Archive for April, 2010

文明神話化の速度

Wednesday, April 14th, 2010

文明が失われた後、いかに急速にわれわれの知っている歴史が神話化するか、それを想像してみるのが良い。紙の媒体に書かれたものならば、それを大事に取っておくとか筆写してコピーを作るとか、石に刻み付けるとか、様々な努力によって可能な限り「正確な」記録を取ることはできようが、電子媒体となったものは、ほとんど再現できずにそのまま失われるだろう。

あと我々に残っているのは、記憶を総動員してそれを口伝(オーラル)で伝承することくらいである。人が遠くはなれた人間と会話をするとか映像や画像を送って相手を確認しながら会話をするとか、そもそも人間が空を飛んだとか、宇宙まで人間を送ったとか、地球を周回する装置を空中に浮かべたとか、そのような記憶は3、4世代過ぎれば信じられないようなことになるだろう。またそうしたことを可能にした装置は、使えなくなってスクラップとなってあちこちに放置されるだろうし、必要であれば、そうした道具はバラバラに解体されてまったく別の用途のために再利用されるかもしれない。

こうしてシロアリがたかるようにかつての祖先たちが作った文明の痕跡に巣食って、それぞれがそもそも何であったのかが分からなくなるほどに解体されるのに10世代も必要ではないかもしれない。つまり、自然の力による浸食や風化以上に、人為による解体が一挙に進む可能性がある。それに加えてもちろんこうした自然による破壊が跡形もないほどにそれらを「埋葬」してくれるに違いない。

それでも世代を超えて次のエイオンまで残るかもしれないかつての文明の痕跡は、七不思議としてわれわれの謎解きを待つことになるかもしれないし、あるいは、「庚申塚」や「鬼子母神」あるいは「道祖神」のようなものがその上に建てられるかもしれない。

岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』の再読

Tuesday, April 6th, 2010

ウロボロス

岡田明憲氏の代表的大著(と思われる)、圧倒的に網羅的な『ユーラシアの神秘思想』を読み終えて、2週間。タイトルの同書再読。新書判でありながら(というよりはむしろ新書判のせいか)引用して論じたいことはもっとたくさんあるのだが、とりあえず、最重要と思われる箇所を備忘録として残してコメントをつける。

尾をかむ蛇は、グノーシス説のウロボロスである。ウロボロスは、世界の周期(アイオーン)を象徴するものとされ、その内部で善と悪の結合が生じると説かれる。オカルト派の解釈は、このウロボロスをゾロアスター教のズルワーンとして説明することである。この発想の起源は、アイオーンをズルワーンと同一視したミトラス教にある。ミトラス教の図像の中に、体に蛇を巻き付けた怪人像がある。これはズルワーン(時間)神であるとされ、しかもそこには、十二宮の象徴が見られる例が多い。岡田明憲著『ゾロアスターの神秘思想』(講談社)「占星術的マンダラ」より (page 191)

これは、形態的なオメガ祖型を言葉によって説明したものと看做すことができる。ウロボロスという円環する蛇の象徴は世界が繰り返す超歴史的周期であり、アイオーンと呼ばれるこの周期の連結部は、善と悪の結合するところに位置する。すなわち悪の究極の顕現によって実現される世界の終末が、新たな世界の始まりの契機となることそのものを指す。

蛇は、自らの尾を噛み付いていると同時に、自らの力自分の身体を吐き出しているようにも採れる。善なる世界は悪の頭から吐き出され、また善の頭が悪の尾を喰らい尽くし、それに取って代わるようにも見える。これは、上から見れば丸い形状を保持する円筒形の器、たとえば茶器として現れれば「暦茶碗」となり、その善と悪の結合部には、宝珠や三位一体をあらわす象徴的記号が、聖体として顕示される。この宝珠や三位一体は、善や悪を超えた、しかし戦慄すべき聖なる計画としての「出来事」である。生まれ変わりを待ち望む者たちにとっては、善の実現であり、現世の悦楽を楽しむ者たちにとっては、悪の権化の到来を意味する、一大エポックである。

つまり、時間の円周の半分は善なるものとして在るが、それがやがて死に向かうとき、残りの道程は腐敗の半周、つまり悪の半周となる。悪は善によって実現され、善は、悪によって実現されるのである。

こうした記述が、書籍の一番最後にくるというのは、錬金術関連書籍の伝統からすると、まったく反対である。錬金術書の伝統ではウロボロスは、巻頭の扉ページにくるものである。「まず円環ありき」なのである。ところが、岡田氏のこの本では、この超歴史的エッセンスとも言うべき図像、および、それに関する記述を本書の一番最後に持ってくるという選択を採ったのである。それはそれで、《反対物の一致》ではないが、ひとつの正しいメッセージを伝えるのには十分な効果があるのである。それはひとつの書籍の終わりであるし、それはまた新たな探求の始まりの転機になるからだ。