Archive for July, 2006

父の記憶が薄れる前に

Sunday, July 30th, 2006

父が逝った。25日(火曜)早朝、6:28。病名はNK型悪性リンパ腫。享年73歳。直接の死因は、胸水が肺に溜ったことによる呼吸不全か? まだまだ活躍してもらえるものと思われた「窒素ラヂカル」の新しい時事世相批判を見聞きすることはもはやできない。

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音楽は《内容》を持つか?

Tuesday, July 25th, 2006

以下は、一度取り上げたことのあるE・フィッシャーの評論(『芸術はなぜ必要か』河野徹 訳)の中で引用されていたヘーゲルの論述を孫引きする形で、ネット上で行なった「とある対話」の中で記した拙論を基に、大幅に推敲したものである。拙論「音楽と音楽に外在するもの〜E・フィッシャーを読む」の最後に紹介しているが、再度引用する。

「外面的な対象を一切持たないという意味における内容と表現形式のこの観念性が、音楽の純粋に形式的な面を明示している。音楽は明らかに内容を持つが、それは、われわれが造形美術や詩をさしていうときの内容ではない。それに欠けているのは、現実の外面的な現象をさすにせよ、知的な観念や心象の客観性をさすにせよ、とにかく客観的他在のこの外形なのである。」(ヘーゲル『芸術の哲学』 太字は引用者による)

まずこの文章の前半部分に関してだが、われわれは「外面的な対象を(ほぼ)持たないという点において、たいがいの音楽が純粋に形式的(かたちそのもの)でしかない」ということを意図しているのなら、ヘーゲルの指摘についておおむね同意できる。そう。「音楽は音でしかない」(安藤広)のである。(そして作品が視覚表現だとしても、それが抽象表現ならば、この指摘は相当程度に適用可能となるだろう。)

ことによると単に翻訳の拙さのせいかもしれないが、このヘーゲルの文章がいきおい不鮮明に聞こえるのは、ひとつには指示代名詞の使い方がある。特に分かりにくいと感じるのは、「それは、われわれが…」と「それに欠けているのは、…」の部分である。第一の「それ」とは何を指すのかが分かりにくい。第二に「それ(に欠けているのは)」が、ほぼ確実に「音楽」のことを指していることは想像できるが、最初の「それ」は、おそらく「(音楽の)内容」を指しているのだろうと憶測できるものの、確信は持てない。 「外面的な対象を一切持たない、という意味における内容と表現形式のこの観念性」という長い節を指している可能性もある。

「外面的な対象を一切持たないという意味における内容と表現形式のこの観念性が、音楽の純粋に形式的な面を明示している。音楽は明らかに内容を持つが、その音楽の《内容》は、われわれが造形美術や詩をさしていうときのものではない。《音楽》に欠けているのは、現実の外面的な現象をさすにせよ、知的な観念や心象の客観性をさすにせよ、とにかく客観的他在のこの外形なのである。」[赤字は筆者によって解釈された補足]

とりあえず指示代名詞を以上のように了解した前提で書けば、賛同するまでもないほど、ほとんど「身も蓋もなく自明」なことだと言う以外にない。だが、近年自分が獲得しつつあるもうひとつの視点から言うと、この「自明なこと」すら無条件に「正」であるとは言い切れない局面がある。

純粋な音楽――伝統的音楽用語に従えば、「標題音楽: program music」に対する「絶対音楽: absolute music」のようなものを指す?――が「外面的な対象を持たない」というのは、基本的にはそうだ(というより、少なくともそのようなものを純粋音楽と呼ぶだろう)。だが、《音楽》が、深層の部分では相当に具体的な「外在する何か」を指し示している(反映している/呼応している)可能性があるという考えに傾いてきている。これは深層レベルの話なので、音楽を創っている本人さえ無自覚である可能性がある。

音楽を音楽であると捉えるのは、受け取られる音楽の性質だけに帰される現象ではなくて、音楽の体験が内的体験である以上、受け取る側の内的神秘がそうさせるという見方が可能な訳で、音楽における「ある不変の実体」だけを問題にすれば済むということにはならないのである。

ヘーゲルは、この文章において暗示しているように条件的には「《内容》を持つ」と言っている訳で、そのように「内容がある」とわれわれがに認識な可能な以上、音楽の作品の(内側)だけでなく、その音楽の有り様と「相似の関係」にある何らかのものが、作品の外側に存在しているのを感知し連想するからこそ初めて「内容がある」とわれわれが感じているという捉え方が可能だ。

音楽によってもたらされる官能的な心地よさや不快というものは、確かに外在する何かとは無関係に、「音楽」それ自体が、感覚器官を通してもたらす「ひとつの純粋な経験」であるということが出来そうだし、その側面を無視している訳ではない。だが、われわれがある音楽から純官能的な快感とは別の次元の感動を得ているとき、それは単に甘い飴を舐めているような甘美な経験とは別種の、高次の《内容》に共鳴していることを意味していることが想像できる。

外在する一切と全く無関係に「ただ存在する」ものが、われわれにとって「表現」である捉えられるということ自体が、われわれには「想定する」ことができないのではないだろうか。もし、そういうものがあるとすれば、それは人間が積極的に関与する「表現」ではなく、単なる「現象(出来事)」と呼ぶべきである。ただし、「現象」からある種の人間が「世界からの兆し」(外的世界からわれわれの世界へと照射されているかに見える徴)を捉えることができる人間のシャーマン的な能力の存在を想定すれば、世の中には「神の表現」としての「地上的現象」があると言うこともできるかもしれない。ただし、それは人間と音楽との関連という文脈から逸れていくので、ここで深入りしない。

さて、このヘーゲルの「拙い翻訳」自体は横に置いといて、

純粋な音楽が「外面的な対象を持たない」というのは、基本的にはそうだが、深層の部分では相当に具体的な「外在する何か」を、指し示している(反映している)、という考えに自分は傾いて来ている…

実は、この辺りが現在自分が大きな時間を割いて考察している部分なのだ。「いかにも自明」なことでありそうでいて、今日の表現者や鑑賞者が容易に認めたがらない部分である。 私はまさに人間精神の「底なしの穴」について、そして抽象表現が総じて、人類の《世界的な体験》に似た何か(エピック)を指しているという可能性に関心が向いているのである。 ある驚愕的体験が、「現象世界の世界的現象」を無意識に「認識」しているということに…

つまり、知的なレベルでの(頭で了解できる)作者自身の《題材》への理解や自覚の有無と関わりなく、ある種の抽象表現が何か重大な内容を伝えてしまうという“作品の力”をめぐっての話となる。

これは、フロイトやユングの発見や心理学、そして比較宗教学のエリアーデの研究などなどに親しんでいる方々からすれば、「もはや議論の余地のないこと」ではあろう。ただ、その割には、世間では抽象表現を積極的に解釈するよりは、その抽象を抽象のまま「放っておく」(要するに、「純粋に味わう」)ことで鑑賞態度として足りると言わんばかりの言説が、(一部の創作家や芸術愛好家たちの間でさえ)目立っているように感じられて仕方がない。つまり、創作物を真ん中に置いて両サイド(つまり表現者と表現を捉える側の両方)から、抽象芸術には「意味はない」とか「意味を解釈する必要はない」とか宣い、積極的に作品を「理解」する事を忌避する態度が出てきているような気がするのだ。解り易く言えば「理解」よりも「感じる」ことが重要視されていると言い換えられるだろう。もちろん、「感じる」のが先にあって「理解」もある訳だろ!と当たり前の事を言いたくもなるのである。

一方、創作現場からの言葉として、「われわれの小さな頭で考えたこと、理解した事を姑息に作品に入れ込むことでは、大した芸術作品は創れないのだ」という訳の分かったような断定を聞く事もある。人間精神の奥の深さや無意識のフェイズにおいて創作された“作品の力”を思い返すに付け、そうした発言も十分に理解できるのだが、真に重要な「意味」というのは、抽象作品を通して伝わるという以外に、ある種の言語や記号を以てすれば「言語化」さえ可能だ。実際、「詩」というものがこれまで愛されてきた歴史や現実(詩は、文字という記号を使って表現される)を観れば、おそらく多くの人々にとっても、疑問の入る隙のないほど自明な事だ。

問題は、あくまでも、所謂「無意識」や「幻視」が告げるところの《題材》の重要さであって、その重要さを一度「意識的」に受け止めれば、それはふたたび知的レベルでの言語的行為に還元する事ができる(もちろん簡単な事ではないが)。つまり、ある種の題材について「○○の表現形式によってしか伝達できない」とかいう言い方は、われわれにとっては明らかな虚偽だ。音楽や映像作品などの形式の違いを考えれば、体験の質、すなわち「伝わり方」に違いはあっても、音楽であろうと、映像作品であろうと、詩であろうと、「伝わるもの」に違いはないのだ。これは、その《題材》を了解した人にとってはあまりにも自明な事である。

われわれが言語に対する偏向的こだわりを持った「頭でっかち」な人間である…にも関わらず、その対極とも考えられるような即興音楽という創作方法にも同時に強いこだわりを抱きつつ取り組んでいるのは、無意識的な境地が意識的な音の操作よりも、より多くの「劇」(あるいは劇的効果)を生み出し、伝える(しかも深層で)ことがある、という実感を抱いているからだ。(もちろん、まだまだ「駆け出し者」の自分は、演奏中に「常に無為である」ことからはほど遠いのは認めても良い。) ただし、それを可能にする境地や技術力ということとも切り離して考えられないことではあるため、そうした《内容》を包含しうる表現形態において、「只の無為」であるということが、必要条件であっても十分条件ではないことについても自覚的でなければならない。

(推敲中)

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いまさらながら《身体行為》としての音楽

Sunday, July 9th, 2006

これは、書くことが好きで、しかもできる限り持続的に書くことを自分に科しているような人なら、日常的に経験していることだろうと思われる。何か書き始めて一旦調子付いてくるや、その内容があらかじめ自分の頭や「考え」から出て来ているとは思えないような結論や発見に導かれることがある。その筋立てや言い回しは頭で考えて作っているというよりは、勝手に出てくるものだ。

私の「考え」では、それは「自分の考え」から出て来ているのではない。

書いて何らかの結論やアイデアをほじくりだす「身体行為」をしているのは確かに自分だが、掘り出されたものが「自分」に属するものなのかどうかは何とも言えない。それが自分の思い付いたものなのか、「普遍的なイデア」に属するものなのか、それは分からないし、そのなことはこの際、どうでも良いことかもしれない。

猛スピードで、緊迫しながらしかもくつろいおり、調子良くバイクやクルマを操縦している人なら感じているかもしれないそんな「自分がドライブしているのではなくて、自分はハンドルに手をかけているだけで、走っているのはクルマの方。自分はその乗り物にドライブされているだけだ」という感覚。書く行為というのも、それに近い感じになると良い。何度もエンジンが止まってその都度イグニッションをひねるような感じだと書かれたものに流れが生じない。これは、書く行為が頭だけで行っているのではなくて、非常に大きな割合で、それが身体的な行為として可能となっている証拠なのではないか、と感じることもある。

武道家だって、「刀の長さはこのくらい、重さはあのくらい。なら、このくらいの力と早さで振り下ろせば敵が倒せるはず」などと頭の中だけで組み立てたイメージだけをもとに、勝負を計算したり予測したりはしないだろう。それで巧い武道家に成れるなどとは誰も思うまい。とにかく、具体的な刀なりなんなりを手にして、何度も振り下ろしたり振り上げたり何かに斬りつけたりして試行錯誤をしながら、運が良ければ達人になっていくのだろうと思われる。

音楽に関していえば何をか言わんやである。音楽も頭でやっているのではなくて、好きな音やフレーズになるまで何度も何度もやっているうちに自分の音が出てくる。それは頭でこのような量の息を吹き込み(あるいは弓を引き)この程度の早さで舌や指を動かせば、あのような音になるはずだ、などと考えてやるのではなくて、身体がそのような音を探し出すまで何度も「トライアル&エラー」(試行錯誤)を繰り返した挙げ句に、(運が良ければ)至るものだ。

確かに、しばらくのあいだ武道家なら刀を置いて、音楽家なら楽器を置いて、ちょっと別のことをしていたり、ぼんやり何かを眺めたり、別のことを考えていたら、突然「どうすれば良いのか」に思い至ることだってあるだろう。だが、それは刀や楽器を一度も持たずにただ仮想的に巧い剣術や気持ちのいい音楽を頭に思い描いていてそうなるのではなくて、日常的に自分の道具に触れているのが前提で、あれこれ試している中で得た身体の覚えている情報が、別の何かをきっかけに、ふと頭脳のある場所のベルを鳴らすみたいにして起こる。

だから、頭を働かせることも(あるいは「意識」して頭を働かせないことも)時には必要だが、それは身体的な積み上げが前提として有っての話だ。

音楽が作曲家の頭だけで出来上がったものではなくて、何か身体的な実践や実感の集積の果てに、成立して行くものであって、そういう身体感覚を持った人間が演奏をするから、音楽が現在の音楽のようなものであってくれるのであり、楽器やその操縦法の身体性を知らない人間が、漠然と「このような音」と思い描いたところで、良い作曲家に成れるはずがない(誰も言っちゃいないだろうが)。

さらに言えば、作曲家が音楽を思い描くことができるのも、身体を通して実際に表現された「歴史的な音」というものが存在するからだ。それは音楽を作ろうという人が、「演奏家の音」を繰り返し聞くことによって初めて出逢うだろうし、自ら楽器を手にいろいろな音を出してみることによっても実感できるだろう(というか、究極的にはそれ以外にないだろう)。しかし、そうした音を創りだすことの身体性を無視して、頭だけでも音楽が創られると思うならそれは大いなる誤謬だ。人類が如何にさまざまな作曲手法やテクノロジーを獲得したところで、最終的には人間の身体の創りだす音にわれわれは耳を傾ける。われわれの多くが生の楽器と「打ち込み」の音を区別し、また多くの場面で人間の奏でる音に慰めや興奮を見出すのは、それが人間の肉体を使った行為によって具現化されていることに、聴く者の身体も共鳴して反応するためである。

例えば12音技法やセリエ技法で「作曲」された作品であっても、それは観念的で電子音的な装置でプログラムされたり自動演奏されたりするのではなく、音楽家の身体が経験によって身に付け記憶した伝統的奏法と、すでに確立された快感をもたらすことが分かっている伝統的楽器によって「生の音」に置き換えられるのである。だからこそ、「音楽」として聞こえるのである。大概の「作曲」でも、すぐれた演奏家の手に掛かれば、それは音楽に変容する。作曲家が如何に「人為」を排除する方法を悪戦苦闘のうえ考案し、それを譜面上に置き換えたところで、それが多くの「身体」が受け入れ、築き上げてきた「奏法」によって楽音に置き換えてしまえば、人間の音楽になってしまう*(そして年月を経たその恩恵をそうと知らずに受けているのが、少なからぬ「現代の音楽」作家である)。

* もちろんそうした伝統音楽における抜き難い身体性を自覚するあまり、生の楽器や演奏家を排除する「作家」や「作品」があるらしい。それをあえて「音楽」の領域でやろうというのだから、大抵の音楽好きが一顧だにしないとしても何の不思議もない。そうした作家は、《音楽》に関心があるのではなく、あらゆる「伝統」と名の付く人間の文化的創作に対する怨嗟で行為しているのであるから。音楽を文学か何か**だと思っているのであろう。

** もちろん、文学を感じさせる良好な音楽というものだってあるだろう。だが、音楽の本領は、美術的でも文学的でもない。それは官能で解されるひとつの表現なのだ。

そうした楽音の身体性というのは、作曲家が創りだしたものではなくて、演奏家の耳と身体感覚が、言語化の困難な名状し難い快感原則に忠実であり、長い修練を通じて集合的な同意(コンセンサス)の上で築き上げてきた伝統なのである。それを無視して、音楽が「作曲」という自立した精神活動が創りだしている(だせる)と思うのは、特定の「好事家」や評論家の勝手であるが、《音楽》の現実はそういうものではない。音を出す現場にいる人間は、譜面に表されているあらゆる素材を音楽化せずにはいられない。そのような音楽の抜き難い身体性という歴史的コンテクストの中で、特定の指向性と共に修練を経た技能者なのである。したがって、音楽が演奏家を前提としないで成立するように思うのは、「作曲」という行為を至上のものとして捉えたい、いかにも現代的な幻想の類なのである。

まあそれはそれで着想の新規さを喜ぶ人たちは、「類は友を呼ぶ」で、ナンセンスをシリアスに追求することに生涯を費やせば良いのである。

作曲作品は誰のもの?
武満作品は誰のもの?

Thursday, July 6th, 2006

先日、下に引用したような文章に先頃遭遇した。

残念ながら、原文自体のURLは失われてしまった。そのコピーをベースにして起こしたと思われる似たようなコピーを記載する別ページは、ネットの各所に存在する。たとえば、これもその一例である。幸いにして、原文はコピーしてあったので以下にそれを掲載する。

武満徹・響きの海─室内楽全集(全5巻)

2006年1月19日 (木)

武満徹(たけみつ・とおる 1930.10.8-1996.2.20)は、現代音楽の分野で国際的に評価されている日本を代表する作曲家です。没後、以前にも増して世界中で作品が演奏されるようになりましたが、反面、作曲者が望んでいなかった解釈もしばしば見受けられるようになりました。

 そこで生前に作曲者と深い親交のあった音楽家たちが集い、「作曲者が本来望んでいた意向を汲んだスタンダードたりうる演奏を残す」という意志のもと、特別に結成されたのが「アンサンブル・タケミツ」です。2001年から2004年にかけて全6回の公演で、65曲の室内楽作品が演奏されました。

(中略)

 日本を代表し、国際的にも活躍する当代一流の演奏家たちが、作曲者の生前に直接アドヴァイスや対話を通して得た、音の身振り、表情、速度など、真にオーセンティックな解釈によって一曲ごとに精魂を傾けて奏でた、まさしく唯一無二の演奏です。

(略)

これは、「音楽が作曲家の頭の中や譜面の段階で、すでに音楽が完成している」かの幻想にのっとった言葉の典型的事例である。このような言葉の数々を見て「聴いてみたい」と思うのは通俗的な音楽愛好家的素人である。ここでの言葉を怪しいものと感じた人はマトモだ。だが、音楽作品が、譜面それ自体ですでに作曲家の頭にあるものをすべて具現化していると思っていたり、作曲者の頭自体が現実世界において鳴り響く《音楽》のすべてを予想できていると考えるなら、それが勘違いであることに気付くべきであろう。

今回のCD制作者の意気込みは買おう。武満徹が作曲家として第一級であることも敢えてここで問題にするべくもない。だが、この推薦文を読む限りでは、ひとつの原則が完全に無視されていると言わざるを得ない。そしてそれは心ある現場の音楽家や演奏家の反感や失笑を買っても可笑しくないような言説を含んでいる。

音楽というものは、それを演奏する具体的人間が演奏して完成するものである。演奏する以前にすでに「オーセンティックな解釈」というものが存在すると考えること、そしてそれを目指すことが演奏者の努力であると思い込むこと自体が、最初の誤謬である。それは陥りがちなことであろうとは思うが。そもそも「音楽的完成」が、演奏者なしに作曲作品として自立的に存在していると考えることが幻想である。それはほとんど身体なしに抽象的思惟が存在しうると考える程に非現実的なことである。

演奏家は、作曲家が思いもよらないような解釈や演奏方法やその他の諸々の表現で、その意図以上のものを目指すのが役割なのであり、また、作曲者本人が気付かないようなことが、その作品の行間にさえ潜んでいるわけで、演奏者が、作曲家の「思った通りのもの」を再現する(できる)のが彼らの仕事で、それ以上でも以下でもないと思っているとしたら、それは死んだ観念的「音楽」のリピート再生に過ぎない。

武満徹も確かに誰かに訊ねられれば「このような音」とか「このような流れ」とか「あのような響き」とか、自分の作品のイメージについて語れたに違いないし、事実、語ったであろう。だが、それが可能な音楽的実体の唯一のものであると作曲家の彼が本当に考えていたかどうかは、別問題である。彼の中に確固たる音響や調和のイメージを持っていたことは疑いがないが、私は彼が彼の頭に存在する音楽のアイデアが、唯一価値を持つものだとそのように思っていたと信じることは難しい。

生前の武満をよく知っていて、またどんな音に彼が満足していたかを知る演奏家たちは、確かに演奏上、相対的にやや有利な地点にいることはあるかもしれない。だが、それも、武満が彼自身の音楽から期待している自覚できて「言語化」できる部分であり、また、こう言って良ければ音楽的理想や「好み」に外ならず、それが彼の書いた作品であっても、その結果を武満だけが独占的に制御したり承認したりできるものではなかったはずだ。ましてや、武満の音楽観を知っている(と思っている)演奏家たちだけが、作品の正統な解釈の継承者だと名乗ることもできないだろう。いや、名乗るのは勝手だが、それを周囲が真に受けなければならない道理はない。作品の解釈や実際の演奏結果というものは、作者の意図や狙いというものを容易に超えて行くものだし、乗り越えられるべきものだ。場合によっては、絶対に近づくことのできないものだ。それが実際に譜面を音に変換する人間の奮闘する理由であり、存在価値だ。

武満の作品の中で、強いて、武満の狙いや「真意」を反映したものがこの世にあるとすれば、それは、武満自身が音を出し、(録音作品なら)整音し、彼が納得ずくで完成させたいくつかの音源であると言うべきかもしれない。それらは、例えば、彼自身が音楽監督をしたり、自らマイクとテープを使って作り上げた、いくつかの映画音楽(サウンドトラック)などがそうかもしれない。

実際に音を出さない作曲家が、実際に音を出す演奏家よりも、尊重されなければならないということは、「現代の音楽」という状況において、すでに不文律としてはあるかもしれない。だが、それを無批判にそのようなものでそれ以外はあり得ないと受け容れて考えるのは、ひとつの観念(思い込み)に外ならず、決して絶対的なものではない。それは作曲家が実際に音の現場において、もの申し、制御し、納得できるまでOKを出さないという、生きていればこそ可能な、音楽制作における具体的な手法のひとつに外ならないのである。

武満徹が亡くなる前に、「これが武満の音である」とか「この人が武満の音の継承者である」というような、自らが「芸術様式の始祖」たることを宣言し、それを正統に継承した人間以外の演奏を邪道(ないし逸脱)としたのならば、それは閉じられた家元制度のようなシステムを彼が希求したことになる。だが、少なくとも、私が想像できる限りにおいて、それは彼の生前の発言やさまざまなオーケストラのために数多くの作品を書いたという事実から導きだせるような人物像ではない。彼がそのような硬直した状況下でしか自分の音楽が実現できないといった狭量な音楽観を以て創作活動していたとは考えにくいのである。理想は高かっただろう。だが、彼は彼の譜面を使って演奏され、実際に鳴り響く音楽を自分の意図と違うということもって全否定しただろうか? もし、それを裏付けるようなことを本人がどこかで言ったり書いたりしているのであれば、それを是非見せて頂きたいものである。

繰り返す。音楽は、特に作曲作品を取り扱う場面において、如何に作曲家が尊重されなければならないという至上命令があったとしても、出来上がったものとその当初の意図とは、違ったものであるはずだ。それが生きた《音楽》の真実である。そして、作曲家が演奏された自作品を喜び、演奏者を讃えるとき、それは自分の予想を遥かに超えた結果に対する驚きと、自らの意図と現実の間隙にある《音楽》自体の神秘に触れたときであるに相違ない、と。

Note: 念のために断っておくが、以上のような「意図」を持って集まり演奏したからと言って、その実際の演奏が詰まらないものであるとか、価値のないものであるというつもりはない。何度も言うように、何を演奏を通して目指したかということと、実際の演奏結果というものの間にも、乖離があって当然なのである。つまり、どんなに詰まらない意図で集まったとしても演奏が途方もなくすばらしいという可能性だってあるのである(実際そうかもしれない)。音楽家(作曲家)の意図と音楽は、「個別に語られる必要」があるのである。

イエスとマグダラの「婚姻」の意味するところ

Tuesday, July 4th, 2006

何度でも繰り返すが、われわれにとって重要なのは、福音書の史実として裏付けられる側面ではない。聖書考古学上、それが重要なのは理解できる。だがわれわれにとって福音書の価値とは、その象徴的価値に外ならない。これについてはすでに何度か記している。

> 流行ったものは廃れてしまう(栄枯盛衰のことわり)

> 宗教の「第三の機能」への一瞥

史実としてどうなのかはともかくとして、「イエスとマグダラのマリアが結婚していた」というのは、象徴的には正しい。だがもっと正確には「偽キリストとマグダラのマリアは現在まで結婚(ずっと)している」となる。史実としてのイエスはおそらく(希望的には)磔刑に遭って死んだ。(もっと言えば、刑死していても良いし、はたまたそんな「史実」が無くても良い。)

そもそも福音書にあるような、「復活したイエスがマグダラのマリアの前に現れた」という記述は象徴的に理解可能である。だが、ここで忘れてはならないのは、真性のキリストは、マグダラのマリアに「余に触れるな」と言って退けている点だ。これは「マグダラのマリア」というコードが、日曜日に客を取る「地上的“教会”」の象徴であることを裏付けている。復活したイエスは“教会”を退けなければならない。そして(象徴的)キリストは実際に復活したにもかかわらず、「天に昇った」と短く記されているばかりである。これは復活後のイエスがあまり記述されないことの理由としても有用だろうが、象徴的存在となったイエスを、現実的(史実的)ドラマとして詳述することがナンセンスだからである。

“教会”を退けなければならないイエスは、象徴的事実としてのイエスと倫理的志向性としてのイエスという二つの意味合いの両方をほぼ半々の濃度で兼ね備えている。だが、聖典の中の「教義」としてのイエスは「余に触れるな」と倫理的警告を与えることをかろうじて行うが、地上的“教会”成立後のイエスは、象徴的事実という秘教的な意味合いを担わされて行くことになる。

一方、このたびのさまざまな研究や憶測に因って、生き延びた(ということになりつつある)「イエス」は、結局マグダラのマリアと婚姻し、「子孫」さえも世に遺したという。これは現在、史実として理解しようということが眼目になっているようだが、これは地上の“教会”(カトリック)を作るということの意味だ。これこそ、偽キリストとしての“イエス”を証すための新たな象徴的記述として理解することができる。そしてそれは今でも生き延びているのである。いや、生き延びているとされたことによって新たな象徴性を獲得するのである。

「イエスの血脈」(の実在)というのは、象徴的な意味で、確かに現在も「教会の中で生き延びて」いる。これは現在世をにぎわしているスキャンダラスな「学説」の登場を待たずしても了解されていたことだ。キリストについての記述の変容こそ、そのキリスト性の詐称を意味しているのであり、彼ら“教会”こそが、それを標榜するキリストのアンチテーゼ(反キリスト)自体であることを意味する*。これは、教会がキリストの史実的存在を伝える伝統の保持者であると同時に、彼らが敵と考えてきた《反キリスト》そのものであることの象徴的表現なのである。

* 『「キリスト」と「反キリスト」への一瞥』の中の原註を見よ