Archive for January, 2007

続『これ以上、働けますか?』

Thursday, January 11th, 2007

再び新しいネット新聞記事を引用:

<同友会代表幹事>「日本版制度」、次期国会で法案成立を

(毎日新聞 - 01月10日 18:40)

 経済同友会の北城恪太郎代表幹事は10日の記者会見で、厚生労働省の労働政策審議会(厚労相の諮問機関)が報告に盛り込んだ、一定の条件を満たすホワイトカラーの会社員を労働時間規制の対象から外す「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」について「『残業代を支払わないための制度ではないか』という誤解がある。議論を通じて誤解を解くことが大切。国民の理解を得た上で早期に導入してほしい」と述べ、次期通常国会での法案成立を求めた。

 また、労働組合などが「残業代をなくすための制度だ」と主張していることについては「成果を上げても上げなくても勤務時間で給料を払ってほしいという人たちの主張だと思う。日本が今後、知的社会を作ろうとするなら、勤務時間より仕事の内容が重要で、そのために有効な制度にしてほしい」と異を唱えた。

 また、基準外賃金の割増率を増やそうとの動きに関しては「長時間労働は好ましくないとの発想で制度を作るべきで、割増率を引き上げれば(長時間労働が)減るだろうということではない」と批判した。【斉藤信宏】

(引用終わり)

ホワイトカラー・エグゼンプションが給与所得者だけに関係があると思っている方がいたら、こう言いたい。

自分の創作活動が理解あるパートナーの給与所得(稼ぎ)によってサポートされているケース、給与所得を自分自身の創作活動を支えるための当座の手段としているセルフ・スポンサーのケース、創作活動を支持してくれる方々(お客様)が給与所得によって生活しているケース、そうしたケースに当てはまるすべての人々に関係がある、と。

そもそもわれわれの「文化」が、良くも悪くもこうした給与所得者によってその大部分がサポートされている以上、これら「いわゆる文化活動」が、ほかでもない文化を支える大多数の人々の生活を成立せしめる《給与所得》と無関係であろう筈がない。こう言って良ければ、お金を払って創作活動を支持して下さる方々をわれわれが相手にしているのであれば、その支持者の方々の生活が何によって成立しているのかということに無関心でいていい筈がないのだ。

私はそれを「余暇」とは呼びたくない。だが、便宜的にそのように呼ぶとして、給与所得者がこれ以上に忙しくなり、雇用者がこれらの人々を何の制限もなく(タダで)使用できるというような状態、すでにサービス残業は当たり前と言われ、「支払われない労働」によって成り立っている「仕事の現場」が、そのまま現状維持ないし悪化した状態に放置されるとしたら、こうした「余暇」も「余暇資金」も失ったひとびとは、われわれの「文化活動」を支持し続ける余裕(時間と金)を持ち続けるのだろうか?

このありきたりな論理を笑止と言うならば、むしろその想像力に問題があるのだ。芸と術の領域における《すべて》が相互に繋がっていると言うのなら、われわれの創作や伝統や文化の、経済活動との緊密な繋がりにまで思いを致すことができて当然であろう。現代社会において、創作活動は一部の貴族(ないし貴族的な人々)によってばかり成り立たされているわけではないのだ。

アメリカ国内には被雇用者の貧困な働き方を是として顧みない使用者がゴマンといる。そしてそれ以外に働き方のオプションを見出せない人々は実質的に奴隷の生活を強いられている(一生で使いきれないような金を稼ぎながらも)。この「奴隷」の生活はまさに国境を越えて、さらに日本に輸入されようとしている。

むろん、「給与所得者だけにしか関係がない」などという挑戦的言説を私に向かって吐いて来た人がいてこのようなことを書いているわけではない。

あくまでも、念のため、に書いているのだ。

問題は、こうした露骨な政治経済的な話題について意見そのものを持つことに対して、「思考と発言の自主規制」を行ってだんまりを決め込み、語り合いもしないということなのだ。このトレンドはまさにオーウェルが「1984」で描いた世界のようだ。こうした「サイレント・マジョリティ」の立場に甘んじる諸人生に、助け助けられ、という相互扶助的な人間らしい関係の構築は可能なのだろうか?

『これ以上、働けますか?』は、岩波ブックレットの1冊のタイトル。

意見を放つ前に一読を…

『これ以上、働けますか?』

Tuesday, January 9th, 2007

以下は、ネット上新聞からの引用。

残業代ゼロ制、国民理解へ努力を=中川自民幹事長が柳沢厚労相に注文

(時事通信社?-?01月09日 19:10)

 自民党の中川秀直幹事長は9日夕、党本部で柳沢伯夫厚生労働相と会い、ホワイトカラーの一部を残業代の支払い対象から外す新制度「ホワイトカラー・エグゼンプション」について「まだ十分理解されていない。国民が理解できるよう努力してほしい」と述べ、国民への説明を尽くすよう求めた。厚労相は「努力する。もう少し時間をいただきたい」と応じた。

 中川氏は、同制度について通常国会への関連法案提出に慎重な姿勢を示している。 

[時事通信社]

法案提出の考え強調=残業代ゼロ制で柳沢厚労相

(時事通信社?-?01月09日 13:10)

 柳沢伯夫厚生労働相は9日の閣議後記者会見で、ホワイトカラーの一部を残業代の支払い対象から外す新制度「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」について「懸念を十分払しょくするような法律的組み立てを固め、いいものをつくっていく」と述べ、25日から始まる通常国会に法案を提出する考えを重ねて強調した。

 同制度をめぐっては、野党ばかりでなく与党内からも「賃金抑制や長時間労働を正当化する危険性をはらんでいる」(丹羽雄哉自民総務会長)などと否定的な発言が続いている。 

[時事通信社]

「残業代ゼロ制」法案提出前に理解必要…自民幹事長

(読売新聞?-?01月09日 19:41)

 自民党の中川幹事長は9日、党本部で柳沢厚生労働相と会い、一部の事務職を労働時間規制から外し、残業代をゼロにする「日本版ホワイトカラーエグゼンプション」制について「国民が制度を理解できるよう(政府として)努力してほしい」と述べ、法案提出の環境を整備するよう要請した。

 柳沢氏は「理解してもらえるよう努力する」と応じた。

 厚労省は通常国会に関連法案を提出する方針だが、自民党の片山参院幹事長が9日の記者会見で「今すぐ導入するのは急ぎ過ぎ」と語るなど、参院選への影響を懸念する与党内で慎重論が強まっている。

(以上引用終わり)

さて…

… 日本では、「管理職には残業(代)がつかない」が企業社会の常識。この「常識」は企業組織における《管理職》と労基法の《管理監督者》を同一視するもの。これは大きな間違い。にもかかわらず、旧労働省(現在の厚労省)が企業の間違った扱いを放置して来たため常識になってしまった…

[p. 4-5]

長時間労働に歯止めをかけ、実効ある労働時間短縮策こそが求められているにもかかわらず、厚労省はこれをやろうとしないばかりか、逆に現行の管理監督者の外に、新たに適用除外者(ホワイトカラー・エグゼンプション)を拡大しようとしている…

[p. 5]

日本は、今問題のホワイトカラー・エグゼンプションに限らず、アメリカをモデルとしてさまざまな規制緩和と構造改革を進めてきた… 90年代の日本経済の再生戦略自体が、アメリカをモデルにしたものだった… 1999年11月に発表された小渕内閣の、経済戦略会議による文書「日本経済再生への戦略」に非常に明確に表現されている… 90年代のアメリカに着いて、80年代に混乱に陥ったけれど小さな政府の実現と抜本的な規制緩和を柱とする新自由主義政策によって見事に蘇生を遂げたと前置きした上で、日本も「従来の過度に公平や平等を重視する社会」を、「効率と公正」を重視したアメリカ型の市場個人主義の社会に変えていかなくてはいけない、と主張している…

[p. 19]

アメリカには労働時間規制は存在しない… ただし、週40時間を超える労働については、通常の賃金の1.5倍以上の割増料金を払わなければならない… 言い換えれば、40時間について最低賃金以上の賃金を払い、40時間を超える労働について40時間までの時間賃金の1.5倍以上の割り増し賃金を払えば、たとえ週100時間以上働かせても、労働法上、何の問題もないというのがアメリカの労働時間制度…

[p. 21]

念が入ったことに、アメリカには、週40時間を超える場合に企業に課せられる残業代の支払い義務についても、ホワイトカラーの一定範囲については免除しましょう、という制度がある… 賃金が労働時間に関係なく契約で決まる年俸労働者を考えればわかるように、この免除(適用除外)制度の対象者になると、残業の概念自体がなくなり、いくら長時間働いても、残業代が支払われなくなってしまう… これがホワイトカラー・エグゼンプション制度…

[p. 21]

ホワイトカラーは、「「考えること」が重要な仕事であり、職場にいる時間だけ仕事をしているわけではない」「「労働時間」と「非労働時間」の区別が曖昧である」、「仕事の成果と労働時間の長さが必ずしも合致しない」」….

「ホワイトカラーは考えることも重要な仕事」と言うが、ブルーカラーである工場のラインワーカーは生産について考えないとでも言うのか? ブルーカラーも、生産工程の改善や品質の向上に取り組まなければならず、QCサークルの例を挙げるまでもなく、仕事のことをしょっちゅう考えている… そう考えると、ホワイトカラーの仕事の特徴のように言われていることの多くは、実は一般労働者の特徴である… 工場労働と事務労働の間に本質的な違いはない。どちらも長時間の残業があるのは、企業が法定労働時間を守ろうとしないから… 

そもそもホワイトカラーとは誰のことなのか。その点についても経団連の「提言」は一度もキチンと定義をしていない… あるところでは「高度な知識労働者」と書いてあり、あるところでは「年収400万円以上の労働者」がホワイトカラーを指していて、事務・販売の一般労働者もホワイトカラーとして扱われるということになっている…

[p. 23-24]

労働時間の規制を外すことによって「より自由で弾力的に働くこと」になり、それにより「自らの能力を十分に発揮できると納得する場合に、労働時間規制にかかわらず、働くことができることを選択することができる」のが、ホワイトカラー・エグゼンプションの制度らしい。

(だが)労働時間の規制を外すことは労働をますます不自由で非弾力的にするものである… 逆に「より自由で弾力的に働くこと」は、現行の労働基準法のもとでも法定労働時間を守る、週休二日を確保する、年休二十日をめいっぱい取得する、フレックスタイムを活用するなどでいくらでも可能… 

[p. 27]

1週40時間、1日8時間という法定労働時間は、しばしば最低労働時間と誤解されているが、正しくは「使用者が労働者に命じることのできる最長労働時間」のことであって、これより労働時間を短くすることに何ら妨げるものはない… 「より自由で弾力的に働くこと」は現行の労働基準法でも、企業が受け入れさえすれば十分に可能…

[p. 27]

「新しい自立的労働時間制度」の議論で最大の問題の一つは、労働時間制度を変えたいと要求しているのがあたかも労働者の側であるかのように言っていること。しかし、実はそうではなくて、この制度の導入は財界側の要請、企業側の要請で言われ出したことだ。企業側が、労働者をもっと働かせたいと考え、そのためには今の上限規制が邪魔になるから外したい、というのが本当のところ。

[p. 27-28]

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以上は、『これ以上、働けますか?──労働時間規制撤廃を考える』森岡孝二、川人博、鴨田哲郎(岩波ブックレットNo. 690)からの引用。これを読んだだけでも、現在進んでいる労働規制緩和というのは実に危うい、われわれ日本人をこれ以上過酷な労働状況に投げ入れるための明確なひとつの布石だということがよく分かる。ボクがこういう言い方をすると、またゾロ、コミュニスト的な言説を!と牽制球を投げられそうだが、そんな単純なものでもない。

すでに青色申告をしているような立派な独立事業者(フリーランス)、「ホワイトカラー」に分類されない過酷な労働に従事して久しい友人たち、そして研究職やクリエーティブの生活を選んでいる知人の方々、からすれば、「何を今更!へっ、甘えるなっ!」てなものかもしれないが、すでに規制の対象外にある労働領域が存在するということが理由で、規制撤廃の範囲拡大をほかでもない労働者自身が歓迎するというのは筋違いだろう。すでにその規制の対象にない状態で働かなければならない多くの人々の状況こそがおかしいのであって、おかしい方向へ足並みを揃えることがわれわれの生活改善への道とは考えにくい。

自分たちの人間らしい生活の保持のために闘って来たはずの左派活動家たち自身が、少ない仕事のおこぼれを貰い、もっとも過酷な労働条件を呑んでしまって労働時間規制撤廃を叫ぶどころか、自発的に撤廃してしまっているような状態… やれやれだ。

ニュースでは中川秀直幹事長が柳沢伯夫厚生労働相に対してこの新制度が「まだ十分理解されていない。国民が理解できるよう努力してほしい」と言い、国民への説明を尽くすよう求めた、とのことだが、われわれはこのことを「十分に理解」するつもりなのだろうか? おそらく実質的には「十分に理解」することもなく、恭順の意だけを表すことになるのだろう、国民は。企業は今、金を持っているんだぞ。景気の上向きに乗って、溜めるだけ溜めているのにもかかわらず、給与としては出し渋っている。そして金余りでじゃぶじゃぶしている。

だが、企業や国に良い理解を示すことにやっきになっている恭順なわれわれは、さらに「企業が体力を付ける(日本の経済再生)」ことのために、もっと長くタダで働こうとしているのだ。よろこんで。