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K・キェシロフスキ作品:
三部作 トリコロール《Blanc》論

Wednesday, August 18th, 2010

終末論的・超歴史的・救済論的理解によって読み解くキェシロフスキ論(その1)

彼が直接監督した作品の意味で、実質的な遺作とも言えるTricoleursシリーズの《Blanc》(White, 白)について。この作品が、キリスト教の秘教的解釈やグノーシス思想などへの理解を基礎に出来上がっており、映画の登場人物や出てくる小物大物を含む舞台装置、そして台詞などによって巧妙に暗示されていることを理解することは、この映画が単なる男女の愛憎劇や喜劇風の復讐劇を造ることを目的としたものではなく、いわゆる神話時代から変わることなく扱われてきた《普遍的題材》を扱った類希な、真の芸術の名に値する作品であることが諒解されよう。キェシロフスキは、この三部作において、ほぼ完璧とも呼ぶべき物語をつくり、タルコフスキー以来、比類なきレベルの象徴的映画作品を完成したということができよう。

Kieslowski portrait

キェシロフスキは、本人が自叙伝でも述懐しているような「象徴の映画は作らない」(キェシロフスキ著『キェシロフスキの世界: Kieslowski on Kieslowski』)などという言説が、多くの鑑賞者をあえて欺く、全く正反対の虚偽(まやかし)であって、むしろそうした象徴的映画を生涯最期まで俗的な装置の中に意図的に混淆させ、また「隠匿しつつ提示する」というオカルティズムの伝統に根ざした表現を選び、またそのような読み解きの可能な優れた鑑賞者に対して、ある種の目配せを送っているものと考える方が妥当なのである。

むしろその上で、そうした象徴(奥義)への理解だけでは足りないのだという、より至高のメタフィジカルなメッセージをも映画に含有させることに成功しているのである。だが、このこと、すなわち「足りない」ということは、そうした内容への理解だけでは十分条件ではないが、奥義接近への必要条件であることに違いはない、とも言い換えられるのである。

小論においては、続いて、登場人物名、時系列による場面解釈などを、いちいち記すことで、キェシロフスキが無駄のない選択と気配りを一切の要素に対して行っていることを論証していくことにする。

■ 登場人物名
Karol Karol
『Blanc』の主人公カロル・カロル(Karol Karol)にはその名前にいくつかの暗示が込められている。最も基本的には、Karolはヨーロッパ文化圏には一般的な名前(Karl, Carl, Carlo, Charles)のポーランド語やスラブ語に置き換わった変種であるが、象徴記号としての役割のひとつはアルファベットの「K」、すなわち現世的・近代的な「J」に続く「やがて来る」の時代に当てられた記号である。それを姓名の両方で繰り返すことによって、ひとつにはアフォリズム的なドラマの持つ非現実性を強調すると同時に、数字のぞろ目(222, 777, JJJ)などの方法と同じ「繰り返し」の手法によって「そこに記号が存在すること」についての自己言及を行っていると見ることができる(ぞろ目については、キェシロフスキ自身が三部作の『赤』において、主人公の通うカフェのスロットマシンを使ってきわめて暗示的に扱っているのであり、彼がぞろ目の意味の重要性についてわれわれに目配せを送っていることは明白である)。

アルファベットの「K」自体には「11番目」の意味があり、「KK」と二度繰り返すことにより、「1111」という数性を読み取ることも可能である。そこには周回する時代(エイオン)の「原始、始まり」に相当する数性の、およびわれわれにとっての未来のエイオンの暗示を見ることができる(われわれの時代は3回繰り返される数字によって「3度目の世界」であることが暗示されているが、未来の未来は4桁の数字によって「4度目の世界」であることが暗示されるであろう。現実にそうなるかは別として、論理上はそうなるのである)。このことは、これから説明して行くタロットに於ける《愚者の旅》の愚者(the Fool)自身として主人公が「繰り返し」を生きることについての暗喩として機能する。

Karolという名前のその原意は、「夫」「男」というものであるが、このドラマの意味を考えたとき、その主人公の記号として元型的な《男》という意味の名を当てたことには偶然以上の意味が込められている。また、英語の語源辞典をあたると、Charlesには、「自由人:freeman」の意味が見出される。これは「奴隷でない人間」「奴隷を克服する男」のことである。そこには成長する愚者が、その道程で隷属の頚城(くびき)を断って、自立を得るために目指す別の「K」、すなわち、まずは「Knight」に、そして最後は現世の王(King)となることの意味も含まれている可能性がある。現に、欧州ではCharles/Karlは、王の名としてもきわめて高い人気があることは偶然ではなかろう。

Julie & Zbigniev

Dominique
カロル・カロルの相手役である準主役の女性の名前。
ドミニクのヴァリアント(変形種)は、以下に示すように実に数が多い。それだけこの名も欧州文化圏では男女を問わず人気があると言えるだろう。意味は「神の、神についての」というようなもので、「神の年」の意味を持つラテン語の「anno domini」(これが西暦のADに相当する)もこの語幹を持つものだ。

【資料:Dominiqueのヴァリアント】
Domaneke, Domanique, Domenica, Domeniga, Domenique, Dominee, Domineek, Domineke, Dominga, Domini, Dominica, Dominie, Dominika, Dominiki, Dominizia, Domino, Dominica, Domitia, Domorique, Meeka, Mika, and Nikki.

さらに「支配、優性」といったニュアンスの語彙に転じた「dominant, domination」などの単語との関連性がある。事実、主人公にとって異国の地であるパリにおいては、Dominiqueは、常に主人公のKarol Karolに対して、「優性」であり、「支配的な」地位にある。これこそが、主人公が(三色によって象徴される)異邦の地において「性的不能」に陥った主たる理由なのである。

Mikołaj ミコワイ
慣習的ににNicholasのポーランド名とされるが、キェシロフスキは明らかにこれをMichael(ミハエル)のポーランド名として採用している。これは大天使の名前であり、彼が4人でプレイするブリッジ・プレイヤーであることから、四大天使のひとり(ミハエル)であることが暗示されている。彼はまさにメッセンジャーであり、また主人公を支援・守護する霊的な存在(聖ミハエル)でもある。

Mikolaj & Karol Karol

■ 時系列による場面解釈

「死と再生」の祖型として
Karol Karolの映画進行に伴う変化は、主人公の《成り行き: progress》および「死と再生」の範型をなぞるものであり、それはタロットにおける「愚者の旅」であり、また新しいところでは新約中の救世主の「死と復活」にも見出されるパターンである。

Karol Karolに降り掛かる不運(というよりはむしろ「受難: Passion」であるが)は、裁判所に着いた時点で鳩の糞が彼の《肩》に落ちてくることで暗示される。これは同時に彼という主人公が「白」という属性を持ったまさに本編の中心的な存在であるための目印の意味がある。「肩に目印がつく」という伝統はキリスト教のイコンにおける母マリアの肩に付けられている八芒星の位置とほぼ同じであり、そうした聖像の伝統を実はキェシロフスキはきちんと踏まえているのである。

裁判によってすべてを失ったKarol Karolは、地下鉄の駅で知り合うミコワイの助けを得てパリ脱出を図る(ミコワイの役割は、その名の通り、空を飛んで世界を駈ける「羽根を付けたメッセンジャー:天使」としてふさわしいものである)。その際、Karol Karolはポーランドには戻れるが、ゴミの最終処理場という、言ってみれば「故郷の最果ての地」で4人組の犯罪者たちに囲まれ、袋叩きにされることによって一旦終わる。故郷の最果ては世界における辺境を意味する。これは言わば蘇りをもたらすために必要な形式的な死である。しかもそれは敵による「殺害」によって実現されなければならない。これは世界の四隅(つまり東西南北を含む人間世界そのもの)を表す4人の盗賊たちによって囲まれ、打ち倒されなければならず、言わば救世主の受難、すなわち主人公の弾圧と殺害をこのゴミ処理場における暴力が象徴している。

ところが、Karol Karolを迎える「死」は、「仮死」とも言いうる状態で、それはヘアサロンを経営する兄のいる家で毛布を頭まで被って三日三晩寝続けて、復活への時期が熟するのを待つことによって表現される。山のように盛り上がった毛布の中における暗闇は、キリストが磔刑死後、葬られる石によって塞がれた墓所と同じ意味を持つ。毛布から出てきたKarol Karolのその後の活躍は、まさに墓場から石を退けて出てきた救世主の姿にオーバーラップするのである。キリストとの重ね合わせについては後述する。

【象徴的第2日】
彼は、無事に帰って来ることのできたポーランドで、過去の自分の象徴である2フラン硬貨を川に向かって投げ捨てようとするが、それはあたかも救世主の手に付けられた「聖痕(スティグマ)」のように掌にくっ付いて離れない。ここにもキリスト教のイコンを模そうとするキェシロフスキの意思が容易に読み取れるのである。これは硬貨の数性“2”を利用して、さらにスティグマを思わせる身体的な部位にそれを配置することによって、Karol Karolと救世主の間にある(皮肉な)相関関係への暗示を強化するの