Archive for September, 2004

“幽霊”は父だけだったか?(『父と暮らせば』を観る)

Sunday, September 26th, 2004

Date: 2004-09-26 (Sun)

昨日。永山に誘われて、映画『父と暮らせば』を岩波ホールで観る。原作(井上ひさし)から監督(黒木和雄)、主演女優(宮沢りえ)に至るまで今まで縁が無く、特に興味を持ったことのない人たちばかりだったが、「中野・手の会」つながりもあり、強い永山のプッシュもあり、大きな期待も抱かなかったが「悪い映画であろうハズがない」と信じて行ってみたのだ。

控えめに言っても、考えるところのいくつかある映画であった。

舞台は原爆投下後3年目の広島。出てくる人物は、図書館司書たる主人公の美津江(宮沢)とその父(原田芳雄)、そして美津江に心を寄せる(?)青年(浅野忠信)の3人だけである。画面上に登場するのは、美津江の同僚で、図書館受付で美津江の席の隣にいるもうひとりの女性職員を入れれば4人だが、その人物に台詞はない。いかにも「戯曲を元にした映画」という感じで、場面の殆どが廃墟の一歩手前の美津江の住む「家屋」の中だ。そして、このドラマは全体として、娘と幽霊になったその父との言葉のやりとりだけで、ほぼ成り立っている。舞台劇としての井上ひさしの原作を、おそらく忠実に映画化しようとしたために、抑制の利いた表現が全編を占めることになったのだろう。特に舞台に奥行きのある岩波ホールだからそのような感じがしたというのもあったかも知れないが、映画を観ているというよりは、まるで目の前に良くできた美術の舞台演劇が出現したかのようでもあった。しかも過剰になりがちなな舞台俳優の演技なしで。

映画でしか表現できないような特殊撮影は、原爆投下直後に炎熱の塊がヒロシマの街を一瞬にして覆い、街を破壊しながら広がっていくという、終末的なおぞましい場景のシミュレーション部分くらいである。この特殊爆弾を投下したアメリカ兵たちでさえ、強い「緑の閃光」のために直視できたはずのないその場景は、映画だからこそ“視覚化”可能であったのだろう。殺戮された人間とほぼ同数の人間が総動員体制でその製造に関わったというたったひとつの大量破壊兵器が、文章による記述だけでは想像の及ばなかった巨大なスケールと速度で「ほどかれ、展開され」、その力で未曾有の破壊が起こったことが、まるで神の視点のように「鳥瞰」される。

一方、「幽霊たる父親」の登場や退場に対してさえ、特殊撮影の技術を用いようという演出上の意図さえない。むしろ、生前の父親とそのまま同居しているというくらいのリアリティでそこに「住んでいる」のであって、そこにはいっさい非現実性がない。そこにいる「父」は、実はある事情で「すでに死んでいる」のだということが観ているものに時折思い起こされるくらいである。そうした種も仕掛けもない平板な舞台演劇風の映像の中で、前述した一瞬の特撮映像と一部引用される「原爆絵」は、大きな力を持つ。

宮沢の演技にも大袈裟なところがいっさい無く、ヒロシマを“生き延びた”(と思っている)若い女性の微妙な「罪悪感」というものを自然に描いていた。彼女の演技には初めて驚いた。



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さて、物語を物語とさせている一番の核となる部分の話をしなければならない。それは、生き延びた美津江の「生き延びたことに対する罪悪感」についてである。正直言うと、見ている間じゅう私はある種の違和感と疑惑を感じながら映画を観つづけた。生きていることに対して感じる罪悪。そのようなものがあるのだろうか? 少なくとも自分の直接の責任でない大量殺戮を生き延びたことで個人の心に「罪悪感」が巣喰うことがあり得るのか、と。

私のかくも貧困な想像力は、それがすぐには理解できなかった。幸せを目前にしてそれを掴むことにためらう娘に「なんでなんじゃ?」「おまえは病気なんじゃ」と叫ぶ父。こちらの方の気持ちはよく分かった。

しかし、一緒に観に行った永山は、原因がヒロシマの原爆を生き延びたというような、「戦争による肉親との死に別れ」によるものでないにしても、そのような「生きていることの罪悪」の意識を永いこと持ち続けることがあり得ることを、実感以て理解できると私に説明した。この説明に私は自分の想像の及ばない「痛み」がひとの心に宿りうることを、初めて悟ったように思った。

不条理な肉親との死に別れという体験は、逝った人間に生前関わった人々が、その死の原因の責めをどこかに求めようとする、という。たとえば自分は生き延びて子を失った母は、生き延びた子の親友に「どうして私の娘は死んで、あなたは生き延びたのか」と問う。その「問い」は、本当は子の親友に子の死の実質的な責任を求めているわけでないだろうし、ましてや論理的ではないのかも知れないが、運命の不平等に憤りを覚えていることに違いはない。その納得が難しい不条理は「やり場のない憤り」となって外に向かい、生き延びた僅かな人々を傷つけ、まったく不当な罪悪感の種を植え付ける。

だが、永山曰く、本当に自分に降りかかった不幸に対する「責め」が、特定の対象を見つけられないとき、やり場のない憤りは、最終的に「自身の内側」に向かうのだという。つまり、「自分が悪かったからその不幸は生じたのだ」そして「自分にはそもそも生きる資格がなかったのに」ということになる。つまり「幸せになることを拒否する」ことで自分を責め苛むのである。言い換えれば、それは「緩慢な自殺行為」であり、明らかな自傷行為であるということができる。確かに原爆による肉親の死に対する「責め」が、どうして自分の内部に向かえるのか? これは、一見して分かりにくいことではあるし、全くの不条理ではある。だが、それが起こるのがこうした「不条理な死」の本質でなのある。

戦争でなくたって肉親の「不条理な死」は、癒しがたい傷を人の心にもたらす。自分が生きていて良いのかという「罪悪の感覚」は、何十年でも人の心に巣喰うことができる。ある者はその罪悪感からゆっくり時間を掛けて立ち直り、やがて幸せを掴むかも知れない(美津江がそうなったかもしれないように)。しかし、一方で、その罪悪感に苛まれながらそれを二度と克服できず、一生掛けて闘いながらも「立ち直り」を経験することなく、潰えていく者がいてもおかしくはない。

ましてや、戦争などという不条理で肉親や子を失う人々が、結局そうした傷を克服できなかったとして、それはその傷を負った人たちのせいであると言えるのだろうか? 戦争の災禍は戦いの最中だけにあるのではない。それはまさに、眼前で肉親を失いながらも生きていかなければならなくなる、あらゆる生存者たちの心の中に、執拗に持続していくものだ。「戦争の悲惨さ」という言葉は、使い古された言い回しだと冷笑する向きもあるだろう。「戦争は悲惨だって?...モチロン悲惨だよ。感情的な判断だね。でもそれが(必要悪としての)戦争なんだよ。でも誰も好きで戦争なんかしやしないさ」。そういう言葉も聞こえてきそうだ。

しかし、戦争を闘っていないこの今の時代にこそ、われわれの想像力、人の心の襞に入り込めるだけのコンパッション、肉親を死を容易に克服することのできない人間の心の限界を予見できるだけの「知」を、身につけなければならない。平和主義を「感情論」の一言で嗤う者は、文明活動でいかに遠大な目標を目指す者でも、最終的にその目的が人間の感情に帰着することを無視して、その目的(人類の幸せ)の達成を論じることに過ぎず、そのような感情を無視しての論陣など、完全に無意味であることを知るべきなのである。まったくもって、感情論とは本質論なのである。

『父と暮らせば』は、そうした鈍りがちなわれわれの想像力を、もう一度研ぎすます機会を与える映画なのである。



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以下は、映画全体の価値を損なうかどうかという議論ではない。映画の終わり方に関わるので、この映画を観るかも知れないひとはおそらく読まない方がよい。

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望月治孝さんのライヴに勝手に飛び入り

Saturday, September 11th, 2004

今年の9.11は、グッドマンにいた。お客に来て欲しくないと言う望月さんのソロパフォーマンスに後半お邪魔した。対バンは清水さん達。対バンの人たちもじっと注意深く望月さんのやることに耳を傾けている。

自分の目指すものが音楽でないという望月さんだが、前半を聴いて激しく音楽を感じた。良いものは私にとって音楽なのである。それを音楽でないと呼びたい気持ちは少し分かる。でも彼にとって音楽でなければないほど、私には切実で真実の音楽であり得るのだ。

どうしても一緒にやりたいと思っていたら、誘われた。嬉しかった。私は私なりのやり方で、音楽ならぬ「音楽」をやりたいと思った。それで、一番私にとって許し難い方法、すなわち演奏したことのない楽器でデュオをやることに決めた。吹いたことのないサックスを吹き、叩いたことのないドラムを叩いた。

これくらい新鮮に楽器に向かえるのであれば、はじめて望月さんと互角に向き合えると思ったのだ。

記録がどうしても聴きたいと思ったので、鎌田さんにお願いして、カセットテープにモノラル録音をして貰った。(それがまたいい音がする。)後で聴いて、心底やって良かったと思えた。そこには、私の「音楽」があり、そしておそらく望月さんの「音楽ならぬもの」があったからだ。

(11.20.2004記)