Archive for August, 2011

ドメイン削除事故の顛末

Wednesday, August 17th, 2011

今回の「クラウド(当ブログ)」をボタンひとつで消してしまった「事故」について書く。 その様に意識していなかったが、結局自分のブログをまさに原稿専用の「いつでも何処からでもアクセス可能なクラウド」の様な扱いにしていたのが大きな仇となった。

ローカルには下書きから起こして様々なバージョンの原稿が存在しているが、本物の最終原稿はすでにリモートの中だ。何故なら最終に近くなるとブラウザ上で通し読みをするし、何か問題を見付けたら管理画面上で修整してしまう(誰でもやっている事だと思うが)。こうしたリモートにしか最終版がないなんていう状態は、案外何処にでもある現象なのではないだろうか。

今回起きたドメイン自体の消去、などというあるまじき事故は、完全にヒューマンエラーで起きた。誰も責められない。何故この様な事が起きたかと言えば、数日前に数年来会っていなかった友人から「メールを送ったが届いていないか」と訊ねられたのがきっかけだった。いつものアドレスに届いていなかったので、に旧いメールアドレスがまだ生きたままなのではないかと考えて、久し振りにブラウザメールで心当たりのあるアドレスのページに行ってみた。すると、やはり存在していた。どういう判断でそうしたのか思い出せないが、新しいアドレスを作ってそれをアナウンスした後も残していた様だ。或いは何らかの理由で一時的に復活させたのか…

直ぐにドメイン管理画面に行き、「不要なメールアドレスの削除」のアクションをとろうとしたが、ドメイン名がこの旧いメールアドレスと酷似していたため、ブログ専用に確保していたドメイン自体を管理ページにて確信を込めて《削除》したのだった。

しかもその自分の行為の誤りに気付く事なくしばらくはメールアカウントを削除しただけだと思っていた。気づいた時は自分のやった行為が信じられず、心拍数は上がり冷や汗が出て、暫くの間、放心してしまった。しかもこのエラーが後戻りできない決定的なものだということも同時に理解していた。

あるのはあちこちのリモートやフラッシュメモリーなどに下書きとしてバラバラに書き散らしたデータだけだ。これからやる事は一年と四ヶ月書き溜めた原稿の地道な復旧なのである。「一度無くなったものは諦めるのも選択肢」のように言うひとのいるが、それを受け入れるのは到底無理だ。自己の重要性を課題に評価している部分もあろうが、書いたものは自分の子供のようなものだからだ。

いずれにしても、リモート上に最終原稿が存在しているというこの常態になりつつあるトレンドというのは、ハードディスクを初期化するよりも簡単に、自分の設定ページで2、3のボタン操作だけで「雲散霧消させる」ことが可能なほど、危ういものなのである。まさに「クラウド」なのである。

自分の教訓が今後クラウド化して行く世の中で参考になればと願う。やはりローカルとリモートの間の徹底した同期という基本を押える以外にないのだろうが、自分の判断を信じて行うエラー自体をある程度の確率で避けられない事態があるという現実を見据える必要もある。

【お知らせ】entee memo II データが事故により喪失

Tuesday, August 16th, 2011

《entee memo II》のタイトルで1年4ヶ月にわたり運営していたblogが思いがけない重大な事故により、一度すべてのデータが失われました。結果として、entee memo IIにて2010年4月以降に書かれた皆様のコメントを含む1年4ヶ月分の記事のデータが喪失しました。

回復には時間が掛かり、また回復したとしても完全な復旧は不可能と思われます。大変残念なことです。コメントを残して下さった方には本当に申し訳ございません。一刻も早い復旧に奮闘中であります。

なお、2010年4月以前に書かれた記事は、すべてentee memo (original)にても読むことができます。

▲本日21:30現在で 2010年4月以前に書かれた記事は、本blogにて復旧できましたが、それ以降の内容につきましてはまだほぼ手つかずの状態です。徐々に時間を見つけて復旧を行って参ります。

▲8/17正午現在で、GoogleおよびYahoo!の検索サーバー上に残っている《キャッシュ》が、ここ1年以上にわたって投稿した記事のほとんどをバックアップしているという事実を知りました。原稿の題名さえ分かれば、ほとんどどんな無くなった過去記事でも回収できることが判明し、それをすぐに実行に移しました。但し、皆様のメントにつきましては、 すべての復旧は難しいものと思われます。再投稿など、もしご協力頂ければ幸いです。

ツイートの転載開始

Wednesday, August 10th, 2011

Twitterは常に何かを叫び続ける持続力を持つ利用者が「継続的に世間の水面上に浮かんで居られる」という類の、積極アピール型の人間に美味しい機能を供給するものだ。勿論、叫び続けるためには、トピックも方法など慎重に選んでいられないという状況にも陥りやすい事は、誰にでも容易に想像がつくであろう。

このことについては何度か言及しているが、Twitterをはじめとしてこの頃のネットツールが時系列を基本的な設定としていることは筆者にとってあまり嬉しくない。Time Line (TL) などと呼ぶ機能があるが、「お気に入り」だって何だって実は全てタイムライン(時系列)上に並べられている。

実際問題として、どのようなblogにも似たところがあるが、最新の記事が無条件的にトップに現れる。だが実は一番新しいものが一番大事なものとは限らず、大事な記事ほど深い地層に埋れている可能生だってある。自分の場合は止むに止まれぬ事情があってブログを始めたが、その理由を強く感じていた立ち上げ当初にこそ重要な記事が集中しているということが大なり小なりある。

他人のツイートのタイムラインを下の奥深くまで潜って行って熟読するなんて人がどれだけいるかを想像してみても分かるが、特にこの「つぶやかせる」新しいコミュニケーションツールは、新しい発言ではなくより重要な記事に気付かせるという意味ではまったくお粗末としか言いようの無い代物だ。加えて、上から下に向って古くなって行く記事の配列は、どこまで遡って読み始めればいいのかの判断も難しく、ピンポイント的にある時間に遡ることもできないので、通時的に読み進もうと考える読者にとって、ストレスの多いものだ。もちろん、このツイッターにはそれに相応しい役割も使い方もあることを否定する気はないが、検索可能性についてもツイッターはあまり機能的なデザインが成されているとは言い難い。

それで、これまでにツイートした中で、読み手の皆さんがそう思う以上に実はこだわりがあったテクストを抜き出して改めてこのentee memoに転載することを昨日から始めている。

筆者がツイートを始めたのは、今年(2011年)の3/11以降だから、ここ4ヶ月あまりに書き、いくつかのツイートに分割してアップした比較的まとまった長さの文章を、若干の推敲を含めてここに転載することにする。それでもそれなりの数があるので、転載作業には数日掛かると思われる。

マイノリティ《左利き》を巡る断章

Thursday, August 4th, 2011

偏見や差別というキーワードとの出会いで、自分にも思い当たることがあると感じて急いで備忘録とする。

いまとなっては左利きであることはさまざまな点で有利だとさえ思っているが、幼少の頃までは相当の偏見や不便に苦しめられた。父の田舎に帰れば、親戚に「どうして左を使うのか」としつこく難詰されたし、ご親切に「左手は不浄の手だ」と教えを垂れるおとなまでいた。学校では左でボールを投げれば、「おまえ、ギッチョか!」と、まるでハンディキャップの人間に期せずして出くわしたかのように、ぎょっとした調子で教師に指摘された。学校には手に合う左利き用のグローブが少なかったのが実に不利だったし、家庭科の授業で使った裁縫鋏は、手になじまず力を込めて使うと痛かった。まだ左利きに対する意識が低かったその時代、そのあたりの文房具屋ではついぞ左利き用の小刀に出会わなかった。

「ギッチョ」という言葉はいまでは少なくなったが、それでもそれを差別用語だと意識さえしないで本人に向って投げつける人がたまにいる。それを言う本人には「左利きです!」と訂正するが、その意図を理解しない人が殆どだ。つまり歴史的に偏見を含んだこの言葉を、無知とは言え、そうと知らずに使っているし、左利きの本人たちに投げつけて平気だ。チビとかビッコとかメクラとかを本人に向って使わない人でも、こと「ギッチョ」に関しては存外無関心・無知な人が多い。

「ギッチョ」という言葉は当方の考えでは、おそらく「不器用」(ぶきっちょ/ぶぎっちょ)あたりから来た語彙だ。右利きの人から見ると左手で何か作業をやっている人を見ると、ぎこちなく「不器用に見える」からそのように言い倣わされたのだと想像している。実際、右利き用に作られた道具を左で使うのだから不利なのがそもそもの前提だし、ぎこちなくなるのが実際なのかもしれない。だが使う本人たちがそう感じている以上に、見た目が「不自然」だから不器用に「見える」だけだというのが、右利きの人たちには分からないのだ。どうしてそういうことが言えるのかというと、左利きである自分自身、筆記だけを右手に矯正したので、文字だけに関しては、左手で書いている人が「ぎこちなく」見えるのだ。だから文字については大勢の右利きの人と同じ感覚で見ているのだ。

ギッチョは「利き手」とか「器用」という意味だという主張があるようだが、「左ギッチョ」とは言っても、その逆の「右ギッチョ」という言葉は存在せず、「ギッチョ」が単なる「利き手」や「器用」という意味でないことは明らかだ。それはその言葉を投げつけられた人だけが感じることのできるものだ。

ウィキペディアの「左利き」の項中の「左利きの不便」というチャプターを見ると、左利きである自分でも意識してこなかったような不便と危険の長いリストを見出す。これだけの不便を強いられて来たのかと知って改めて愕然とする。(逆に言えば、随分右利きの人たちは自分たちを甘やかしているんだな、と思う。)

単に不便であるというだけでなく、左利きは右利きの社会において多くの危険に曝されている。(実際に事故で死ぬ確率は高いという統計もある。)この意味では「ユニヴァーサルデザイン」あるいは「アクセスビリティ」などが盛んに言われているが、左利きの人々にとっての真の《アクセシビリティ》は、この圧倒的なマジョリティである右利きによって支配されている社会において、まだまだ改善していない。誰も声高に言わないから、そもそも問題として認識されていない。マイノリティである左利きの人々が立ち上がって、運動を起こさなければいけないのかもしれない。右利きと左利きに対して、その発生する割合に応じた社会整備を行うのを義務付けるとかできないのか、とも思う。左利きはどんな社会にも10%前後存在するというのだから、その割合に応じた道具や社会整備をすれば、本当の意味でユニヴァーサルデザインになるだろう。僅か10%でいいのだ。世の中の設備の半分をそうせよと言っているのではない。こんなことを、特に改札口を通過するたびに思う。

文字も逆に書かれた鏡文字を正規の文字として認めろ、とか主張したりしてね。

ところで、文字だけ右手利きに矯正した自分が、左手で鏡文字を書くと分かるが、筆跡は右手で書いたものと全く同じで、筆跡は手に存在しているのではなくて、脳内に存在することがよくわかる。

女性はマイノリティと言われることがあるが、生まれてくる確率からすると男女は五分五分だから、数の上で女性はマイノリティ(少数派)の存在ではないが、左利きはどこの社会でも10%前後と言えば、真性のマイノリティなのだ。

でも、親切な右利きの親たちは、右利き社会において苦労させてたくないから、右利きにしてあげようとする。左利きとして生まれてくる本人たちにとて、それがどんなに迷惑なことなのかも知らずに、自分たちが左利きに矯正されたらどんな苦労をするのかということについていかなる想像力も使わない。

その問題は認識されているが、そんなに危険なら「右利きになればいいじゃない」というかもしれないが、「いやいやそういうあんたが左利きになればいい」という主張は、右利きの彼らには想定できない。

ピアノを弾くと分かるが低音域を分担する左手は、メロディーを主に分担する高音域の右手と違って、「伴奏」や「通奏低音」の役割を果たすことが多い。特に古典期以降は。だが、バロック以前に遡ると、鍵盤楽曲において、右手と左手は、比較的同じ比重を持たされていて、時にはともに同じメロディーを弾くことがある。特にフーガになっているとそうだ。自分がバッハを弾くのをあまり苦に感じなかったどころか、喜びに通じたのは左利きだったからかもしれない。いつも左手の伴奏がうるさいと両親から指摘されていたのは、バッハとの出会いで終わった。