Archive for October, 2005

金剛への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<対称:symmetry>の伝えるもの[3]
日本の「フィニアル」

Saturday, October 29th, 2005

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■ 日本の「フィニアル」

石灯籠が道教思想の世界観の反映であることは既に述べた。またそれが最下部から最上部に掛けて「地・水・火・風・空」を表現しているらしいことも既に知られたことである。最下部が「地」を表すことは説明を要すまい。春日灯籠と呼ばれる背の高い石灯籠の「基礎」部分には「返花」と呼ばれる装飾が見出される場合がある。確かに下から2番目の「水」が図像的には明瞭さに欠いたものである(と言うより、どこからが2番目なのかが不明瞭である)にせよ、この「竿」と呼ばれる柱の上にある「火」の部分が灯籠の機能部分、すなわち実際にロウソクなど「火」を灯す箇所である*ことは断るまでもない。これが「火袋」である。そしてその上の屋根の「軒先」に当たる部分が「風」となる。これは「雲気」を表していそうなことはその特徴のある意匠からも想像できる。これは「雲の形を切り抜いた(模した)もので、怪異や霊威などに伴って生ずる超自然的な雲」(大辞林 第二版より)と説明されるいわゆる歌舞演芸などで使われる舞台装置である。これが「風」によって渦を巻き起こしているさまである。この「屋根」の部分を石灯籠では「笠」と呼び、渦の部分を「蕨手」と呼ぶ。これは、唐草模様など渦状の意匠パターンに通じる部分があることは見逃すことができない。そしてその上に「空」に相当する品、「宝珠」が据え置かれる。この宝珠は「請花:うけばな」と呼ばれる「皿」に載せられていることがある。

参考

* 灯籠の火を焼べる火袋は正面から見ると「三つの穴」が開けられているものが場所によっては見出される。つまり火が灯されるとそこには「三つの火の玉」(三ツ星)が浮かび上がるという趣向になっているのである。火袋の背面は通常火を焼べるためのアクセスになっている。そして正面が「三つ穴構造」になっていないものでも、この「火」の左右に「日」と「月」を表す形状の穴がそれぞれ開けられているのはより一般的である。ひとつはほぼ真円型で、もうひとつは三日月型の穴である。つまり東西に上る「月」と「日」、すなわち「陰陽」が象徴されているのである。これを一方の穴から覗くと他方の穴を見ることが出来る。これは「蝕: eclipse」を顕す。陰と陽、そしてその蝕について、それらの「超史実的解釈」については、のちに時間を掛けて考察をすることもあるであろう。

石灯籠の最上部にある宝珠(空)、そしてそのすぐ下の屋根を思わせる方形(ないし六角形)の笠の形状は、寺社の建立物の屋根の基本構造と同質のものである。それは屋根の先端に当たる笠の「軒先」が跳ね上がった形状(波頭形状)であり、この跳ね上がって渦を巻いている蕨手の上の頭頂部に擬宝珠など明らかに宝珠を模した形状(フィニアル形状)を持つという共通性が見出される。

西洋の家具、わけても柱時計やベッドに見られる「クレスト」と「フィニアル」の組み合わせとの違いは、石灯籠が対称面を東西南北の4方向(ないし複数方向)に持つのに対し、西洋のモデルは対称面が基本的に正面から見られたときの1方向にしか持たないという点である。

また、石灯籠は言わば、西洋的な「四隅の世界観」に似た構造を例外的に持っているということもできるが、これは東西の拮抗、そして南北の対立を象徴しているようにも見ることが出来る。クレストとフィニアルのパターンは、石灯籠においては三次元的な奥行きと広がりを持っているのである。

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だが興味深いことに、上のような比較を行うと、石灯籠そのものが全体としてひとつの「フィニアル」として見えて来る。つまり、大型のフィニアルに「宝珠」という小型のフィニアルが含まれることが分かる。一方、西洋のフィニアルも対称図像の中の局部的エッセンスとしてだけでなく、宇宙的な全体性を含むものにも見えて来る。そして「全体」を含むものとして捉えると、比較的大型の庭園要素としてのフィニアルには、さらに小型のフィニアルを含む入れ子構造になっていることが分かる。こうした構造は、後に「Ω祖型」と呼ぶことになる一連の象徴的図像の法則の一環を忠実になぞるものであることが了解されるだろう。

■ 鬼瓦という小宇宙

石灯籠と社寺仏閣の形状の類似は明らかであるが、社寺仏閣系の建築物の屋根瓦にも同様の要素が見られる。これはより大きな同質の世界観の中にやや小型のモデルが「入れ子状」に含まれる例である。特に「鬼瓦」の名前で親しまれて来た屋根突端部の特殊な瓦の中には宝珠か、それに準じる形状のパターンが見出される。そしてやはり瓦の意匠そのものが、「雲気(風)」をテーマにしたものであることも広く共通である。

明らかな「鬼の顔」の図像が広く一般的であるものの、中にはその顔に当たる中央の「主要部分」が家紋や屋号・家号(文字)に置き換わるケースも見られる。

例えば冒頭にも掲げ、各地で話題になっている大林組の広告に使われている「巨大な鬼瓦」もその例である。ご覧のように正面の顔は「家号」に置き換わっている。その「大林」という名前も含めて典型的対称図像となっている。偶然の計らいにしても、「林」の金文が、あたかもペアの三鈷杵のように見えることは興味深い。またこの鬼瓦はその形状そしてその主要部分の下に描かれている「雲気」のような渦巻きもよく視て取ることができる。コピーは「工法は変わっても創るスピリットは変わらない」とある。きわめてエソテリックなメッセージである。

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主要部分が「家紋」に置き換わったケース。家紋を囲む周辺部分の形状に注目。後にわれわれが共有することになる「Ω祖型」がここにも見出される。

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平面的なレリーフ状の鬼瓦であるがそのシンメトリカルな鬼の表情には「隈取り」を模したような「雲気」の渦が見出される。鬼の面自体が雲気を含んでいるパターン。こうした顔面を通して表現される対称図像は、古代中国の青銅器に見られる「饕餮(とうてつ)」などにまで遡ることができる。顔面図像の対称の起源については別途言及されるであろう。ここでは、「対立・拮抗」する左右(陰陽)の勢力が、波頭や雲気の渦として表され、それが一つの神的存在の「顔」を作り出すのだということを触れるに留める。

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瓦の主要部分が「打出の小槌」というフィニアル構造を採っている。雲気は極めて明瞭に鬼瓦の周辺を「飾って」いる。この雲気が「小槌」という世界至上権に迫る「クレスト」の役割を果たしている。

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通常の鬼の表情を描く鬼瓦と同様の構成になっているが、主要部分は単なる球体であり、その球体を屋根が守護するような形状になっている。だが、「雲気」はあくまでも左右対称にその球体に迫る。

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クレスト(ペアの対立図像)とフィニアル(至上権)の三体一身の鬼瓦。対称にペアを成す「雲気」はいわゆる「獅子」(狛犬)を思わせる形状にもなっているのも注目すべきである。

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ほとんど鬼瓦としての原形を留めないほどに自由にデフォルメされた鬼瓦。その対称性は希薄になっているものの、その頭頂部分に三位一体を表現する3つの円形の突起物が目立つ。

以上のように、日本の石灯籠に於ける「宝珠」(擬宝珠)と蕨手(渦、波頭)の組み合わせに見る対称性、「鬼瓦」自身に見られる「屋号・家号」などの「至上権的」象徴と雲気の組み合わせに見る対称性は、明らかであり、それは西洋の伝統工芸における「フィニアル」と「クレスト」の組み合わせに見る対称性と同じものを表しているのである。

建築/屋根関連blog

瓦(日本文化いろは辞典)

飛び石の暗喩(閑話休題)

Friday, October 28th, 2005

あなたは今、茶室に面した閑静な庭園にいる。あなたの眼前には飛び石があって、似たような材質の、あるいは場合によっては似ても似つかない材質の石が、ある一定の間隔を置いて(ほぼ等間隔に)埋められていて、その表面が踏まれることを待っている。あなたはそれが一個一個の別々の無関係な石であるとは思わずに、それらの作る「動線」がひとつの道となっていることを認識している。そしてあなたはその石を踏んで先へ進んで行けば、その先には何かが待っていることを知っているのだ。

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ここで飛び石の一つ一つが相互に関係していることを敢えて「論証」してから、あなたはようやくそこを歩くのだろうか? あなたはそれらが相互に関係していること、それらが一つの道 (path)を作っていることを直感的に知っており、それを敢えて疑うことなくその道を進むに違いない。時代や場所によって隔てられ、相互に無関係に見える象徴的な図像群を解き明かすことは、一列に並んだ飛び石を「ひとつの道」として認識することとその本質は変わらない。

だが、もしあなたが一つの石だけに注意を奪われ、一つの石について、その形状や材質、その加工法、埋められ方などなどにだけ詳しくなり、その石の専門家になったとしても、隣の石に気付くことなく、あるいはそれらが一つの道を造っていることにさえ気が付かず済ませてしまうかもしれない。たったひとつの石について深い造詣を得たとしても、それが一体どんな意味を持つのだろう。あなたはその一つの石の上にずっと佇み続けるのだろうか?

われわれは複数の石が作り出す一つの道に気付き、それを歩み、その先に指し示された<普遍的題材>に気付くことこそが求められているのである。ここには各論的な専門家になるのか、超歴史的視点の獲得、そして「総合の要請」に応えられる超専門的な洞察力(心眼)を得るのか、その分岐点に立っているのだ。

そしてわれわれに与えられた時間は、ひとつの石の上に佇み続けるには、すでに「限られ過ぎている」ことにも思いをいたさねばならない。

金剛への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<対称:symmetry>の伝えるもの[2]
波頭とフィニアル

Wednesday, October 26th, 2005

■ 波頭とフィニアル

至上権を巡って競争する左右対称の祖型的パターンをより古く辿って行くと、古代ローマの建築物に行き当たる。左右対称の「波頭」(あるいは「渦」や「蔓」)と中央に据えられる「杯/壷」のパターンである。これは対面する要素が人や鳥獣から「迫り来る波」に置き換わっただけのもので、それの伝達しようとする内容は同じである。この組み合わせのパターンは無論近東や西アジアの古代遺跡からだけではなく、南米を含むほとんど世界中のどの地域にも見出される。日本に於ける社寺仏閣の瓦屋根、そして宝珠に言及した時にも取り上げた石灯籠にも見出せる。ただし、ここでは日本の「波頭と杯」「波頭と宝珠」を含む対称図像に関しては後半で取り上げることになろう。

こうした左右対称の構図はあらゆるものに見出される。

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(上)「グランドファーザー・クロック」と呼ばれる背の高い振り子時計。左右の柱が特徴的。時間と「時間の終わり」の関連が濃厚に見られる。(下)コロニアル・ベッドと呼ばれるフィニアル付きベッド。睡眠中も頭上にフィニアルがそびえるのである。

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西洋の家具や柱時計に於いてもその対称構図は非常に頻繁に出現する。モダンなデザインでは簡略化もしくは完全に失われていることが多いので、そうした「波頭とフィニアル」の要素は見出すことが難しいが、ちょっと古いアンティックなどを確認すると、いくらでも見出すことのできるものである。そして古代の遺跡はその痕跡が失われつつあるものが多く、またそのうちの多くは復元によって再現されたものだ。

しかしこうした家具において、その形状は職人達の伝統によって受け継がれた絶えざる徴として明確に確認できるのである。むろん、その徴の意味を職人が了解していたかどうか、作る対象について自覚的であったかどうかは別問題なのである。ただ過去から伝わって来た意匠を忠実になぞるということによって伝えられる<普遍的題材>というものがこの世に存在するということで十分である。それはすべての茶の湯の実践者たちが自分たちの扱っている内容について、身につけた作法以上の深い理解をしているかどうかは別問題であるのと同様のことである。

このサイトに於けるfinialの説明の冒頭は非常にアナロジカルである。「サンデイ: Sundae*(洋風みつ豆)におけるチェリーのようである」とある。つまり、このスイートはまさにお菓子によるトロフィー構造になっているのである。それはクリームやチョコレートアイスクリームの作り出す山の頂上に置かれる赤い「チェリー」によって完成する。

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* 音的には「Sunday」と同じ。

この中央の物体に一歩手前まで迫ろうとする部分は「波頭」形状が一般的であり、伝統家具の世界でそれは「crest」と呼ばれる。一方、中央の「物体」はフィニアル(finial) と呼ばれる。フィニアルは、家具だけでなく、柱時計、マントルピース、建築、土木など大小さまざまな伝統職人の扱う創作物中に登場する。また、Finial*は、英語の「finish, final」と同じ語源を持つ。Fin(仏)、Finito(伊)は「終わり」の意味を持つ。つまり、中心に迫る波頭は「終わり/完」への最後の(直前の)一歩を描いているのである。家具や建築に於けるこの「フィニアル」の役割は、その製作の「仕上げ」を意味しているのであって、すべての行程を終えていよいよ作品の完成という時に、その作品の中央に据え付けられるのである。

だが、以上のような「顕教的」な説明は、そのオブジェクト自体がわれわれの内面(無意識域)にほとんど直截に訴えかけ伝えようとしている内容とのあいだで微妙な一致を示しながらも、そもそもそれが「何の仕上げなのか」という「象徴されるもの」自体の本質の全てを明らかにしない。しかし、そもそも家具(とりわけ「時計」)といった道具自体に「完了」や「終わり」を意味するものが「掲げられる理由」は、そのオブジェクト以外に求められるのである(あまりに自明なことであるが)。すなわち、「象徴するもの」は、「象徴されるもの」あるいは「象徴される出来事」を指し示すに他ならない。そしてそれらは単なるオーナメント(装飾品)以上の意味を持つのであり、「指し示されるもの」というのが断じて外在するということなのだ。

* 場合によってはクロップ(crop)と呼ばれる。「作物」「収穫物」の意味である。このフィニアルがパイナップルやその他の果物に置き換わることのできる理由が、その意味「至上権」から憶測することができる。

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家具やランプシェードに付けるフィニアル(左) 建築物に使われるフィニアル(右)

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パイナップルに姿を変えたフィニアル。「クロップ:収穫物」の名でも呼ばれるフィニアル。サウスカロライナ州チャールストンに於けるジョージ・ワシントンが幼少を過ごした家が博物館になっている。その家の家具のほとんどにパイナップル状のフィニアルが付いている。それを館内のガイドに意味を尋ねると、「Pineapple means hospitality.」(パイナップルはおもてなしの意味)」であった。

後半ではフィニアルのバリアント、そして日本におけるその代替物を見ていくことにする。それは、世界中に見出される、後にわれわれが<Ω祖型>と呼ぶことになる図像元型へとつながっていくのである。

金剛への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<対称:symmetry>の伝えるもの[1]

Tuesday, October 25th, 2005

■ 人間の図像作成に於ける対称性

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つい先頃、「自然界に完全なる対称図形はない」という名言を聞いた。つまり広い自然界において、「対称」という意匠は大抵が人為的かつ抽象的なものであり、すなわち決定的に「観念的」なものであり、われわれの目にも極めて強いインパクトを持った立ち現れ方をする。こうした「強さ」を持った形状が秘儀を伝えるための視覚的手法として採用されないはずもなく、人間界における対称図像の選択とは、ある意味必然的な結果であったとさえ言うべきであろう。建築のような巨大規模のものではインドのタージマハール、カンボディアのアンコールワットなどが有名であり、それらがわれわれを魅了する第一の真相は、まず最初にその左右対称の構成(あるいは単に対称であるというよりは、「対称性」を強調する意匠)にあると言っても過言でないほどである。

■ 闘争と勝者の獲得物

勝負事の公式試合には優勝杯やトロフィーが付き物であるが、優勝カップがなぜ「杯」もしくはそれに準じる形になっているのか、トロフィーがどうしてあのような「杯」を4柱が支える形もしくはそれに準じる形になっているのか、ということについて、日常的にその「問い」に出会うことも「答え」に出会うこともほとんどない。世界の「至上権」をめぐる闘争において、最終的な覇者が獲得すべきものが「杯: さかづき, 逆月」であることは、当たり前の前提として受け留められていること自体が、特筆すべきことである。だが、その起源を探ることはさらに興味深い作業となるだろうことに疑いはない。

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要するに、トロフィーは「優勝杯」である。いわゆる「スタンダード」タイプのトロフィーは、優勝杯を4つの柱で支えるという世界像を表したものである。

世の至上権を巡る闘争は、伝統的に「左右対称で対面するふたつの像」によって表現される。とりわけ、それは対面する2人のひと、もしくは対面する2頭の鳥獣によって象徴化されてきた。それは一部の例外を除いてはほとんど場合、同じ人間、同じ鳥獣が対面する図像によって。そして多くの場合、東西の代表的勝者が左右からそれぞれ登場し、至上権を象徴する<ある物品>に「どちらが先に到達できるか」を競う場面を描いたものである。つまり、「左右対称に配置される対立物(ペア)」に加えてその中央にそびえる「至上権」を象徴するもの(シングル)という組み合わせで登場する。こうした対称図像は世界の至る所に、そして新旧のあらゆる時代に見出されるが、それらはほぼ同様の<普遍的題材>を伝達することを明白に意図していた。

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これは探求不足なのかもしれないが、いまのところこうした「至上権獲得闘争および獲得物」という観点で対象図像について論じられた記述にお目に掛かったことはない。

日本においては東と西からそれぞれの代表的戦士が現れ(あるいは「紅白*」に分かれ)、その力を競い合って勝負を決めるという闘争の祖型的パターンが見出されるものに相撲がある。そしてその舞台は「土俵」と呼ばれる「円相」系の限界線で区切られた「世界」で繰り広げられる**。この「世界」の覇者を決定するための長いプロセスは詳細に儀礼化されており、今日われわれの目撃する相撲も、言わば神(あるいは神格を持つとされる王)の御前で行なわれる奉納の儀式であることは広く知られたところである。それは仏教や神道の伝統というよりは、その儀式の構成要素はむしろ中国から渡って来た道教にこそその起源が求められる***。当然のことながら、日本の神道儀礼と混淆していることは否定すべくもないが、相撲には「木火土金水」の明瞭な五元素、および「東西」によって象徴される「陰陽」の要素が明瞭に見られ、茶の湯と同じく、「陰陽五行」の世界観が濃厚に反映されている。

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* 相撲において、赤(紅)は「赤房」の下がる南東の角(朱雀の区域)、白は「白房」の下がる西南の角(白虎の区域)である。

** また世界各国で見出される拳闘(ボクシング)は「世界」を表す正方形の「リング」が設定され、その四隅の内の二隅(red corner / blue corner)から戦士が現れ、世界の至上権の決定をする。覇者が獲得するものは「チャンピオンベルト」という「時間的円相」(=歴史時代)である。ユダヤ=キリスト教系の世界像は、円よりは東西南北を表す四角形に親しみがある。「All corners of the world」と言えば、「世界の津々浦々」というニュアンスを表す。「From the four corners of the world」は、「世界の隅々から」となる。このように言葉からもボクシングの様式からも、世界に「隅」があるというほとんど無意識の聖書的世界観の反映が見出される。

*** 西洋の代表的宗教の秘教と「(思弁的)錬金術」の伝統との関係、密教と「道教」的伝統との関係にはある種の平行関係がある。だがここではテーマを単純化するために詳述はしない。とりあえず、ここではそれぞれの伝統や作法がその近隣で発達した宗教芸術や宗教儀礼の中に取り入れられていることには不思議はないということだけを断っておこう。

金剛への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<円相>の伝えるもの

Monday, October 17th, 2005

ちょっと気が早いと思う方もいらっしゃるだろうが、これを読んでその意義を理解された方々には、これからやってくる「クリスマス」、そして「正月」が待ち遠しく、なるであろう。

[漸次推敲]

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図版1

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図版2

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図版3

■「0」の発見

「ゼロ」の発見がインドで行なわれたという話は、一般教養的通念として多くの人々によって共有されているものである。確かに「0」の概念の「発見」がその後の数学の発展を根底から変えたものであることは想像に難くない。そしてそれがインドにおける数学の「極端な深化」の根本要因を説明するものだということは十分にあり得るだろう。しかしここで取り上げられる「0の発見」は、そうした事実とはおおむね関係がない。むろん全く関係がない訳ではないが、ここでは問題を単純化するために、そのことはしばし横に置いておいても構わないだろう。

歴史の秘儀に関わる分野においては、それが極めて長期にわたって「予告された」ものであったにせよ、われわれの生きる世界における具体的な「0の発見」は、20世紀に行なわれたのだ。その「発見」ないし「再発見」を予告するものは、象徴図像の中に極めて広範に見出すことができる。そしてそれら「予告」は、どれもが宗教(聖なるもの)との関係が濃厚であり、そしてとりわけ「死と再生の儀礼」そして「永遠回帰」の概念に伴って繰り返し出てくるものなのである。

そしてその本質的意味である「無」「空*」は、文字そのものの「形状 O」によってそれ以上の意味、すなわちわれわれの捕らえられている「歴史」や「時間」というものの性質を端的に表す象徴となったのである。

* 「空」は、石灯籠の一番上に載せられている「宝珠」型の物体によって表現されていることも想起されたい。

■ 夏至/冬至そして円相

日本の正月に現れるものとして七五三飾り(〆飾り)の類があり、先述の門松(かどまつ)さえ、そうした飾りの一種と考えられるのであるが、とくに神社などに現れる「円相」の類は「世界の更新」の時期(年末年始/冬至の頃)のちょうど六ヶ月前、すなわち夏至の頃、だいたい6月24, 25日から30日頃にかけて現れるもので、これは新年と同様、ひとつの周期の中間の時期に現れるのに相応しいものである。これは「茅の輪:ちのわ」と呼ばれるもので、この時期に神社に参詣した人々は、日本最古の宗教儀式の儀礼を受けることになる。この「円環」の中をくぐって厄を祓い、「浄化」されたことを疑似体験する。くぐり方にも神社などによっては詳しくその方法が説明されており、その多くは「8の字」(∞ 無限記号のように転倒しているが)を描きながら、結果的に「合計3回」くぐるのである。この儀礼が円環する歴史、過去の秘教的歴史に関わりがあることは疑いの余地がない。

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「みなつきの なごしのはらえするひとは ちとせのいのち のぶ(延)というなり」。この「茅の輪くぐり」は、最初の半年を息災に過ごしたあと、残りの半年を無事に過ごして半年後の「新年」を迎えたいという気持ちの現れであると考えれば理解しやすいものの、これは巡る周期の中間点に来ており、しかも日の長さが最大であるということの明確かつ象徴的な確認であり、その日を境に日が「短くなっていく」すなわち「死に向かって行く」訳である。しかしこれがこの時期に行なわれるのは、われわれの「無事にもとの位置に戻って来たい」という願いの反映ということもできるだろう。

また、日本で「夏越祓(なごしのはらえ)」が行われる6月下旬のまさにこの時期6/24-25はキリスト教文化圏においては「聖ヨハネ祭:中夏節」の日に当たる。まさに「イエスの降誕祭」と受け取られている12月25日の半年前に相当する「夏のクリスマス」とでも呼びたくなるものである。また聖ヨハネ祭の夜はまさにシェイクスピアの「真夏の夜の夢: Midnight Summer’s Dream」で描かれる世界であり、恋人に「花環/花冠」を贈ったり、この夜は妖精の悪戯により魂が肉体から遊離する危険があるので夜を徹して火を焚いて騒ぐ(庚申祭*に類似する)などのことが行なわれる日でもある。

* 庚申祭は神道や仏教文化よりは、他の様々な「神事」と同様にむしろ中国から伝えられて来た道教 (Taoism)と深い関連がある。むろん、日本における道教思想が日本の古神道や大陸から同時期に伝わった密教系の仏教思想と混淆したか、あるいはすでに混淆したものとして日本に伝わった可能性が高い。

■ 日本の円相

「掛け軸」などの鑑賞作品としてわれわれの目に触れ、また茶の湯や禅の世界でも登場する象徴物が円相の書である(図版3)。これはほとんどバカバカしいほどに単純な、筆と墨でただ円を描いただけの「書」であるが、この図像はきわめて深い象徴的意味を持つ。まさに永遠回帰をその意味合いを「隠しながら伝える」という役割を果たして来たのだ。

この図版に付いて来た解説によれば、「円相は言葉で表現できない絶対の真理を仮に一円をもって象徴的に表示したもの」とある。だが「始めもなければ終わりもなく、円満具足である」とあり、顕教的には「愛でたい」ものとして一般拝受者からは有り難がられるような説明が成されているのである。

■ 欧米の円相

「円相」系でしかも年末年始に関係のあるデコレーションと言えばリース* (wreath: 花環/花冠) があり、これについて語らないで済ませるわけにはいかない。西欧ではクリスマスとの関連で毎年同じ時期に出現するものであるが、そもそもこのクリスマス自身が「世界の更新」あるいは「再生/復活」と不可分なものである。

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ほとんど「絵に書いたような」典型的クリスマス・リース。「3つの火の玉」の要素が、より見事に具象化している。

ひとつにはこの「クリスマス」として現在知られる「季節的行事」がキリスト教化以前の欧州各地で見出されたペイガニズム(異教/古代の多神教/アニミズムの類)の慣習から来たもので、冬至との関連があるという説はすでに広く受け入れられるところになっている。だが、それがそもそもキリストの「降誕祭」と混淆したこと自体、両者の祭儀のあいだに本質的な共通項があったことを表している。それは「復活」をキーワードとする何かなのである。

* こうした花環は欧米においても故人の命日などに墓参した際に、墓や故人を記念する碑に供えられるものでもある。これは死者への敬意を表すると同時に、死者の来るべき日の「復活: return, resurrection」を祈念した形状であると考えることができる。

すなわち冬至は一年の内で最も日の短い日であって、「日の世界」の死のピークを意味する。当然ピークを越えるや「日の世界」は再生(迎春)に向かってまっしぐらに進むのである。この日(冬至=クリスマス)が春分や秋分といった特殊な意味を持つ区分などと同様に年の「始まり」もしくは「終わり」の時期に設定されることには一定の必然性があるのである。

■ 12月25日という日が「降誕祭」である理由[補遺]

実際は、その日が「主イエスの誕生日」であることには何らの歴史的根拠も、ましてや聖書における記述すらないのであるが、「降誕祭」を太陽暦の12月25日という具体的日にちに設定したことは、別の面で合理的と言える。ここに簡略化されたカレンダーの一部を用意する。共通の聖典に起源のある3つの宗教においてさえ「聖日: holy day」の曜日が、それぞれ、ユダヤ教(土曜日)、キリスト教(日曜日)、イスラム教(金曜日)という風に異なることもあり、何曜日を「週の始まり」にするのかというのは議論となりえるところである。だが、日曜日が週の第一日であるという旧約「創世記」の伝統に基づき、週の第一日が月の第一日と一致する(つまり月の第一日が日曜日である)カレンダーを用意する(今後も同様の暦を引き合いに出すことがあるので、読者の方にはこの《元カレンダー》に慣れて頂く必要がある)。この場合の安息日は土曜日(サバト)となる。

その上でキリストの復活(誕生)が日曜であるということも踏まえて、降誕祭12月25日を日曜日であると仮定すると次のようになる。

        月  火  水  木  金  

12月  25 26 27 28 29 30 31

1月     2  3  4  5  6  

つまり、新年の第一日(元旦:翌年の最初の日)が日曜日となり《元カレンダー》に一致することが分かる。これはキリスト「降誕」し、1週間後(8日目)に「再臨」するという「七日間周期の元パターン」に一致するのである。つまり降誕した「何か」は、六日後に晦日を迎え「過ぎ越し」を経験し、集団的「浄化」儀礼が7日目に起こる。8日間の中に銘記すべき「降誕/再生」が2度やってくる時期というのはこの時において他にない。これは結果的にクリスマスから新年にかけてシミュレートされる七日間の物語となる。そしてそれは「新年」後も、永遠に「死と再生」(あるいは生と刑死と復活)の七日周期を繰り返し続けるのである。

話が逸れたかもしれない。円相に話を戻す。「円環する歴史」というもののイメージの極めてアルカイックな図像がタロットに求められることは、ここでも一度は言及しておく必要があるだろう。タロットの「大アルカナ」(Major Arcane)の22枚のカードが21日(3週間)に渡る「愚者の旅」であることを説明するのがここでのテーマではない。循環するイメージすなわち円相を見て行くということが、あくまでもここでのテーマである。いずれより詳しく《元カレンダー》を見ていく際に、この「三週間の旅」については再び言及するであろう。

■ タロットの「世界: The World」のカードに見る円相

円環をまさに明瞭に表出した大アルカナの最後の21番目*(第三周の最終)のカード「The World / Le Monde」で現れる女神像は、まさに「茅の輪くぐり」をしているように見える。「死と再生」とは無関係に永遠の命を生きる「世界」とそれを囲むように「永劫の死と再生を繰り返す」植物の織りなす円環の象徴(円相)の組み合わせとなっている。カードの四隅に現れる象徴は、「四大: 地上的な四大元素、四大天使、四天王、4人の福音書家」などの象徴である(詳述はしない)。円のつなぎ目には「X」マークのような形の「赤いリボン」が見える。ただし、つなぎ目は2ヶ所であり、あたかも冬至と夏至の2ヶ所をリボンで繋げたかの様でもある。その場合、二匹の蛇が互いの尻尾を噛み合っているような円環にも見える。

* 「愚者:The Fool」のカードは旅をする主体である「ゼロ」番を割り当てられているので、合計22枚の大アルカナのセットであるが、「世界」は21番目と考える。

また、円の中心に描かれるこの永遠に生きる存在は、「永遠に女性的なるもの」であり、処女懐胎するマリア、地母神、あるいは豊穣の神としての役割を担っていくヴィーナス(ウェヌス)をあらわす像である。それはまさに、われわれの暮らす「世界」そのものに他ならない。

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左から原初的な「マルセイユ」セット、もっとも広く実用されているという「ウェイト+コールマン・スミス」セット(1910)、スペイン製のペーニャ・ロンガによる「イル・グラン・タロッコ・エソテリコ」セット。

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左からトリノ製の「アンティキ・タロッキ・エソテリチ」セット。そしてやや変則。悪名高き“オカルティスト”アレイスター・クロウリーの「トート」セット。大胆な「解釈」と感じられようが、このリース状の植物繊維の「円相」は、このセットにおいては完全に蛇(ないしウロボロス)の図案に置き換わっている。これはむしろ原始の象徴への回帰と呼ばれるべき現象である。

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前掲のタロット「The Wolrd」の図像の伝統を直截に受け継いだかに見えるクリスマス・リースと女神(天使)像。加えて注目すべきことに、「金色」に着彩されているリボンによる花は、やはりここでも3点。赤い花もしくは柊の実は、ここでは色が変わって「金」になっているが、「金色」であることはその「三位一体」の性質をよく反映している。

■ リースの模しているもの(色について)

この植物繊維のような縄を円環にして繋いでいる図像というのはまさにリースのところで確認した通りの元型を表現している。だが典型的リース(花環)において、とりわけわれわれの注意を捉えて放さない点とはその基本色である。つまり通俗的に「クリスマス色」として認識されている「緑・赤」のことである。その色を演出するために植物の緑を基調として輪が作られ、赤い「柊の実」や「リボン」などがあしらわれ、「赤」の要素は追加的に表現される。

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「緑」のボトルで作られた巨大なリース。如何に素材の色が重要であるかが分かる。

こうした年末年始のリースの色と形状からどうしても連想せざるをえないものがウロボロスの図像である。これは「我が尾を自ら食む齢を経た蛇/龍」である[図版2]。

ウロボロスの図像は、錬金術図書の冒頭、「扉」に印刷されることが伝統となっている。まさに思索的錬金術の図書が後世のわれわれに伝えようとしたことが、この一幅の単純な図画に凝縮されているといっても過言でないほど、ほとんど「機械的な作法」として錬金術関連図書の中に現れているのである。その「蛇」の図像は多くの解釈を許して来たし、何らかの円環を暗示するものとして理解されて来たことに違いはないが、それでは「何の回帰」なのかということをきちんと言語化した記述をお目にかかることは少ない。

だが、冒頭に「円環するもの」を提示して、人間の「錬金」という行為が何をもたらすもので、その物質がどのように「成長進化」して行き、それがどのような「結末」を迎えるのかということを象徴豊かに描いていると考えることで、その「円環するもの」の内容を的確に洞察することさえ可能だと言えるのである。

当然、そのウロボロスの暗示するものとは、自らの身体を消費しつつ生存すること、あるいは自己の「生存」が自己の「犠牲」なしにあり得ないことのアイロニーが含まれる。

そのウロボロスに起源を持つのがクリスマス時に玄関の「扉」などに飾られるリース(花環)である。リースはそのウロボロスの赤と緑の鱗がよく表現された円環の蛇のヴァリアントと考えることができる。しかも多くの場合、その円環のトップに付けられるリボンはそのウロボロスの顔(口)とそれの噛み付いている尾を隠匿し、同時に「始まり」と「終わり」を結びつける役割を果たしている。そしてそのリボン(ないしそれに準じる要素)は「暦茶碗」におけるある種の「炎」の代用物である。

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リボン部分が火の灯った「ロウソク」に置き換わったリース

リースのバリエーション:リボンのヴァリエーションとしてのロウソク。このロウソクはむしろリボンの代替物と考えるよりも、より本質的な図像の起源に戻っていると考えることが可能である。特に左側の「鉄製リース」は、聖体顕示台との類似も顕著である。

さらに、クリスマス・リースに多く見出されるように、それには三つの赤い要素、それは赤い花であったり、柊(ヒイラギ)の実であったりするのであるが、「三つの火の玉」の名残を留めていると考えることができるのである。また柊やそれに準じる刺を持つ葉が用いられる理由は、それが鱗状に見えるということ、そしてまた磔刑前にイエスの頭に強制的に被せられたと伝えられる「イバラの冠」を連想させるからである。つまりその冠は、「主の誕生」の時点ですでに準備されているのである。まさに、「イバラの冠」とは、われわれの住む世界、すなわち「茨の円相」なのである。

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イバラの冠 = 茨の円相 = われわれの住む世界

■ 最後に戻ってくる「円相」としての「ゼロ」

そしてこの円環するイメージというのは20世紀中期の第二次大戦の最終局面に於いて再び現れることになる。前回取り上げたニューメキシコ州アラモゴルドの「Trinity Site」の爆心地が「Ground Zero: ゼロ地点」と初めて呼ばれたのである。現在では「爆心地」全般がそのように呼ばれるのであるが、それはむしろ逸脱である。この「史上初」の核爆発爆心地が「0 : zero」となったのは実験の暗合名称が「0」であったからである。マンハッタン計画の起草から広島・長崎の原爆投下までを「従軍」記者の立場ですべてを書き記す立場にあったW・L・ローレンスの言葉を引く。

この装置に関するあらゆるもの──爆弾塔の置かれている地点、その爆発の計画時刻──が、実験の暗号名称「ゼロ」でまにあわされていた。あらゆる関係者にとって、「0」は世界の中心となった。時間も空間もゼロ0に始まりゼロ0に終わった。全生活がゼロ0に集中された。すべての人がゼロ0地点とゼロ0時間、いやどちらかと言えば、ゼロ0超瞬時のことを考えた。

W・L・ローレンス著『0の暁』崎川範行 訳

これは「歴史の更新」の始まる時間とその地点を時間座標軸と空間座標軸の「0」としたのである。しかもこれから引き起こそうとしていることの意味をよく理解している物理学者たちがほぼ無条件に受け入れた「始まり」(そして「終わり」)の地点を表す象徴であったのだ。

「緑」という色が特に「錬金術」そして円環の閉じる地点、時間の回帰地点の象徴が緑色との強い関連を持つという理由が以下のローレンスの著述の中に見出せる。

ちょうどその瞬間、地の奥からこの世ならぬ光が立ち昇った。それはまるで、無数の太陽が一時に輝いたような光だった。この世界にかつて見られたことのなかった巨大な緑色の超太陽が、何分の一秒かの間に二千四百メートルの高さまで立ち昇り、さらに高く高く雲に達して、目のくらむばかりの光輝で天地を照らしたような日の出だった。

(中略)その色は皆既日食の時にのみ見られるあざやかな緑色を呈した。(略)われわれは天地創造のとき、神が「光よ輝け」と叫んだあの瞬間にいあわせたような感に打たれたのだった。

W・L・ローレンス著『0の暁』崎川範行 訳

ここにこそ、門松の青竹や松葉の緑、クリスマス・リースの緑、ウロボロスの鱗の緑、茶の湯の茶の緑、そしてここではまだ語らないが、文殊菩薩の跨がる「緑の獅子」、そして錬金術伝統における「太陽をかじるGreen Lion」の緑の色、などなどの《祖型色》の理由があるのである。

臨済宗瑞龍寺天澤僧堂の禅師・隠山惟?(1754-1817)の円相の傍らに書かれているメッセージは「心月孤円 光万象を含む」なのである。

「金剛」への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<宝珠>の伝えるもの[2]

Thursday, October 13th, 2005

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今回は「新年」「宝珠」そして「三つの火の玉」に関わりのある話。特に「三位一体」性を具象化していると考えられる図像や象徴的名称などのいくつかについて言及する。

日本の社寺仏閣系の「聖なる地所」を訪れるとわれわれがしばしば通過しなければならない最初の場所として「門」がある。特に山門の左右、もしくは門をくぐってからしばらくして左右に「対称」に配置された二つの像に気付くであろう。多くの場合は、日本では狛犬(こまいぬ)などで親しまれている二頭の獣(けもの)の石像である。これは実に多くの場所で見ることができる。もちろんこれは正確に言うと配置を除いては「対称」ではなく、一方は「あ/ア」の音を発声する口をしており、他方は「うん/ウム」の音を発声する口の形をしている。つまり、「あ・うん」の二つに挟まれた場所をわれわれは静々と進んで行くということになる。その獣が実は「獅子」であるということは単独で特記することも可能だが、ここではテーマの関係上あまり深入りしない。

そもそも、この獣像にさえいろいろなヴァリアントがあって狛犬(= 獅子)だけでなく、有名処では「金剛力士像」のケースも散見され、また稲荷神社であれば左右の狐(キツネ)像*であったりもするのである。しかし、そのどれも左右の像が伝えようとしている記号は「あ・うん」なのである。

* 狐像もその尻尾の形状をデフォルメさせることで「宝珠」の様に見立ているケースがある。つまり左右の「宝珠」である。

「ヨハネの黙示録」には次のように書かれている。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきてそれぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパ(アルファ)であり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。」これは正にわれわれ人類の「時間への陥穽:歴史の開始」に関しての象徴的で警告的な表現である。キリストがそのように述べたという記述は実のところ、4つの福音書中一言もないが、この新約の最後に収められている「黙示録」には、キリスト教美術や教示画の伝統の中でキリスト像とともにその左右にアルファ(α)とオメガ(Ω)が配される根拠となっていると思われる記述が見出される。だが、「私は去る(不在だ)が、また再び戻って来る」と使徒たちに向かって約束したイエス(キリスト)と、その「アルファベットの象徴」とが、ひとセットになっている以上、実に必然的なことと言わざるを得ない。

これを読まれる方々にとっては、改めてことわるまでもなく「アルファ:α」と「オメガ:Ω」はギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字である。英語で言えばさしずめ「AでありZである」ということである。これには差し当たって二重の意味がある。時間(歴史)が自覚され、それが始まった以上、いずれ「それ」には終わりが来なければならないという、歴史の摂理に関しての比喩の機能が第一である。また英語の「(from) A to Z」という表現が見られるように、これには「あらゆるすべて: all and everything」という含意がある。最初から最後までの「すべて」を含んでいるという意味である。まさに人為の数々とそれらに対する報いという地上(現世)に起こる「すべて」のことを総合して呼んでいる訳である*。

* 「イエスのなしたことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書をおさめきれないであろう。」(ヨハネによる福音書21:25)という記述を想起されたい。

さて、一方「あ・うん」はどういう意味なのかと調べてみると、漢字では「阿吽」のように記され、簡単に言えばそれは「最初の音」と「最後の音」であるという定義がされている。「母音(摩多)12字と子音(体文)35字で構成される」という梵字(サンスクリット)の字母であり悉曇(しったん)すなわち「成就*/吉祥の意」なのである。そして「阿吽」は「「阿」は悉曇(しつたん)字母の最初の音で開口音、「吽」は最後の音で閉口音」とあり、言ってみればアルファベットの「AとZ」に相当するのであった。これは、ヒンヅー教のマントラ「A-UM」とも同様のものである。つまりインド・ヨーロッパ諸民族の共有財産として、アルファベット(文字)がギリシア語においてもサンスクリットにおいても最初と最後は「アルファ:ア」と「オメガ:ウム」と、共通なのである。

となれば、われわれが社寺境内で通過する「狛犬」「力士像」とは、まさにその獣/力士の口の形状によって「アルファ」と「オメガ」をわれわれに伝達することに目的があり、その「始め」と「終わり」の間を歩いて行くという儀礼を、知らず知らずに境内を訪れる人々が踏んでいる訳である。

日本の年末年始との関わりで話さなければならないこととして、家の門に備えるある種の季節的飾りとして玄関に現れる「門松:かどまつ」がある。これにもある程度のバリエーションが存在するものの、その基本的形状は簡単に記述可能なものである。「三本の青竹を縄で縛って束ねたもの」である。しかもその「青竹は斜めに鋭く断ち切られたもの」で、その鋭角のその形状は「竹槍」状であり大いに武器を暗示するものになっている。これが「正月の玄関の左右に置かれる」もので、左右対称ではあるが、それに期待される象徴的機能は社寺境内に見られる「狛犬」と同様である。すなわち「アルファ」と「オメガ」と同様に左右に配置するという行為なのである。つまりわれわれの家は「アルファ」と「オメガ」の狭間に建てられていて、われわれはそこに「住んでいる」ということを伝達するのである。むろん、広く信じられているように「神が宿る場所」を示すものであるという伝統的説明を否定するものではない。

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■ 典型的「門松」の在り方(イラストは最もシンプルに元型を反映しやすい)

しかしどうしてこの一つの長さを持った時間の「最初」と「最後」に「槍状の青竹を三つに束ねたもの」が出現するのかということを考察しなければならない。フランス王家(ブルボン家)の家紋であり、天使ガブリエルとの強い関連のある「フルール・ドゥ・リ: Fleurs de lys」の百合(もしくはアヤメ/カキツバタなど3弁の花)の紋章、聖パトリックが顕示したと言われる三つ葉のクローバーの形をしているハーブ、シャムロック: Shamrockの葉クラブ (club, clover)、ギリシア神話中のポセイドンの持つ三叉の槍(トライデント: Trident)、毛利家の家紋(三本の矢)などと同様に、「三つに束ねられたもの」が三位一体を表すことは言を待たない。いずれの場合も「武具」との明瞭な関連があることには最大の注目を払うべきである。それらはすべて危機的状況とそれに対抗するための防御具として理解されることがある。

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この章の冒頭に掲げたように、フルール・ドゥ・リは「槍の先端」に現れるパターンであり、また頻繁に防御壁(柵)や盾(シールド)に現れる形状である。トランプで知られる「三つ葉」の象徴は棍棒「クラブ」のことであり、振り下ろして敵の頭を砕く伝統的な武具である(また農耕民の象徴でもある)。また三叉の槍は現在「銛」の形で現存するものであるが、ポセイドンの例を挙げるまでもなく武具の一種と考えることができる。毛利家の家紋(いちもじにみつほし)については後述する。

20051013-moori.jpg ■ 毛利家の家紋「いちもじにみつほし」

一方、聖なる概念としての「三位一体」とは何か、という問いにもわれわれは答えられなければならない。これには「聖三位一体」というものが、何らかの「奇跡的な力」「尋常ならざる破壊力」との結びつきを持つものであるといういくつかの無視できない実例もある。

広島と長崎に原爆が投下される前に、合州国内で一つの原爆実験が行われていることは広く知られている。ニューメキシコ州アラモゴルドの砂漠で炸裂したこの「史上初」の原爆にはコードネームが付けられていた。マンハッタン計画の最後の局面に於いて最初の試験的原爆につけられた名前は「トリニティ: Trinity」であった。そして現在でもその原爆の点火された場所には「Trinity Site」と銘打った石碑が据え置かれている。つまり「この地は、三位一体の遺跡(現場)なり」と。

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■ 「錬金」は成った。「Ω(オメガ)の暁」アラモゴルドの砂漠で膨れ上がる火の玉 (fireball)の写真。


★ ★ ★

つまり錬金術の最終的な目標であった人為による「三位一体」の実現(金の生成)というものが、原子物理学の目標(核エネルギーの抽出:原子核変換)との間になんらかの寓意的な一致、もしくは(ある方面にとっては)明瞭な一致があるということである。西洋の錬金術用語(東洋の密教用語)と核開発関連用語との間の疑いようのない関係についてはいくつかの実例を挙げることも可能である。

システムの複雑さと安全確保に乗り越え難い困難があるために各国で頓挫、もしくは撤退している核施設に高速増殖炉というものがある。これは通常炉の燃料であるウランの燃えカス(灰)にあたるプルトニウムを「再利用」してさらに大きなエネルギーを得ることができるという「夢の発電施設」であるらしいが、各国における挫折や国内での反対にも関わらず、日本では依然として開発が続けられている。その高速増殖炉には「ふげん」と「もんじゅ」が、フランスに於ける同様の実験炉は「フェニックス」「スーパーフェニックス」という名前が付けられていた。つまり日本に於ける中型の実験炉には普賢菩薩の名が冠されており、より大型の商用の増殖炉には「智慧の化身」たる文殊菩薩: Manjushri の名が冠されている。文殊と言えば日本では「三人よれば文殊の知恵」という言?が知られていることに注意を喚起すべきであろう。「史上初」の原子爆弾のコードネームが「三位一体: Trinity」であったように、ここにも「三位一体」の暗示があるのである。そして最初に人の上に落とされた原子爆弾の一つは広島*に落とされており、この地は「三本の矢」の故事を遺したとされる毛利家と深いつながりがある。

一方、フェニックス(不死鳥)には「灰」から甦る「蒼い鷲」のイメージとして錬金術図版にも現れるものである。

* 広島を地元とするサッカーチームに「サンフレッチェ」と命名されたのには「聖フレッチェ(聖なる矢)」というラテン(イタリア)語を思わせる音を採ったと同時に「3フレッチェ」つまり「三本の矢」にちなんでいるという話は有名な話である。しかもチームカラーは「赤」と「青」の混合、すなわち「火と水の聖婚」の結果によって得られる「最後の色」、あるいはキリスト教会のレントの時期(キリスト磔刑後、聖金曜日の時期)に使われる聖なる色「紫」を採用していることにも注目すべきである。広島には「三位一体」の故事とともに核を暗示する象徴がすでに見られるのである。

そしてひとつの<出来事>がふたつの意味を持つ、すなわち「始まり」であり「終わり」であるということは、前回「暦茶碗」で見てきたように、同一のことの二面性を表している。それは「二つの時間的な周期の合間」に来るものということができる。さらに、丸く円周状になっている暦茶碗を宝珠の部分に切り込みを入れて、あたかも紙でできているものであるかのように平面へと「展開」すれば、当然のことながらその宝珠の部分に当たる「始まり」であり「終わり」である部分は左右対称に配置されるのである。厳密に時間が「回帰」するものではなく、直線的かつ不可逆的に進行するものであると考えれば、この「宝珠」は橋の欄干に見られる擬宝珠のように、ほぼ等間隔で配列されるであろうことは想像に難くない。

「宝珠」「狛犬」「門松」の様々な表象で象徴されるものとは同一のものであるということができる。

「金剛」への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<宝珠>の伝えるもの[1]

Tuesday, October 11th, 2005

正月の茶道の家元の儀式の一つに「初釜」というものがある。年始にあたり初めて竈の炭を入れ火を起こし茶釜に湯を立てて招待した方々に茶を振る舞うというものである。もうかれこれ十年以上前の話になるが、、生まれ故郷にも関わらず、留学先から帰ってきて間もなくの、見るもの聞くものがすべて新鮮に感じられた時期に、ある裏千家の家元の開催する初釜の儀式に招待頂くというまたとない幸運に恵まれたのであった。私のようなまったくの茶の道の部外者がその世界の一部を垣間みることの許される「開かれた」会なのである。

この「儀式」の最中にいくつかの特筆すべき発見があったが、その中でも忘れることの出来ない或る「物品」がその初釜に登場した。それは「暦茶碗」と呼ばれるものであった。茶碗にはいろいろな種類があるようだが、この暦茶碗と呼ばれるものは、その茶碗の外周に暦の名前、もしくはそれに準じる文字が筆で書かれており、それがぐるっと一巡するようになっている。一年の暦が一周すると、また最初から同じ季節が巡るという円環状になっていて、「ある意味」を伝達するのに相応しい、まさにその碗の(円周の)形状が活かされたデザインとなっているのであった。

とりわけ私の目を捕らえて放さなかったのは、その暦自体もそうであったが、暦が一巡するところ、すなわち暦の「始め」と「終わり」の出会うところに描かれている特定の図像であった。それがあまりに驚嘆すべきものであったので、「一体これはどういうことか」と静々と進行する初釜の儀式の最中に思わず叫ぶ失態を演じた。

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それは写真でご覧になって分かるように「宝珠」であった。私の異様なまでの関心に喜んだホストの方が、礼を失した私の態度にも関わらず寛大にも奥からさらにいくつかの暦茶碗を持ってきて、別の茶をたてて私に回してくださったのであった。そしてお茶が回ってきた時、それらを思う存分眺めることが出来たのだった。

茶碗の形状や色、そして書かれている文字の具体的内容はさまざまだったが、どれも共通して在るのがこの宝珠の徴なのであった。それは「三つの火の玉*」のように描かれていることもあれば、一つの宝珠が炎上するように描かれているものもあって、幾分のバリエーションは認められるのであるが、時の始まりと終わりに相当するところに出現する「それ」は、どれも燃えるように描かれる「宝珠」であることは共通なのであった。

* この「3つでひとつのペア」を成している宝珠の図像についてはまた別の機会に論じるであろう。

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■ カトリック教会に於ける聖体顕示台「モンストランス/サンビーム」にも見出される炎の円相とそれを支える「台座」のパターン

それでは「宝珠とは何か」。無論その時にそれなりの説明を受けたのであるが、それがその重要な本質に触れる説明でなかったとしてもホストを責めることはできない。だがホストによれば、宝珠とは「宝物の玉(ぎょく)」であり、「憧れを以て獲得を目指すべき尊い何か」なのであった。それを聞いたとき、すぐに連想したのが錬金術において獲得を目指すべき目的物である「金」、あるいは「金」のコードで表されるものであった。大辞林によれば、「〔仏〕 上方がとがり、火炎が燃え上がっている様子を表した玉。これによって思うことがかなえられると説く。如意宝珠。宝珠。」

また宝珠は、それを炎と考えれば天空へと「上昇」するものを暗示する形状ととることができるが、同時に水滴のように捉えた場合、それは地上に向かって「下降」する何かを暗示することになる。この象徴には垂直方向への運動、すなわち「上昇」と「下降」とが示唆されているのである。それを裏付けるものとして下のような記述がある。

如意宝珠の由来には種々の説があるらしく、「仏舎利が変化したもの、龍王の頭の中から取り出されたもの、阿修羅(Asura)との戦いの際に帝釈天の武器が砕けて人間界に落ちたもの、人間の善行や良い因縁の報いとしてひとりでにできたもの」などとも説明されている。特にここで注目すべきは、この「至宝」が、帝釈天(Indra: インドラ)と関わりがあるとも伝えられていることである(金剛杵の記述:「金剛」への第一歩エリアーデ語録 #3 参照)。しかもそこには強い「武器」の暗示がある。そして「炎」との関連は、その形状や描かれ方からは疑いを容れる余地のないものである。

つまりどう控えめに言っても「それは二つの時間的な周期の合間」に配置されていて、それはまさにその「周期の合間」に生じる、流動的で「カオス的な」状態」(前出:エリアーデ)の<象徴>の元型的顕われの重要なひとつと視て取れるものに違いなかったのである。

一方、宝珠の形状というのはわれわれが最も「親しんでいる」ものとしては、いわゆる擬宝珠(ぎぼし/ぎぼうし)という橋の欄干や仏閣の屋根などに据え付けられているタマネギ(ネギの花/ネギ坊主)状の「飾り」である。この膨らんだキノコのような形を思わせるものは、実は世界各地に見出される。特に聖なる地所において。だが、日本では例えば九段下の日本武道館の屋根の上に載せられている巨大な「黄金のたまねぎ」が有名である。おそらく日本で最大級の宝珠のひとつと言えるかもしれない。それが「武道」を行なう儀礼の場所に「偽装的に」顕われていることにも注目すべきである。またイスラム圏ではそのようなドームを持ったモスクはいくらでもある。それらの多くが「金色」に着彩されており「金」との関連が暗示されている*のである。

日本国内に目を戻せば、日本庭園や寺社で見出される石灯籠の頂点に置かれているものである。これにはまた別の説明があり、石灯籠の構造は下から、地・水・火・風・空の順序で垂直に並べられているのである。その理解からすればこの石灯籠上の擬宝珠は、「空」に当たる訳である。

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増上寺の石灯籠

* あるドキュメンタリー映像の中で、パキスタンの核兵器製造に関わったある物理学博士が大学の生徒の前で最終的な目的、すなわち「核エネルギーの抽出/核爆発」の実現のプロセスを板書したとき、そのチョークによって描かれたキノコ雲の形状がまさに「宝珠型」であったことは無意識であったにせよ、ひとつの祖型の共有を表しているとしか考えられなかった。その映像でその教室の窓から近隣のモスクのタマネギ屋根が黄金色に光っているのが映し出されたのを私は見逃さなかった。

結論から言えば、ここでその「形状」がわれわれに示唆するものは「memento mori」(死を想い出せ)というメッセージに他ならない。すなわち「始まり」があって「終わり」がある「それ」が、永遠でないことを想起せよというメッセージなのであり、多くの人によって眺めることができる高所(屋根の上など)に堂々と掲げられているのである。モスクや武道館といった施設の「頭上」に、そして「世界の頂点」に据え置かれるのである。

それは個人の死 (small death) に関わりがないと言えば誤りであるが、第一義的には集合的なより大きな人類の経験したことのある「死」への記憶を呼び起こすものである。そしてそれは同時に「円環」である以上、未来を指し示すものである。それが日常的な個人の死ではなく、集合的な死であるところにその<出来事>が後に宗教的なものに集約されていく理由がある。そして宗教は(とりわけアジアの宗教において)その「死」の回避の知恵を教示するものとして発展した。だがその死の記憶の共有なしに伝授されるべき秘儀もあり得ないのである。

さて、茶の湯に話を戻そう。

灰の中に注意深く整えられ制御された炭と炎、そして火によって鍛えられた鉄瓶(鍛冶術の成果のひとつ)の中で煮立てられ儀礼的に聖化された「水」は、最期に「緑」の葉の煮汁を抽出する。そして、この戦慄すべき「暦」の施された道具の中に注意深く注がれた緑色のどろどろの液(お濃い茶)を会衆の皆で最期に廻し飲みをするという儀式に大いなる触発を受けたのだった。これはほとんど「毒を呷る」行為に等しい。

茶の道がこれほどまでに敬意を以て保存されて来たのは、まさにこの永遠回帰の秘儀とその共有に関わる重要性のせいに他ならないという確信が生じた。これはまさに秘密の共有(共犯関係への参入)の儀式なのである。げに、茶の湯とは恐ろしいまでに無駄なく形式化された動作や道具を通して保持されたホストとゲストとのあいだの完璧なる入社儀礼であり秘儀伝授なのであった。そこにはあるいはまた、フリーメイソンの儀礼さえ凌駕するような象徴体系を保持した一種の「結社」と考えるべき理由がある。

そして私にとっては、その悠久の昔から続いている会衆への通過儀礼(イニシエーション)が、まさに部外者へのイニシエーションとして機能した瞬間だったのである。

関連:“火花”を散らせ!──「金剛」への第一歩(続編)

二つの周期のリレイ地点を想う
エリアーデ語録 #4

Thursday, October 6th, 2005

古代ローマの暦では二月が一年の最後の月であったため、それは二つの時間的な周期の合間に生じる、流動的で「カオス的な」状態をあわせもっていた。規範は一時、機能を停止し、死者は地上に帰ることが出来る。また、ルペルカリアの祭りが執行されるのもやはり二月で、それは「新年」によって象徴される世界の更新(=世界の儀礼的再創造)を準備する、集団的な浄化儀礼であった。

エリアーデ『世界宗教史II』「私的祭儀──ペナテス、ラレス、マネス」

page 125より(太字は引用者による)

日本の正月にも「集団的浄化儀礼」の要素が色濃く残されている。正月を「世界の儀礼的再創造」であると意識して過ごす人は、脱聖化が進行した今の日本では僅かであろう。しかし、その儀礼的傾向は今にして抜き難い強さを放っている。

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一つの混乱と終わり、そして僅かな数のサバイバー(生存者)による世界再生の儀礼は、ユダヤの伝統文化の中では、より具体的な形で生きている。その最たるものが、「過ぎ越し祭(ペサハ): Passover」である。「過ぎ越し」とは言うまでもなく旧約の「出エジプト記」で記述されている当時の覇権国家エジプトからのモーゼ率いるユダヤ民族が一斉脱出をし、民族規模の艱難辛苦を「過ぎ越し」たこと記念する行事である。だが、現在の「過ぎ越し祭」はそれを記念することを口実にした言わば「クリスマスと正月が一緒にやってきたような」(Exodus: 脱出成功を祝う)祝祭的な雰囲気を持つ「私的」祭儀と化している。しかも、どうやらそのような意味合いに変質していたのはイエスが生きた「新約の時代」にすでにそうであったようであり、その様子の一端が「福音書」の中にも見出される。

まさにイエスが磔刑に遭う「金曜日」とは、ユダヤの人々が「過ぎ越祭」を祝うための準備に急がしい「前日」であったことが分かっているわけである。そもそもイエスの刑死が「13日の金曜日」であったことなど聖書の記述に求められるものではなく、あくまでも民間伝承によってでしかない。だが「13日であった」ということの象徴的意味を解き明かす場所ではないのでここで詳述しないが、<それ>が起きたのが「金曜日」であったことには、こうした新約聖書における「過ぎ越祭」記述に根拠があった訳である(史実としてよりは、あくまでも象徴的な意味で)。そして、この二つの<イベント>(「キリストの刑死及び復活」と「ユダヤ民族の脱出サバイバル」)の「季節的一致」は、それまた偶然ではなく、こうした世界の更新が「現象世界の世界的現象」として共有されていることを意味しているのである。

さて、翻って日本における正月とは、新年が明けてしまえば嘘のような「静寂」と言うか「清浄さ」をたたえた年間でも特殊な意味合いを持つ「聖なる休日」となるわけであるが、その休日を静かに過ごすために、年末の特に「晦日」「大晦日」の2日は、上や下への大忙し、「時間との戦い」の様相を呈するものとなる。まるでこの典型的な「師走の風景」が、過ぎ越前夜(金曜日)の日没以降は「火を起こしてはならない」「火を通した食物を口にしてはならない」という厳格なユダヤの律法を何としてでも護るために、必死になって祭の食事と休日の食事の準備しなければならない多くのユダヤ人家族を思わせるほどのものである。過ぎ越後の(新年の)食事は火を加えられないので冷たい(火を通さなくても良いような)食べ物となる。それは、日本の正月の場合は「御節(おせち)料理」(という名の緊急ランチボックス)となる。それもこれも過ぎ越後の数日(正月)を静かに何もせず(仕事をせず)に過ごすことが極めて重要だという通念を共有している訳である。

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マッツァ(左)とマッツァカバー(右)

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重ねて置かれたマッツァ(上)

ユダヤの「過ぎ越し」で重要な食べ物にはセイヨウワサビの摂取などいくつかの要素があるが、その内のひとつに「マッツァ」と呼ばれる「種無しパン: unleavened bread, azyme」がある。これは、イースト菌(酵母)を入れて発酵させ膨らました通常のパンと異なりまったくふっくらしていない、さしずめオードブルのクラッカーのような実に味気ないパリパリの薄っぺらい大型パンである。これは「出エジプト」という「非常時」における辛苦の期間中、発酵させた「通常のパンを先祖達が食べられなかった」という民族の記憶を留めようという意図がある、と(家長によって)説明される儀式の一部であり、過ぎ越祭の期間中、ずっとテーブルの上に「重ねた」状態で置かれており、しかも布をかぶせてあるのである。

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このなんの変哲もない鏡餅に、「円相」「至上権象徴物」「炎(陽)」「対称」「歴史の三層構造」などなど、これから順に見てゆくあらゆる祖型的要素が含まれている。



一方どんな理由でか、日本には新年明けてしばらくは通常の「暖かい米(ご飯)を食べない」という習慣がある(伝統的にはほとんど禁止されてブレーキを掛けさせられたような感じでもある)。その代わり、餅米を使ってあらかじめ搗(つ)いてある「モチ」を食べるのである。これもおそらくもともとは、火を使わないでも食べられる保存食のようなものとして、年間でも正月の期間限定で登場する、極めて儀礼的要素の強い食べ物である。ご存知のように、このマッツァならぬモチは重ねて聖なる場所にしかるべき儀礼的期間だけ安置されるのである。

ここまで記述した上でも、ユダヤ民族と日本人との間の「不可思議な暗合」を強調するのが本論の目的ではない。安っぽい旧弊な「日猶同祖論」を展開しようと言うのでもない。この話はそのような話よりも遥かに大きなフレームの話なのである。

そうではなくて、「“年の最後の月”の“二つの時間的な周期の合間”に生じる、流動的で“カオス的な”状態」の忠実な再現が、日本人とユダヤ人の両方に見出されるということに他ならず、新しい周期の初期段階では「質素なものしか口に出来ない」という状態であったことが想像できるということなのである。そして、それは過去の何らかの「苦難」を記念するものとして出来上がったひとつの「記憶術」に関係のあるものなのである。

「死と再生」と「世界の更新」から観た
『タイタニック』考

Wednesday, October 5th, 2005

■ 「死と再生」の祖型パターンとしてのタイタニック・ドラマツルギー

映画『タイタニック』で描かれている物語の核は、タイタニック級の巨大客船が正に地球上の人類の造り上げた文明世界の縮図であるという一点に尽きる。そしてそれは「建設」され、文明を沈むはずの無いと信じる大量の人命を抱えたまま「崩壊」するという法則を描いている。例えば、それはエリアーデ風に言えば「インド・ヨーロッパ諸民族の間に観られるイデオロギーの三分割を表現している」。すなわち、呪術的・法的な支配の機能(バラモン:ジュピター)、軍事力を司る機能(クシャトリア:マルス)、豊穣と経済的繁栄をもたらす機能(ヴァイシャ:クィリヌス)となるわけであるが、それは船を水平に三分割し、「法的至上権」を持つヨーロッパの貴族達とアメリカの新興の成金階級達が船の最上部を占めており、二等、三等と下に行くにつれて、アイルランドやスコットランドなどの社会的下層(非支配階層)となる。「力を司る者達」は、沈没直前まで途切れることなく電力が供給するために船に残る。また最期まで救命ボートを用意し人々を移す役割に淡々と専念する。彼らこそクシャトリアの名に相応しい存在である。そして新天地を目指す貧困層は第三階層の「ヴァイシャ」に相当し、さらに下には、「不可触民」たる地下世界の住民(夜昼なく奴隷のように働かされる石炭焚き達)が、ほとんどその存在さえ気付かれることなく船を動かすための燃料補給をしている。

船長の「短い不在」(睡眠)の間に、船の命運を決める災害が起こる。それから起こることは、緩慢だが確実な「水による世界更新」の洗礼である。

特に、主人公の女性に起こることを通して、典型的な通過儀礼(イニシエーション)によって文字通り「生まれ変わる」人間の姿を描いている。まず、自分の生き方を変えようと決心したとき、彼女は船の突端で「鳥」になる。これはすべてを鳥瞰する「天界への飛翔」の瞬間を意味している。むろん、この手の「飛ぶ」イメージというのは宮崎駿映画などでも常套手段となっている程一般的な「日常」を超える至高体験描写であると言ってしまえばそれまでである。

だがその後の「世界の破局」を迎える彼女には、愛する者のために地下に閉じ込められている少年を救い出すという英雄的な「地下の迷宮行」と極寒の水を超えて延々と進んで行く道行きを含んでいる。また、主人公を命に関わる試みに遭わせた悪漢は火を噴き出す地面の割れ目、すなわち「地獄の業火」の中に落下する。そして愛を貫くヒロインの行為は、その絶対的な自己滅却の傾向を表す反面、「自分が救われる」ための結末へと近づく。彼女は愛する者を救うことなしに自分を救うことは出来いからである。「救命ボート」に乗ることは旧世界との関係を断ち切ることを不可能にしたし、沈み往くタイタニックに戻ることは自力で生き残る戦いが不可避の選択となるからである。しかし、当然のことながら独りの女の「生まれ変わり」を描く以上、彼女は愛する者と真に生きるための死闘を選ぶ。そしてその後は、選び取った者(若い男性主人公)の冷静かつ本能的な生存への直感的指導に疑うこと無く素直に従うことで、自らの「生還(死と再生)」を成就するのである。

沈み往くタイタニックの水で満たされた「丸天井」のある広いサロンに、一瞬ヒロインを思わせる白いレースを来て漂う「高貴な女性」の水死体が幻想的に映される。これは今にも船尾を垂直に立ち上げ、最期の断末魔を挙げようとする船の「頂上」に向かって意を決してまさによじ登ろうとする女主人公であるはずがないのであるが、同時に旧世界に属した彼女自身が一旦「水死」したことを象徴的に見せている訳である。

いよいよ巨大な渦を発生させながら船が水没し、その渦に巻き込まれ海中に沈むことで「完全な闇」の苦行を体験する。その後、凍てつく海上に漂うところで「氷の洗礼」を受ける。やがて急速な低体温症によってほとんどの最後の生存者まで凍え死に叫び声さえ聞こえなくなった海に、女主人公だけがひとり残される。これが絶望的な「完全な途絶」を体験する。こうした一連の通過儀礼の経過が完璧なシナリオによって描かれるのである。

※ ※ ※

■ 沈没事故の「現実」と現代文明

タイタニックが北大西洋の海に沈むとき、その乗客乗員の中で、その出来事の影響を被らなかったひとは一人もいなかった。それは僅かな生き残りの含めてである。沈むに際し生存の機会は富める者達に有利に働いたことは言うまでもないが、数の少ない救命ボートへ乗り移る機会に与らなかった者達にとって、その「世界」の社会階層はもはや意味をなさないほどの大混乱となった。船とともに、海底深くまで引き摺り込まれて行った者、海に引き込まれずに救命胴衣を付けたまま凍てつく零下の海上に浮かんだ者、運良く救命ボートに乗れた者、救命ボートから落ちた者、三等客室から出られなかった者、人を救った者、救われた者、人を押しのけた者、押しのけられた者、船に残ることを選んだ者、肉親と別れることを選んだ者、肉親と留まることを選んだ者。海上に浮かぶ者を救出に戻った救命ボート、みるみる凍り付いて声を上げなくなった海上を漂う遭難者のところに戻らずに、ただじっとしていた救命ボート。船上のあらゆる存在の中で、船に乗り込むことを選んだ者達の中で、その沈没という<出来事>の影響を被らなかった者はただの独りもいなかった。誰一人として。船が生きる縁(よすが)である限り。これが「一蓮托生」の意味である。それはタイタニックという名の惑星に張り付いた一本の根を持つ植物なのである。その<出来事>の中で1500人を超えるという人々が、北大西洋の何の救助も期待できない孤独な海上で、海に飲み込まれたか投げ込まれたのだ。

そしてわれわれの住むこの世界もそのタイタニックの運命と如何ほど違うというのか。違いは70億近い人々が一つの運命を持った母船に乗っているということである。この地球上で起きる<出来事>は、誰一人としてその影響を被らないでいることが不可能なほどの規模で進行している。すでに氷山とは接触した。水の浸入は始まった。あるいはこれから接触するのかもしれない。氷山接触への海路をひた走っているのかもしれない。浸水であるにせよ、氷山への驀進にせよ、その出来事の規模が大きいが故に、その衝突によってこれから起きる<出来事>の深刻さに気付かずにいるだけだ。そして、規模があまりに大きいためにまるで静止した様にしか見えない。しかしその進行は力強く確実だ。いくつかの兆候は起きている。船の舵取りを廻って熾烈な戦いが起こる。その結果、運の悪いことにわれわれの船の操舵室と一等客室はごく僅かな人間どもによって乗っ取られた。その選択の方法も極めて狡猾なやり方だった。<民主主義>の理念を反映しない議会制民主主義と呼ばれる方法が注意深く選ばれ、われわれ一人一人には選挙権が1票だけ与えられた。これを行使することが民主主義としての政治に参加することであると耳には告げられた。ありとあらゆる既得権者保護と優先権取得のために力を持った極一部の者だけが甲板に集結できるようにした。そして操舵室には自分たちの向かおうとする目的地へと、好きな速度で疾走してくれる船長、そしてクルー達を送り込んだ。彼らがどう(それ自体が身代わり*かもしれない)その船を動かすかは、この僅かな人間たちの奢侈な「社交界」で決まった。彼らは必要ならもっとも快適な甲板の日を浴び、また外が寒ければ毛皮を羽織って葉巻とブランデーの待つ暖かいサロンに避難することも出来た連中だ。片手には身体を温めるためのブランデーがあり耳には心地よい音楽があった。そしてそのサロンに集合する極僅かな連中が彼らにとって都合よく「船が運営される」ためのあらゆる法を造った。合法的な手段で悪法を成立させ悪法はあらゆる悪を実行した。そして合法的に世界を破滅させる舵取りをさせ、僅かな船上生活の中で少しでもよい場所を陣取ることに邁進した。法律は唯一にして平等に適用されるべきものであるにも関わらず、不平等を実現するための手段と化した。工場のような巨大な機関室は大勢の石炭焚きを残したまま真っ先に密閉式の閉鎖扉で断絶され最悪の焦熱地獄は一転して非情なる水攻めの密室と化した。三等客室の人々は檻のような扉に閉ざされ避難路さえ断たれた。舵取りは誤った。連中の「思い通り」の運営さえ、自分たちを護れないほどの判断過誤を犯して船の針路は氷山へと方向が確定した。激突か接触か。いずれにせよ氷山との邂逅までは時間の問題だ。それまでの時間をどう過ごすかをわれわれは求められている。舵取りを彼らに任せたままにしているのか。操舵室を占拠する者から舵を奪回するべきなのか。船底で石炭を炉に放り込む石炭焚き達はこの出来事が定まっていても作業を続けるべきか。彼らに船の進む方向を知らせなくて良いのか。もはやすでに運命が変えられないほどの速度で破滅に向かっていることが明らかな時、どのようにわれわれはその時間を過ごすべきなのか。僅かな生存空間を求めて僅かな残り時間を争って過ごすのか。愛する人とともにその時間を過ごすのか。愛する人と別れても、自分の役割を淡々と果たすのか。はたまた愛する人と過ごすことが自分の役割なのか。この単純な構造、沈み往く船、という「現象世界の世界的現象」の中で、われわれはその判断を迫られている。

※ ※ ※

■ 消えてなくなる巨大客船

「現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が消化され、残りも約90年で消滅するだろうと言われている。」ウィキペディアの「タイタニック」の項

つまり、僅か200年足らずの間に鉄骨なんかもすべてなくなるという訳である。恐るべし、海の力。われわれの「乗り込んで」いる鉄文明たる「タイタニック」も、たったこれだけの時間で「水の洗礼」を受ければ消滅できると言うこと。科学が扱える「実験的に証明できるような正確な対象物」は、これほど脆く地球上から消え去るのである。

* タイタニック身代わり説:

J. P. モーガンの子会社である船会社ホワイトスターが、外観が全く同じ新品のタイタニック号と古いオリンピック号をすり替え、経営不振からの脱却のために、保険金入手目的でタイタニック号(実際に「事故」に遭ったのはオリンピック号)を氷山に衝突させ沈没させたという陰謀説。その真偽はともかくとして、陰謀動機と実行可能性、そしてそれを裏付けるかに見えるいくつかの状況証拠は、非常に興味深い。

豪華客船「タイタニック号」は沈められたのか