Archive for September, 2010

検察は「シナリオづくり」こそが身上

Thursday, September 23rd, 2010

前田容疑者「改ざん意味ない」
タイトルを繰り返すが、検察は「シナリオづくり」こそが身上。検察は、そもそも組織ぐるみの「シナリオづくり」 でこれまで生きてきた。正義の追求などという高邁な理想とはなんの関係もない、自分たちの評価だけを問題にする、度し難く典型的な官僚そのものの集まりで ある。佐藤優が言うように、「最も遵法意識の弱い日本の組織」が警察と検察なのだ。法律を守らせるという義務感と責任感の意識はあるのだろうが、その法律 を恣意的に運用し、自分たちは絶対に裁かれる対象にはならないという世間から超絶した立場にいる人間たちが、実は全く法を恐れていないし恐れる必要がない のだ。それが薄い遵法意識(自分たちだけは特別という態度)に表れる。
今回の前田氏逮捕と彼のみをスケープゴート化する「一見して本気の検察の浄化劇」は、これまで検察が付いてきた大きな嘘と、これから付こうとしてい る大きな嘘を可能にするための「中くらいの嘘」のドラマである。おそらく前田氏は本当のことを喋っている。だが、誰も相手にしないだろう。
いまここで彼だけを叩いて得意になっている方々に訊きたいのだが、これまでやってきたことが嘘だらけで、この前田氏の立件だけが本当であるなどと何故われわれは思わなければならないのだろう。
われわれはこれから起こる「生まれ変わった検察」「自己浄化できる検察」などを信頼してはいけない。それはすべてイメージ作りに過ぎない。そもそも 厚生労働省の障害者郵便割引不正事件自体が、検察におけるさらに大きなシナリオの一環で、「検察の敗北」という図式もそのドラマの完成にあたって必要に なったので、どこかの時点で利用されたと考えるのが自然だ。この「検察の歴史的敗北」ですら、検察と判事との間の合意なくしてどうしてあり得ただろう?  これ自体がひとつの政治判断だ。そしてその敗北が、リークによってすでに各方面から「予想され」ていたこと自体が、検察と判事との間の申し合わせの存在を 証している。
佐藤優氏の『獄中記』は、検察官という生き物を理解するのに本当に参考になる資料だ。)
逮捕された前田氏がどこまで頭のいい人なのかは分からない。佐藤優ほどの頭脳を持っているのかどうかは分からない。が、彼が自分の立場を危うくする ことも含めて、すべて本当のことを話し、自身のスケープゴート化を含む上層部のシナリオの存在が明るみに出れば、これを操作する立場にある検察がそもそも 不可逆的に腐敗していること、つまり検察が自分たちの組織を浄化するというスタンドプレイ自体が、大きな嘘を隠蔽するものである事実が、いよいよ広く諒解 されることになるだろう。
それにしてもシナリオづくりが検察のやってきたことであって、この前田氏の逮捕という成り行きもシナリオあってのことだという《入れ子構造》は、やはり逆説的ではあるが、本当のことだと考える。

「小沢の持っているカード」について

Thursday, September 9th, 2010

小沢一郎は勝つのか?」と題する、政治にきわめて密接に関わりのある発言を内田樹氏が行った。

その中で氏がさりげなく語っている「小沢の持っているカードのひとつ」、すなわち「対米強硬姿勢を実現するかもしれないという田中角栄の日中共同声明以来の外交的期待」については、実は国民は知らなさすぎるというのが自分の考えだった。だからもっと知らなければならない、とずっと思っていた。なんで田中角栄が逮捕されたのか、どうして小渕が、橋本が、現職の総理や議員が、かくも多く憤死していったのか? そして、どうして鈴木宗男や佐藤勝が裁判にかけられたのか、そしてとりわけ政治家・鈴木宗男に関してはどうしてこのタイミングで司法判断が下るのか、こうした諸々の理由を知らなすぎる。それで自分は微力ながらも想像力の透視できる範囲で、自分の世界観を語りもし、必要な文章の紹介もして来たつもりだった。

だが、この本当のことが、民意として意識化され、顕在化された暁のことを、そしてそのことによって惹起されることの内容を、われわれはまだ知らない。

この認識が当たり前のこととなって、当然のように国民の口から漏れ聞こえるようになった時とは、日本における反米を基軸とする《真の》ナショナリズム復活の到来を意味する。

だが、筆者はナショナリズムだからと言ってそのこと自体に性急な価値判断を下す意図はない。否定されるべきナショナリズムと否定し難いナショナリズムとがあるからだ。筆者が反対するのは、アジア諸国など、かつての日本の植民支配をした地域に対する相も変わらぬ優越感であり、それに根ざした日本の選民意識といった低級な形態のナショナリズムであり、あるいは日本人を低級な民族であると無意識に考える(そして原爆投下さえも正当化できると考える)欧米の支配階級にある優越意識である。ひとつの利益を共有するべき集団(国家か民族かは問わない)が、一方的に他の国家の国民(民族)や政府(支配階級)によって収奪され続けることに対する当然出るべき反対の声を、そうしたネガティブな「ナショナリズム」とおなじレベルで判断されるべきだとは思わない。

どこかでも一度書いたが、民族や国家意識というものは、そもそも最初から(アプリオリに)在るものではなく、「叩かれて、支配されて、そして財産を奪われて」初めて生まれるものである。「おまえはダメだ」と言われ続けて、自分を愛する気持ち(自尊心)が反動として発生する。愛国心も同様で、くだらぬ愛国心教育によって生まれるものではない。まさに、日本でそうした意識が生まれるのだとしたら、それは歴史的必然として、被支配者が、不当な支配から逃れようとする運動から生まれるのである。そして、それが日本で誕生するのだとしたら、それは明治維新前夜の攘夷思想と同じ、「お家」に関する危機意識(今回は実際の非支配の認識)からであり、それは幕末以来の本当のナショナリズムにまで育つ可能性のある大きな芽だ。つまり、そもそも無くてもよかったそんな(国民/民族)意識を、むしろ「宗主国」であり支配者である合州国は、力を行使することで自らこの地で目覚めさせようとしているのだ。

先にそうしたナショナリズムを、《真の》と断らなければならないのは、日本における今日の(そして60年続いている)「ナショナリズム:国家主義」は変な捩れを起こしていて、よく街宣車で見かける日本の「いわゆる右翼」は、対米従属の「右翼」(反共である、という1点においては「右派」であることは確かだが…)であって、戦後アメリカべったりになった日本の「国体」を、そしてアメリカの国益を守る圧力団体(基い、暴力集団)なのである。これは本当の国粋主義者らが、米帝からの自主独立を叫び始めて本来右翼がどうであるべきかの手本となるべきところを、却ってその奇妙な行動によるネガ・イメージによって、われわれの関心をナショナリズムの真の目覚めから逸らしているのである。

一方、ひるがえって日本の左翼は、本来なら日本の自決をもっと本質的なところで説かなければならないところを、自民党の多元外交派も一元外交派も十把一絡げにして批判・否定することで、本来的な日本の国益になるべきところを損ない、却って、「左派」でありながら米帝国の国益になるような手助けを知らず知らずに行っていたりするのだ。これは明確に《反米》を旗印に掲げる極左のことではなく、いわゆるゆるやかな正義派・社会派の左派議員(社民党に見られるような)に著しい。それは「政治とカネ」の腐敗を糾弾する正義の意図で行われることだが、日本の国益を考えている政治家の失脚などのための材料を各方面に提供したりすることで、知らず知らずに起きてしまうのである。残念なことだが…

話がそれた。真のナショナリズムの復活がいよいよ明瞭になって来たとき、この国を実質的に支配する合州国がそれを放置するだろうか? もちろん、これまでも放置しなかったし、これから先も放置することは無いだろう。それが角栄の逮捕であり、そして多くの多元(非米)外交派に対する政治生命断絶の工作であった。そして現在も進行しつつある「東京地検」など、「恐怖の名」で知られる法曹界からの起訴/裁判による暴力である。つまり、この圧力や工作はいよいよ猛威を振るうだろうし、ひとが本当のことを知ろうとすることに対して、一層の情報攪乱を行うだろう。つまり、そうした日本人の目覚めに対して、目覚めないようにさらなる不可視の施策を行うとともに、実際に止められない目覚めに対しては、目に見える脅威を与え始めるだろう。

(つい先だっても小沢が力を振るおうとしたときに、日系自動車会社のリコール問題が噴出した。これは「空爆」の新たな形態である。経済爆弾を落とすのである。)

目に見える脅威としては、反米ジャーナリストや研究家、大学教授などの発言力を持つ人間(情報発信者)の冤罪事件の頻発、裁判の長期化による社会的影響力の削ぎ落とし、などがある。裁判所による判決の前に、裁判沙汰になったり被疑者になっただけで社会的な制裁が実質的に行われてしまう日本の土壌(というよりは日本のメディアの体質)では、容疑人となっただけで日本ではアウトである。有罪であるか否かに関わらず、「世間をお騒がせ」しただけで、日本では制裁の対象となるのであるから。

だが、問題はこうした各種工作にもめげずに行われる日本人の目覚めへの方向性は不可逆であることだ。どんなに時間が掛かってもその抵抗は続けられ、遠からず他国の権力者による支配は終わりを告げるであろう。あるいは、全面的な暴力的な闘争へと発展するだろう。本当のことを知った日本人がマジョリティーとなった日本は、抵抗勢力(レジスタンス)の地下の牙城を築くかもしれない。

われわれは、今日、数少ない《知る側》に属するマイノリティではあるが、その認識が一般化した時のことをありありと心に思い描くことができるだけの洞察力も同時に培う必要がある。そのときに起こるべき「敵」の「抵抗」が、どんなシビアなものになるかを含めてである。

われわれは目覚めずに、働き蟻のように捨てられるまで他国の利益のために働き続ける方が良いのであろうか? そしてその働きは自分たち(国民の)利益のためにあるべきだ、という当たり前の主張が通るような世の中の実現を、諦めるべきなのか? それを自らに問う必要がある。

アラン・コルノー監督の死を悼む

Wednesday, September 1st, 2010

Alain CorneauTous les matins du monde DVD

コルノーに関する自分にとってのall & everythingは、《Tous les matins du monde》(邦題『めぐり逢う朝』)の1作に尽きる。これは同監督についての、到底公平とは言い難い論評に過ぎないかもしれない。だが、それほどにこの1作《めぐり逢う朝》については語るべきことが多い。特に、自分の生き方、行くべき方向、何を信じるべきか、などなどの、表現や創作に関心のある人間なら、一度は真摯に考えたことのあるはずの、普遍的とも呼ぶべきテーマについて正面切ってとり上げた(そして筆者にとってはまさにそうした人生における一里塚的な作品だった)映画なのである。それは単に「よくできた作品」などと呼ぶよりは、ほとんど奇跡的な仕上がりとも呼ぶに値する、極わずかな作品のひとつだ。

芸術、分けても《すぐれた音楽》を題材とする映画作品の中で、コルノーの代表作《Tous les matins du monde》が群を抜いているとわれわれが感じるのは、その映画作品全体が、共感と共鳴に満ちているからだ。われわれが映画自体に共感するということは言わずもがな、なのだが、映画作品そのものからにじみ出てくる、製作に絡んだ人間たち相互に発生した共感について言っているのである。

『音楽のレッスン』を書いたシナリオ作家であるパスカル・キニャールの、(パレ・ロワイヤルに関わった人々のような)歴史的人物への共感。コルノー監督自身のキニャールのシナリオに対する深い理解と共鳴。作中人物(サント・コロンブなど)への全身で表現される俳優たちの経験した共感。そして何よりも、実在する音楽への演奏家(音楽監督)たちの共感。そして演奏された音楽へのわれわれの共感。それらが緊密に結びついて、映画全体を堅固な要塞のような完璧な作品に仕立て上げている。

それにしても、(繰り返すようだが)その結びつきの最も重要な要素は、何を差し置いても《音楽》自体である。これは抽象的な意味での「音楽」が主人公なのだと言いたいのではなく、マレン・マレやサント・コロンブといった実在の作曲家と、それを実際に音として再現する演奏家の紡ぎ出す「おとづれ」が、映画を鑑賞しているわれわれの元にやってきて、その音楽の「人生」を生きるという体験について言っているのである。

まさにこれらの具体的な音楽が、1992年というその時代において本格的に生き返り、今を生きる人間たちの血になる(栄養になる)ということが、映画という媒体を通して起こったのだということが重要だ。それは、また音楽のみの蘇りにとどまらない。17世紀に実際に起きた人間の精神活動が、音楽の復活とともに同時に再生され、われわれの生きる指針として機能し始めるということなのである。

こうしたすべてを可能にし、筆者の人生を何倍にも豊かなものにしてくれた、アラン・コルノーは死んだ。ひとつの作品を終えた直後の話だという。あたかもトリコロール三部作を残して間もなく急逝したキェシロフスキのように。映画製作というものが、かくも命を削って行うものだということが、このふたりの死に様からも伺える。自分の生命を賭けて行われる創作というものが、この世にあるということが、この少ない事例からも想像できる。心から、彼の創造を讃え、その死を悼む。