Archive for the ‘劇場映画ログ’ Category

アラン・コルノー監督の死を悼む

Wednesday, September 1st, 2010

Alain CorneauTous les matins du monde DVD

コルノーに関する自分にとってのall & everythingは、《Tous les matins du monde》(邦題『めぐり逢う朝』)の1作に尽きる。これは同監督についての、到底公平とは言い難い論評に過ぎないかもしれない。だが、それほどにこの1作《めぐり逢う朝》については語るべきことが多い。特に、自分の生き方、行くべき方向、何を信じるべきか、などなどの、表現や創作に関心のある人間なら、一度は真摯に考えたことのあるはずの、普遍的とも呼ぶべきテーマについて正面切ってとり上げた(そして筆者にとってはまさにそうした人生における一里塚的な作品だった)映画なのである。それは単に「よくできた作品」などと呼ぶよりは、ほとんど奇跡的な仕上がりとも呼ぶに値する、極わずかな作品のひとつだ。

芸術、分けても《すぐれた音楽》を題材とする映画作品の中で、コルノーの代表作《Tous les matins du monde》が群を抜いているとわれわれが感じるのは、その映画作品全体が、共感と共鳴に満ちているからだ。われわれが映画自体に共感するということは言わずもがな、なのだが、映画作品そのものからにじみ出てくる、製作に絡んだ人間たち相互に発生した共感について言っているのである。

『音楽のレッスン』を書いたシナリオ作家であるパスカル・キニャールの、(パレ・ロワイヤルに関わった人々のような)歴史的人物への共感。コルノー監督自身のキニャールのシナリオに対する深い理解と共鳴。作中人物(サント・コロンブなど)への全身で表現される俳優たちの経験した共感。そして何よりも、実在する音楽への演奏家(音楽監督)たちの共感。そして演奏された音楽へのわれわれの共感。それらが緊密に結びついて、映画全体を堅固な要塞のような完璧な作品に仕立て上げている。

それにしても、(繰り返すようだが)その結びつきの最も重要な要素は、何を差し置いても《音楽》自体である。これは抽象的な意味での「音楽」が主人公なのだと言いたいのではなく、マレン・マレやサント・コロンブといった実在の作曲家と、それを実際に音として再現する演奏家の紡ぎ出す「おとづれ」が、映画を鑑賞しているわれわれの元にやってきて、その音楽の「人生」を生きるという体験について言っているのである。

まさにこれらの具体的な音楽が、1992年というその時代において本格的に生き返り、今を生きる人間たちの血になる(栄養になる)ということが、映画という媒体を通して起こったのだということが重要だ。それは、また音楽のみの蘇りにとどまらない。17世紀に実際に起きた人間の精神活動が、音楽の復活とともに同時に再生され、われわれの生きる指針として機能し始めるということなのである。

こうしたすべてを可能にし、筆者の人生を何倍にも豊かなものにしてくれた、アラン・コルノーは死んだ。ひとつの作品を終えた直後の話だという。あたかもトリコロール三部作を残して間もなく急逝したキェシロフスキのように。映画製作というものが、かくも命を削って行うものだということが、このふたりの死に様からも伺える。自分の生命を賭けて行われる創作というものが、この世にあるということが、この少ない事例からも想像できる。心から、彼の創造を讃え、その死を悼む。

K・キェシロフスキ作品:
三部作 トリコロール《Blanc》論

Wednesday, August 18th, 2010

終末論的・超歴史的・救済論的理解によって読み解くキェシロフスキ論(その1)

彼が直接監督した作品の意味で、実質的な遺作とも言えるTricoleursシリーズの《Blanc》(White, 白)について。この作品が、キリスト教の秘教的解釈やグノーシス思想などへの理解を基礎に出来上がっており、映画の登場人物や出てくる小物大物を含む舞台装置、そして台詞などによって巧妙に暗示されていることを理解することは、この映画が単なる男女の愛憎劇や喜劇風の復讐劇を造ることを目的としたものではなく、いわゆる神話時代から変わることなく扱われてきた《普遍的題材》を扱った類希な、真の芸術の名に値する作品であることが諒解されよう。キェシロフスキは、この三部作において、ほぼ完璧とも呼ぶべき物語をつくり、タルコフスキー以来、比類なきレベルの象徴的映画作品を完成したということができよう。

Kieslowski portrait

キェシロフスキは、本人が自叙伝でも述懐しているような「象徴の映画は作らない」(キェシロフスキ著『キェシロフスキの世界: Kieslowski on Kieslowski』)などという言説が、多くの鑑賞者をあえて欺く、全く正反対の虚偽(まやかし)であって、むしろそうした象徴的映画を生涯最期まで俗的な装置の中に意図的に混淆させ、また「隠匿しつつ提示する」というオカルティズムの伝統に根ざした表現を選び、またそのような読み解きの可能な優れた鑑賞者に対して、ある種の目配せを送っているものと考える方が妥当なのである。

むしろその上で、そうした象徴(奥義)への理解だけでは足りないのだという、より至高のメタフィジカルなメッセージをも映画に含有させることに成功しているのである。だが、このこと、すなわち「足りない」ということは、そうした内容への理解だけでは十分条件ではないが、奥義接近への必要条件であることに違いはない、とも言い換えられるのである。

小論においては、続いて、登場人物名、時系列による場面解釈などを、いちいち記すことで、キェシロフスキが無駄のない選択と気配りを一切の要素に対して行っていることを論証していくことにする。

■ 登場人物名
Karol Karol
『Blanc』の主人公カロル・カロル(Karol Karol)にはその名前にいくつかの暗示が込められている。最も基本的には、Karolはヨーロッパ文化圏には一般的な名前(Karl, Carl, Carlo, Charles)のポーランド語やスラブ語に置き換わった変種であるが、象徴記号としての役割のひとつはアルファベットの「K」、すなわち現世的・近代的な「J」に続く「やがて来る」の時代に当てられた記号である。それを姓名の両方で繰り返すことによって、ひとつにはアフォリズム的なドラマの持つ非現実性を強調すると同時に、数字のぞろ目(222, 777, JJJ)などの方法と同じ「繰り返し」の手法によって「そこに記号が存在すること」についての自己言及を行っていると見ることができる(ぞろ目については、キェシロフスキ自身が三部作の『赤』において、主人公の通うカフェのスロットマシンを使ってきわめて暗示的に扱っているのであり、彼がぞろ目の意味の重要性についてわれわれに目配せを送っていることは明白である)。

アルファベットの「K」自体には「11番目」の意味があり、「KK」と二度繰り返すことにより、「1111」という数性を読み取ることも可能である。そこには周回する時代(エイオン)の「原始、始まり」に相当する数性の、およびわれわれにとっての未来のエイオンの暗示を見ることができる(われわれの時代は3回繰り返される数字によって「3度目の世界」であることが暗示されているが、未来の未来は4桁の数字によって「4度目の世界」であることが暗示されるであろう。現実にそうなるかは別として、論理上はそうなるのである)。このことは、これから説明して行くタロットに於ける《愚者の旅》の愚者(the Fool)自身として主人公が「繰り返し」を生きることについての暗喩として機能する。

Karolという名前のその原意は、「夫」「男」というものであるが、このドラマの意味を考えたとき、その主人公の記号として元型的な《男》という意味の名を当てたことには偶然以上の意味が込められている。また、英語の語源辞典をあたると、Charlesには、「自由人:freeman」の意味が見出される。これは「奴隷でない人間」「奴隷を克服する男」のことである。そこには成長する愚者が、その道程で隷属の頚城(くびき)を断って、自立を得るために目指す別の「K」、すなわち、まずは「Knight」に、そして最後は現世の王(King)となることの意味も含まれている可能性がある。現に、欧州ではCharles/Karlは、王の名としてもきわめて高い人気があることは偶然ではなかろう。

Julie & Zbigniev

Dominique
カロル・カロルの相手役である準主役の女性の名前。
ドミニクのヴァリアント(変形種)は、以下に示すように実に数が多い。それだけこの名も欧州文化圏では男女を問わず人気があると言えるだろう。意味は「神の、神についての」というようなもので、「神の年」の意味を持つラテン語の「anno domini」(これが西暦のADに相当する)もこの語幹を持つものだ。

【資料:Dominiqueのヴァリアント】
Domaneke, Domanique, Domenica, Domeniga, Domenique, Dominee, Domineek, Domineke, Dominga, Domini, Dominica, Dominie, Dominika, Dominiki, Dominizia, Domino, Dominica, Domitia, Domorique, Meeka, Mika, and Nikki.

さらに「支配、優性」といったニュアンスの語彙に転じた「dominant, domination」などの単語との関連性がある。事実、主人公にとって異国の地であるパリにおいては、Dominiqueは、常に主人公のKarol Karolに対して、「優性」であり、「支配的な」地位にある。これこそが、主人公が(三色によって象徴される)異邦の地において「性的不能」に陥った主たる理由なのである。

Mikołaj ミコワイ
慣習的ににNicholasのポーランド名とされるが、キェシロフスキは明らかにこれをMichael(ミハエル)のポーランド名として採用している。これは大天使の名前であり、彼が4人でプレイするブリッジ・プレイヤーであることから、四大天使のひとり(ミハエル)であることが暗示されている。彼はまさにメッセンジャーであり、また主人公を支援・守護する霊的な存在(聖ミハエル)でもある。

Mikolaj & Karol Karol

■ 時系列による場面解釈

「死と再生」の祖型として
Karol Karolの映画進行に伴う変化は、主人公の《成り行き: progress》および「死と再生」の範型をなぞるものであり、それはタロットにおける「愚者の旅」であり、また新しいところでは新約中の救世主の「死と復活」にも見出されるパターンである。

Karol Karolに降り掛かる不運(というよりはむしろ「受難: Passion」であるが)は、裁判所に着いた時点で鳩の糞が彼の《肩》に落ちてくることで暗示される。これは同時に彼という主人公が「白」という属性を持ったまさに本編の中心的な存在であるための目印の意味がある。「肩に目印がつく」という伝統はキリスト教のイコンにおける母マリアの肩に付けられている八芒星の位置とほぼ同じであり、そうした聖像の伝統を実はキェシロフスキはきちんと踏まえているのである。

裁判によってすべてを失ったKarol Karolは、地下鉄の駅で知り合うミコワイの助けを得てパリ脱出を図る(ミコワイの役割は、その名の通り、空を飛んで世界を駈ける「羽根を付けたメッセンジャー:天使」としてふさわしいものである)。その際、Karol Karolはポーランドには戻れるが、ゴミの最終処理場という、言ってみれば「故郷の最果ての地」で4人組の犯罪者たちに囲まれ、袋叩きにされることによって一旦終わる。故郷の最果ては世界における辺境を意味する。これは言わば蘇りをもたらすために必要な形式的な死である。しかもそれは敵による「殺害」によって実現されなければならない。これは世界の四隅(つまり東西南北を含む人間世界そのもの)を表す4人の盗賊たちによって囲まれ、打ち倒されなければならず、言わば救世主の受難、すなわち主人公の弾圧と殺害をこのゴミ処理場における暴力が象徴している。

ところが、Karol Karolを迎える「死」は、「仮死」とも言いうる状態で、それはヘアサロンを経営する兄のいる家で毛布を頭まで被って三日三晩寝続けて、復活への時期が熟するのを待つことによって表現される。山のように盛り上がった毛布の中における暗闇は、キリストが磔刑死後、葬られる石によって塞がれた墓所と同じ意味を持つ。毛布から出てきたKarol Karolのその後の活躍は、まさに墓場から石を退けて出てきた救世主の姿にオーバーラップするのである。キリストとの重ね合わせについては後述する。

【象徴的第2日】
彼は、無事に帰って来ることのできたポーランドで、過去の自分の象徴である2フラン硬貨を川に向かって投げ捨てようとするが、それはあたかも救世主の手に付けられた「聖痕(スティグマ)」のように掌にくっ付いて離れない。ここにもキリスト教のイコンを模そうとするキェシロフスキの意思が容易に読み取れるのである。これは硬貨の数性“2”を利用して、さらにスティグマを思わせる身体的な部位にそれを配置することによって、Karol Karolと救世主の間にある(皮肉な)相関関係への暗示を強化するのである。

また、その2フラン硬貨の数性そのものによって、Karol Karolの生きる次周回の世界(エイオン)における、文明進捗の度合いを同時に意味する。すなわち、七日間の中の何日目であるかを同時に表す道具としても機能している。

このあとは、七日間の内の何日目であるかを表する数性がひとつひとつ進んで(progress)行く。これ自体が救世主「復活後」の物語なのである。

【象徴的第3日】
数性“3”は、主人公を含む3名の人物が、これから開発が予定されている田舎の農地を「巡礼」することによって、3人のマギを模していることが暗示される。彼らがその巡礼の際に乗っているクルマがメルセデス・ベンツであることは偶然ではない。メルセデスの3つのスポーク(輪留め)を持つ丸い車輪のロゴマークは、まさに三位一体の象徴であり、当然カメラがそれを効果的に捉えている。そして、この「巡礼」の際に、謀(はかりごと)を思い付いたKarol Karolは、その後、ミコワイを訪れる。

【象徴的第4日】
久しぶりに二人は再会したするが、ブリッジの行われているカード荘において、ミコワイを含む4人がプレイしている様子が一瞬映し出される。これは時代が数性“4”に到達していることを表現している。ここでは、4人全員は画面上に登場しないものの、正方形のテーブルで4人がプレイしていることは明白である。しかも堕天使としてのウリエルは画面上には捉えられていない。これはキェシロフスキ一流の目配せとヒューモアであろう。

【象徴的第5日】
次に、Karol Karolは計略によって仲間を出し抜いて開発予定地の一部を確保するが、それは5ヶ所の地所である。これは数性“5”の暗示となる。それを10倍で売却し大金を入手する。ここに5の倍数である10であることは偶然ではない。遺言により、出し抜かれた彼の元雇用者(マフィア)から自分の命の守ることに成功し、大金を手にしたKarol Karolは、ミコワイとともに事業を興す。

彼はどうやら不動産投資などをしているものと見られるが、ある時、一見本筋とは全く関係なさそうなビジネスの一場面が映画では描かれている。 Karol Karolは、自分のパートナーのひとりに壁の厚さが何センチかを訊き、メジャーで厚を測らせ、「46センチメートルである」ことを知ると、「あと4センチ足して50センチにするように」と指示を出す。これは全くのナンセンスであるように見えるが、まさに数性“5”の窮極の状態であるオカルト的な50という完全数にこだわる様子を描いているのである。これはもうひとつの重要な「三色旗同盟」のひとつであるアメリカ合州国が、国家として50州から成っていなければならないとする、言わば「象徴マニア」であることに対する当てつけと解釈することができよう。

【象徴的第6日】
やがてやってくる《6の時代》は、五芒星と六芒星が「565」という順でKarol Karolの右肩の上当たりに茫漠とであるが掲げられているのをカメラが捉えることによって表現される。こうした小道具を視野の中に入れることにも監督の演出の意思が関与している。演出に偶然は何一つない。これは3つ並んだ六芒星による「ぞろ目」と関連のある伝統表現が前提となったもので、数性はぞろ目の「666」にまだ至らないが、極めてそれ(週/周の六日目)に近いことを意味しているのである。

また同時に、街に吊るされたこの星は、クリスマスの到来を告げる典型的でありふれた街の装飾でなければならないし、同時に象徴的なドラマとしては、神が休む安息日前日の六日目は、クリスマスの到来に近い時期でなければならない表現上の事情を踏まえている。言うまでもなく、これはキリストの磔刑の前日が、「過ぎ越しの祭で忙しい時期」として描かれてきた聖書時代からの伝統に則っているのである。

断っておくが、これはクリスマスと過ぎ越しが一年のうちの同じ時期であることを意味しているのではなく、ドラマが死と再生と関わりの深い象徴的な「区切り」の時期に遭遇することを意味しているにすぎない。こうしたひとつの時代の死と復活という同様のテーマは、はやり描かれるドラマの季節がクリスマスの時期と設定していたTerry Gilliam監督の映画『新世紀ブラジル: Brazil』にも共通見られるもので、ヨーロッパにおける暗黙の共有事項と考えられるものである。

次の救世主の誕生(伝統的聖誕祭)は、旧い救世主(王)の死によって、まずは区切られなければならない。

したがって、Karol Karolは象徴的な最後の日、「六日目」をどのように終えるかを思案するのであるが、この周回する世界は《偽造された主人公の死》によって完成されるのである。これは伝統的な救世主としてのキリストの死も、偽装であったかもしれないとする異端的/異教的なキリスト教に対する批評的理解についての、映画作家・キェシロフスキからの目配せが含まれているのである。ドラマ上、かくして主人公は「二度目を死ぬ」のである。

一度目はすでに説明したように帰国時、故国ポーランドのゴミ処理場で。そして二度目はフランスにいるDominiqueを彼女にとって異邦の地であるポーランドに呼び寄せる巧妙な手段として。あくまでも偽装であるが。

だが、この二つの形式的な「死」によって、短いドラマの中に限られた幅(長さ)を持った直線の始点と終点の2点を設定することが可能となるのであり、その主人公の成り行きが、あたかも「文明の進捗」についての始まりがあって終わりがある(アルパでありオメガである、とも表現される)ドラマの典型を描くことができたのである。むろん、キリストのパロディあるいは「カリカチュア」として。

二度目の死の儀式を成立させるべく、お金を出せば買えないものはないという自由化されたばかりのこの地(ポーランド)で、Karol Karolの事業グループは、顔がつぶれて身元が確認できない死体さえ購入するのである。そしてその身元不明の遺体をKarol Karolであるとして葬り、葬儀も行うが、このとき、自分の過去の時代の象徴であり、また主人公としての彼の存在論的な意味性(つまり救世主であるということ)を表示していた《聖痕》である2フラン硬貨を偽装死体の入った棺の中に入れる。「自分が本当にここにいた」ことを偽装するためであり、また自己の過去世を同時に葬り去るためでもある。

【象徴的第7日】
このようにして彼の偽装死は功を奏し、かつての敵(かたき)であった先妻Dominiqueを、Karol Karolにとって故国であって彼女にとって異邦の地であるポーランド(ということは彼女にとってあらゆる点で不利である地)におびき寄せ、また彼女を保険金殺人の犯罪者として刑務所に送ることにさえ成功する。

Dominique in jail

牢獄への女性の幽閉は、象徴的には神の安息日(第7日)に呼応する状況である。これはまた、これまでに繰り返された救世主の仮死(偽装死)、すなわち男性原理視点では発展停止(ないし不在)の時期に相当するが、女性原理の視点においては休息(刺激の絶無)に相当する。しかし、この二人、すなわち男性性と女性性の象徴的存在は、互いが互いに対して「必ず帰って来る」ことが約束されている点でも、神話的な元型を表現していると言えるのである。

刑務所に収監されているDominiqueを訪れたKarol Karolとの間で「手話」のような会話が行われる。Dominique曰く、「私は死と天国を望むほど絶望しているのでしょうか? いいえ。私はここを出たらあなたのところに真っすぐ赴くでしょう」(そのように筆者には読めた)。人里離れた地に幽閉することにより、ようやく愛する者を支配下に置くことのできたKarol Karolと、異邦の地でかつての夫の嘗めた辛酸と同じ境遇を骨の髄まで味わったDominiqueとの間で、初めて相互理解と和解が成立したかに見える。主人公は、自分への理解と愛を獲得するために、かくも込み入った仕掛けと努力を払わなければならなかったのである。そしてその仕掛けは、まさにわれわれの住む近代文明そのものの発展の姿に、そしてわれわれ人類の姿にオーバーラップして来る筈である。

◇◇◇

付録:国旗の色による映画に込められた複層的意味合い
「白」の主人公Karol Karolの故国、ポーランドの二色旗(白・赤)と主人公の相手であるDominiqueの故国、フランスの三色旗(青・白・赤)には、それぞれの国に伝わる色に関する一般的解釈(通念)があるが、それとは別の秘教的な解釈、およびキェシロフスキが意図した個人的象徴の顕示の機能が持たされている。

France flag Polish flag

フランス国旗については、青と赤の原色の間に《侵されざる白》が配置され、正反対の要素の間でバランスをとっており、それが一種の「三つ巴」となって力学的な均衡作用を起こしている。さらに青という水によって象徴される属性と赤という火によって象徴される属性とが直接ふれあわないようにするバッファーのような間隙(blank/blanc)として白が機能している。一方、ポーランド国旗においては白と赤という二要素が(上下に)直接拮抗している。《Blanc》のドラマの中で主人公は無垢で弱い白——それは彼が憧れる白い少女の石膏像によってもその壊れやすさが暗示されており、また中身のない「空:からっぽ」の意味の Blank——で象徴され、その生身の相手役、Dominiqueは、情念の炎の赤で象徴される存在である(彼女は振った男を追い出すためであれば、パリで自分の経営するヘアサロンに火さえ放つ)。Karol Karolにとって「異邦の国」であるフランスにおいて、彼は男性優位であることができない。そしてまた、「青:水:自由」の要素を含んだその地において性欲の「炎」は、つねに「水」の脅威によって消される潜在的脅威がある。しかし、その(国旗上)「水」のない(水入らずの)ポーランドにおいて、あるいは「白が赤の上位に置かれた」ポーランドにおいて、彼は男性としての機能を回復し、Dominiqueを逆に「支配」することができる。これは《白》を本体(国体)とするポーランドの、《赤》(他者/例えば過去においてはロシア)に対する優位を希望する国民的心理の祖型的な現れでもあるとも言えよう。

映画トリコロールにおいて「博愛/愛」を意味するとされる映画『赤:Rouge』では、別種の赤の属性を持つ主人公がイレーヌ・ジャコブ演じるValentineによって提示されるが、映画『白』においてはまったく対極的属性をもった赤の象徴が、ジュリー・デルピーによって提示されているのである。この Dominiqueの赤は、「博愛/愛」の赤ではなく、むしろ煩悩として現世や生を焼き尽くす「性愛」の赤である。同時にキリストの(侵されざる)白に対する(マグダラの、あるいは記号的な)マリアの衣のような「信仰と情熱」の赤なのである。ポーランドにおいて、赤は「自由」(あるいは自由獲得のために流される「血」)の意味であり、同じ「自由」がフランスとはスペクトル上も全く正反対の色(青)によって置換されている一方、白が現在、「共和国の尊厳」の意味に転換されている。ポーランドにおいて、「尊厳」(自決と死)は、自由に対して優位の地位を得ているのである。無論、二色旗が数性“2”を通して、カトリック優位のポーランドの宗教事情を暗示している面があるのは前提の上での話である。

怒鳴り合う「思想」:映画『実録・連合赤軍』に殴られる

Monday, April 21st, 2008

実録プロモーション画像

「映画」と言えばテレビでプレビューを流しているようなハリウッド系映画や、次から次へと作られるテレビのホームドラマみたいな邦画作品くらいしか知らないという方はお読み下さらなくていい。

テアトル新宿

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

5/10(土)よりモーニング上映決定

タイムテーブル

〜5/9(金) 11:30/15:20/19:10〜22:40

5/10(土)〜5/23(金) 11:00〜14:30 ◎1日1回上映

【第58回ベルリン国際映画祭】(2008年)

《フォーラム部門》招待作品

★祝【第58回ベルリン国際映画祭】2冠受賞!!★

●最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)受賞!

●国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)受賞!

★【第20回東京国際映画祭】★

●《日本映画・ある視点》作品賞受賞!

映画から受けるダメージはゆっくりとだが確実に作用している。

彼らを「狂信的」とは呼びたくない。こうした「正しさ」への信頼の感覚とは、われわれが若い時に一度は通り抜けてきたものだからだ。私の近代主義や高度技術文明に対する批判というのも、その根っこは高校生くらいの頃に初めて出会った哲学に求められるのだし、「間違いつつある文明」に対する警鐘として殉じたいという気持ちとともにあったものだ。

だが、機関銃のように指導者の口から発せられるきわめて抽象的で観念的な言葉、言葉、言葉。時間を掛けて考えれば、「純粋な思想」として理解できなくはない理論でも、現実との折り合いを付けられない、こころの表面を上滑りするばかりの怒鳴り声が、ひとの耳を仮借なく襲う。崇高なはずの「思想」は、すべて怒鳴り合いの中で応酬される。あるのは、対話ではない。今でも平壌(ピョンヤン)からのテレビ放送で見ることのできるようなアナウンサーによる演説調のアジであり、背筋に力が篭って堅くなった人間の発する黒い声音によって撃ち出される単語の矢である。

この「熱さ」はあたかも幕末の志士たちが登場するドラマや映画などでも描かれてきた、相互に斬ったり斬られたりする若者の群像ではあるのかもしれないが、青春を描いた映像だとは言いたくない。その上滑りする抽象的な言語に限っては、ただ暴力的に繰り返されるばかりで、ほかの若者を真に考えさせ、理解させることができない。

現に、「まったくわかっていない」と指導者に怒鳴られる若者たちを、本当に分からせることのできる、実感と現実感を伴った言葉と経験を、指導者を含め、誰もが持たない。(その指導者だって指導される側とほんの数年の歳の差しかない。)

したがって、こうした純粋な思想的な展開について行くことのできる極一部の(理屈っぽい)人間だけが、かろうじて「わかっている」のであり、「指導的立場」に居座ることができる。そして、「わかってしまった者」は、自分のこれまでの「間違い」を認めないわけにはいかず、認めて自己を批判し自己否定する者は、負けを認めて「思想的」にも指導者に従わざるを得ない。「間違った者」は、それを諒解すれば「正しい者」に従うのが思想的に「正」となる。かくして支配と被支配、指導と被指導が、思想という純粋観念の力を得て実現されるのである。

一方、「わからない者」は、どこまで行ってもわからない自分についての「総括」だけを求められる。思想をわからない者が「自己を総括する」などということは撞着以外の何ものでもない。そのようなことは理屈上不可能なのだから、わからない者に総括を求めることは、教育に失敗した教師がわからない生徒に反省を促しているようなもので、まったくもって理屈に合わないのであるが、指導者の絶対的立場は、そうした自分に向かう批判だけは狡猾に封じる「へ理屈」を持っているのだ。このようにして「総括」の意味は次第に失われて行く。総括を求める指導者たちは、「自分で答えを出すのが総括だろ」という理屈によって、真の指導や教化の責から免じられてしまう。

どこまでも「わからない」メンバーには、言葉による執拗な批判と人格の否定、そして、間もなく、生命を滅ぼす身体的な暴力が待っているのである。これは、北朝鮮の強制収容所やカンボディアの「キリングフィールド」、文化大革命時代の中国、そして戦前・戦中に憲兵が大威張りで闊歩し、隣組が相互監視をしていた日本、などなどに起きたことではないのだ。これは70年代に、われわれが日常を生活していた隣で起きていたことなのだ。

「正しい者」が怖い。この感覚は、自分の中では長いこと封じ込めて来たものだ。正しい者を怖がってはイケナイ。正しければ正しいほど、それは克服され乗り越えられなければならないから、ということもある。だが、このバランス感覚によって「正しい者」が自分に近づいて来たら逃げたり避けたりしないで、可能な限りその「正しさ」を問うという姿勢に自分を向かわせたのである。健全な相対化を旨とする人間にとって、したがって「正しい者」を怖がらずに、近づいていって検討してみるというのは、方針としてむしろ必要なことであった。

だが、ある集団の閉塞的な状況において、「正しさの感覚」の飛び抜けた者は、カリスマになる可能性があり、それの正否を問う存在(批判者)がいなかったり、批判者を封じ込めたりすることに成功すると、その閉鎖世界の中で「まったき暴君」となる。自分に正義があるというその恐るべき感覚。それは若くて純粋な時期の若者にこそ起きがちなことではあろう。40の訳の分かったような中年よりも子供の残酷さに近いものを彼らは持っている。特に、異なる世代がおらず、したがってさらに上のレベルから批判できる存在がなければ、「革命の理想」というものは、暴力的手法を得て、現実のものとなり得る。成功した革命とは、案外こうしたものかもしれない。

「正しい者」の行為の総ては、達成されるべき理想や目的のための手段となり、いかなる手段も正当化できるという思想に到達し、すべての特権と絶対的な権力を手に入れる。それがたったの30〜40人足らずの若者の集まりであったとしても、その絶対的権力に逆らうことはできないという空気が醸成され、それに対抗する勇気を失えば、殺人やリンチでさえも「理想へと近づくための方法」となり得るのだ。これは倫理的な社会(理想)を実現させるために倫理を踏みにじっている自己の立場を容易に忘却する。

自己批判と総括とを迫られ、呵責なき暴力を振るわれ、「こんなこと、意味あるのか? それが革命なのか?」と断末魔の中で叫ぶ男たちは、完全に秘境の地で世間から隔絶された「軍事訓練」のキャンプの中で、口を封じられ、まさにその素朴な疑問ゆえに、集団リンチを受け、死んで行った。ほんのちょっとした指導部への疑問でさえも、すべて「革命的でない」「自己の共産主義化が足りない」などの理由で圧殺される。かくして少人数のキャンプが恐怖政治となる。理想に燃えた若い青年たちの夢が、かくも脆く修羅場と化す恐ろしさ。この恐ろしさは楽しめる怖さではない。彼らの純粋な「正しさの感覚」ゆえに、そして勇気を奮えないために許される「狭い世界での専制政治」ゆえに、まことに後味が悪い。だが、この後味の悪さから逃れようとしても、描かれているものが虚構ではなく、われわれが生きていたこの世界において、現実の物語として起きていたのだという事実性から、われわれは逃れることができない。

確かにこの映画は、左翼活動家の愚かさを広く伝えるための手段として用いられてもおかしくないが、国を想う右派活動家によっても同じことは起こりうるし、起こされてきたことだ。「正しさの感覚」への無批判な信頼と、声を上げるべき時に上げないわれわれの「勇気のなさ」が揃えば、いつでも、何度でも、この地上に「実現してしまう」可能性を持つ出来事なのである。悲しいことだが、これが「人間性」なのである。

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【映画】Crossing the Bridge - Sound Of Istanbul

Saturday, November 3rd, 2007

Crossing the Bridge

Orhan

今夜は、『タッチ・ザ・サウンド』ではなくて、『クロッシング・ザ・ブリッジ』(サウンド・オブ・イスタンブール)だった。下高井戸シネマのレイトショーにて。内容はイスタンブールからの「今の音楽紀行」である。狂言回しならぬ現場の立会人・兼・飛び入り音楽家は、インダストリアル・ミュージックのハシリだったドイツの問題児バンド、ノイバウテンのベーシストである。だが、彼がそれ系の音楽家であることは、今回の音楽紀行にひとつの「傾向」を与えていることは確かだ。その視点は、「今のトルコの伝統音楽に何が起きているか」ではなくて、「今のトルコのミュージックに何が起きているか」なのだ。

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『バベル』の塔は「人間の愚かさの象徴」だったか?

Wednesday, June 27th, 2007

babel tower

上掲の拙論見出しに対する私の考えはこうである。

「バベル」とは人間が互いに協力し合って「組織的に神に近づこうとする」ことに対する、人間に対する神自身の直截な怖れと嫉妬を象徴するものであって、映画紹介のネット記事のあちこちで「まとめ」られているような「人間の愚かさの象徴」などではない。とんでもない間違いである。バベルの塔は、人間の限界についての象徴ではあっても、愚かさの象徴であったことはない。これは強調しておいて無駄ではあるまい。

むしろ愚かなのは人間をそのように作った神自身ではないのか?という人間からの反問… そして、一見乗り越え難く立ちはだかる言語の壁という、神からの挑戦として人間に科されたペナルティは、映画で描かれている程度には今日でも常に乗り越え「られよう」としている。

そして物語の端緒となる被造物・人間によるひとつの行為、あるいは国境を越えて言語の違いを克服しようとするひとつのコミュニケーション上の試み──モロッコに赴いたひとりの日本人の置き土産──が国境を越えて侵犯する別の侵略者に対する「牽制球」となり、それが連鎖的に世界各地の家族をバラバラに分断する(はず)という、神によって目論まれたドミノセオリー的な「次のバベル」。そんなケイオティックな宿題となるはずだった。その端緒となるべき行為の主は、現代のバベルたる絢爛たる摩天楼乱立する東京を根城とする。

babel leaflet

実は神による人類史への初期介入、すなわち言語の意図的な混乱が、人をして「天にも届くような」一本の高い塔を建てることを諦めさせるどころか、世界中に異なった種類の塔を乱立させることになった。競い合って。

かつての神の狙いが失敗したように、この度も神の意図は覆される。この度の人間のささやかなる勝利は、確かに「ある若い命」を引き換えに得られたものだ。だが、神の挑戦は家族の絆をより強いものにすることにしか働かない。神の意図はまたもや裏切られるのである。

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アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ Alejandro González Iñárrituという長いメキシコ人名を見て、すぐにピンと来た人は、余程の映画通か、映画業界人か、さもなくば遠くない過去に作品のひとつを観て印象に残っている人か、はたまた、つい先頃、映画『バベル』を観たばかりの人かもしれない。いや、映画を見ても監督名までは失念している人も少なくあるまい。かくいう自分もなかなか覚えられなかった。

イニャリトゥの近作のひとつ(というか、彼は割と最近出てきた人のようだ)である、なかなか挑戦的な問題作と呼びたい『21g』(にじゅういちぐらむ)という映画をビデオで観て、その監督がイニャリトゥであることは最近知ったのだが、現在(それほど盛り上がっていないが)、それなりに話題になっている大作風『バベル』も、イニャリトゥが監督しているということをたまたま知ったので、観に行ってみようと思ったのだ。(ツレの“誕生日月割引”を利用してみたかったのもあるし…)

足を運んだのは吉祥寺プラザというバウスシアターの裏手に当たる目立たない映画館で、全然混んでもいない。でも本格的な大画面上映館である。18:50からのナイトショーのみ。

予想に違わないと言うか、劇場映画としてシアターまで足を運んで観てみる価値のある作品であった。自分の認識の底の浅さのせいであるのは言うまでもない。だが、メキシコはアメリカと国境ひとつ隔てて対峙している「北米」の一国だが、音楽と料理以外はいまひとつ知られていないような気がする。実際、今となってはイニャリトゥ以外、メキシコ人映画監督の名前を挙げよと言われても思いつかない。

同時並行的に異なる場所で起こる出来事(しかも相互の関連性がなかなか見えない)を映像で追うばかりでなく、そのタイムラインさえもズタズタにして再構成した『21g』は、シーン断片の集積がだんだんにひとつの事件の像を結んでいくというもので、その善し悪しはともかくとして、ストーリーそのものの力というよりは、編集テクニックにきわめて偏重したともだった印象もある。これについては後述する。

また本作もこの前作同様、きわめてシリアスな内容で、不条理を含むきわめて後味の悪いリアリズムを映像を提示する、そんな映画作りであったが、その同時並行的に世界の各地で起こる事件の相互関連性が徐々に見えてくるという手法は、この度の『バベル』でもおおむね踏襲されている。だが『21g』でフォーカスされていたような「自動車事故が引き起した連鎖的な悲劇」と、人が人と結びつこうとする「コミュニケーションに渇する心の動き」というテーマが、この度は、詰まらない理由で「暴力装置」の引き起したひとつの事件の悲劇の連鎖、そして言葉が通じない(それは単に言語の相違を乗り越えられないということだけでなく、同じ母国語を共有する者同士でも「通じ合わない」)というコミュニケーション上の断絶、そしてその回復、あるいは回復への端緒を描く。

「重くもどかしい」という評をどこかで見たが、それをストレスとして感じる鑑賞者がいるということは、監督の意図は成功していると言うこともできるだろう。まさに通じ合えないという現実世界のもどかしさがこの作品のテーマのひとつなのだから。

モロッコ、合州国、メキシコ、そして日本。と、4ヶ国同時並行的に進行するドラマであるが、冒頭のモロッコの高地地域の空気と羊飼いたちの生活、そして眼下の砂漠地帯を横切るアメリカ人観光客のバス、という異文明者による領域侵犯という違和感が、きわめて興味深く描かれていた。そしてどこにでもあるような思春期の少年(少女)の持つ性的好奇心の目醒めなど、思わず眼を背けたくなるような赤裸裸で本音の映像表現もが混ぜ合わされていて、ドラマのリアリティを否応無しに高めていた。

■ 編集(時間操作)に偏重した映画作りについて

これについてはその正否を判断できる立ち場にはない。だが、映画が演劇的作品の延長であると考えたとき、時系列の編集による改編というのはドラマツルギー(作劇術)の王道ではないことになるかもしれない。その点で言えば、例えば黒澤の『椿三十郎』のように(あるいはきわめて多くのドラマがそうであるように)、ごく例外的な回想的場面を除いては、事件の進行を時間通りに追う形で進むのが最も保守的で正統的な方法と言って差し支えはないだろう。

だが同じ黒澤作品である『羅生門』のように、同じひとつの事件でも視点によって全然捉えられ方が違うということを描く不条理劇の場合、ドラマ自体が回想によって構成されざるを得ず、時系列の操作というのはきわめて必然的に選択されるべき手法であるということになろう。あるいはドラマ全体が大きなひとつの回想であるという手法は映画でも劇場演劇でも使われる常套手段だ。

そうした中で、イニャリトゥの本稿で言及しつつある(少なくとも)2作品で採られた編集による時間操作というものは、『バベル』においてはやや後退し、映画制作上、より必然性を帯びてきた(結果として観やすい)ということができるだろう。『21g』は、時間系列的に全てのシーンを並べ替えつなぎ直したら映画そのものがおそらく成り立ち得ないほど編集技術に依存していることができる。だが、全体像を見せず、鑑賞者に常に想像し続けることを強いるという「作り」は、鑑賞している2時間の間、大きな緊張感の中に鑑賞者を落とし込むことになり、逆に言えば、「きわめて映画的な作りになっている」とも言えるのである。これほどブツ切りなシーンの呵責なき連鎖というのは、おそらく劇場演劇によっては再現が難しいであろう。

■ 音について

ネタバレになるのでここでは詳述しないが、観賞後、大いに対話や議論を刺激する類の内容であった。そして忘れてはならないのが、サウンドトラックの秀逸さである。これは、映画のDVD以上に、確実に消費意欲を刺激されるものであったことは忘れずに付け加えておこう。音楽だけでも語るに値するぞ、これは!

もうひとつ付け加えるなら、日本が舞台になったシーンのバックで掛かっている音楽というのは、一聴して西洋楽曲なので、それによってどうしてそう感じるのかは分からなかったが、その音楽だけで強く日本を連想させるムードを持っていた。これはどういうカラクリになっているのかと思って最後のクレジットを観たら、日本のシーンについては音楽担当が坂本龍一になっているのである。彼の音楽をそうと知らずに聴いても十分に日本を(あるいは日本映画のムードを)連想した自分がいたのである。

■ 最後に

いずれにしても、ブラッド・ピットやケイト・ブランシェットといったハリウッド系俳優たちを性格俳優として配置するという大胆なキャスティングをしたイニャリトゥの「今後の変貌が楽しみ」なのである。『バベル』は文字通り国際色溢れる大作になってしまったので、今回の作品の興行成績次第では「次がない」可能性もあるが、そうならずにイニャリトゥ特有のテーマを独自の方法で追求していって欲しいものである。今度はもっとメキシコを観たいなどと夢想しているのは私だけだろうか?

本作をアメリカ映画だと呼んでいる人がいたが、私はその考えに賛成しない。

初恋映画としての映画『パフューム』
あるいは「ある救世主の物語(The Story of a Savior)」

Monday, April 30th, 2007

論じるべきことがたくさんある映画だ…

プルーストの「紅茶に浸したマドレーヌ」のエピソードを牽くまでもなく、匂いというのは記憶の脳と濃密に結びついている。匂いはわれわれを遥か彼方まで飛ばすものだ。また鼻の発生学的な由来から嗅覚と生殖器との繋がりを強調する人もいる。鼻と生殖器はそもそも一体だったが、ある程度成長したひとつの胚の箇所からパカッと二つに別れ別れになったものだというような話である。だが、匂いが性的な連想を強く促す(というか、直接下半身に作用する)らしいということからも、それは正しい可能性がある。正しいとしておこう、ここでは。

Training

『パフューム』の主人公・グルヌイユが殺人者である(特に猟奇的殺人者である)という前提をここでは一旦忘れて、映画で描かれたような一連の出来事がどうして起こったのかというのを考えてみよう。想像の翼を広げることが、あらゆる芸術の名にふさわしいものに対するわれわれの態度であるべきだからだ。

孤独*がテーマの一つであることは、監督のトム・ティクヴァ自身が語っているからそれは一つの捉え方であろうとは思うが、「殺人者は孤独だ」というのは「孤独者は孤独だ」と言うくらい、同義反復で何も語っていないに等しい。映画監督は映画を監督をするのが仕事でそれを説明するプロではない。彼の「説明」は映画の完成とともに終わっているのだ。だから監督自身の言葉を牽いて説明した気になるのは止めよう。それに孤独者が全員殺人者になるわけでもないだろう。

* 主人公が善悪の物差しを手に入れる機会を逸するほどに孤独であったという意味でなら、彼は真に意味で《孤独》であった。そして孤独の意味とは本来そこにある。グルニュイニュはそのような意味で《孤独》であったが、孤独感に苛まれていたというようなことはない。だから「孤独感」が彼を殺人者に仕立てたのではなく、単に殺人がいけない(死んでしまえば、相手も自分もその素晴らしい「匂いの世界」が終わってしまう)ということを学ぶきっかけがなかっただけなのだ。

超・能力的な嗅覚の持ち主が主人公であり、映画の中ではグルヌイユの香水調合師としての成功が後に描かれることになるが、冒頭、年頃になったその彼が、初めて女の甘美な匂いというものに遭遇するのが、すべてのドラマの発端である。

最初の女との出会いが、匂いと結びついて起きたのが彼にとっての不幸であったのかもしれない。これは年頃の人間にとって本来なら「初恋」とも言うべき、わめて当たり前の出来事であるのだが、それは視覚的なものでも聴覚的なものでなく──グルヌイユのその能力を考えれば当然のことながら──「嗅覚的な邂逅」として起こった。我が物にしたいという熱烈なる欲求の対象は、写真のような「メディア」に固着できるような視覚情報ではなかったし、あるいは磁気テープに録っておけるような声のような聴覚情報でもなかった。「また逢いたい」の対象は匂いであったからだ。しかもそれは生きていればこそ、その生身の身体から体温と共に立ち昇ってくる生命的なまさに“エッセンス”であったのだ。

しかも、その初恋は「生殖の何を」知らぬ時期の漠たる憧れの、視覚的な対象として脳内に取り込まれたのではなく、生殖と直接結びついた嗅覚情報として彼の下半身を直接貫いた筈である。つまり「初恋」と同時にそれは彼の新たな生命へのスイッチを入れてしまった。彼の生い立ちや社会状況が招いたのは、生殖能力的な発育の完成と初恋の同時発生である。すなわち、遅すぎた初恋と、嗅覚情報による欲望の明確な対象化が同時に起こったというのが、グルヌイユのケースなのである。

初恋(恋)は通常、その対象が自分の視覚領域(視野角内)に入ってくることを心地よく思うところから始まり、視線の投げ掛けを特徴とする(のだと、私の乏しい、男性としての経験は告げる)。それはやや遠くから眺めるのがほろ苦く甘美であり、対象に余りに近寄ってしまうと大きすぎて視野からはみ出してしまうかもしれないし、あるいは余りに寄り過ぎるとそれは何か妙な匂いを発しているのかもしれないし、はたまた上唇の上には産毛が生えているのが見えてしまうかもしれない。だから(というわけでも必ずしもないが)未成熟な憧れというのはある程度の距離を必要とする。そして、それが視覚領域内に留めておけない時は、代替物がしばらく彼を慰めるかもしれない。だが、嗅覚の強さはおそらく距離の二乗に反比例するのだ。ある地点における対象との距離が1/2になるまで近づけば紅い唇が4倍紅くなることは無いが、対象に1/2になるまで近づけばおそらく匂いは4倍になる。それはグルヌイユを対象へと不慮の接近に陥らせるし、初恋の対象はそうした不意の接近を怖れるだろう。つまり彼には対象へ接近することが必要であり、また対象は彼を怖れるのが必然と言う、いわば針ネズミのディレンマ状態にさせるのだ。

だが、嗅覚領域に入ってくることを条件としなければならないとすれば、それに似たような代替物──ポケットに入れられるような──があり得ない以上、それ自体を固定化して手に入れる以外にない。「固定化」は通常、対象と懇意(ねんごろ)になることが手っ取り早いが、そしてそれは不慮の事故(過失致死に陥ること)によって永久に失われてしまう。それは事故だったのだ。

その後、香りの固定化という探求が始まったとき、法律的には殺人という過程を踏まなければならなくなる。殺してしまうことは手段であって目的ではない。目的は別にあるのだ。やがて狙われることになる娘の父は、聡明なためにこの連続殺人に確たる目的があることを察知する。

香水瓶にエッセンスを入れることは、その代替物の携帯を可能にする。彼は悔恨に苛まれながらも、そのエッセンスの収集を、失われた過去の修復のために行うのだ。だが、彼が手に入れた「もの」はプルースト的な、まったく個人的な記憶の喚起のための鍵であったばかりではなく、万人の「ある錠」を開ける鍵であったのだ。

自己の欲求の飽くなき追求が万人の救済に結びつくという範型(パターン)は、まさにグノーシス主義的な自己に潜り入る探求が、外的かつ全体的な「救済」に結びつくというパターンにも似ている。治癒能力を持っていたらしい《人の子》が、ヨーガの熟達者であったかもしれないという俗説的憶測は、映画で描かれているような「探求者の獲得物」を観るほどに「あったかもしれない」などと思えてくるのである。

面白いことにパフュームの壷は至上権を顕わす「フィニアル」のような形状をしているのだ。それほどかようにその「至上権」を行使する主人公は、救世主然としていたのである。

Poison Finial

参考:頂点の「壷」と「未到の屋根」(クレスト)

ところで副題が「ある人殺しの物語 (The Story of a Murderer)」となっているが、実はこんな副タイトルさえ不要だったのではないかと思う。とりわけ映画においては。むしろ「ある救世主の物語(The Story of a Savior)」でもよかった。そもそも主人公が殺人者であるというのは、「結果」ではあるかもしれないが、彼の本質を言い表したものではないからだ。そして何よりも、彼が殺人者になることをあらかじめ告げられてこの映画を観るのは、その面白味を半減させるものだと思うからだ。

匂いを通じて改悛、じゃない回春を図るというのは、先にも書いたように嗅覚器官と生殖器の繋がりを考えれば納得できることであるが、26カ国の調査対象国中、1年間の性交の回数が最下位だったらしい日本においては、それこそグルヌイユのような人間の登場は「救世」ならぬ「救国の士」となるかもしれない。いや、それこそ「救性主」だ。

As a Savior

【付記】

ダンテの『神曲』をヒントに書かれたというキェシロフスキの遺稿三部作のひとつ「Heaven」を映画化したトム・ティクヴァは、記憶と「過去の修復」といったテーマを『ラン・ローラ・ラン』以来、繰り返している。以前にも書いたが、その『ラン・ローラ・ラン』自体が、「いくつもの過去」という点で、初期キェシロフスキ作品の『偶然』に大きく影響を受けている。今回の映画は、今言及した彼の過去の映画のどれにも増して完成度の高いスペクタクル作品になっている。それは予算その他の事情にもよるものだろうが、そのそうした地位の獲得も、それら過去の作品が正統な評価に耐え得るものであったために可能になったとも言えるのである。彼はそうした幸福を呼び寄せたとも言えるのである。ティクヴァ監督の今回の映画の成功を心から讃えたい。

流行ったものは廃れてしまう(栄枯盛衰のことわり)

Tuesday, May 30th, 2006

ダ・ヴィンチの「異端」的傾向や、彼の更なる「天才」の秘密が明らかになったとしよう。あるいはレンヌ=ル=シャトーの秘密、そして「シオン修道会」の実在とその役割などがすべて暴かれたとしても良い。はたまた、イエスは磔刑で死んでおらず、マグダラのマリアと結ばれて子孫までもうけていた。メロヴィング王朝がその末裔だ。そんなことのすべてが史実として“証明”されたと仮定しても良い。

これらの「新たに証された真実」は、ある方面の人々にとっては衝撃的な話だろうが、われわれの人生にとってどれだけ関係のある話なのであろうか? 私はこれらの話の価値を否定しはしない(それどころか相当の興味を以て見守っていると言っても良い)。だがわれわれ日本人の生活にどれだけの関わりがあるのか、そういう視点でその重要性や影響の大きさを、納得のいくかたちで説明をした人がわれわれの周辺にはいるのだろうか? 私はその点で大いに物足りなさを感じるし、不満である。

例えばちょっと「旧聞」に属するが、グラハム・ハンコックが『神々の指紋』によって世間に引き起した波紋は大きかったが、一過性のブームとなって、その終わり頃には、正統派科学者の一通りの反論によって「擬似科学」のレッテルを貼られ、事実上葬られた。検討の余地があったかもしれないハンコックの幾つかの重要な(そしてなにより大胆な)超歴史的世界観を反映した諸説は、皆の記憶からも忘れ去られた(ように見える)。私が予測するのは、今回のキリスト教「異端」的なテーマを元にした「衝撃的」ドラマも、潮の満ち引きのように、『神々』と似たような軌跡を辿ると観ている。爆発的なブームと、まるで嘘のような人々による忘却である。流行ってしまえば廃れてしまう。逆に言えば、流行らないものは廃れもしない。流行ること自体が、数年後の忘却を約束するのだ。

この忘却は、今回揶揄の対象となったカトリック教会などにとってはまっこと好都合な話だろう。彼らにとって、今のこの迷惑千万な「嵐」を当面なんとかやり過ごせば良いのである。あるいは決定的な反論を行うべく準備を整える時間があるやも知れぬ。もちろん「嵐」の前と後が全く同じであるとは限らないかもしれない。何かが変わる可能性はある。この度の「レヴィレーション:啓示/黙示」によって、変わってしまうだけの影響を受けてしまう人間も僅かながら出るだろう。だが、おそらくほとんどの人々の記憶は「ダヴィンチ・コード? ああ、そういえばそんなのが流行ったこともあったね」という想い出の類になるであろうことはほとんど必定である。

ひとつには、イエスが独身だろうと既婚者であろうと、あるいはマグダラのマリアと懇(ねんご)ろであったか、などということや、「シオン修道会」や「テンプル騎士団」のことなど、自分たちの現実感や毎日の生活とはなんら関係がないからである。だから程度の高い、やや知的スリルを伴うミステリー小説の類となって終わることはほとんど疑いの余地もないのである。

贔屓目に見て、それが極上の娯楽的話題を提供することはおそらく疑いがない。だが「米国発・仏国(カトリック)への揶揄」という怨嗟と濃厚なまでに政治的意図を持った映画『ダ・ヴィンチ』が、いかにup-to-dateな“正しい歴史認識”を前提としていても、その意図が悪しければ、その作品が普遍的メッセージに昇華することなどはできない。それは聖なる題材(あるいは疑似・聖なる題材)を借りて行う、単なる俗権的な政治闘争という「象徴世界の別側面」でしかないことになる。それは言ってみれば、見えない「神々」の戦いなのだと言っても良いのかもしれない。だが、それはどこまでいっても、逆説を含んだ人類の苦悩をテーマとする文学にはなり得ないのである。そうした逆説と入れ子状の象徴構造の有無が、タルコフスキーやキェシロフスキ作品がそうであったような意味で、映画作品が他の如何なる娯楽作品からも一線を画させ得るか否かの境目なのである。

だが、私が断っておきたいのは次の点である。私が扱っている《象徴》と人類の歴史進捗の関係、ひるがえって《象徴》と未来の世界との関係、これらに関わる秘密は、《われわれやわれわれの子孫たちの生存と関わりのある話》だと言うことである。『ダ・ヴィンチコード』が裸足で逃げ出したくなるほどの重篤な意味を持った、しかも今のところ流行も廃りもせずに人類の数千年の歴史を生き抜いてきた《何か》についての学問なのである。

それは文明、したがってわれわれの生活や生命と関係があるという意味で、《普遍的題材》と呼ばれるに相応しい内容に深く関係しているのである。

そしてそのようなコンテクストで再読(再検討)することによってしか、この度話題を独占している《コード》の重要性が「われわれの問題」として再認識されることはないであろう。

以上。

映画『Touch the Sound』を観る(聴く)
人魂(ひとだま)としての「振動する私たち」と、光を通して描かれる《音》の世界

Tuesday, May 16th, 2006

耳 勾玉 Tomoe (ha) 55%

「もしかするとまだ僅かに聴覚が残っているのがいけないのかもしれない」。

ひょっとすると「聴覚障害者」がむしろわれわれの聞くことのできない《音》を捉えているかもしれない、というようことは以前から言われてきたことだ。だが、音と光しか捉えられないはずの映画が、所謂「健常者」が捉え損なっている「存在」や「認識」の別様態が《実在》することを、これほどみずみずしく描くことができたのはほとんど奇跡のようである。

そしてこの「奇跡的効能」は、映画を観た後、直ちに作用し始める。「映画館に走れ」と伝え、それを観て来た友人は、その作用により「映画館から走った」という。それは最後にもう一度言及するように、実にこの映画の本質を言い当てた表現だ。

まず映画は、ドキュメントの主体であるエヴリン・グレニー (Evelyn Glennie) が即興ギタリスト、フレッド・フリス (Fred Frith)とのセッションシーンを通して、彼女にほとんど音が聞こえていないとはにわかに信じ難いほどの音楽性を見せつける。トーマス・リーデルスハイマー監督は、われわれの最大の関心事であり得る「彼女の秘密」を証さず、心憎いことに「前提」として冒頭では敢えて断らない(その秘密はあちこちで既に行われている様々なレビューや日記などによってほとんど無化されてしまっているのだが)。

聞こえなくなったために、伸長させざるを得なくなったエヴリンのある種のセンス(感覚)。それは、存在の振動性を「別の耳」で捉えるという方法だった。その方法を伸長させ体全体を共鳴体とし、全身で存在の振動を受け止めること、「触る: Touch」ことを始めたために、彼女は「音が耳で聞こえる人は、自分がしているように音を聞いて(触って)いない」ことを知っている。だが、彼女の音楽に匹敵するような驚くべきことが彼女の発言を通して「Touch the Sound」全編を通して紹介される。「もしかするとまだ僅かに聴覚が残っているのがいけないのかもしれない」。そのように彼女をして言わしめた実存の振動性。それにわれわれの関心は移っていき、それがその実在が確信に変わっていく時、映画の鑑賞者はもはや映画を見、音を聞く人ではなくなっているのだ。それはひとつの「悟り」とでも呼びたくなるような何かを「体感」し始めているのだ。

映画が捉えたように、踊る人間も、退屈そうに貧乏揺すりをしながら飛行場で待っている人間も、ガムを噛む人間も、だれもが「振動」している。目に見えて振動はしていなくとも、呼吸という反復運動を免れるものはいない。ただ与えられた五感の世界を当たり前に受け入れたわれわれのほとんどが、感受性の惰性の中に安住している可能性は極めて高い。目が見える人は光を知らず、耳が聞こえる人は音を聞いていない、ということがあり得るのだ。五感を超えた存在の実体を映画はあの手この手を使ってわれわれに気付かせようとする。

巴(ともえ)という漢字は、場合によって漂う人魂(ひとだま)のような、中心に核を持ったある浮遊するエネルギーの実体であり、また尻尾をたなびかせながら漂ったり宙空を飛行したりする様子であり、あるいは帚星(ほうきぼし)のようにある方向を持って疾走する「火の玉」のようなもので、時として、ひとつの生命集団の運命を宿したものでもある。

jar with handles

漢字学者の白川静氏によれば、「巴(は)」とは器物の「取っ手」のことだという。これはセーヴルなどの西洋の対称図像系の陶磁器の壷の左右に付けられた取っ手を思わせる形状でもあり、壷を頭に譬えればそれらは左右の「耳」に当たる。そしてそれは当然のことながら波頭(渦巻き)形状である。つまり壷の頂上に付けられたボウリングのピンや松の実のような形の小さなツマミ(「終わり」を表すフィニアル)を目指して左右から迫り来る「クレスト: crests」がそれに相当し、それらは古代中国では「巴(は)」と呼ばれていたということになる。そしてこのクレストは、装飾様式的にはほとんどの場合「渦状」なのである。そして、渦にはかならず中心点が発生する。運動の中心点が存在するのは前進と後退の相対立するベクトルの指向性が存在するからでもある。

太極(白黒) 太極(勾玉)

白(陽)の中に存する小さな丸い黒(陰)は、黒との一体化を目指し、黒(陰)の中に存する小さな丸い白(陽)は、白との一体化を目指す。それが旋回運動の牽引力と考えることができる。内的な「反対物」の存在が運動の起源となる。

「陰陽」が互いに“69”(シックスナイン)の形で互いに噛み合った「太極」のシンボルはよく知られている象徴図像であるが、いわばこの「二つ巴(ふたつどもえ)」とも呼びたいような表徴の場合は、二者が、互いの尾に追いつこうとしてひとつの円相の中をぐるぐる旋回する二尾の蛇のようにも見える。その「陰陽」といった相対する二つの要素がひとつの実体の隠れた二元論的「相」であることも、この象徴は示し得る。だが、さらに興味深いことに、この二尾の蛇はその中核にそれ自体の反対物を内包しているのであり、陽であればその中に陰を、陰であればその中に陽を《核》として保持する。すなわち、それぞれがそれぞれに追いつき交わろうとする性向を持っているのは、ひとえにそれ自体に内包される自己の反対物が、追いつ追われつする他方の持つ同質の大きな部分に還元・吸収されようとするためなのではないか。反対物どうしの間に存する「牽引」と「旋回運動」の理由になっており、相互の磁気的な惹かれ合いの秘密を表しているのかもしれない。

こうした「巴(ともえ)」の象徴の内部に潜む《核》ないし中心点の存在は、勾玉(まがたま)として表徴される時、それに開けられる貫通した穴によって表される。「巴」という漢字の頭部の中心に描かれる短い垂直線は、まさにこの「核」の簡略化され変容したものであると考える事ができよう。

巴(漢字)

ときに、この巴の徴というのは日本の太鼓に於いては丸くパンパンに張られた皮、バチによって乱打される獣の皮の上に描かれるものとしても知られる。これは「三つ巴(みつどもえ)」の徴であり、この「獣」の皮に対し二本の「木」の棒によって打ち鳴らせば、大きな轟をもたらす円相上の「三位一体」がその轟の正体であることが分かる。

愛知・太鼓 太太鼓(三つ巴/二つ巴)

巴の徴は、あたかも体液中を振動しながら進む精虫(精子)の様に、尾をオートマティックに細かく振動させながらそれを推進力として前進する。これは繊毛を持った比較的固く、しかも速く泳ぐ事ができる単細胞生物の持っている体型を受け継いでいる。また母体の中を究極まで前進した先には卵があり(ということはDNAをその中心に抱く《中心的太陽》が存し)、受精が完了し、さらに着床して何週間かすると、それは「眼を埋め込まれた」最初の胎児と成る。それがまた勾玉状である。

胎児と発生

生命の核としての頭と眼球が先端に位置し、推進力を産み出すプロペラが足部に位置するならば、運動する生命の形が勾玉状であり、また「火の玉」状である。生命の核としての受精後間もない胎児がそれと相似を成しているのは、「機能の要請する形状」の理論から言っても、偶然というよりはむしろ当然と言うべきであろう。「大なるものは小なるものの似姿をしている」というのが正しい。

Scotish thistle

映画『Touch the Sound』においては、この「巴の徴」というのが控えめだが随所に出てきて、生命存在のその「振動的」な実体を象徴的に見せるのである。それはエヴリンがニューヨークのグランドセントラル駅でスネアを叩き始める時に、彼女の二の腕に刻まれている「西洋アザミ」の入れ墨に現れる。これは彼女の出身地であるスコットランドを象徴する花であるが、この花は、まさに鍵穴状の祖型的図像の一つであり、シャトルコックが下降する時の姿をしている。そして、鬼太鼓座とのセッションにおいて連打される大太鼓(大太鼓に付き物なのは三つ巴の「巴」の徴である)、そしてエヴリンの来日時における移動シーンで、雨粒に濡れた新幹線の車窓と、その表面を蛇行した軌跡を残しながらほとんど水平に流れていく水滴群によって表現される。また、映画の最終部で心電図と思われる長い紙ロールを廃屋の工場で放る「儀式」によっても描かれる。

その紙ロールが心電図のようなウェーヴフォーム(波形)を記録したものであるのはもちろん偶然ではない。巻かれたロールは放られると音を立てながら宙空で解かれ、長い尾を引きながら美しい軌跡を見せる。そしてそれは「画面右側」に向かって飛行していくのだ。そしてその尾が蛇行することによって、その振動性、飛行に伴うある種のバイブレーションが視覚的に捉えられる。

それは受精(コンセプション)されるために最終地点に向かって泳ぎ、あるいは飛行する。それはあたかも映画『2001年宇宙の旅』において、伸び切った「巴」の徴のような精子形状をした木星探査機ディスカヴァリー号が、スターチャイルドを生み出すべく画面の「右へ右へ向かって」航行したかのようでもある。だが、『Touch the Sound』の最終場面は、エヴリンによって自在に操られる4本のマレットが、「最後の一つ」になり──これもまた振動しながら進む精子のようだ──音楽の減衰と供にその振動を止めた後も、名残惜しそうにマリンバの表面を滑り幕を閉じるのをわれわれは見る。そしてわれわれは内部に何かが受胎したのを感じず劇場を去ることはできないのである。

Discovery Spaceship

Sperm

Marimba mallets

「振動とは生きていること(生命)の証である」

いかなる言語的メッセージを超えて、かようこれほどまでに『Touch the Sound』がわれわれの心を震わせるのか、その答えは作り出されるエヴリン自身の音楽にある。彼女の言葉はすばらしい。だが音楽が先行してすばらしいのである。

その素晴らしい音楽は、われわれの身体の中にあり、あたかも次なる「振動の日」を待ちながら、とぐろを巻いて丸くなって眠っている無数の精子が、それがある雷鳴のような太鼓の轟きによって目覚めさせられたかのようだ。それらがとぐろを解き、やがて全身を振動させながら一定の方向に向かって泳ぎ始めるような感覚である。体中に眠っている背中を丸めた「巴」は、身体を伸ばし切って、疾走を始めるのである。私の知人が「映画館から走った」のは、まさに全身に巻き起こった無数の「振動」が、あらゆる回転を惹起し、前に向かう推進力に従う以外にない、という状態になった結果なのではないかと思うのである。

こう考えたとき、鬼太鼓座の座長の語る「日本における音楽や芸能の始源が岩戸に隠れた天照大神を誘い出すための舞楽にあるという説がある」という説明が、この映画の中でどのような全体的意味の一部を成しているのかが、了解できてくる。自分の中の無数の「岩戸」から、生命の光(振動)が解き放たれ、走り出すのである。

「ソクーロフのオールナイト」という体験

Sunday, May 29th, 2005

体力的にハードな「映画のオールナイト」などほとんど行ったこともない。それにソクーロフを映画館で観るのは、これでまだ3度目にすぎない。一念発起して、土曜日の10:30pmから翌朝の6時過ぎまで池袋の映画館で過ごす。無謀なる8時間あまり。

実は、ソクーロフが1994年に日本を訪問したときの印象を、ロシアの映画雑誌に書き記しているという記事をネットで見つけた。その言葉から感じられる洞察の深さに心が動いたので、そのまま転載する。それぞれの作品に関して抱いた自分の印象をつれづれに書き記す前にひとつの言葉を引用したい。

「… 私は、日本から帰ったばかりです。驚いたことに、私は日本でいかなる異国情緒も感じませんでした。かの地で私は、世界のどんな国でも見たことのないほど多くの疲れた人々を目にしました。もしロシア人が、日本人のように疲れているのなら! あんなに疲れた民族を、いままでに一度も見たことがありません。疲労のあまり人々が泣くのを目撃しました。疲労からですよ。明日も今日より楽にならないゆえに、明日も明後日も今日のように辛いゆえに。きっとロシアでは想像もつかないでしょう … 一人の人間が疲れているのはわかります。でも、民族全体が疲れているなんて … 彼らは敬服にあたいします。地上の空間でせめて誰かが疲労の十字架を背負っていることは、きわめて重要なのです。おそらく私たちみんなのために、彼らはこの十字架を背負っているのでしょう、そう見えます。実際なんの罪もないのに、少なくとも人類を前に、ロシアの住人に比べて日本人のほうが、ずっと罪は小さいのです。私たちロシア人も疲れていると言われますが、日本人には及びません。

 私たちは、困難な時代に生きています。なぜなら、人々のこのような疲労困憊の要因が、現在ほどドラマチックで巨大だったことは、いまだかつてなかったからです。このような現象の後には、きっとなにかが起こるでしょう。こんなことが長く続くはずがない… なにかが起こるにちがいありません。」

これは、何かを予言した人間の言葉としてではなく、ある民族集団とその世界における「機能」への洞察、そしてその民族への深い慈愛のまなざしを感じさせる言葉である。このように、他人を、他の民族を、見つめることの出来る心とは! われわれこそが、このような芸術家を生んだ異境の地の文化というものに心を開き、そして謙虚さを学ばなければならない。

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すいきょうな映画鑑賞

Saturday, February 19th, 2005

う〜。結局観てしまった「Before Sunset」。なんと言い訳をすればいいのか分からない。予想していたより、「皆さん」、よくも悪くも成長していて、それにはちょっと「やられた」という感じ。それにしてもお粗末な映画評だね。いやこういうのは、映画評とは言わず、たんなる備忘録と呼ぶ。

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