Archive for March, 2009

読書録:J・H・ブルック著『科学と宗教』

Thursday, March 12th, 2009

読書録:J・H・ブルック著『科学と宗教〜合理的自然観のパラドックス』田中靖夫訳(工作舎)を読む。

Brooke book cover

慧眼な読者は別のことにも気づかれることだろう。ビュフォンの連続する七つの年代と創世記の連続する七日との驚くべきアナロジー。反神学的でありながら、ビュフォンの視点には宗教思想の残映が認められる。彼の批判は科学と宗教が通約不能であるとする点で正鵠を突いていたが、相同性を利用したのはビュフォンの方なのである。

これは、何となく面白いと思ったので(と、言うより、今に重要な意味合いをもつことになりそうな根拠無き直感を得たので)引用しておいた。別段、ここでこの記述について論じようなどというわけではない。

さて、前回取り上げた『中世の覚醒』が12世紀以降の2,3百年の間に生じたアリストテレス哲学の自然観とキリスト教の宗教観の間の緊張感を描いた労作だとしたら、これは、科学と宗教が互いに対立・否定し合って発展したのではなくて、実はそれぞれが「互恵的」な関係の中で、つまり「たがいに助け合って発展した」のだという、一見驚くべき西欧の精神史をさらに長いスパンで追いかけた書物であると言えるだろう。

文章自体は訳文の若干の癖に加えて、内容の難しさも相まってなかなか頭に入って来ないところがあって読み進むのが難しかったが、『中世の覚醒』を読んだ頭で読んでいるので、科学と「人間の組織としての宗教」が互恵的であったということが、多くの証拠に基づいて論証されたのはよく分かった。内容的には実に価値が高いのだ。

こういう比較は得てして意味をなさないものと知りつつ言うなら、こうした歴史についての論述に対して、単なる興味以上の意味を見出そうとして取り上げるなら『中世の覚醒』は、非常にお薦めなのである。ひとつは、中世の覚醒の著者が、現代社会の問題なども考える思想家/活動家であるために行間に滲み出て来るうったえがある点で、こうした考察が現代社会の在り方を考える契機になるというのがよく伝わって来るからである。一方、この『科学と宗教』の方は、純粋に学術的なもので、ある種の学術的論争に対する備えとして厳密な議論を目指したという感じがある。

だが、こうした比較はやはりナンセンスであって、互いに持たないものを備えている点で、やはり「互恵的」なものなのである。

ニュートンに関する記述:

ケンブリッジ時代のある危機的な時期、彼は聖職の管理者から命じられた道義的な要求を甘受しなければならなかった。トリニティのフェローの地位を維持するためには、慣例に従い、聖職に就くより他になかったのである。それは国教会の定める三九か条に宣誓することを意味したが、彼の良心はそれを許さなかった。キリストが神聖を持ち、父とともに永遠であるという教義をすでに拒否していたからだ。(page 152「機械論的な宇宙における神の活動」より)

この苦悩というのは今を生きるわれわれの苦悩に似ている。

空間は、すべてを知って感じとる神、その下僕が叛くときを知っている神、彼自身が教会で林檎をつまみ食いしたり、安息日にネズミ捕りをこしらえたり、ケンブリッジ時代のルームメートにシラミのことで嘘をついたりしたこと、そのすべてを知っている神で満ちている、とニュートンは考えた。神の存在に関する強迫的な感覚は、彼が遺児であったことに由来すると心理学的には分析されてきた。俗界の父親を知らずに育った彼は、あらゆる絶対性が賦与された代替物を天上に見つけた、というのである。(page 153「機械論的な宇宙における神の活動」より)

ニュートンが遺児であったことは、初めて耳目にすることであった。基本的に自分は心理分析というものに信頼を置かないが、この記述にはある個人的な理由で関心を抱かざるを得ない。備忘録としてここに書く。

フランスの後世の世俗学者からすれば、ニュートンの宗教心は、要するに病気とされた。今日でも、古典力学の基礎を築いたほどの人物が、聖書の預言や宗教的な錬金術に凝っていたことは驚きの的になっている。歴史研究においても、特異体質でないとすれば前時代的としか言いようのない偏見を彼が持っていたのは事実である。例えば、異教の文明がユダヤ文明に先行したなどとは到底考えたくなかった彼は、ギリシア、ラテン、エジプト、ペルシアの年代記作者たちが「その初代の王たちを事実よりも少し古めかしている」と論じた。しかし、ニュートンは支離滅裂だったわけではない。彼の科学の特徴とされる合理主義は、聖書研究において欠如したどころか十分に発揮された。自然を解釈する規則を設定したのと同じ精神で聖書を正しく解釈しようとしたのである。崇高なる自負を持っていた彼は、確実な真理に到達することにより、自然哲学と聖書解釈の双方において、議論の余地をなくそうとした。(page 166「機械論的な宇宙における神の活動」より)

一八世紀はじめのイングランドにおける政治状況は、フランスと対照的(ママ)である。1689年の寛容令のもとで、国教会の三十九信仰箇条への署名などの条件を満たしさえすれば非国教徒にも宗教の自由を保証したからである。それでも不満の余地がなかったわけではない。非国教徒は宣誓令と地方自治体法によって教職に就くことが禁じられていた点で依然差別されていた。さらに急進的な非国教徒であるソッツィーニ教徒(キリストの神性を否定する)などは、良心ゆえに三九信仰箇条に署名できなかった。また、反プロテスタント勢力まで寛容政策を広げるのは、ローマ・カトリック教徒や無心論者をのさばらせるとして忌避された。(page 185「啓蒙時代の科学と宗教」より)

この「三九信仰箇条」について現在ネットで内容が読める。

英国国教会・三十九信仰箇条

英国国教会公式サイトに掲げられる「三十九信仰箇条:Thirty-Nine Articles of Faith」

他ならぬローマ・カトリックに対抗する英国国教会の宣誓文が「39か条」であったことについては、その象徴的な意味合いに思いを馳せないでいることはできない。

チャールズ・ダーウィンは、自らの生命観には壮大さがあると宣言して『種の起原』(1859)を締め括った。生命の力がいくつか、あるいはたったひとつの形態に「吹き込まれた」単純な始まりから、この上なく美しく、驚くべき生命体が進化してきたと。旧約聖書の喩えを用いたことや、「創造主によって物質に刻印された法則」に言及したことから、彼の結論に聖書風の宗教さながらの意義や価値観を読み取ることは可能である。彼の私信によると、そんなつもりはなかったらしい。植物学者のJ・D・フッカーに打ち明けたところでは、「何らかの道のプロセスによって出現した」ことの表現として、想像に関する聖書の言い回しを使って一般大衆に媚びたことをずっと後悔していたという。(page 300「進化論と宗教的信念」より)

読書録:チャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒〜アリストテレスの再発見から知の革命へ』

Sunday, March 8th, 2009

中世の覚醒画像

昨年末からずっと追いかけているヨーロッパ中世史。サブジェクト次第で、該当時代のレンジが変わってしまう「中世」という言い方もそうとう曖昧だが、いわゆるキリスト教発祥の前後辺りから、例の「12世紀ルネサンス」までの間の精神史にはまっている、と言い換えられる。

この神話は多くの文化に共通するもので、ある特定の文明は他の文明から何一つ借用したり押しつけられたりしてはおらず、独自の源泉から独自に発展したという観念である。「われわれの」文化は正真正銘自前のものだが、「彼らの」文化は派生ないし模倣したものに過ぎないと──その国籍にかかわらず──偏狭な愛国者は主張する。他のあらゆる伝統的文化に対する西欧文化の優越を確立したいと望むものたちにとって、ヨーロッパが初めて経験した知的革命の物語は、当惑を禁じ得ないものなのだ。(page 24)

現下の厳しい世の中の状況は、毎日の生活の中で相当メンタルな疲労を強いるものだが、この歴史世界に遊んでいる間は、知的興奮で一時苦痛を忘れる。現実逃避が目的ではないが、結果的に「逃避」できている。余りにも長く続くストレスに、われわれは耐えることができないのだ。それくらいの息抜きは許されるだろう。

読む片先から忘れて行く自分の記憶だが、忘れぬうちにメモを取っておく。

リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒〜アリストテレスの再発見から知の革命へ』小沢千重子訳(紀伊国屋書店)☆☆☆☆☆

1000年近くも西ヨーロッパから姿を消していたアリストテレスの著作を、アラビア語翻訳を通して出会ってしまった「キリスト教化されたヨーロッパ」が再び出逢う。このときに生じるキリスト教神学と(先を行っていた)古代ギリシアの哲学との間の緊張。

長いイスラム教支配から脱したばかりの12世紀のスペインに於いて発見された、古代の著作との西欧人たちの出会いを、ルーベンスタインはアーサー・クラーク=S・キューブリックの『2001年宇宙の旅』における、20世紀末の科学者たちの巨大黒石板(モノリス)との出会いの衝撃のようなものだったという比喩を用いて説明する。この喩えの的確さは、あたかも月面下に埋められていたモノリスが、然るべき時(人類のような存在の出現)が来たら、然るべき知的存在によって発見されることを意図して用意された、知的生命体による「便宜」であったかのごとく、然るべき成熟を果たそうとしていた西欧世界のさらなる知的暴走の起爆剤として働く点で、注目すべきである。

あまりの面白さに2度立て続けに読んでしまった。

われわれは、ピエール・アベラールの名前とその破天荒な行状を知り、その敵対者(クレルヴォーの)ベルナールとの闘争の話を聞いた。また修道士アンリの大胆な行動や、そもそも異端的で教会の腐敗に批判的であった、伝説も多い、かのアッシジの聖フランチェスコが、後にカトリックの中枢に人材を送り込み、多大な影響を与えることになるフランチェスコ会の「宗祖」そのひとであったという事実に驚き、そしてロジャー・ベーコンやトマス・アクィナスの名前に親しみ、オッカムの吐いたと言われる(あの)金言を牽き、マイスター・エックハルトの死を賭した弁明に心を動かされる。

だが、これらの出来事はすべて、「コペルニクスの著作がローマ・カトリック教会の禁書目録に載せられ、ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられ、ガリレイが異端審問官に迫害され」る時代の前に起きたこと(つまり、ほとんどが13-14世紀の出来事)であり、そしてそれはとりもなおさず、キリスト教の神学に関わるきわめて「狭い世間」の話でもあった。それにしても、ヨーロッパの中世を「暗黒の中世」と評することの、何と一面的で紋切り型な認識だろう。いわゆる《ルネサンス》やその後の産業革命などを引き起こす以前の西ヨーロッパとは、すでに水面下ではそう言った一切の準備を、激しく知的操作を行ないながら準備していたのだ。

もう一つ忘れてはならないのは、結局、われわれの知るヨーロッパ中世の知的巨人と目される著名人たちは、ほぼすべて真性のキリスト教徒であって(異端と名指しされたとしても)、もっと正確に言えば、キリスト教会の紛うこと無きインサイダーであって、つまりは神学者だった。彼らの知的好奇心は極めて高かったので、手に入れた古代ギリシアの哲学を無視することは出来ない。結果的に、彼らは自分たちのキリスト教的世界観と、1000年近い時間を経て再発見された知的財産の間の、見かけ上の差異や矛盾にどう対峙し、如何にしてそれを「解決」し、つじつまを合わせるのか、ということを真剣に考え、論じるようになる。そこでは「神学論争史」とも呼ぶべき、膨大な精神的闘争の連鎖が欧州で起こる。

カタリ派なるキリスト教異端派が、南仏辺りで勢力を増した時期に、ドミニコ会などが力を付けたのも、改革への反動であったのみならず、知識や弁論によってイデオロギー上の論争を勝ち伸びなければならなかったカトリック側の生き残りを賭けた真剣勝負の一端だった。こうした文脈の中で、カタリ派を外から捉えた視点でものを観てみるのも興味深い(そもそもカタリ派へのシンパである自分は、カタリ派を迫害する側のカトリックの理屈というものに後からアクセスしたのであった)。