Archive for May, 2007

ノスタルギアとは何か(定義2)

Thursday, May 31st, 2007

あるいは、「自覚しているかどうかはともかくとして、《この世》を生きる全ての人々が実は敬虔なクリスチャンである理由」

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かねてからあちらこちらでお噂のあった通り、キリスト様が復活を致しました。(復活してからもう随分経ったというお話もあるようです。)何しろ私たちを放っておかれてようやく三日目の再登場ということですので、まことにお目出たいことでございます。もちろん三日と申しましても天にましますあの方にとっての三日でございますから地に這いつくばって生きている私どもから致しますれば、それはもう永遠に思われるほどの長きに渡る放置プレイでありまして、もう二度とかのお方が私どもを助けにやってくることはないのではないかという悲観論も頻出致しました。

復活にそれなりの時間が掛かるのは、きっと何か私たちには計り知れない御事情がおありだったんでしょう。でも「かならずや、I’ll be back」と仰られ、この世を去られた御方が本当にまた戻ってこられるのかどうか、もう侃々諤々の議論を引き起こしたりする中で、私たちは疲労困憊。仲間内でも不信心者がだんだんに出てくる有り様。もう一日も早いキリスト様の復活を待ちわびていたのでありました。そこで華々しい鳴り物入りで、この度その復活が宣言されたのでありました。いやさかいやさか。

キリスト様が復活なされたことで、お噂通りさまざまな驚くべきことが起こり始めました。まず絶対に助かる見込みが無いと言われて諦められていた重病患者たちが次々と死の渕から生還し始め、普通に生活ができるようになったのです。これは最も著しいキリスト様の恩恵と言うべきでしょう。それだけではありません。畏れ多くも、なんと死んでしまった人を生き返えらせるようなケースさえもが(余り多くはありませんが)、あちこちで報告されるようになったのです。実際に心停止を起こして死んでしまってから蘇生する体験をした多くの人びとの有り難いお話を集めた『臨死体験』という読み物も大変な人気を博したのは皆さんのご記憶にも新しいことではないでしょうか。もうそこらじゅうにそうした聖人紛いのことを言い出すニューエージャーたちが溢れかえっています。いやはやありがたや。

おお、これを忘れてはなりません。真水から大量のワインや発泡酒、そして世界中のお酒が湯水のように造り出され、地球のどこでも味わうことができるようになったのは愛飲家にとって大きな福音であったと言えましょう。

そして水の上を歩行する機械、空を飛ぶ機械、ありとあらゆる奇跡が、まさにみるみる現実のものになっていったのであります。家に居ながらにして地球の裏側に居る家族とお話しをするなんていうことさえ、もうどなたも驚きは致しません。

またキリスト様の得意とする大量資本と労働力を集中的に投下する集約的生産体制と合理化によって、考えられないほどの収穫物を得、物資不足も食糧難もほとんどなくなったかに見えました。これほどの豊かな収穫を私たちが畏れ多くも味わうことが出来る恩恵に与るのも、キリスト様の御再来あってのことなのは、いまさら疑う余地もございません。「否、否、世界中には飢えて死ぬ人がまだまだ居る」などという人聞きの悪い噂もありましたが、それは多分、未だに異教を信じる人びとのことであって、まだキリスト様の放たれる御威光の届いていないところに彼らが運悪く住んでいるからに他ならないのであります。ですから、ここが重要です、キリスト様の再臨を告げる「良いニュース」を今からでも地球の津々浦々まで遍く届ける必要があるのです。なぜなら信じる者は救われる。信じる者はこのシステムを利用でき、信じる者はこの世でよりよくサバイヴできる、そんなチャンスがあるのです。取り込まれよ諸君! 信じるところ、何処でも、その方はおられ、信心篤き人の居るところ、至る所に遍在するというユビキタスを、その本性とするのは、救世主様についてよく知られたところでありますから。

それはさておき、今この時点でこれほどの恩恵をキリスト様から授けられているにも関わらず、かの方の復活を心からは喜べない不信心者どもが、まだ私どもの間にいたのも確かです。恥ずべきことです。その人たちの口を揃えて言うには、キリスト様のお陰で平均寿命が大幅に引き上げられたので、それ自体は良さそうな話ではあるが、地球上は人間ばかりで満ちてしまい狭くなった、このままでは食べ物も行き渡らなくなるし、飢えて死ぬ者も出るだろう。卑近的には住環境はますます悪くなり、悪化した都市の中心部から逃れた人々はどんどん郊外へとスプロール的に街の輪を拡げていくので通勤・通学も大変、もちろん、こんな長距離を一日で往復できるようになったのもキリスト様の恩恵ですから悪いことばかりではないのです。

加えて不信心者どもの言うには、かの方の打ち立てた《平等》と《博愛》の心意気による集中生産と分業によって、仕事は単純作業となり、いよいよ詰まらなくなっただけでなく、以前より早く仕事ができるようになった、では早く家に帰れるかと言うとそうではなく、生産量が増えるだけだった、おいよいよい。むしろ機械の速さに併せて働かねばならないのでせわしなくなった、嘆かわしや。忙しくなったので、一日の終わりには疲労困憊してしまってあとはもう食べて寝るだけ、ゆったりした時間を味わうこともできない、週六日も働かされた上、やっと安息できる日曜日さえ、朝からおめかししてお祈りの行事にいそいそと出掛けなければならない、などと不埒千万なことを口走るようになったのです彼らは! 言うことに事欠いて、お出かけは皆さんがきちんと信心しているかを相互監視するのための集いだとか。なんという恥知らずな言い草でしょう!

でも最近では、んまあなんてこと!私にまでその不信心が移って参ったようです。なにしろ「油を注がれたお方」とも呼ばれるほどの御方で、世界最大級のダイナモ・内燃機関とも呼ばれる至上者でもあらせられるキリスト様の消費される燃料の油は相当なものでございます。それを世界各地に作られた支部・支局のダイナモに注ぎ続けなければこの「奇蹟の業」は維持できません。そこで商社マンを筆頭に石油を求めて異教の地まで赴かなければならず、世界のあちこちで不埒な異教の者どもと衝突や小競り合いが起こります。ご覧のように私たちのシステムはこれだけの不幸せな人々を救ってきた実績のある《絶対の善》ですから、負ける訳には参りません。貧しさから解放する私たちに正義があるのです。ですから今日も新たに補充の十字軍を送ります。銃後では私たちが働いて最新鋭のステルス戦闘機を作るのです。

今では復活されたキリスト様は土曜も日曜もなく、一日も休まず働いて奇跡の業を見せていらっしゃいます。それはもう馬車馬のようなお働きでございます。こうして私がこのような日記を夜夜中(よるよなか)に煌々たるランプの下で書けるのもキリスト様のお陰なのです。おお、くらいすと!

でもひとつ気になることがあります。こんなことを書いて良いものやら。そうです。それは「キリスト様がまた磔の丘を昇っているのだ」と言う嫌な噂についてです。私たちの導き手がまた去って逝かれる? そんなことがあってよいものでしょうか? でもこれは私たちがきちんと彼を信心し続けそれを支えることができておらず、「大いなる間違い」を犯しているからなのだというのです。でも私たちの行ないをもう一度正すために、キリスト様が仰るには、「ふたたび(いや、何度でも何度でも)自分が死んでこのシステムをリセットしてしまおう。そうすれば私がいることの真の意味を人々はまた再認識するだろう。さすれば、また私を乞い願い、待ちわびる日々を過ごすことになるだろうから。でもかならずや、I’ll be back!」と言うのです。これはキリスト様の御真意なのでしょうか? なんという、なんという深遠なお計らい!

おお、だがいまひとつ私たちの心を痛めて一時たりともその痛みから解放してくれない悩みがあります。それは、キリスト様をよくよく研究の上、「理解さえしている」と言われているにも関わらず、救世主様の存在や性質に疑問を提示しているのではないかと憶測されるある詩人たちや映像作家と言われる異端者(語り葉)の存在です。彼らはキリスト様から大いなる霊感と恩恵を被っているにも関わらず、キリスト様が復活されるまでの御不在の三日間について思いを巡らせることを止めようとしないのです。

彼らはその永い永いキリスト様の不在の時期を懐かしく思い返す人びとなのです。これがキリスト様再臨のエポック以前の時代へと回帰していくことを夢見る「故郷喪失症候群:ノスタルギア」に罹ってしまった人びとだったのです。この異端派の狡猾さは、祈りの集会に出席するような敬虔なクリスチャンよりも間違いなく超俗的で、一見信仰深い様子をしており、神学論上の問題を理路整然と語る言葉を持っているにも関わらず、心の奥底では何を考えているのか分からない危険な人びとであり、彼らの持っている美しい詩や映像の言葉で以て、反キリスト的な思想を流布して信者を増やしつつあると言うことです。彼らはその超越的な洞察力を以て尊敬さえ集めているのです。

そしてさらに私たちの心を痛めていることは、キリスト様はこの者たちを裁くことをせず、それどころか、彼らの発言や表現の場を進んで提供しているとさえ見えることでした。これはつまりどういうことなのでしょうか? そうです。ノスタルギアに罹っている詩人たち以上に疲れ、「休みたかがって」いたのはキリスト様本人だったのです。キリスト様が休むということ、それはその死をおいて、他のなんであったでありましょうや?

でも彼は自死することが許されていないのです。彼は多くの人々の熱烈な求めに応じ続けなければならず、どうやら私たちの間違いを正すにはキリスト様ご自身が殺される以外に方法がないと考えている様なのです。そこで彼は敢えて間違いを正さずに恨みを買うことを厭わず、私たち罪深い者たちを手先として周囲に憎悪を蓄積させ、その者たちに自分を殺させることにしたのだということです。私たちが十字軍を送りつづけていることも、世界を汚し住みにくく、暑く、狭くしているのも、深淵で私たちには推し量り難い《神の計画》によるものだ、という如何にも説得力のある経済神学者たちによる解説もありますが、一体普通の人々である私たちに何ができましょうか? 「それはいつ来るか分からない。でもそれは来る。だから目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。そう、日の光を憎悪し、夜の月を礼拝する彼らが、いつ、その《ボタン》を押すのか分かりませんから、レーダー網は24時間、7 days a weekで稼働しつづけているのです。

そうです。私たちは前に進み続ける以外にないのです。前進している限り、終わりは来ないのです。ここはひとつ、至らない私たち人間どもの浅知恵で、これまでの私たちの行為を顧みるなどという後ろ向きなことに時間を費やすより、現世の楽しみにうつつを抜かし、天にましますかの方の采配に任せてみましょう、エイメン。そう。Amenこそ、「あるようにあれ、なるようになれ」。何という深い智に裏付けられた方針。これは神の栄光の実現のために私たちに委ねられた秘儀中の秘儀、秘伝中の秘伝と呼ばず何と呼びましょうや。人事を尽くして「神命(じんめい)」を待つ、私たちの方針をその真意に反して評価するヒューマニスト共、「自己責任の放棄と自暴自棄を賛美するまさに象徴的な表現だ」などと揶揄する者共の上に必ずや呪いあれ。

でも私たちはやがて知るでしょう。神の栄光が地上の我と我が身にとって何を意味するのか。でも今さら何を申しましょう? なにしろかの方はキリスト様でいらっしゃいますから、神命に基づき磔刑に遭うも必定、また死して復活するも彼の御仕事なのです。死と再生。その一事によってこそ、キリスト様は特別であらせられるのです。受難に遭って死にもしなければ劇的な復活もない、など申しましたのでは、間が抜けていて、いかにもキリスト様に相応しくないでは、ありませんこと?

ノスタルギアとは何か(定義1)

Wednesday, May 30th, 2007

定住革命

「未開」が文明化以降の時代よりも良かったとか、縄文文化の人びとはそれ以降の弥生文化よりも素朴でありつつも豊かであったとか、定住民よりも非定住民の方がストレス・フリーで創造的な生活をしていた、というような、ある種低次元なノスタルギアに裏打ちされたかに聞こえる言い方で表される「先史時代の人類についての憧憬」というものがある。これは、その後1万年以上を掛けて続く緩慢なる定住革命、そして直後にやってくる農耕革命、そして内燃機関を発見した後の産業革命といった「近代化」や「現代化 modernization」の時代を生きるわれわれの方が“生きるのにどれだけ有利になっていると思っているのか!”という、非難にも似た理性と科学至上主義で以て、一笑に付される可能性のある言い方だ。

だが、「昔は良かった」という言い方に潜んでいることの意味は、当該のそれぞれの時代に生きているヒトの食料事情や衛生状態といった生活条件や、平均寿命で表される生物学的な個体生存上の優位における比較の中に見出されるものでは断じて無い。ノスタルギアという言葉で低く観られがちなその感覚は、単に詩的なセンスだけで表明される吐息ではなく、むしろ変わらぬ生存と持続性によって価値を認められたものなのであり、現代人が言語化を最も不得意とする生命の価値についてなのだ。

つまりもっと分かりやすく言えば、どちらが生き残りの上で有利であるのか、いや、どちらがより神話として記憶化されるほど大規模かつ悲劇的な大量死を回避するのに有利であるのか、という、すでに生まれて仕舞った人類個々人の、公平な生存条件の実現という観点の、詩的表現に過ぎないのである。

Ω祖型の事例増える

Wednesday, May 30th, 2007

Gaza Antiquity Olmec Tablet

2005年10月から2006年2月までの間、当entee memoにて掲載した「金剛への第一歩〜Ω祖型とは何か」のシリーズは、多くの図版を牽いて古代から伝わり反復されるひとつの祖型的図像の意味を大胆に解き明かし、「古代人」がわれわれに伝えようとした過去の重要な出来事について注意を喚起しようとした。

(こちらは古い記事が最も下に来るというblogらしい設定になっているので、下までスクロールダウンしていって、最初から順序通りに読まれるのもよいし、後の結論からだんだんに後に遡っていくのも良い。いずれにしてもどちらが面白いかといえば、書かれた順序通りに辿っていくことだと思われるのだが、本と同様、必ずしも読者に最初のページを開いてもらえるかどうかは分からないのである。)

昨年の秋から今年にかけて立て続けに米大手メディアに特集記事として古代の遺物の画像が伝えられたが、その中にかなり典型的と言っても差し支えないようなΩ祖型的な象徴的図像が登場していた。遅ればせにほぼ同時にこの二つの記事の存在を知るに至ったので、それをとりあえず紹介して自分の備忘録ともしておく。おそらく父の死とその後の対応で忙しかったために目に停まらなかったのであろう。

そのひとつは、TIME誌のJune 4, 2007(2007年6月4日号)のp. 49のGlobal Adviserというセクションで組まれたもので、「The Glitter of Old Gaza. Inspiration lies in Palestine’s antiquities: 古代ガザの絢爛。パレスチナの遺跡にインスピレーションはあった」と題される記事。

TIME June 4

ここには「台座 + 柱+ 炸裂する光」でも取り上げたようなカトリック聖体顕示台(モンストランス)(a)や愛染明王(b)のような「台座 + 支柱 + 光輝」と思わしいΩ祖型図像が「3回」も繰り返えされて示される石板(タブレット)の破片写真が掲載されている。アラビア語(?)のカリグラフィーと思われる文字の図案化されたものが見られるが、何が書かれているのかはきわめて興味深い。

DISCOVER誌のJan. 2007(2007年1月号)のp. 49の「ARCHAELOGY - Oldest Writing In New World Found: 考古学──新大陸における最古の文字発見さる」と題される記事。ここで掲載されているメキシコで新たに発見されたオルメカ文明のものと思われる文字盤には28種、合計62の文字刻まれている。

Discover

Overall tablet

記事によればこの文字はトウモロコシなどを含む象形文字と思われるというが、そのトウモロコシを思わせる転倒型のΩ祖型、饕餮(とうてつ)を思わせる三本足(三位一体の世界像)、そして大林組の鬼瓦にも共通するような「あからさまな真性Ω祖型の図像」などが含まれている。これはホピ・インディアンの神話に登場する「落下する灰のつまったヒョウタン」や、ナヴァホ・インディアンのサンド・ペインティング(砂絵)にも見られる「落下するシャトルコック」(c)のパターンを強く連想させるもので、実に戦慄すべき図画内容なのである。

「羽子板の羽根にしてもバトミントンの「弾」にしても、それらが同じような形状をしているのは、比重の高い(重い)材料でできた先端部とそれに取り付けられた比較的比重の低い(軽い)材料でできた基部である。… 一定の方向を保ったまま飛び続けるという目的を果たすなら、それらは同じような形になるであろう。それはまさに時代や状況とに関わらず「機能が要請する形状」というものは大体同じような条件の形体を共有するからである。 」(自著 金剛への第一歩──Ω祖型とは何か[3]より引用)

monstrance(a)

aizen_myoo(b)

Atomic bombs Shuttlecock(c)

こうして見ると、古今東西どの文明にも共通して見出せるのは、このΩ祖型だというのはより強く裏付けられるように思えるのである。

以下のブログもこのニュースの発表の時点で取り上げていた。

http://blog.livedoor.jp/hvw_hanai/archives/50757022.html

http://blogs.dion.ne.jp/bunsuke/archives/4160278.html

全く遅ればせの、驚きと紹介なのであった。

他者を牽いて語ることは

Monday, May 28th, 2007

■ あらためて「自分の言葉で語ること」

あらためて「自分の言葉で語ること」の価値、とりわけ自分の言葉を鍛える上で非常に重要なことであることなどを、この際、否定しようなどとは思わない。

30歳ころ迄だったろうか? 過去の研究家や思想家の言葉を牽いて何かを語るというようなことが「卑怯なこと」と思われたのは。

そもそも自己存在のオリジナリティに対する冒涜でさえあるというように思えたし、自分だけでなく他人にも「自分の言葉で語ること」を強いたりしたものだ。高校・大学くらいの頃は夢中になって読んだ哲学書の類も、30歳近くなった一時期には「一種のナンセンス」だと思うほどになっており、そもそも歴史的な既知の思想に「寄せ」なければ何かを語れないなどということは、自己の思考力貧困の証しのように思えたのだった。遅く来た思想的な「ツッパリ」であり「アナーキズム」だった。とにかく、知性や創造性というものは他者――とりわけ権威――に依らず自己完結していなければならなかったのだ。なにしろ自分がゼロ(無)から有を産み出せるウツワと信じていたのだから。

だが、今の自分はその頃に比べるとずいぶん違うし過去の他者の功績についても柔軟に対応をしている。歴史的な言葉、詩人の言葉、そして専門家の言葉を牽くことは、下手をすると権威に支持を与えるという「副作用」があるが、それ以上に得るものの方が多いと判断したのである。また権威支持は、結果としてそうなるかもしれないという意味ではひとつの副産物ではあっても、自分にとっては目的でもなければ手段でもない。

これは、引用をするという自分の選択について他人がどう考えるかという問題ではなく、あくまでもその理由は自分がよく知っていることだし、それで本当は十分なのだ。勝手に動機を想像する人間は居るだろうし、人の意図を歪曲して捉えようとする邪推を止めることはできない。

■ 古典を牽くこと

いずれにしても、自分が発言する時に、別に権威を云々したくて喋ったり考えたりしているのではない。自分の伝えたいことを「反権威の姿勢」を過度に重視したために「引用する自由を制限する」方がナンセンスだと思ったのだ。誰かが威光を持っていても、自己の研究によってそれを乗り越えることも可能であるし、内容に共感できるのであれば、その成果をそっくり頂いた上で何かを築くこともできるのである。古今東西で優れた知の巨人たちが達成したかもしれない高みの一切を無視して、「すべての知を一から自給自足しなければならない義務があるのだろうか?*」。むろん、自分で思考の跡を辿ったり内面の洞察力を開発することの重要性を過小に評価するつもりも無い。

* これは実は重要なひとつの哲学的な問いにまで発展しうるのであるが、ここでは深入りしない。

自分に生涯掛けて追求する価値のあると思えるテーマがようやく決まったせいもあろう。過去の偉大な思想や研究の成果の中に、自分が心底共感できるものが散見されたこともある。とにかく人の書籍からその言葉を牽いて、その上で、それについて(あるいはそれに関連する何かについて)論じるなどということは、いまや日常茶飯になりつつあるし、そのような手法なしには、この分野に関わり続けること事自体が難しいのである。そしてそれ自体は単なる批評行為に留まらない、さらにその先の主張が存在する点で、この行為はひとつの創作でさえある。だが、今までも折に触れて述べてきたように、グノーシス的な真の智という価値の前では、独創的であるとか創造的であるとかいうこと自体は、実はもはやどうでもよいことである。それは単なる近代以降にどんどん重要性を増した着想や新奇さを競い合う個人主義のひとつの病理に外ならないのである。

■ 「Ars longa, vita brevis.」のArsとは?

「芸術は長く人生は短い」という言葉が今ほど切実に感じられることはない。だがこの言葉は広く誤解されている。「芸術の道は険しく長いが、うかうかしていると人生はすぐに終わってしまう」というような意味に捉えられているのではないかと疑っているのだが、実はそういった個人における成長速度の意味だけではない。ここで「芸術」と訳されているものは最も広義の術 “art/ars/artis”のことであり、それは人間の文化・文明の全般、すなわち技能・技術・技芸、そして学問・科学知識などなど、人間のワザすべてを指す言葉だと言っていいだろう。こう言ってしまえば、いわゆる音楽や美術のような今日もっぱらクリエーター諸氏にとって大問題になっている「表現芸術」だけについての言説ではないのだ。

つまり人が個人として生涯掛けて達成できることは、人間の文化・文明が「完成」を目指してこれまで蓄積してきたあらゆる人類のワザ全体から見ればごくごく僅かなもので、一個人が死んだ後も、それを蓄積していく人類の営為は永きに渡って続いてきたのだし、まだまだ続いていくのだ、という遠大な人間史そのものを言っているのだ。人間が独りで達成できることなど実に限られているのである。それが解ったと思われたとき、私の歴史に対する態度が一変し、畏怖を覚え、「学習する」ということの意味──そしてそれの最終的にもたらすものの有様──を悟ったのである。そのとき、歴史は真に意味を持ち始め、「過去を参照する」ことの重要性(そして危険性)を大いに諒解したのだった。つまり人類の過去についての記録、そして未来の生存を賭けた人智の結晶を残そうとするさまざまな努力は、やはり《現存》するのであり、そうした蓄積をたった独りの人生における孤独な瞑想や想像力だけでは乗り越えることはできないし、むしろそうしたものがあってこその瞑想であり洞察なのである。仏陀の悟りが自然科学や古典への造詣なしにあり得なかったことは今では議論の余地のないものとなっている。

われわれの創作はすべて「学習・応用」であり、場合によっては「学習・批判(批評)・改善・応用」という過程を踏む。先達の生涯を賭しての努力によって伝えられた古典に学ぶことは、聡明を自負する現代人をより一層賢くすることはあっても、そのために失うものは何もないのである。

■ 批評精神は創作の母であること

批評精神は過去への参照とそれへの造詣があって可能になる。そして批評精神は新たな創作である。

文学部にいたある友人の一言が私にとってはひとつの転機となった。その一言の意味については、数年かけてようやく諒解されたのだった。その頃の自分は、いわゆる世間一般にいうところの「評論」の分野の価値というものを頑なに認めない態度をとっていた。評論行為は、あらかじめ作られた創作物があってこそ初めて可能になる二流の表現行為であり、大多数が評価を与える数々の表現者を批判/評価しつつも、そうした他人の創作に寄生している卑しい商売だと思ったのだ。あるいはひとの作品や既知の表現作品を前提とする表現活動というもの自体が、卑怯で次善の行為だと思えた。他人がどう、ではなくて、自分がどう表現したいのかが重要だ、という風に漠然とではあるが傲岸にも考えていたからだ。

文筆家としての批評家(評論家)は、表現者として二流であるという私の考えを聞いて、彼は静かにこうも言った。「文章を通して行われる評論だけが評論ではない。そうした文芸家による評論に限らず、どんな表現作品も、それ自体が一種の評論行為であり、批評精神の反映である。特に優れた表現であるほど、そうした傾向は免れない。そしてさらに多くの批評(批判)を生み出すものが優れた表現である」と。「評論」を文売業として生きるというその選択については、未だに次善の行為だという気持ちがない訳ではないが、そのとき彼の言わんとしていることに何か非常に重要なことが含まれていることは本能的に分かった。

最後にこの友人は次のようにも言った。「君は音楽に関わることで、人間の創作の最も高貴な部分に触れる幸運に与っている。だがそれは君の努力がそうさせたのではなく、君の生まれや君に与えられた才能のせいで、それを伸ばすのは正しい批評精神である。音楽家だけが創造的なのではなくて、いい音楽を聴きそれを聞き分けられる批評精神がまずひとつ。そして、君が音楽に関わり続けることを可能にしている社会全体の持つ集合的な批評精神が、君を音楽家たらしめているのだ」と。つまり批評なしの創作があり得ると思い込んでいた私の脳みそに杭を打ち込んだのだった。

■ 創作と工夫の連鎖としての文芸・音楽・そして科学

例えばローマ時代の文学は、ギリシア時代の文学への批判と評価があってできているものであり、ローマの文学者が独力でひとつの文学のジャンルを切り開いた訳ではない。そして古代ギリシアの文学も古くは古代エジプト、やや新しくは古代ペルシアやインドの影響なしにはあり得なかった。その後の文学が、継続的にそうであるように、彫塑などの作品も絵画のような作品も、すべてそのような過去の作品を正しく伝えようとするオーラルや文字を通しての伝承努力、そして伝えられた作品に対する理解と評価、そして何よりも批評精神があってこそ伝わりもし、また発展もしたのだ。

これは衝撃を以て私の中に入ってきた概念だったが、だがその真意のすべてをただちに諒解したわけではない。評論は評論、音楽は音楽、絵画は絵画ではないか、と思ったからで、賢明なる友人の言説の真価を理解するにはまだ数年待たなければならなかった。自分が、こうでありたい、こうであるべきだという思いが強く、「世界をありのままに見る」というよりは、他者も自己も希望的にしか見ない、というバイアスがあまりに強く、その見方を克服できなかったのだ。つまり「自分はこうでありたい、こうであるためにはこれを否定しなければならず、これを否定するためにはあれを観てはならない、あれを観ないでいる限り、自分のこの理想は無傷のままで居るだろう」という風に、自分をディフェンスするために世界観の方を粘土のように構築してしまうのである。

だが、今は違うのである。音楽が現在われわれの知っているような形になっているのは、ひとりひとりの人間の思いつきや個性的な着想が発揮されただけでそうなっているのではなく、実は過去の音楽家の、そのまた過去の音楽に対する批評精神によって出来上がっているに外ならないのは明らかなのだ。音楽については音楽史を紐解けばそれは自明であるが、西洋のそれは実に面白いほどに弁証法的な発展を遂げているのである。つまり、表現自体が弁証法的に正・反・合の思想的運動の反映のようになっているのである。

それは20世紀の中盤まで途切れることなく続いている。千数百年前の西洋音楽は、まったく現在では信じがたいほどに「原始的」で単純なものだ。それを少しでも面白く、満足のできるものにするために工夫をし、その工夫の上に更なる工夫を積載していくというのが、まさにその発展であったのだ。こうした「発展的な」西洋音楽史はひとつの象徴であって、文明というものの洗練は多かれ少なかれこのようにして行なわれてきた*。

* 文明そのものについての批判は可能なばかりでなく、きわめて重要な思惟であるが、その手法が文明自体を全面的に否定する反文明論であれば、これ自体が邪悪な人間の運動であると片付けなければならない。だがその深みまで批判のメスを穿つのであれば、科学技術を含む人間のあらゆる蓄積的行為にまで批判の矛先を向けなければ片手落ちとの批判を免れないだろう。

このように表現というものは、個人のレベルでも集合的なレベルでも、「よりよいものを目指して」発展してきたものだ。音楽についてはその「行く末」を案じるに、無条件にそうした変化を「進化」と呼ぶべきなのかどうかは分からない。こうした「正・反・合」の弁証法的な表現行為におけるコール&レスポンスそのものが、20世紀中盤にはあたかも袋小路に至ったかのようになった*からであるが、発展系の音楽の最後に至る“結実*”を度外視すれば、過去の作品に学んだ作曲家が、少しでも良いものを作ろうとしてつねに新しく提案してできてきたものが、われわれの現在知るところの音楽作品群でありまた音楽史なのだ。

* 発展系の音楽史の延長線上にある言わば「発展と終焉を宿命とする」“特殊な”西洋音楽であるが、こうした困窮の不運は音楽の領域全体に起きたことではなく、現在一般の聴取者は、西洋音楽の発展の《終焉》を意に介する風もなく、自分たちに必要な音楽を見つけ出してそれぞれに鑑賞し満足しているのである。

伝統表現に見られる変化させてはならないという言わば「反近代」を旨とするあらゆる伝統芸能の《家元の掟》さえも、時間経過によって変化する作風や、それらのものが変化の果てに行き着いた最終的な姿に対するアンチテーゼとして在る。「変化させない」という方針は、一見して消極的で後ろ向きの創作態度であるかに見えるが、実は過去に学んで作り上げたきわめて人為的な選択であったのだし、一方、変化して変わっていくことを至上のものと位置付けして、積極的に新しいものを求め、価値を賦与し、変化してきた表現もあるというだけの話なのだ。

詩は絵画によってインスパイアされることがあり、またその逆も然りである。ひとつの特定のメッセージを後世に伝えるのに、さまざまな表現形態が採られただけであり、普遍的に存在し続け、繰り返し繰り返し表現されたものの中には、ある一定のテーマがある。この《普遍的題材》は、例えば映画に顕われ、詩に現れ、神話の集大成の中に現れ、また音楽の中に現れ、絵画などの美術の中に現れ、また太古の時代には悲劇の舞台に採用された。あるいはまた普遍宗教の教典や黙示録文学の中にそれらは見出される。これらの表現形態が互いに無関係であると考える方がむしろ作為的であり、あらゆる人間の表現行為は、ある程度の批評と共感、そして必要なら改善があり、また再解釈があり、そして過去の知恵や工夫の上に塗り重ねられる、より新しい「応用」によって成し遂げられたものなのである。

学問もまさにこのようにして発展してきたのであり、ただひとりの、あるいは数人の天才によってのみ成し遂げられてきた訳ではない。如何なる科学的セオリーもそれぞれの時期に、その時代に見出されるさまざまな他の発見によって支えられているのであり、一見驚くべき画期性を持っていたとしても、その時代の要請や時代精神を無視して突然変異的に出てきた訳ではない。

ここまで私は他者の言葉を引用せずに語ってきたかに見えるかもしれない(ま、少しはそうであろうと努力はした)。実際、それは“ほとんど”正しい。だが、知っているかどうかの違いだけで、「芸術は長く人生は短い」という言葉こそ、語り継がれたエラい人*の言葉の援用なのである。だが、それを今あなたが知ったところで、私の語ったことの内容や意味が、いささかでも変じ得たであろうか?

* 古代ギリシアの医学者ヒポクラテスの言葉だと言われている。私にはその言葉がもっと古い由来を持つ真の知見に基づいたもののように思えてならない。

(more…)

ジャーナリストDの死

Tuesday, May 22nd, 2007

【あるフィクション】

ある夜、一人のジャーナリストDが戒厳令下で知られる取材先のC市(E国)で殺害されたとの報道があった。

才気煥発な彼女は、その豊かな体験と感受性、そして鋭い批判精神とで独自の取材チャンネルを切り開き、ようやく国際政治の取材と報道の世界で成功しつつあった。不定期に取材先の世界各地から配信される「国際政治の裏の裏」というメルマガも5万人に迫るいきおいで購読者数を獲得しつつあった。複数の新聞や雑誌でも彼女の活躍について特集が組まれるなど、年齢的にも中堅の、知る人ぞ知る独立系ジャーナリストなのであった。

この悲劇的事件に対し、彼女が記事を書いていた新聞社と新聞協会はさっそく彼女の殺害が「民主主義とジャーナリズムに対する攻撃である」との声明を出した。報道と表現の自由に対するE国の隠然たる圧力の存在はすでに知られていたし、日本の「宗主国」のマスコミも次第にそうした論陣を張り始めていたこともあった。その声明は政治的メッセージとしてはタイムリーであったこととも相まって、ジャーナリストを殺害する卑劣を批判する選択には妥当性の面でまったく問題があるように思えなかった。

一方、彼女は女性活動家としての顔を持っていた。彼女が関わりを持っていた女性の人権活動で急進的なキャンペーンと運動を繰り広げていた某団体は、「この事件は全女性に対する挑戦であり、女性の発言を封じるための明らかなメッセージである」と受け取った。その考えを大いに反映した特集記事も、大手誌で代わる代わる掲載された。そしてそれなりに大きな反響をもってこれらの記事は受け取られたのであった。この団体は、Dが若い頃、そもそもジャーナリストになるきっかけを作ったほどの深い関わりを持っていたのだ。

また彼女は、イスラエルで行われているパレスチナ人への仮借なき弾圧の政策を受けて、世界中で盛り上がりつつあった「新・反ユダヤ主義」に関して、「国家としてのイスラエル」から「民族としてのユダヤ」(そしてユダヤ人として生まれた個人)はすべて区別して捉えるべきだ、という国家と個人の分離論を舌鋒鋭く主張した。そして再び各地で巻き起こりつつあった「反ユダヤ政策」や差別に断固反対する立場をとっていたことでも知られていた。そのため、彼女への銃撃はユダヤ民族に対する「間接的攻撃」であると考える平和活動家やユダヤ人活動家もいたのであった。現にイスラエルで、ある新聞の一面を大胆に使用した意見広告の形で、彼女の死に対する哀悼の意が表されたのであった。

だが何よりも彼女は日本国のパスポートを持つ「日本人」であったし、かつて紛争地帯で日本人の「迷惑行為」によって、若者の旅行者が誘拐された上、殺害されたときにおこった国内での悪名高き個人攻撃(バッシング)と「自己責任論」が、世界の平均的なジャーナリストの間で非難を浴びたこともあり、彼女の死に対し、このたび日本政府は正式に「怒りの態度」を以て迎えることにしたのだった。そして彼女を保護すべき義務を負っていたはずの受け入れ国のE国大使に対し、正式に抗議を行った。これは日本政府の行った「国権の発動」としては、初めて「まともな」対応であるとして、国内の左派評論家からも高い評価さえされることとなった。

忘れてはならないのは、彼女が実は元・在日朝鮮人であったことを知る一部の左派識者たちのなかに、彼女を襲い胸を貫いた銃弾には、実は在日に対する怨嗟の間接的連鎖があったと論評する者が現れた。なぜなら、彼女にはどうやらその特殊な民族的な背景のために、国内において取材を制限されたり妨害を受けた過去があり、そのために国内での取材基盤を失い海外に活動拠点を見出さざるを得なかったというのだ。彼女は名前を日本人名に改姓したうえで日本国籍を取ったにも関わらず、それが単なる表層上のスタンドプレイであり、その中身は結局根っからの「半島人」であることに変わらない、という揶揄もネット右翼から断続的なされていたことが一部では知られていた。また、外務省のマル秘の文書として、彼女の名前が「危険思想」を持った在日活動家としてのブラックリストにも載っており、そもそも「日本国政府としてはDさんを保護する気などさらさらなかった」と多くの仲間が感じていたのである。つまり彼女の日本国外における殺害には日本国内における人権侵害も絡んでいると真面目に考える人たちがいたのである。

皮肉なことに、彼女がある仏教系の新興宗教団体に属する熱心な信者であったことも知られていて、ニューエージ系の若者たちからは時折彼女が寄稿する神秘体験のレポートが人気を博していて、いわば「その方面」でも彼女はカリスマ性を発揮していた。実際、この事件のほとぼりが冷めた頃、思い出したように、彼女の殺害は、自分たち宗教団体への攻撃として受け取らざるを得なかったと、この宗教団体が「非公式に」だが、団体関連の月刊誌を通してコメントしたのであった。

ところが、取材先で彼女を知る者たちが口を揃えて主張するのは、彼女が取材中に親しくなったあるイスラム教徒の青年実業家との親密な関係であり、実は以前取材中に知り合ったキリスト教の原理主義の傾向のあった元ボーイフレンドが、警察をそそのかして彼女を撃たせたのだというまことしやかな噂も現地では広がったのであった。イスラム教徒にとってはこれはイスラム教への攻撃であった。

つまり、彼女と関わったあらゆる組織、団体、職業領域、教団などは、それぞれに彼女を襲った銃弾が、自分たちへの攻撃であったとまじめに解釈したのであった。すなわち彼女への攻撃は、ジャーナリズムへの挑戦であり、女性への変わらぬ差別意識のもたらしたものであり、ユダヤ民族への攻撃であり、日本国への攻撃であり、在日朝鮮人に対する偏見であり、新興宗教への不当な警戒心であり、はたまたイスラム教への攻撃であったのだった。

彼女の死は、関わりのあったどの組織、どの団体、どの職業領域、どの教団においても象徴的な意味を持つことになった。そして受け取る人間の数だけ彼女の死には「意味」があり、どれにも共通なのは、「Dという個人を集団や組織との同一視すること」を解釈の基礎としていることだった。そして彼女Dという個人を個人として捉えることをしようとはしなかった。Dへの攻撃は、個人に襲いかかった単なる事故であり、無意味で、不条理な「不運」とは、誰も思いたくなかったのだ。

だが真相はこうである。

彼女は大変な愛煙家であって、灯火管制を敷かれた戒厳令下のC市で、夜間ちょっと涼もうと思ったのか、うかつにも宿泊先の安ホテルの玄関から外に出て、そこでタバコに火を付けたところを若い狙撃手に射殺されたのだった。どうも彼女はE国で禁止されていた密輸品のお酒も「嗜(たしな)んで」いたらしく、それが本当だとすればどうやらDの状況判断は甘くなっていたのであった。事実、彼女の遺体の血液からはその酩酊状態が伺えるほどのアルコールも検出された。部屋には荒らされた形跡も盗まれたものもなく、書き掛けの原稿、数本のビールの空き瓶と飲みかけのウォッカの瓶が見つかっただけだった。彼女を狙撃した見回りの若い歩哨は、彼女が何者であり何人(なにじん)であったかの確認までは、彼の立ち位置と距離からはできなかったし、ましてやDが「女であることなどカミサマも知る由がなかった」(と彼は言ったのだった)。つまり彼女の選択的な殺害は全く意図していなかったのであった。

運悪くこの日は、多くの政治犯が収監されているC市郊外の刑務所から数名の囚人が脱走し、市内に入り、彼らが合流したと想像される組織からものと思われる、首相暗殺を予告する挑戦状が官邸に送付されていたことがあり、街じゅうにいる警察機構は非常な緊張状態にあったということであった。だが、そのような本当のことは、エロ漫画が満載されているようなタブロイド判のスポーツ新聞以外は報道しなかったので、真面目な一流新聞を読んでその内容を信じる紳士淑女たちには知る由もなかった。

そうした今回の過熱した報道合戦が起こる数週間前に日本で起こった事件。あるステーキレストラン「ペッペル・ランチョン」の店長以下数人が婦女暴行容疑で捕まったために、そのレストラン・チェーンにまったく客が来なくなり倒産間近で外資によって買い叩かれそうだというニュースが広まったのだった。だが、そんな小さなニュースを吹き飛ばしてしまうほど、このひとりの女性ジャーナリストの死のニュースで持ちきりになったので、この二つの事件の深層に、「個人を組織と同一視する」という人間の「心理的傾向」と、社会的動物としての「心の限界」について、あえて思い返す人はいなかったのである。

(完)

結構使えるぞスーパー源氏

Monday, May 21st, 2007

スーパー源氏バナー



スーパー源氏という名前の本のスーパー


ちょっとここはがんばって欲しいなどと思ってしまった。

皆さんご存知でしたか?

Amazing Zone (A to Z)で知られた超大規模スケールの本のマーケットプレイスのカバー率もスゴいのだが、最近貴重な本はすべてプレミアムが付いていて、良くも悪くも「価格格差」が広がっている。安いものは極端に安く1円を争っているのに、高いものは「こんなもの買えるかいな」というほどに高い。かと思えば、このAmazing Zoneの外の世界では何が起きていたかと言うと、こういう古書の集い来ったフリーマーケット flee market 蚤の市 状態。



スーパー源氏
、これは使えるぞ。

【暗黒】What’s the Dark Matter with you?

Thursday, May 17th, 2007

Dark Ring

暗黒物質関連のニュース

本当なら大変なことだよ、これは!

宇宙の重さのうち、星など普通の物質が占める割合は4%にすぎず、残りは暗黒物質と暗黒エネルギーとされる。観測チームは「輪の観測で、暗黒物質と通常物質の振る舞いの違いなどが調べられる」という。

05.16.2007 朝日新聞ウェブの記事から

こんなことは知らなかった。「重さ」と言えば、無条件に物質の重さのことだろうと当然のように思っていたのだが、そういうことばかりではなくて、どうやら「物質でないもの」が作り出す重さというものがあるということが、ここでは語られているということなのだろうか? (物質でないモノって、そもそも「物」なのか?)

ちょっと待ってくれ!

「星など普通の物質が占める割合は4%にすぎず…」というのは言い換えると、宇宙全体の質量の96%は、「普通の物質」以外の醸し出す「重み」であることになるが、そういう理解でいいのだろうか? では、そもそも「普通の物質」とは! そもそも「重さ」とは? それって一体…

暗黒物質 Dark Matter のことは昔から聞き及んでいたが、このようなものとは知らなかった(今でも知らないが)。おそらく知れば知るほど自分の想像の翼が届く範囲の内容などは、どんどん修正されてしまうのだろう。だがその時まで、つかの間の遊びとして想像の赴くままに任せてみよう。

われわれが五感を使って把握できる物質の実態が宇宙全体の「質量」のわずか4%を占めるのみなら、科学がどんなに進歩して宇宙の「すべて」を探査して、把握して、理解したとしても、(万が一にも、そんなことが可能になったとして…)その「すべて」は、宇宙全体の表層の部分に過ぎないことになる。だが、把握できない“実態”がどこぞにあって、それらのほうが重く、しかも存在の質量中、「マジョリティ」であるというのは、文字通りわれわれの想像を超えている。

しかも昨日見たテレビに出た学者の解説によると、Dark Matterというのは、宇宙のどこか遠くにあるのではなくて、あらゆる場所に遍在しているとさえ言う。!? ここにも、あそこにも、自分の体の中にも潜んでいる。そしてそれは我々の五感のシステムによっては実態として捉えられないだけで、りっぱに存在はしている。われわれの身体器官がそれらに属していないから、我々の感覚器官がそれを捉えられないから、捉えられる部分を遮って影のように「見えて」いる(つまり見えない部分があるのが諒解できる)のを以て、そこにあるらしいという風に、おそらく否定的にしか捉えることができない

我々の目に影のように見える、あるいは何かを遮ったり、光の進行を変更させたりするのを観察することでしか捉えることができない、という意味で、われわれはそれを暗黒物質 Dark Matterを呼ぶわけだが、捉えられない実体の方が、宇宙の実態であり、我々の住むこの「わずか4%に相当する世界」の方が、影のように、あるいはリンゴの皮のように、「実在」の表層であるとすれば、あちら側がBright Matterで、われわれこそが Dark Matterに属しているということの方が、ありそうな気もするのである。

つまり言わば「光輝物質 Bright Matter」から“照射”される光によって投影されたのが、われわれDark Sideの住民ではないか、と。

この問題 matterは、純粋に物理学や天文学の領域の課題 a task なのかもしれないが、精神世界と関連させて考えてしまう誘惑にどうしても抗することができない。

Wikipediaによると、「素粒子論からの暗黒物質の候補」として、ニュートリノ、ニュートラリーノ、アクシオン、シャドーマターなどがあるらしいが、この中でその存在が観測されたのはニュートリノのみ。あとは理論上その存在が予想されるだけだという。「シャドーマター」に至っては、「超対称性理論によりその存在が予言される物質。重力以外の相互作用をしないため、もし存在したとしても、見ることも触ることも認識することも不可能」などと説明されており、みることも触ることも認識することも不可能とのことで、これはまるで霊界や精神界に属するもののようにも聞こえる。

以下も、想像上の話。

物質と物質が、存在論上、どのように相互依存をしているのかはわからない。だがもしこうした「みることも触ることも認識することも不可能」な存在が、我々の世界の存在の隣にただ在るのではなく、我々の世界そのものを支えるものとして存在しているとしたら、この影のようなわれわれの世界の存在は、まさに「みることも触ることも認識することも不可能」な存在の影のようなものかもしれない。

これは、プラトンが展開しようとしたいわゆる「イデア論」、すなわち「イデアとは最高度に抽象的な完全不滅の真実の実在的存在であり、我々の住む感覚的事物はその影であり、イデアが存在しているのがイデア界(本質界)、そしてその陰が投影されているのがわれわれ人間の住む現実界となる」というあの有名な論が、まるで証明されたかのようにさえ思えるのだが、それは単なるご都合的にしか解釈できない自分の勝手な想像にすぎぬ。

私はなによりも、今回のニュースがひとつの《福音》のように聞こえた。

つまり「世界が把握できない」ことが、われわれにとって嘆くようなことではなくて、むしろ希望を与えるものとして受け取れたという意味だ。これは、興奮するほどの発見だと思えたのだ。宇宙の中では把握できない実態の方が遥かに多いということは、今までも散々に言われてきたことだとは思うが、これを改めて言語化してみると、身体的な存在以外の何か「精神的」とも言うべき実態が、「あちら側」から「こちら側」に照射してきているものが、物質であるという考え方も指示するように思えるのだ。

私は、魂に重さがあって死ぬとその分だけ軽くなる、などというような俗説を簡単には信じない(そんなのをテーマにした映画なんかもあったな)。でも、このようなコト matterが、存在するとなると、「魂は21グラムだ」というようなファンタジーもあながち嘘ではないかもしれない、その魂は、Dark Matterの大海に帰っていく部分なのだきっと、そして「帰って」しまえば我々はそれを観測することさえもできない、だが絶対に失われることのない“実態”として恒常的に宇宙のどこかに存在し続ける、などなど、と果てしなく想像の翼が広がってしまうのだ。

だが、ダークマターが「解決」されてしまうまでのつかの間、そんな夢想をしたって、誰も困りはしないだろう。しばらく夢を見させてくれたまえよ、Oh, my dark matter, please!

[PS. 知人友人方面では「ぴ」さんあたりから、白昼夢を醒まさせるような解説が飛び出しそうだが…]

“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [19]
“5”の時代〜「元型的木曜日」#5

Tuesday, May 15th, 2007

St John Divine Cathedral

ニューヨーク市122丁目のアムステルダム通りにある世界最大級の大聖堂──聖ヨハネ教会カテドラル St. John the Divine Cathedral(監督派教会系 Episcopal Church / 英国国教会系 Anglican Church)の中にかつてあった同カテドラルの設計の基本モチーフ。いくつもの五芒星が設計上の隠れた神髄 (quintessence) となっていることを証している。キャンバス自体を五角形にしていることも興味深い。

■ “五芒星国家アメリカ”

アメリカの独立以降出てきた五芒星は、“5”の時代の黎明を告げる明けの明星であったのだが、この五芒星もアメリカの独立の宣言と同時に歴史に登場したわけではない??それは18世紀後半まで待たなければならない。独立記念日の1776年7月4日から遅れること1年弱(11ヶ月と10日)、1777年6月14日、ようやく初代の星条旗が発表される。そこには独立した植民州を表す13の星が縁取られることになるのだが、興味深いことに、その際の星の形状は六芒星であった。なぜなら合州国国旗の「青地に白星」の「星」が何芒星でなければならないかということまではその時点でルールとして定められていなかったというのがひとつはある。

参考図版:History of the Stars and Stripes (U.S.)

とは言え、ここには独立州を表す13と、六芒星によって表される「数性6」のあいだに関連性が伺われ、その意味については論じられるべき内容を持つのであるが、「数性5」との関わりが薄いのでここでは詳述しない。こうした時代性を無視したかに見える数的象徴図像のいわば「錯誤的使用」は、アメリカ史においては後にも何度か観察されるのであるが、それがあたかも「何かの間違い」であったかのように錯誤として認知され、すぐに訂正されたかにも見える。こうした例外的な国旗の意匠が一般から忘れ去られることも、象徴図像のひとつの範型的な働きなのである。(ここで一度断っておけば、この種の「錯誤」と「修正」は、合州国の南北戦争 The Civic War の時にも繰り返される。)

実際興味深いことに、五芒星のモチーフが合州国国旗として正式に定められる1780年には、彼らが実際に用いる国旗の幾つかにようやく五芒星が見られるようになり、それが最終的な決定となっていく。しかるに1800年代の初頭は、まだ作成するのが容易*な八芒星がむしろ一般的であったこともある。ここにも一見して象徴図像の錯誤的使用が見出されるのだが、その“八芒星”星条旗も、イギリス軍の敗北が確定化した(1781年秋)後、ようやく2年経ってパリ講和条約の締結があったという経過もあり、合州国がひとつの連邦国家として認められるまで、砦や戦場のある特定の建物に掲げられる以外は正式に使われることがなかった。したがってこの「八芒星国旗」が国際的に知られることは滅多になかったのである。

[錯誤の六芒星の星条旗については、星の並べ方に重要な暗示があるため、「数性6」のセクションで詳述することになる。]

* 八芒星の作成が容易なのは、単純な90度と45度の角度からだけで成り立つために高度に洗練された道具なしでも再現可能な幾何学パターンであるためとも言える。それが容易であったことは、布地類を利用して表現された星形図像の最も古い形態であることからも正しいと言えそうである。その最も容易に星形を表現ならしめるものが、意味的にも「数性8」であるということは、仮にそれが偶然だとしても極めて興味深い暗合であると言わなければならないだろう。

このように一瞬出現しては消えるというアメリカ独立最初期の国旗に見られるある種の「事故」は、ある程度理解可能なことである。例えば独立戦争中、星条旗に先立って使用された「抵抗州旗」に、“Don’t tread on me”というものがある。そこには世界史更新後に「原初の蛇」が現れてくるように、この独立戦争というエポックがひとつのエイオンの終末と再生を意味していると当時の象徴主義の通暁者が理解していた可能性があるからである。

DON'T TREAD ON ME FLAG  with stripes

そのように考えた時、欧州中心的なひとつの世界が終末(周末)を迎え、新しい世界の再生がこの新天地を中心に起こるのだと、当時のひとびとが「解釈」したとしても、それは諒解可能なことだからである。同様に、この「再生」や「復活」の意味合いを含んだ、国家成立の最初期において「8の数性」を保持した星形が選択されたということも、全く理解可能なことである([4] “1”の時代(“8”の時代)〜「元型的日曜日」を参照のこと)。

■ 世界最大の大聖堂と五芒星

現在さらに建設が進行中であるニューヨークの聖ヨハネ教会大聖堂が、キリスト教最大の教会でありながら、教会正面の扉、飾り窓、尖塔などの位置や形が多数の五芒星によって支配されている、という驚くべき事実がある。教会建築のデザインを決める基本モチーフが「十字架」や「三位一体を象徴する図形」であったりするということは、よくあることだが、他ならぬ五芒星が「教会」全体の隠れたモチーフになっているというのは注目に値する。合州国内のみならず、全世界で最大規模とも言われる教会の大聖堂が五芒星をモチーフとしており、しかもそれが他ならぬアメリカにあるという事実は、同国の象徴するものと数性5とのあいだに切り放せない関係が存在することを示唆して余りある。

さらに、アメリカの建国と同国に隠然たる影響力を持つ「英国教会」の関係。さらに後述するフリーメーソン Free Mason と英国教会 Anglican Church に見られる象徴主義の驚くべき類似性に関しても、言及する価値があることをここで断っておいてもいいだろう。

■ 数性5と五弁の花

日本では古来から「はな」と言えばそれが梅を指すと言うくらい、五弁の梅は古くから親しまれている。それは「日本のヘラルドリー」である家紋においても伝統的に「梅鉢 うめばち*」と呼ばれるひとジャンルを成していることからも分かる。梅鉢紋にはいくつものバリエーションがあるが、そのどれもが「数性5」を強調したものになっている。欧州の図像伝統においては五弁の花を模したと言われる五弁飾り/サンクフォイル cinqfoil/cinquefoil** がある。日本において五弁の花の象徴が桜に取って代わるのは近世以降(江戸時代)である。園芸品種であるソメイヨシノが大ベストセラーになったために桜の地位が一挙に上がり、梅に替わって「花の代表」となる。

Umebachi mon a Umebachi mon b Umebachi mon c Cinquefoil at Westminster Cinquefoil illustration

* 梅鉢紋の図版引用先:

東京染小紋の模様(もよう)

を蔵出し着物屋 ぬっ記

Art Center Internet Gallery

** Cinquefoilの図版引用先:

Inside The Da Vinci Code

Clipart ETC

一方、現在「星条旗 Stars and Stripes / Star-spangled」と呼ばれている合州国国旗に多くの日本人が出会ったのは、1854年(「五芒星」星条旗が定着して半世紀後)にペリーが日本に黒船でやって来た時だ。その際、艦上にはためいていた国旗の青いカントン cantonに縫い込まれた五芒星を見て、日本人のほとんどが「星」だとはあきらかに思わなかった。幕末当時の日本人には少なくとも「星状五角形とは星のことである」と認識する約束・習慣がなかったのだ。すでに言及している通り、「五芒星 ≒ 星」と捉える一般則は世界においてもまだ日が浅かった事情を鑑みれば、日本においてはなおさらのことであるが、やはり新しいものであった。五芒星を大胆にあしらった合州国の星条旗を初めて見た江戸時代人たちが、それを最初「花条旗」と呼んだらしいところからもそれが伺える。幕末の日本人はそれを星であると「読む」決まりを知らずにも、梅鉢のパターンがすでに知られていた日本において、白い5つの角を持つ星々を五弁の花びらと見た。

ここで重要なのはそれを日本人が星と気付かなかったという点ではなく、むしろ「5」という数性にはおそらく無意識ながら着目していたという点にこそある。つまり、その五芒星が星であるということを度外視しつつも、シンボルのより重要で本質的な性質は、きちんと「異境人」たる日本人にコミュニケートされたと言うことができるのである。

さて、さらに興味深いのはその日本が(どんな手続きを経たにせよ)合州国と国交を持ったあとに、日本の時の為政者が行なったことである。それは日本が米国に「ソメイヨシノ」を贈ったという歴史的逸話である。今では春になるとポトマック川河岸で満開になり、そこを訪れる観光客たちをはじめ、政界を含む権力に近い人々をも喜ばせているワシントンDCのサクラであるが、明治時代に「日米親善の徴」として贈られたものであることを知る人も少なくないであろう。

Cherry Blossoms in D.C.

Someiyoshino

上:図版引用先:NACC.National Park Service HP

下:ソメイヨシノ(筆者撮影)

参考資料:

日本国内のD.C.の桜の紹介サイト:ワシントン桜物語 アメリカと日本の友情を深める花

D.C.の桜祭りの公式サイト:National Cherry Blossom Festival

NPSによるNational Mall & Memorial Parksのサイト:Cherry Blossom History

だがこの五弁の花、しかも満開になったらすぐに潔く一気に散ってしまうというその「無常の徴」を米国に贈り物として献上し、ホワイトハウスからほど近い場所に植えさせ、しかもかの地の人々がそれを愛でるようにした、というのは、実になんとも心憎い計らいであったと言うべきであろう。隠しながら「情/こころ」を伝えるという万葉の時代からのヤマト人の伝統的マナーは、当時も生きていた訳である。まさに「地上の星、天上の花」としての桜であり五芒星であった。

繰り返すが、青地に白く縫い込まれた徴を五芒の「星」と見るか、五弁の「花」と見るかは、さして重要なことではない。大事なのは“5”という数性の伝達である。そして、伝達は異文化間においても成功したのだった。

■ 「完成」を象徴する数字“5”

われわれにとっても極めて親しみのあるこの“5”という数は、アメリカの独立宣言以降の「新世界」において「完全」や「完成」を意味するシンボルとなった。すでに述べたように、これは今後徹底して追求される「近代的ヒューマニティ:五欲」の完成と重なる部分である。

Five Star Managers

この新大陸においては、サービス産業における業者クオリティ等級を表現するのに五段階評価が用いられ始める。ホテルやレストラン、そして劇や映画の質を評価するのにこうした五段階評価法が一般的に用いられ始めた。それは星の数で決められる(星はもちろん五芒星である)。フランスにおけるレストランやホテルの「3つ星 = 最上級」といった言われ方をするのがそれであり、星の数が多いほど等級が上なのは言うまでもない。「5つ星」は最上級のクオリティに対して付けられるレイティングであるが、滅多にそのような評価が下ることはない。だが、リムジンサービスなど合州国内の観光サービスなどで“five-star / five stars”を謳っている業者も多く、そうしたサービスの質を会社名として冠しているところさえあるほどだ。三ツ星を最上の等級(ランク)として認識しているフランスなどと明らかな違いを見せている。これはきわめてアメリカ的な現象(あるいは「ポスト“新大陸独立”的な現象」)と言うべきであろう。

Five Star Limo Five Star Concierge Five Star Security Five Star Hotel System

「五つ星」を謳うサービス群

リムジンサービスコンセルジュサービスホテルのセキュリティ会社ホテル予約システム(クリックすると引用先にリンク)

「レイティング・システム」に見られる様な星の増加は、単なる商業的理由による「星のインフレーション」のためであるという言い方では十分に説明できない。なぜならば、仮に自然な「インフレーション」が星を増加させていくのだとすれば、間もなく、「6つ星」といった六段階評価が出てきても良さそうであるが、いまのところそのような気配は目立たない──後に述べるような「6の倍数」の象徴の登場という歴史的エポックを除いては。少なくとも、「5つ星」の評価制度が市場において広く正式に採用され、その上でアメリカで暮らすアメリカ人が“6”という数に対して好印象を持つというような経過を辿らなければ「6つ星」などという制度が現実のものになることはないだろう。それは「50ないし5を以て完成とする」という「数性5」の権化たる合州国において受け入れられそうもないことは、今となっては敢えて断るまでもないだろう。

■ 50の五芒星を作り出すもの

五芒星は、正確には五角形ではなく、5つの外向きの角と5つの内向きの角を持つ一種の十角形である。そして一筆で描けるその形状はしたがって10の点によって結ばれている。言い換えると、10の小さな星があるとすれば、それらを結ぶことによって星座のように「ひとつの大きな五芒星」を描くことができる。50の小さな星があれば、「5つの大きな五芒星」を描くことができるのである。合州国の50州はこのように大きな五芒星を5つ描き出すことのできる数を表す。5つの大きな五芒星は「5の時代」の完成を図像的に表徴したものである。したがってアメリカ合州国の「50の州」は「ヒューマニティの完成」に向かうための180年に及ぶ建国以来の歴史的過程をそのまま直截に表現したものなのである。

50 small stars to draw 5 large stars

50の小さな星は5の大きな星を描く。

“Nereid and Seven Kings”(Heavenly Talks, Earthly Talks)の背景画を意図して作った“Nereids Now”or “Dragon Horns” 筆者作

古代神話の原色世界 @ 壁画のあるグロッタ(洞窟)@ 課題が見出される庭園

また、“50”という数が促す連想は海の精 sea nymphs である。その原型はギリシア神話におけるネレウス Nereus の50人娘 Nereides/Nereids のエピソードによるものと言える。アメリカ海兵隊 Marinesの海兵隊旗が、海を象徴する青地背景に50の白い星が描かれたものとして知られる。これは合州国国旗のカントンをそのまま旗にしたもので、50州が一群になって互いに協力し合う海兵隊の象徴は、ギリシア神話上の海の精霊である「50人姉妹」を強く連想させるのである。

【推敲・加筆】「忘れられた宗教の機能」についての長い補足

Monday, May 14th, 2007

個々の人間が、他人に教えられたり命じられたりするままに生きるのではなく、自立的/自発的な思考と努力で──例えばいかにして終わりのある文明の伸長を止めるのかというような──「ある物事の道理」の悟りに達することができれば、そもそも掟も宗教も必要なかった。だがすべての人間が自分で物事を考え抜いたり自分で打ち立てた行動指針の通りに生きられるわけではなかった。そこで、ある特権的な知者が、あるいは使徒たちが「人間の信じやすさ」を利用して、悲劇回避のための智慧を、教条的に、「掟」として、ひとびとに守らせることをした。以後、宗祖亡き後の世界で、羊の群れに対する羊飼いの役割が「人間の組織としての宗教」となる。

したがって自発的でもなければ個人の思考力に裏付けられたものでもなく、「人間の組織としての宗教」の採った権威的且つ高圧的な組織運営方針や、単に形式的にその教義に追従すれば間違いないと考える(いや「考え」さえしない)宗祖亡き後の世界における人々に、ある種の行動規範が生じる。そのために「宗教」は一時的に当初の目的である悲劇の先送りに成功した面もあった(最大で千年くらいのスパンで)。でもそのはずが、他者からの批評を免責されるその特権的な地位によって、当然の如くその宗教そのものが腐敗する。当初の目的であった文明の成長・発展の「阻止」ではなく、それを促進するの側(俗権)に手を貸すような所行にも出る。あるいは、それ自体が立派な俗権となる。このように「宗教」自体が「転向」してしまうために、むしろその後の滅びを早めてしまうというような矛盾にも陥っていくのだ。

何のことを書いているのかと言えば、これはたとえば中世ヨーロッパにおけるカトリックが《反知 anti-gnosis》と恐怖の政策を通した歯止めによって滅びを先送りし、世界を崩壊から守ろうとしたと解釈できる点についての言及であるとも言える。そして前述のように、多くの組織に醜悪な腐敗を生じさせながらも、彼らの試みは一時的に成功し、欧州地域を悪名高き「中世」ないしは「暗黒時代 Dark Ages*」の名前で知られる一時代で覆うことができた。でもそれは読んで字のごとく、「文明の成長を遅延させる」ことも意味したので、キリスト教化された欧州は相対的に非欧州よりも「後進地域」になってしまった。

* この不名誉な呼び名は、カトリックが地上に造り上げた一大コスモスを否定的にしか評価できないルネサンス以降の人文主義者によって付けられたものである。つまり、過去より現在が、現在より未来が、今より「発展して」いて、より良い場所になっているという、「自信をつけた人間達」が付けた呼称なのである。発展や進歩と言うものは、どのような時間的スパンで歴史を概観するのかの設定によって幾らでも変わるものである。少なくとも、啓蒙主義が人の理性を至上のものと考え始める16世紀後半以降からの僅か三百数十年だけを概観すれば、いかにも人類は進化してきたように見える。

カトリックの基本方針である《反知 anti-gnosis》は、宗教の第一目的の観点からすると文明の発展を大いに遅らせた(滅亡を先送りした)点で相当の成功であったと評価することができよう。その「真実を知るべからず」の大方針が、文字通り「全世界」を覆うことができたら、世界を文明の崩壊から守ることにも繋がったかもれないが、数多くの宣教運動(ミッション)にも関わらず、歴史を見ての通り、実際にはそのようにはならなかった*。

(* というより、遅れて文明活動に参与したカトリックはむしろミッションを通して危険な文明を蒔き散らすことに寄与した。)

なぜなら世界には「別の宗教」によって管理運営されている諸国もあれば、宿命的に否定しがたい強さを持っている《知 gnosis》への傾向――すなわち“知的”好奇心――に従って行動する人々もいる。キリスト教圏は《知》への傾向に抗わないそれ以外のひとびとと出会えば、危険に曝されることになる。「遅れている」から攻められればひとたまりも無い。

したがって反文明性こそが初期キリスト教の“文明”的本性であったとすれば、その他の文明との邂逅は大変危険なことになる。キリスト教は《知》を上手に扱う他文明との出会いや、同地域内で発生する反カトリック的な諸運動との衝突を経験するにしたがって、そうした敵と互角に戦うために、《反知》であったはずの自分たち自身が、部分的な《知》の採用に踏み出さなければならなくなる。例えばジェズイット(イエズス会)の登場などもその一例である。「自分にとって黒に見えても、カトリック教会が白であると宣言するならそれを信じよう」とさえ言って憚らない彼らは《反知》の上に築かれた帝国を護るために《知》を徐々にではあるがやがて積極的に採用し始める。つまり「高等教育と研究活動といった教育活動」を奨励する。暴力を敵視し暴力の氾濫を抑えるために平和の使者が結局は暴力を採用し、その虜になってしまうというようなパラドックスである。

《知》の採用は結局、キリスト教自体の決定的な方向転換に結びつき、究極的には科学技術文明の制動装置(ブレーキ)としてというよりは、むしろ加速装置(アクセル)としての役割さえ果たしてしまう。それはプロテスタンティズムの登場と“新時代人”による採用によって決定的となった。後戻りできなくなれば、自分たちが「そもそもどうしてキリスト教徒になったのか」という当初の目的を忘れ、単なるユマニスムなり博愛主義なりになって、何でも「愛によって」許容してしまう。そればかりか、人類の罪を背負って十字架上で救世主が死ぬという「過去のできごと」が、未来の人類の行動を免罪するという非論理がまかり通りさえすることになる。どうして「かつての人類の罪を背負って死んだ」はずの救世主が、未来の罪さえも浄化できるのであろうか?* この類まれなる修辞上のトリックによって、反文明的なカトリックによるユートピア建設を夢見た筈が、現代社会に見るようなアングロ・サクソン的な「資本主義の精神」さえ、その「宗教」が包摂できてしまうことになる。つまりプロテスタント的な教義の拡大解釈によって、人類はキリスト教徒であり続けることで、「つまずき」続け、「罪を犯し」続けることができるようになったのである。したがって加速度を増し始めたその車からは、最後のブレーキさえも取り外されたのだ。

* これはわれわれ現代人の罪を背負って、未来の世界においてキリストが再び磔刑に処せられるだろうという見込みから考えれば、磔刑に処せられるべき救世主が再び「呼び寄せられている」と象徴的に解釈することが可能である。

以上のような理由から、そうしたキリスト教社会がプロテスタントによる「躓き」を体験するまでは、カトリックの欧州支配は文字通り「至福千年」として、ほぼ千年の永きに渡って続いたのだと解釈することさえできる。いずれにしても、宗教行為が人間によって運営される以上、そしてそれが生存しなければならない以上、それは人間的な腐敗や方針転換という妥協の産物になってしまうことをまぬがれない。このことについてはキリスト教に限らず、すべての、「人間の組織としての宗教」は、大なり小なり経験してきたことである。あの仏教でさえが、時の権力と手を携え、世界の文明化の拍車に一役も二役も責を果たしているのである。言うまでもなく腐敗のする宗教組織の例外でなかった。つまり、宗教の本質的な哲学や、教義の持つ「人間学」とも「滅亡回避術」とも呼ぶべきサイエンスとしての価値、あるいは集合的処世術としての価値とは別に、「宗教」がその理想をこの地上に実現しようとして実力行使に及ぶや否や、それはわれわれの今後も研究を続けていこうとしている《宗教》の本質とは別物の何か、すなわち「宗教」になってしまうのである。

そして《宗教》の本質(エッセンス)は、腐臭を放ち続けるいかにも人間的な「虚偽の宗教」の発展と「成功」との裏で、それとともに、付かず離れずの距離と保ちながら影のように従いつつここまで生き伸びてきた。本質と非本質は互いに共犯関係にあるという意味で、互いが互いを利用してきた。「大いなるウソがなければ真実も伝達されなかった」だろうという逆説。大いなる悪の大河の水に載せられて、微量の善の水が運ばれていく。悪があってこその善。そしてその善は未来に若干の種を残すのだ。

忘れられた宗教の機能

「忘れられた宗教の機能」についての長い補足

Friday, May 11th, 2007

一人一人の個人が、他人に教えられたり命じられるままに生きるのではなく、自立的/自発的な思考と努力で──例えばいかにして終わりのある文明の伸長を止めるのかというような──「ある物事の道理」に達することができれば、そもそも掟も宗教も必要なかった。でもすべての人間が自分で物事を考え抜いたり自分で打ち立てた行動指針の通りに生きられるわけではなかった。そこで、ある特権的な知者が、あるいは使徒たちが「人間の信じやすさ」を利用して、悲劇回避のための智慧を、教条的に、「掟」として、ひとびとに守らせるということをした。このように宗祖亡き後の社会や「人間の組織としての宗教」の採った組織運営方針のために、一時的に「宗教」は当初の目的である悲劇の先送りに成功した面もあった。でもそのはずが、その宗教そのものが「転向」してしまうためにむしろその後の滅びを早めてしまう矛盾にも繋がっていく。

何のことを言っているのかと言えば、たとえば中世ヨーロッパにおけるカトリックが《反知》と恐怖による歯止めによって滅びを先送りし、社会を崩壊から守ろうとしたと解釈できる点についての言及であるとも言える。そして多くの醜悪な組織の腐敗を生じさせながらも、彼らの試みは一時的に成功し、欧州地域を悪名高き「中世」で知られる一時代で覆うことができた。でもそれは読んで字のごとく、「文明の成長を遅延させる」ことも意味したので、欧州を相対的に非欧州よりも「後進地域」にしてしまった。

これは宗教の第一目的の観点からすると文明の発展を大いに遅らせたので相当の成功であったと言うことができる。その《反知》の方針が、文字通り「全世界」を覆うことができれば、世界を文明の崩壊から守ることにも繋がったかもれないが、数多くの宣教運動(ミッション)にも関わらず実際にはそのようにはならなかった。なぜなら世界は「別の宗教」によって管理運営されている箇所もあれば、また人間の《知》への傾向(好奇心)も宿命的に否定しがたい強さを持っていたりもするために、キリスト教圏はそれ以外の《知》への傾向に抗わないひとびとと出会えば危険に曝されることになる。「遅れている」から攻められればひとたまりも無い。

したがって反文明性こそが初期キリスト教の“文明”的本性であったとすれば、その他の文明との邂逅は大変危険なことになる。キリスト教は《知》を上手に扱う他文明との出会いや、地域内で発生する反カトリック運動との衝突を経験するに従って、そうした敵と互角に戦うために、《反知》であったはずの自分たち自身が、部分的な《知》の採用に踏み出さなければならなくなる。例えばジェズイット(イエズス会)の登場などもその一例。言わば、暴力を敵視し暴力の氾濫を抑えるために平和の使者が結局は暴力を採用してしまうというようなパラドックスである。

それは結局、キリスト教自体の決定的な方向転換に結びつき、結局は科学技術文明の制動装置(ブレーキ)としてというよりは、むしろ加速装置(アクセル)としての役割さえ果たしてしまう。それはプロテスタンティズムの登場によって決定的となり、後戻りできなくなった。そして、自分たちがそもそもなんでキリスト教徒になったのかという当初の目的を忘れて、単なるユマニスムなり博愛主義なりになって何でも「愛によって」許容してしまう。反文明的なカトリックによるユートピア建設を夢見た筈が、現代社会に見るようなアングロ・サクソン的な「資本主義の精神」さえその「宗教」が包摂してしまうことになる。

以上のような理由から、カトリックの欧州支配は文字通り「至福千年」としてほぼ千年続いたのだと解釈できると思える。いずれにしても、宗教自体も人間によって運営される以上、それは人間的な腐敗や方針転換と言う妥協の産物になってしまうことをまぬがれない。このことについてはキリスト教に限らず、すべての、「人間の組織としての宗教」は、大なり小なり経験してきたものである。あの仏教でさえそうした腐敗の例外でなかった。つまり、宗教の本質的な哲学や教義の持つ、「人間学」とも「滅亡回避術」とも呼ぶべきサイエンスとしての価値、あるいは集合的処世術としての価値とは別に、それがその理想をこの地上に実現しようとして実力行使に及ぶや否や、それはわれわれの今後も研究を続けていこうとしている宗教の本質とは別物の、「宗教」になってしまうのである。

そして宗教の本質(エッセンス)は、腐臭を放ち続けるいかにも人間的な「虚偽の宗教」の発展と「成功」の裏で、それとともに付かず離れずの距離と保ちながら影のように従いつつここまで生き伸びてきた。本質と非本質は互いに共犯関係にあるという意味で、互いに一方が他方を利用してきた。「大いなるウソがなければ真実も伝達されなかった」だろうという逆説。大いなる悪の大河の水にのって微量の善の水が運ばれていく。悪があってこその善。そしてその善は未来に若干の種を残すのだ。

忘れられた宗教の機能