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恨まれている日本

Tuesday, September 10th, 2013

[2012年10月8日に書いた文章をこの時期に再掲]

人を殺した者は、仮に罰せられて法的にはすでに裁かれて「務め」を果たしたとしたら二度裁かれない(一事不再理)。だが、それは手続き的に裁きが完了しただけの話であって、加害者が生き続けている限り、殺された人自身やその親類や友人たちはその殺人者を許さないかもしれない。その気持ちを恨みという。これは死刑制度の是非とは関係のない話として。

 

ひるがえって国家はひとそのものではないが、人としての人格を背負わされている。国家が戦争によって他の民族の財産を奪い、また人々の生活を蹂躙し生命を奪った場合、戦争そのものが国家間で決着して「裁き」が形式上終わっていたとしても、殺された同族たちの恨みは簡単には消えない。戦争によって縁者が殺されている場合、その恨みの感情は3世代くらいの世代交代では消えてなくならない。自分の親が実際に殺されていたり、そうでなくても親のまた親が戦争で酷い目に遭っていれば、その記憶は孫の世代に語り継がれていても全く不思議はない。それどころか、教育によって組織的にその記憶を語り伝えようとするのが当然であろう。その記憶は、自分にたまたま酷い仕打ちをした一兵卒への恨みではなく、その兵隊の背負っている国旗、すなわり国家に対する記憶となる。自分の親族が殺害の被害者側であった場合を想像してみれば分かるだろう。

 

中国本土や朝鮮半島での国家的・組織的な犯罪(それはほとんどが「法的」におこなわれた)が行なわれたことをまったく一顧だにせず、戦争末期や戦後に大陸や朝鮮半島から命からがら逃げて日本に戻ってきたような歴史を持つ家族が、いまだに中国人や朝鮮人についての恨みを語るのを聞いたことがあるが、どうして自分たち同族がはるばる海を越えて大陸や半島に行っていたのかという事実については省みず、自分たちが恨みを持たれたからそのような仕打ちを受けたという因果の構造を理解することもなく、ただ自分たちが受けた仕打ちについてだけ語る。だが、これは逆恨みというものである。

 

今の日本人は、「一体どんだけ謝罪すれば良いのか?」と過去について何もなかったように振る舞い、あろうことか自分たちは彼らの文化的・技術的な生活向上に寄与したのだとさえ主張する者がいて、その様はまるで居直っているとしか言いようがない。我々は自分たちの国家がかつて犯罪の加害者であったことを都合良く忘れている。我々はどれだけ自分たちをだますことができても、被害者の持っている恨みを消すことはできない。仮にその恨みの一部が不当なものや錯誤があったとしても、「恨まれている」という事実が存在していることは自覚した方が良い。

 

それは、今後国家間の争いさえも辞さないと勇ましいことを言うような連中の無謀な行動によって、実力行使するような事態が起こり、その果てに勝敗が決まって運悪く負けた場合にどうなるか? われわれは歴史的な恨みの立派な対象であるから、彼らがかつてされたような同じような仕打ち(あるいはされたと信じていること)を受ける可能性が高いということを理解した方が良い。われわれが日本人であるという事実を甘んじて背負い続ける限り、日本人であるという理由だけでその仕打ちを受けるのだ。それが、ある国家の構成員であるということの意味だ。

 

一度負けた国民は、別の争いで勝った場合、負かした連中に対してその積もる恨みを晴らすということは、歴史の常として行なうものなのだ。どうしてロシアは敗戦色が明らかになった戦争末期の日本に対して、日露不可侵条約(日ソ中立条約)を破って戦争を仕掛けたのか?と問うものがいるが、そんな質問は愚問だ。それは日本が日露戦争でロシアに煮え湯を飲ませていて、手続き上は戦争が終わっていたが、彼らの中では日本に対する闘いは終わっていなかったというだけの話だ。だから北方四島どころか北海道だって奪いたいというのが一部の本音だろう。

 

つまり、大陸や朝鮮半島に住む多くの人々が、日本に対して恨みを持っている限り、そしてその恨みを健全に解消しない限りは、来るべき争いの後には、その恨みを晴らすという「人として」当たり前の行動を行なう可能性があるということなのだ。

 

日本人にもいろいろ言い分はあろうが、国家として過去の歴史を相続している限り、我々は自分たちの先祖の世代でやった行いを「知らない」では済まされないのだ。もちろん知らないでいることはできるだろうが、その場合、歴史的因果で捉えずに、自分たちに降り掛かる事態を「不条理である」と思って死ぬだけの話だ。そして、その恨みを一方的言い分によって自分たちの子孫に相続させるのだ。

 

ところで、国家として過去の歴史を相続しないという選択肢はある。それはこの国家自体を一度自分たちで否定し解体して、新しい国家を作った場合だけ、である。つまり自浄作用を自分たちが選び取って、過去の戦争を起こした者どもを自分たちできちんと裁いた場合だけだ(ドイツはそれを行なった。また、国家分断という物理的な裁きを受けた)。

 

しかし日本は自分たちを直接実力で負かしたアメリカとだけ単独講和を結んだ(アメリカに対してだけ負けを認めた)ことによって、かつて戦争をしたすべての関係者たちとの清算を行なわず、都合よく占領者の「虎の威を借る」手法をとり、周囲を手続き上黙らせただけ、という選択を採った。要するに、恨みの解消や自分たちが生まれ変わって全く新しい国家を建設するチャンスをみすみす逃した。そればかりか、戦争犯罪者として裁かれたはずの戦争責任者まで合祀した(天皇さえも参拝しない神社である)靖国神社に平気で参拝する。これは、恨んでいる者からすれば完全な挑発的行為であり、彼らの目には「日本人は反省する気はない」「過去を悪く思っていない」という態度表明として映る。当然である。靖国神社は、戦争によって亡くなった兵隊や一般人の追悼をする公的施設ではなく、大日本帝国の戦争を美化する装置だからだ。

 

その日本が「何度謝罪しなければ気が済まないのか?」と言ったって、誰からも納得したと言って貰えなくても仕方がないのだ。つまり、恨みは着実に海の向こうで相続され、また犯罪加害者の言い分だけが、海のこちら側では相続され、何も変わることはない。

 

こうした愚かさの果てに起こることについて、私はありありと未来に繰り返される悲劇が想像される。想像力の欠如した者だけが勇ましいことだけを語る。

 

 

 

“親方日の丸”の手足がもがれる日

Wednesday, September 21st, 1994

「国が真に民主主義的だったことなど一度もない。そして暴力団は日本が日本という国家たるために必要なガバメントの手足だった」などと、まともに私の父の世代のいる前で口走れば、何と言われるだろう。

日本の場合、「政府」がもちろん必要ではあったが、政府が民主的に世の中を収めきるというような事は「体力・知力・時の運」が一度と許さなかったのだ。しかし(誰かが)日本を日本として独立した国家たらしめなければならなかった以上、(その誰かが)国家にとって大事な決定を現実のものにするためには暴力に訴えねばならなかった。(まあ、日本に限らず、国家ってやつは暴力組織だからね。)おそらく日本が日本という一国家として認められた時点で、日本の政治は全て陰謀と世論コントロールによって行われることとなったのだ。

日本の場合、国家的な決定を「実行」へ持っていくのにヤクザが使われた。ヤクザは恐い。彼らは人を殺したり脅迫したりすることを何とも思っていない。力でもって人をおびやかし、恐怖をもって人を動かすのは取りあえず暴力団の仕事だったからだ。新宿に新都庁が建てられたのもヤクザの暗躍なしにはあり得なかっただろう。もちろん東京都とヤクザが見て判るような直接つながりを持っていたわけでもないだろう。(全部憶測だが。)見る人が見ればそれは明らかだったのだろうが、そのようなことは映画やテレビドラマにはなってもニュースや新聞には出てこない。新都庁を建てるのにどれだけの人が泣いて、死んでいったのかと言うようなことは、公的に語られるようなことではなかったからだ。

成田空港建設であのように政府によるコントロールが効かなかったのは、初めからヤクザに頼るというエッセンシャルな選択を、当時政府が執らなかったからかもしれない(あるいは執れなくても執れない事情があったのかもしれない)。そのかわり、農民の側に左翼という反対運動をやる別のヤクザが付いた。政府に言わせればこうした左翼運動家こそが国の将来を危ぶむ「暴力団」に他ならないのだろうが。

時間は過ぎていく。(Life goes on.)政府が国家を中心に据えた政治や行政を現実のものにするためには、どのみち暴力に訴えるしかない。日本の場合はヤクザが伝統的にその道を任されていた。おそらく、歴史を振り返ればそうした組織暴力団と国家とのギブ・アンド・テイクの関係は江戸時代ぐらいまで遡れるのだろう。いずれにせよ双方の生き残りのためには互いが互いを必要としていたに相違ない。

国家が国家らしく「国体」を満喫するためには、暴力が必要だったことは明らかだが、アメリカ合州国のようなケースはどうなのだろう。アメリカにも組織暴力団はいた。しかし、それがあまりにも力を持って国家の方針を脅かすようになった時点で、それは徹底的に排除された。今でも州や都市のレベルではマフィアと政治が結びついている部分があるのだろうが、少なくとも連邦政府はそれを「悪しきこと」と歴史のある時点で判断したのだ(おそらく、30年代の禁酒法時代の頃だろうが)。合州国は国をコントロールする方法として、国内のヤクザと「ツーカー」の関係になるよりは連邦政府自体がヤクザになる(ヤクザ組織を持つ)事を選んだ!のだ。

CIAやペンタゴンがそれであろう。CIAは必要とあれば、国家が「計画的将来像」からの逸脱を招くような政治家を政府内に見つければ、殺すことが出来る(ほんとか?)。直接殺すのはプロの殺し屋かもしれないが、殺してもよい、あるいは殺した方がよい、と最終的に意思決定することが政府の情報収集機関であるCIAには出来る。一方、ペンタゴンがヤクザであるという言い方には語弊があるかもしれないが、軍隊が国家的(また国家が保障する)暴力組織であり、自らの生き残りを考えるのが必然である以上、当然、時の政府とさえ諍いを起こすし、都合の悪い人間は殺すなり、スキャンダルを捏造するなりして社会的に抹殺することは出来る。しかもおそらく「合法的に」。しかし、いかなる暴力自体、国が『近代国家』としてサバイブするために必要な力として広く認められている(もちろん善良なる市民はそのようなおぞましい存在は映画の中だけのこと、と信じていればよい)。

さて、それでは日本からヤクザがいなくなるということは、一体何を意味するのだろう。それはある巨人が歩いたり、叩いたり、獣を捕ったりする手足をもがれることと同じ事である。アメリカから国防総省(ペンタゴン)やCIAを奪ったらアメリカがアメリカとして存続できるだろうか。出来ないことは誰でも知っている。日本でもそれは同じ事である。ヤクザが日本の秩序の一部を力で保持していた以上、日本から彼らがいなくなることは、日本が丸腰になるということを意味する。ヤクザこそが、日本の閉じた箱庭のような空間を平和に収める役割を担ってきたのにだ。

ここ数年聞く暴力団に対する封じ込め作戦は、当然日本からそうした規制緩和を取り除こうと画策している「外国」の圧力によって起こされているものに違いない。建設業界の談合事件や収賄事件などがここ数年大きく取り上げられているのも、外国の建設会社参入を望んでいるどこぞの国の圧力によるはずである。(ああした談合・贈収賄は、日本国内でもう数百年続いているのに、ここへ来て突然ダメだというのだ。)

国家ばかりか、純粋に民間のレベルでもそうした暴力組織を必要としていた。いや、常にこうした暴力は政府が直接と言うよりは、民間の企業が仲立ちになって利用されていたのだ。しかし、このたび長いこと必要だった暴力団が、国を挙げての「おまえはもう要らない」と言った三行半を突きつけられたのだ。もちろん、生き残る必要がある彼らは怒る。

「非合法活動」が専門で、わけても元々「暴力」が彼らの得意とする仕事であったわけだから、彼らにとって暴力をもって生き残りのために闘うことなど、何の造作もない。自分で暴力を使うのが恐かった卑怯な連中が、そうした暴力組織を利用していたわけだから、ヤクザが暴れ出したときの本当の恐さをまだよく知らないのかもしれない。しかし、今日NHKで取り上げていた「住友の重役殺害」の真相がその部分にある、と言うのが本当であれば、こうしたヤクザによる財閥への復讐はさらに続くかもしれない。住友の次は三菱、三菱の次は三井と言うようにである。

しかし、そもそもテレビの報道を信じられない私は、住友グループだけが、何か絶対公に出来ない失敗をしているというのも考えられることだ。そして、報道はその真相を隠すための「納得のいく説明」に他ならないとも思えてしまうのだ。つまり、「今回の“住友の件”に関しては、『暴力団との怨恨が原因だった』と言うことにしましょう。そうした面が決してなかったわけではないし、国民も『住友はそんな企業だったのか』と、取りあえず納得するでしょう」と日本のマスコミ全てが「申し合わせた」のかもしれないのだ。今回の殺人事件に関して言えば、全体の汚点を住友だけに集約する事で日本全体の腐敗を隠すことが出来るかもしれない、と言う計算も働いているに相違ないのだ。

(このように私は日本のマスメディアの発表に関しては全く疑心を持ってしか見ることが出来ない。)

いずれにせよ、この暴力団一掃のキャンペーンは、早晩成功し、日本の経済的障壁の門番であったヤクザがいなくなることで、日本の政府は存在しながら全くいないのと同然となる(今日の日本政府の『無政府状態』を考えて欲しい)。そうなった後、規制のなくなった日本へ本当の強さを持った(それこそヤクザのような)米企業がドシドシと奥座敷まで上がってきて、日本の企業を脅かし日本の市場を奪い去っていくことだろう。

しかし、それは日本がここ数年の間に選択した道である。日本が暴力団によって守られた閉鎖的社会から、「国際的」競争の世界へ踏み出すことは、すでに「どこか」で決定されたことなはずだからである。まあ、それもネクタイを付けてスーツを着て、アンクル・サムをバックに付けた別の名を持つヤクザに脅されたから、と言えば納得のいくところであるが。