Archive for May, 2010

《愛》に関する短いエッセイ

Wednesday, May 12th, 2010

愛を口にするのは恥ずかしい、という日本人の心理をどこまで掘り下げることができるのかは分からない。だが、ひとつの「仮説らしきもの」なら打ち立 てることはできそうな気がする。

そもそも「愛」という概念自体が日本初のものではなく、西洋発の概念を「翻訳したもの」ではないかという通説も存在し、それを根拠に「日本人の心象 表記にはふさわしくないことばだ」と結論付けたくもなってしまうのだが、事情はそんな単純なことではないかもしれない。いずれにしても「愛を口にできな い」ことには、ひとつの説明が可能だと思い至った。

今「西洋発」と言ってしまったばかりだが、英語の「love」には実に漠然と広い意味合いが賦与されている。日本語でなら「恋」とでも呼びたくなる ような概念、すなわち、相手(対象)に対して沸々とわき上がってくる抵抗しがたい「とても好きで、それなしでは生きられない」という(好意や独占したい) 気持ちを、その言葉でしばしば呼んでいることはきわめて確かなことだし、性的な交わりや愛撫さえも「love」という単語で彼らが表現する*ことは知られ ている(to make love = to have sex)。われわれの感覚からすれば、これはエロス的な側面、すなわち肉欲に属することであって、この「愛」は、博愛や友愛とは何の関係もない**コトの 筈なのだが…

一方、いま言及したばかりの博愛や友愛といった自己犠牲が前提となるような、まさにこれこそ「真の愛」とでも呼びたい《愛》も、「love」という 語で示すことができてしまう。なんと「love」という語は広漠とした概念であろう。しかしこの多義性によって、西洋発の愛(love)は、それを口にす る者たち自身が大いに戸惑い、誤解し合い、場合によっては殺し合うような混乱の原因となっているような気もするのである。異なることを同じ名前で呼び合っ たら、コミュニケーションに齟齬が起こるのは当然であろう。「愛するが故にあなたを捨てる」とか言い始めると、殺人なども起こりうるワケである。その 「愛」は一体なんなのか?と。

したがって、われわれにまず必要とされるのは、相手を強く求める気持ちも、相手のためなら自分が犠牲になって(窮極的には死んで)も佳しとする自己 を喜捨する気持ちも、どちらも「愛」と呼ぶことが定義上の問題を孕んでいることをよく認識することであり、更には、それらに別々の適切な名称をあらためて 付与することではないのか?

ひるがえって、日本では西洋人が日常的に口にする類いの「love」に対し、「恋愛」という賢明かつ便利な訳語を当てた。つまり、ふたつの明確に異 なる概念を「結婚させる」ことによって、それが「love」の本質なのだと宣言し、「恋」と「愛」の両方を援用してそれを名付けることを歴史的に選択した のだった。

相手を求める気持ちは《恋》(乞い/請い)であって、あくまでもその動機は自己愛(自己充足を目指すもの)である。一方、《愛》は自らを虚しくする 自己犠牲であり、その動機は相手を生かすこと(相手の生存の充足を目指すもの)である。そして、この自己に向かう「愛」と他者に向かう《愛》(自己犠牲) とがうまく噛み合うことが「恋愛」の成立には不可欠である。どちらかが求め(奪ってやまず)、どちらかがそれを許す(与えてやまない)ことによってしか、 「恋·愛」関係は成立しないからである。もちろんそれが時と場面によって旨い具合に入れ替わるということは、相思相愛の仲にはあるのであろうが。

英語を使う者たちが「I love you.」を口にする際に彼らが表現していることとは、第一義的に「相手を好いて(求めて)いる」こと(しかも相当の強さで求めていること)なのであり、 そこには(あなたのためなら死んでも良い、というような)「自己犠牲の宣言」の意味があるわけではない(と思う)。もちろん、修辞的に「死ぬほど好き」と 言うことはあるだろうが、本当に自分が死んでしまえば、相手を所有し鑑賞し味わう主体が失われてしまう訳であるから、それを文字通り望んでいる訳ではなか ろう。つまりそこには何ら崇高なる喜捨の精神があるのではなく、相手から自分にないものを奪って自己の充足にあてるという、より良い生存への獰猛な意思が あるのみである。

しかし、西洋文明の基礎を成している宗教の宗祖として知られているイエスが説いたと伝えられているような《愛》の本質は、自己犠牲であり自己の喜捨 であったはずではないのか? それを知っていて彼らは日常的に「I love you.」を連発できるのであろうか? それとも単にその幅を持った「love」の多義的定義の雲の中を自由に泳ぎ回っているだけなのだろうか? つまり 時としてそれは「博愛: compassion, humanitarianism」を意味し、また時として「性愛: Eros, sex」を意味しながら。

そんなとき、真の愛というものの実現困難性について、一般的にキリスト教化されていないとされる日本人が、むしろその真理について本性的に敏感で、 それについて沈黙を守る、ということはあるかもしれないなどと思ったのである。つまり、それを口にする「気恥ずかしさ」は、実現困難性、「そんな、《愛す る》なんて、とてもとても!」あるいは「自分にはそんなご立派なことはムリ」という自己の限界についての自覚が強いのではないか、とさえ思われるのであ る。

それとも、「愛」という言葉から連想される人間の生のエロス的側面について意識的なあまりに「気恥ずかしさ」を感じるという方が正しいのであろう か?

最後に、こうした自分の定義上の理解ないしは「戯れ言」(それは大学時代の哲学教授辛島氏に多くを負っているのであるが)を横に置いておいて、現在 自分が興味を持っている《愛》をめぐる興味とは、女性視点ではどのように捉えられているのか、ということである(むろんそんな一般化はナンセンスかもしれ ないが)。こうした自己犠牲をこそ唯一にして真の愛とする定義は、男性(「救世主」はしばしば男性だ)に特有な妄想的な理想主義に過ぎないのか、いやい や、むしろ女性にこそ行為を通して実現できることと捉えられている何かなのか、そのあたりのことについてである。

脚注
* ドナ・サマーの実質的デビュー曲に「Love to Love You Baby」という問題作があるが、このタイトル自体(歌詞としても曲中でひたすら呻きながら繰り返される)が、第1の「Love」が「死ぬほど好き」を、 そして第2の「Love」が「〜と性交すること」を意味することは説明するまでもないが、こうした用法が可能なのが英語の「love」なのである。

** とは言え、ヒッピー文化など20世紀に発生したある種の宗教性さえ帯びたサブカルチャーが、「性的な愛」と「人類愛」とを——意識的に混同させたか、ある いはまさに筆者が問題にしたような言葉の広義性による混乱によるものかは分からぬが——同じゴールに到達するための手段と捉えていたらしいことは、ジョ ン・レノンとオノ・ヨーコらによる「ベッドイン」という目立ったプロテスト活動を牽くまでもなく、注目に値するひとつの着眼点を提供するのである。

《本》という愛すべき「インターフェース」について

Monday, May 10th, 2010

Books Photo: OSIRIS BOOKS

本がなくなるかもしれないことについて、自分はノスタルジックな理由で心配はしない。自分が読んでいる本、あるいは読み続けるだろう種類の本が、電子書籍の形でしか存在できなくなるということは、「ほとんどあり得ない」と愛でたくも信じているからだし、万が一すっかり電子媒体に置き換えられてしまったとしても、すでに本の形で持っているものを簡単に手放してしまうことは考えにくいことだからだ。それはLPなどのアナログ盤を現役の音盤ソースとして変わらず自宅に維持し続け、またMP3化の時代に入ったからと言ってこれまで買い求めたすべてのCDというインターフェースを捨て去るわけではないことを鑑みてもあり得ないことだからだ。

むしろ自分が真に心配するのは、電子媒体に置き換えられることによって、現在自分に有益と思われる本を提供している出版社自体が存続できなくなる可能性が高いこと、であり、彼らが存続できなくなったら、自分が読みたいような書籍は、今後いったいどこから供給されることになるのであろうか? 電子出版者がそういった種類の書籍を本当にデジタル化してくれるという保証はあるのか? そういう心配なのである。音楽もアナログからデジタルへと移行した時、結局デジタル盤として再発されなかった作品というものが存在することを考えれば、この心配は決して杞憂ではないだろう。

単にメディアが変わるだけで、内容は一切変わらないと言うならあまり心配もないが、メディアの変遷が提供されるべき内容の安定供給に影響を与えるということであれば、それは単なるノスタルジックな心配というレベルの問題ではないのである。

それに忘れてはいけないこととして、「紙の媒体の特性」が厳然と存在することだ。簡単に言えば、電子媒体と紙媒体とで比べたときにどちらが耐久性の面で優れているか、という点である。一体電気の供給が止まるというような「有事」の際に、どれだけの電子媒体が世代を超えて生き残ることができるのであろうか? もちろん、そういうときは飯を食うこともできなくなるから本の心配どころではないヨと言う御仁もいらっしゃるようだが、飢えて自分が死んでも本は残り続け、いつか誰かによって読まれる可能性はあるのである。この点がどうしても譲ることのできない紙媒体の優位性だと感じるのである。それを姿を変えたノスタルギア(懐古趣味)であると仰るなら、それはその方の自由であるが、偏った想像力であるというべきであろう。

電子媒体の優れたところはひとつしかない、ということを言った畏友がいる。確かに彼が言うように、その優位性は無視できないほどに大きなものである。“検索可能性”がそれであるが、電子媒体が現れる前だって、それなしになんとかやってきた実績が人類にはある。検索可能性とは、その情報に信頼性がある場合に限るが、何かを「一瞬で調べる」ためには便利だということである。Googleの検索サービスがどれだけわれわれの生活を便利にしているかを考えれば、ほぼ疑いのないことであるように見える。だが、それだけで媒体の価値や優位性が云々できるのであろうか?

ひとつには検索可能性がわれわれの想像力や思考力を助けるわけではないことがある。実は想像したり工夫したりしなくていい、要するに「努力しなくていい」という点で、われわれの生活に供するものであり、それ以上でも以下でもない。仮想的に外部記憶装置の助けを借りて「物知り(博識)」になることは、文献学や博物学など、ある種の学問にとって必要条件ではあるかもしれないが、優れて独創的な学問的成果をもたらすためにはならないのである。むしろこうした情報を外部記憶装置に放り込んで「いつでもアクセスできる」という状態は、われわれの記憶のための努力を怠らせ、記憶力をつかさどるある種の知的な「筋力」を細らせるのではないか?

つまり、自分の関心に引き寄せて言えばだが、ある種の「学問的な総合」とは自分の努力によって記憶したことについての、知の総力を掛けての《総合》であり、自分以外の誰か(あるいは何か)に記憶してもらって成し遂げるようなことではないのである。たとえば、われわれの敬愛するエリアーデの博覧強記が、単なる膨大な知識ではなく、ある種の《総合》を目指して収集されていった《必然性を帯びた知識の集成》であったことを思えば、諒解できることに違いない。

同じようなことが、真に独創的な科学的な発見について、広く言えるに違いない。自分の脳でない誰かに覚えてもらっている人間が何かその記憶から生み出すことができるだろうか?

さてこういう、難しい話を脇に置いておくとして、便利という点だけとっても、その検索可能性という便利さに負けず劣らず、《本》という媒体に備わっている特性とは、機動性(可動性)とアナログ的な身体感覚による情報へのアクセス性である。本や紙の厚みや重み、あるいはある特定情報の存在する位置感覚が、指の先で感じられ記憶される。こうした物理的・身体的な情報も、「名状しがたい内容」の一部なのである。

それは、電子媒体を利用したeBookの様なものがいくら「本らしさ」をシミュレートしても、そう容易に獲得できないだろう、本と人間の間にある皮膚感覚であり、誰もがそれまで意識していなかったが、これからわれわれが「大いに懐かしむ」ことになる、優れたインターフェース性ということなのである。

ムーアの『Sicko』を観る

Sunday, May 9th, 2010

Moore's Sicko PosterMichael Moore監督は、どこまでもアメリカ人のドキュメンタリー映画作家である。彼の主たるターゲットはアメリカ人だし、「アメリカ人であるわれわれ」がどこまでも特殊であるのかという視点から、「自分たちアメリカ人」を目覚めさせなければという明瞭な使命の元に、主旨を訴えかける努力を止めない。その点で言うと、「日本人であるわれわれ」が、なかなか共感も理解もできない面があるのは否めないかもしれない。銃の問題を扱った『ボウリング・フォー・コロンバイン』もそうだったし、今回観た『Sicko』はとりわけそうだ。だが、そうした明らかなターゲットをもって撮り続ける彼の姿勢は、むしろ「共感」できるものだ。

今回、『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』 を観たいと考えていて、順序としては『Sicko』を先にビデオで観ておこうと思いレンタルしたのだが、見終わって上で書いたようなことが頭に去来した。それは彼の視点が明確に「アメリカ人当人である」ことを軸にしていることのためであろうが、説明のスピードも編集の作法も、国内の医療問題をまさに体験している人々をターゲットにしているためになされており、決して外国の鑑賞者にとっては親切な映画ではない。そうしたことによって起こる、ある種の「違和感」がなくはない。だが、それは観る側の学習の度合いや想像力、そして何度鑑賞するか、どこまでこの問題を「理解したい」と思うのかという熱意次第でも変わるだろう。当然のことながら。

この映画によって提示されていることは、アメリカ合州国の医療制度というものが、力を持った資本家たる企業や医療関係の当事者の利益追求が大元となった構築がなされており、あまりに明確な腐敗が原因となっているのであり、そもそも彼ら企業や制度の存在が、傷病者自身の利益のためにはないということである。そして国民皆保険制度は世界中の多くの場所で実現しているにも関わらず、合州国ではそれがどうしても企業から政治家たちに送られるロビー活動(つまり多額の献金)のために実現できない。

企業がその経営者や出資者の利益のため、という動機で企業活動を展開する限り、どんな美辞麗句で「カスタマーファースト」を表面上謳おうとも、「お客」は結局自分たちが利用するカモであり「食い物」に過ぎないのである。保険会社は自分たちの利益を守るために、それが最も必要であるそのときに、契約者への保険金の支払いをあらゆる手段をとって回避しようとする。そしてそのための特務を帯びた人員が確保されている。こうした特務を帯びたかつての被雇用者で、良心の呵責に耐え切れなくなった者が、企業を糾弾するためにムーア監督の映画の中ですすんで証言をする──企業活動の中でしか知り得ない情報を、より広い社会の利益のために公開するのだ。

ある公聴会における医師の証言は心を打つものがあった。この医師はある保険会社において契約者の必要とするという医療が適正であるかどうかを、その企業の利益を確保する視点で審査する役割であり、その役割によってどれだけ多額の報酬を得ていたかを、そしてその「職務」によってどれだけの契約者が不利益を被ったか(つまり必要な医療を受けられずに死んだか)を、説明したのである。

アメリカの企業が、企業外の人間たちをどれだけ食いものにし、利益を悪辣なまでに追求しているのかは目に余るものがあるが、それは対岸の火事だと思うのは大きな間違いとなるだろう。何故ならば、現今の日本の政治が選択し、日本の国民を導こうとしている大きな方向性こそ、アメリカ流の企業経営であり、またそうした企業が日本国内で利益追求のための活動をしやすくするための舵取りの結果なのだという事実があるからである。

アメリカ流の会計システムや、法律事務所経営というものが、まず日本に上陸してきている。これは、対岸の火事だと考えていたはずの、いわゆる訴訟社会へと日本が移行していくための布石なのだ。そしてすべてを「民営化する」という流れこそ、当然受けられるべき社会福祉や行政サービスの質を悪化させて、「自己責任」とする社会への改悪なのである。