Archive for June, 2009

日本へ贈られた「佐藤優」という恩寵

Wednesday, June 10th, 2009

佐藤優『獄中記』(岩波現代文庫)を読む

(書きかけ)

獄中記表紙

自分の趣味を豊かにしたり世界観の補強をしたりできる、いわゆるタメになる本、あるいは読んでいる間は面白く感じるが、記憶に留まらない本、というのは数多いが、一生の内で本当に影響を受けて折に触れて思い出すだろう本というのは、そう数あるわけではないと思う。この本は、おそらく今後も折々に紐解かれるだろうし、これから読み進むことになるある「特定分野」の本へのアプローチの端緒という位置付けの本として何度も言及されることになるだろうと予期している。

読み終えて、この本に手を伸ばし購入して家に持ち帰った自分の幸運を喜んでいる。

著者の佐藤優(さとうまさる)は、今や週刊誌や新聞に連載を持つような売れっ子「作家」である。今でもそうなのかは分からぬが、肩書きは「起訴休職外務事務官(元主任分析官)」というらしい。「ノンキャリア」(専門職採用)であっても、ロシア駐在もした外務省の情報分析局におけるそれなりのエリートであり、まさに諜報エージェントとして辣腕を振るったことのある人物である。その能力をロシアとの関係正常化に大きく動いていた衆議院議員・鈴木宗男に「買われていた」わけである。

有罪判決を受けた外務官僚の一人であったという理由で、彼を評価の対象外に置こうとする人もいるかもしれない。鈴木宗男が政治家である以上、ロクなもんじゃないと正統に評価することを拒むのと同じ物差しを以て、判断停止をするのである。佐藤優がどんな肩書きや思想的背景を持っていても、結局はいわゆる「体制側の人間」であろうという一点で、肯定的評価を下すことは出来ないと言う人もいた。あるいは彼が政治的すぎるという理由で避けて通ろうとする人もいるに違いない。

自分が佐藤優という人について初めて関心を抱いたのは、彼がまさに検察に逮捕される直前のテレビ映像を通してであった。すでに鈴木宗男の逮捕は時間の問題だった。追い込まれていた彼らの映像のうち、記者にもみくちゃにされてどこかに向かう佐藤氏の姿が映ったとき(今の姿よりもずっとやせていたような記憶があるが)、その顔を見て瞬間的かつ直感的に感じたのは、この男は何らの疚しいことをしていないばかりか、嘘をつく人間には見えなかったことだ。もし彼が政治犯や思想犯としてではなく、「偽計業務妨害」という程度の低い刑事事件として起訴されたというのであれば、彼はおそらく「ハメられた」のであり、マスコミが彼のことを悪く書くのであれば、真相は全くその反対で、彼の未だ聞こえて来ない主張にこそ理があるのではないか、だがいずれその理が証されるのではないか、ということであった。

スタートからして彼に対してある種の共感(エンパシー)があったので、すでに自分は彼についての公平な判定者ではないのかもしれない。(だがそれがどうだというのだろう。)その当時周囲のやかましい声に掻き消されていたのだが、いよいよ東京拘置所から出て来た佐藤氏の「未だ聞こえて来ない主張」を、まさにゆっくり聴かせてもらう時がやって来たのだ。それがこの岩波現代文庫の『獄中記』だった。

チェコのプロテスタント神学者フロマートカ、20世紀最大のプロテスタント神学者カール・バルト、戦時下、治安維持法で特高によって捕まった和田洋一について言及される序文、獄(拘置所)に入ってからすぐに始まる精力的な読書と執筆活動。ヘーゲルとの本格対峙。

学問を志していた神学生が、フロマートカ等のチェコの神学の研究を続けようとして外務省に行くが、そこでロシア担当となって、逮捕起訴されると言う前段のキャリアの端緒を作る。

国家が国策としてポスト冷戦後の外交政策の転換のために排除される道具としての政治家、そして官僚。

だが、「運の悪さ」から逮捕、起訴されて、東京拘置所に512日に渡って拘留される。だがその不条理を彼は「理解」し、受け入れ、そうした陥穽に至った自分という人間の有り様について、深く省察する。

結局、国家権力は、佐藤氏をつまらない犯罪者として裁くことで国策の向かう方向へと国を動かしているつもりで、行なったのは「佐藤優」という手強い論客と思想的作家をひとりこしらえただけだったのだ。反知性的な空気が充満するこのところの日本において、佐藤優を世に送り出したのは、国家のなし得た快挙である。(宗教臭くなるが)ここには世界に神の関与の余地があることに思いを致す何かがあるようにさえ感じるのだ(考えてみれば、佐藤氏自身はプロテスタントのクリスチャンなのだ)。

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参考拙論:米追従外交 vs. 非米多元化外交という対立軸で解明できる鈴木宗男事件

Also Sprach Tatsurustra! 2007-08-30