が確信に変わっていく時、映画の鑑賞者はもはや映画を見、音を聞く人ではなくなっているのだ。それはひとつの「悟り」とでも呼びたくなるような何かを「体感」し始めているのだ。

映画が捉えたように、踊る人間も、退屈そうに貧乏揺すりをしながら飛行場で待っている人間も、ガムを噛む人間も、だれもが「振動」している。目に見えて振動はしていなくとも、呼吸という反復運動を免れるものはいない。ただ与えられた五感の世界を当たり前に受け入れたわれわれのほとんどが、感受性の惰性の中に安住している可能性は極めて高い。目が見える人は光を知らず、耳が聞こえる人は音を聞いていない、ということがあり得るのだ。五感を超えた存在の実体を映画はあの手この手を使ってわれわれに気付かせようとする。

巴(ともえ)という漢字は、場合によって漂う人魂(ひとだま)のような、中心に核を持ったある浮遊するエネルギーの実体であり、また尻尾をたなびかせながら漂ったり宙空を飛行したりする様子であり、あるいは帚星(ほうきぼし)のようにある方向を持って疾走する「火の玉」のようなもので、時として、ひとつの生命集団の運命を宿したものでもある。

jar with handles

漢字学者の白川静氏によれば、「巴(は)」とは器物の「取っ手」のことだという。これはセーヴルなどの西洋の対称図像系の陶磁器の壷の左右に付けられた取っ手を思わせる形状でもあり、壷を頭に譬えればそれらは左右の「耳」に当たる。そしてそれは当然のことながら波頭(渦巻き)形状である。つまり壷の頂上に付けられたボウリングのピンや松の実のような形の小さなツマミ(「終わり」を表すフィニアル)を目指して左右から迫り来る「クレスト: crests」がそれに相当し、それらは古代中国では「巴(は)」と呼ばれていたということになる。そしてこのクレストは、装飾様式的にはほとんどの場合「渦状」なのである。そして、渦にはかならず中心点が発生する。運動の中心点が存在するのは前進と後退の相対立するベクトルの指向性が存在するからでもある。

太極(白黒) 太極(勾玉)

白(陽)の中に存する小さな丸い黒(陰)は、黒との一体化を目指し、黒(陰)の中に存する小さな丸い白(陽)は、白との一体化を目指す。それが旋回運動の牽引力と考えることができる。内的な「反対物」の存在が運動の起源となる。

「陰陽」が互いに“69”(シックスナイン)の形で互いに噛み合った「太極」のシンボルはよく知られている象徴図像であるが、いわばこの「二つ巴(ふたつどもえ)」とも呼びたいような表徴の場合は、二者が、互いの尾に追いつこうとしてひとつの円相の中をぐるぐる旋回する二尾の蛇のようにも見える。その「陰陽」といった相対する二つの要素がひとつの実体の隠れた二元論的「相」であることも、この象徴は示し得る。だが、さらに興味深いことに、この二尾の蛇はその中核にそれ自体の反対物を内包しているのであり、陽であればその中に陰を、陰であればその中に陽を《核》として保持する。すなわち、それぞれがそれぞれに追いつき交わろうとする性向を持っているのは、ひとえにそれ自体に内包される自己の反対物が、追いつ追われつする他方の持つ同質の大きな部分に還元・吸収されようとするためなのではないか。反対物どうしの間に存する「牽引」と「旋回運動」の理由になっており、相互の磁気的な惹かれ合いの秘密を表しているのかもしれない。

こうした「巴(ともえ)」の象徴の内部に潜む《核》ないし中心点の存在は、勾玉(まがたま)として表徴される時、それに開けられる貫通した穴によって表される。「巴」という漢字の頭部の中心に描かれる短い垂直線は、まさにこの「核」の簡略化され変容したものであると考える事ができよう。

巴(漢字)

ときに、この巴の徴というのは日本の太鼓に於いては丸くパンパンに張られた皮、バチによって乱打される獣の皮の上に描かれるものとしても知られる。これは「三つ巴(みつどもえ)」の徴であり、この「獣」の皮に対し二本の「木」の棒によって打ち鳴らせば、大きな轟をもたらす円相上の「三位一体」がその轟の正体であることが分かる。

愛知・太鼓 太太鼓(三つ巴/二つ巴)

巴の徴は、あたかも体液中を振動しながら進む精虫(精子)の様に、尾をオートマティックに細かく振動させながらそれを推進力として前進する。これは繊毛を持った比較的固く、しかも速く泳ぐ事ができる単細胞生物の持っている体型を受け継いでいる。また母体の中を究極まで前進した先には卵があり(ということはDNAをその中心に抱く《中心的太陽》が存し)、受精が完了し、さらに着床して何週間かすると、それは「眼を埋め込まれた」最初の胎児と成る。それがまた勾玉状である。

胎児と発生

生命の核としての頭と眼球が先端に位置し、推進力を産み出すプロペラが足部に位置するならば、運動する生命の形が勾玉状であり、また「火の玉」状である。生命の核としての受精後間もない胎児がそれと相似を成しているのは、「機能の要請する形状」の理論から言っても、偶然というよりはむしろ当然と言うべきであろう。「大なるものは小なるものの似姿をしている」というのが正しい。

Scotish thistle

映画『Touch the Sound』においては、この「巴の徴」というのが控えめだが随所に出てきて、生命存在のその「振動的」な実体を象徴的に見せるのである。それはエヴリンがニューヨークのグランドセントラル駅でスネアを叩き始める時に、彼女の二の腕に刻まれている「西洋アザミ」の入れ墨に現れる。これは彼女の出身地であるスコットランドを象徴する花であるが、この花は、まさに鍵穴状の祖型的図像の一つであり、シャトルコックが下降する時の姿をしている。そして、鬼太鼓座とのセッションにおいて連打される大太鼓(大太鼓に付き物なのは三つ巴の「巴」の徴である)、そしてエヴリンの来日時における移動シーンで、雨粒に濡れた新幹線の車窓と、その表面を蛇行した軌跡を残しながらほとんど水平に流れていく水滴群によって表現される。また、映画の最終部で心電図と思われる長い紙ロールを廃屋の工場で放る「儀式」によっても描かれる。

その紙ロールが心電図のようなウェーヴフォーム(波形)を記録したものであるのはもちろん偶然ではない。巻かれたロールは放られると音を立てながら宙空で解かれ、長い尾を引きながら美しい軌跡を見せる。そしてそれは「画面右側」に向かって飛行していくのだ。そしてその尾が蛇行することによって、その振動性、飛行に伴うある種のバイブレーションが視覚的に捉えられる。

それは受精(コンセプション)されるために最終地点に向かって泳ぎ、あるいは飛行する。それはあたかも映画『2001年宇宙の旅』において、伸び切った「巴」の徴のような精子形状をした木星探査機ディスカヴァリー号が、スターチャイルドを生み出すべく画面の「右へ右へ向かって」航行したかのようでもある。だが、『Touch the Sound』の最終場面は、エヴリンによって自在に操られる4本のマレットが、「最後の一つ」になり──これもまた振動しながら進む精子のようだ──音楽の減衰と供にその振動を止めた後も、名残惜しそうにマリンバの表面を滑り幕を閉じるのをわれわれは見る。そしてわれわれは内部に何かが受胎したのを感じず劇場を去ることはできないのである。

Discovery Spaceship

Sperm

Marimba mallets

「振動とは生きていること(生命)の証である」

いかなる言語的メッセージを超えて、かようこれほどまでに『Touch the Sound』がわれわれの心を震わせるのか、その答えは作り出されるエヴリン自身の音楽にある。彼女の言葉はすばらしい。だが音楽が先行してすばらしいのである。

その素晴らしい音楽は、われわれの身体の中にあり、あたかも次なる「振動の日」を待ちながら、とぐろを巻いて丸くなって眠っている無数の精子が、それがある雷鳴のような太鼓の轟きによって目覚めさせられたかのようだ。それらがとぐろを解き、やがて全身を振動させながら一定の方向に向かって泳ぎ始めるような感覚である。体中に眠っている背中を丸めた「巴」は、身体を伸ばし切って、疾走を始めるのである。私の知人が「映画館から走った」のは、まさに全身に巻き起こった無数の「振動」が、あらゆる回転を惹起し、前に向かう推進力に従う以外にない、という状態になった結果なのではないかと思うのである。

こう考えたとき、鬼太鼓座の座長の語る「日本における音楽や芸能の始源が岩戸に隠れた天照大神を誘い出すための舞楽にあるという説がある」という説明が、この映画の中でどのような全体的意味の一部を成しているのかが、了解できてくる。自分の中の無数の「岩戸」から、生命の光(振動)が解き放たれ、走り出すのである。