Archive for April, 2011

解釈の重層性は結果であって目的ではない

Tuesday, April 26th, 2011

Twitterに掲載されたエンデの引用より

芸術がひとつの完成したフォルムになったとき、それは単一の「正しい解釈」を生むものではなく、重層的な意味を持つものになるからです。それでいいのです。いや、そうでなければ困る。だって作者の方でも、創作に従事するとき一元的な意味を狙っているわけではないのですから。(ミヒャエル・エンデ)

筆者はエンデを尊敬していますし、多くの点で共感を持っておりますが、この言説は手放しで評価できません(ですます調になっているので、この文章もそれに合わせます)。《芸術がひとつの完成したフォルムになったとき、それは単一の「正しい解釈」を生むものではなく、重層的な意味を持つものになる…》ここまではいいです。次がいけません。「それでいい」はずもなく、また「一元的な意味を狙っているわけではない」というのも創作者として不誠実です。自分なりの言い方でもっと正確に言えば、こうです。

作者はどこまでも一元的な意味を追求し、それを表現すべきです。最初から重層的だと言う作者を私は信じません。たったひとつの、誰もに関わる普遍的に重大性を持った深刻な内容を象徴的に表現すると、それが如何に絶対的な確信を以てなされたとしても、それが受け手側に重層的に読めるというだけのことで、作品が重層性を持ってしまうのが現実であるということに過ぎません。しかも作者にさえ気がつかないようなレベルで重層性を持っているということに、後から気付かされるというのが正しいあり方です。

たったひとつの重要なものを伝える気概もなく、ただ受け手の数だけの意味がある、などと取れるような言説は、詐欺でしかありません。それはまた、受け手の洞察力や想像力をバカにした言い方です。

自分が緊急性を感じながら「あらゆる手立てを尽くして正否を明らかにしなければならないほどに例外的に重要な論件」を、なんらかの作品を通して表現する時に、それが重層的に解釈されて良い、などと思うはずがないのです。その重層性への許容というのが、このエンデのケースにもあるように、成功した表現者特有の余裕と寛容さを以て語られるのを聞くことがありますが、それはいかにも嘘っぽいと、われわれは即座に感知しなければなりません。実は創作意図は《ひとつ》であって、われわれが、われわれの理解のレベルに併せてさまざまに解釈しているに過ぎないということを、少なくとも受け取る側が思わなければならないはずです。

その上で、別の解釈が可能なことを面白がるというのは、態度としては正しいです。そして、ひとつの真実がある別の真実のありかたと似ていることに気付くのは無価値なことではありません。でも、それはひとつの真実に到達してこその言い分でなければならないのです。

繰り返しますが、「たったひとつのことを指し示している」というのが表現者の持つべき意図であり責任だというのが筆者の考え方です。反論や反発を覚悟の上で——論証にはなっていませんが表現する者の一人として——これを筆者は確信しています。

ナンセンス!藤井まり子のコラム

Thursday, April 21st, 2011

藤井まり子のアップした『宮崎アニメ「ハウルの動く城」に込められた「原子の火を絶やすな!」という強いメッセージ』に反論。

これは、信じやすい人がぱっと飛びついて広がりそうなので、念のために釘指しておく。宮崎駿の映画『ハウルの動く城』におけるカルシファーが示すものは、別に「原子力の炎」に限らない。これは結論。少なくとも宮崎は『ハウル』に「原子力の炎を絶やすな」というメッセージを込めているはずがない。まったくのナンセンスである。それは『ナウシカ』を含む初期作品から続く、それらの根底に流れている内容を掬いとればあまりに自明なのである。

伝統的な象徴体系の中で、炎が核エネルギーを暗示しているかに読めるものがあるのは確かに事実で、そのようなことはこのentee memoも取り扱い、さまざまに論じてきたことだ。繰り返すことになるが、炎の象徴が文明を動かす「動力」の意味で登場するのは、至極理解可能なことだが、それが原子力でしかないと断ずるのはいかにも早計なのである。もちろん後述するように、原子力の炎を他の炎から区別するのは、まったく非論理的なことでもないのであるが、まず最初の前提として、藤井まり子のこの文章における宮崎を引き合いにする判断が間違っている。

そもそも、原子力に先立って、薪、石炭、石油、鯨油など、文明を支える炎にはさまざまな形態があり、そうして得た炎を「絶やさないようにする」というのは、古今東西どこでも見られる先人達の努力だった。加えて、「絶やさぬ炎」には、歴史や知恵を次世代に慎重に伝えて行くという抽象的な別側面もあり、まさにそれが伝統的な宗教の果たした役割でもある。

つまり文明そのものを維持する動力としての炎と、その炎が「副作用」としてわれわれに何をもたらしうるのかという知識の両方が、文明を運営・維持するための両輪だからだ。そして、今風にいえば、「リスク」と「リターン」という善と悪の両義性をまさに端的に表しうる点でも、炎の象徴というものはきわめて秀逸だ。それはプロメテウスが手に入れた炎のことを思い出すまでもなく、普遍的に見出され続けた火の抱く潜在性なのだ。その意味で、この《炎》というシニフィアン(象徴自体)に、鯨油で作ったロウソクから核エネルギーを炸裂させる原子爆弾まで、幅広い意味(シニフィエ)を見出すことは、実際可能だ。

だが問題は、核の炎が他の炎*とはまったく異なる由来を持つもので、それを完全に制御し、また不要な時に廃棄する技術をほぼわれわれが持ち得ないという点で、区別することに一定の意味があるにも関わらず、それに気付かぬ人が多いことだ。

* 薪から化石燃料まで、燃やされる燃料も、風力や水力といったエネルギーも、すべて太陽に由来を持つが、核の炎だけがそうではない。

《福》は、逆さまになって落ちる

Monday, April 11th, 2011

1. 長崎逆さ福2.中国の逆さ福

《福》の字の逆さまにしたものが中華料理屋などで壁飾りなどにしているのを見かけるのは、“縁起担ぎで【福倒了】「福が逆さまになった」と発音が同じ【福到了】「福が来た」を掛けている” のであり、いわゆる「縁起物」として中国では広く使われているものらしい。だが、こうした言葉遊び(駄洒落)以外に、幸運や運をもたらすものが「天からおとずれて欲しい」という祈念が、「空から降ってくるイメージ」で表現されていると考えることもできよう。度し難く漢字文化である中国においては、この「幸運のイメージ」を、例えば、宝珠、パイナップル、壷といった他の象徴的な代替物に置き換えることなく、そのまま漢字を用いていると考えることができる。

死や滅びが肯定的な価値を持って認識されることがあるように、ある種の《幸運》は極めて畏るべきものを意味し得る側面を持つ。これまでも繰り返し《反対物の一致: coincidentia oppositorum》というテーマで象徴を解釈してきたように(『いかにして「忌避すべきこと」が「歓迎すべきこと」に転ずるか』)、この《福》という記号も、われわれがハンドルできないある種の「トラブル」を暗示しているものとして登場しているような気がしてならない。

事故で動けなくなっている高速増殖炉<もんじゅ>他、13基の原発を抱える福井県*にしても、今事故が進行しつつある福島県にしても、そしてビキニ環礁における水爆実験で被爆した第五福竜丸にしても、そこに共通して見出されるのは、名称の中の《福》である。

* 福井県は、まさに関西地域にエネルギーを供給するための《福の井(井戸)》なのである。福井県の「福井」は、「幸福と繁栄の井戸水の神(井水の神)」たる福井神(さくゐのかみ)から来ているという。

人類にとっての最大の脅威として登場した核エネルギーは、それに対してアレルギー症状を起こさせずに「同盟国(敗戦国)」に受け容れさせるために、冷戦時代に「平和的利用」という名目で再び処方された。他ならぬ日本国内の宗主国協力者たちの暗躍によって、平和利用ならば良かろう、さらば「毒を持って毒を制せよ」ということで、日本をはじめとする幾つかの同盟国が、アメリカの開発した原子力技術を発電目的で利用をし始める。未来の世代を支える夢のエネルギーという《福音》(救いの教え)として、この脅威の「荒ぶる神」は、甘い天使の顔を身に付けたのである。

第五福竜丸 第五福竜丸
東西冷戦の最中におきた第五福竜丸事件。英語では”Lucky Dragon incident”。原爆の成功とつながりが噂され都市伝説となったタバコ銘柄《Lucky Strike》にも見出される”Lucky”の文字。(実際は、このタバコは1871年にデビューしており、時系列的に考えれば原爆投下とは無関係だという考えが一般的だが、それとの関連を指摘する噂は後を絶たない。)

もちろん、その羊のような顔の仮面の裏に、依然として「荒ぶる神」(悪魔の正体)を見抜いている者たちはいた。つまり反核運動家や反原発運動家らが、さまざまなかたちで抵抗したのだが、経済効率/生産性などの「絶対善」の前では、そしてその与えるだろう利益の前では、その禁断の「木の実」*の味に屈せざるを得なかった。とりわけ「国内に天然資源を持たない日本」にとって、このエネルギー・ソリューションは、「(危険と)分かっちゃいるけどやめられない」ものとなりつつあった。民間委託で行われた原子力発電だが、それは明らかな国策あっての展開なのであった。

* 最初の核開発技術の名前にマンハッタン計画という名前が付けられたのは、まさに象徴的なことであった。マンハッタン(New York, NY)の愛称は《Big Apple》なのであり、巨大な林檎は、まさに日本に「食わせる」ための禁断の果実だったからだ。

人間が自然から獲得したものの中で、このようなトラブルと福音の窮極的な二面性を備え持った存在として、核技術以上のものがあるだろうか? この技術こそ人類の歴史と歴史を超えた時間の枠組みの中で、聖なる時間と空間を創成、支配したものであり、錬金術の究極の目的を具現化するものであった。

あらゆる人知の結晶としての核技術が、周回する超歴史的世界のありようを実現たらしめる最終的な引き金なのだ。それは閉じようとする円相の、まさに閉じられる寸前の箇所に据え置かれるひとつの、美しくも、これ以上にないほどにグロテスクな装置(Deus ex machina / Machina ex Deo)なのである。あるいは、「天の恵み」の徴の顔をして、われわれ目がけて降ってくる《逆さ福》なのである。

最後にもう一度、畏るべき《福》に関連した言及で終わろう。東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)が発生する3日前の記事である。(「東日本大震災」は東北地方太平洋沖地震によって引き起こされた現在進行中の災禍の名前。)

原子力発電:2020年に設備容量8000万キロワットに
全国人民代表大会代表(全人代)で全人代環境資源保護委員会委員、中国核工業集団公司中国原始エネルギー科学研究院元院長の趙志祥氏は取材に対し、中国のエネルギー構造は依然として石炭、化石エネルギーが中心で、あまり合理的とはいえないとし、こうした状況を変えるため、原子力、風力、太陽光、地熱などの新エネルギーの発展に力を入れなければならないと述べた。国際在線が7日伝えた。

温家宝総理が発表した「政府活動報告」では、非化石エネルギーの比重を第12次5カ年計画(2011-2015年、十二五)期間中に1.4%、2020年までにさらに15%まで高めることが打ち出された。原子力エネルギーは今後新エネルギーとして発展を加速し、大規模に普及していく必要がある。現在の状況をみると、中国で運転中の原子力発電所は現在11基、設備容量は910万キロワット。発展改革委員会が認可した11の原発事業28基のうち、すでに24基が着工。中国は建設中の原発規模が世界一で、名実共に原発大国となった。2020年までに設備容量は世界第2の8000万キロワットに達する見通し。

中国においては、《福》の字を名に持つ福建省が中国のすべての省と自治区の中で最大の数の原発建設予定地とされている。寧徳で建設中のものを含め、計画中のすべてが完成すると、福建省1省だけで6つの原発が立地することになる。これはゆくゆくは5つの原発を持つことになる広東省を差し置いて、中国国内第一位だ。まさに《福》を建設中の福建省なのである。対岸に当たる台湾にとっては、福建省の核の炎は「対岸の火事」では済まない「今そこにある危機」と映っているかもしれない。


(参考)
祭神の五柱を総称して、坐摩巫祭神(いかすりのみかんなぎのまつるかみ)と称している。
* 生井神(いくゐのかみ)…井水の神(生命力のある井戸水の神)
* 福井神(さくゐのかみ)…井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
* 綱長井神(つながゐのかみ)…井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)
* 波比祇神(はひきのかみ)…竃神(屋敷神。庭の神)
* 阿須波神(はすはのかみ)…竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)


画像:1. 提灯と福:ナガサキの提灯祭りにおける《逆さ福》。原爆が落とされた街に伝わる祭りとして、逆さ福を飾る提灯祭りがあるというのは、仮にそこに長崎と中国の長い関係などの影響を認めるにしても、偶然としては出来過ぎのきらいがある。 2. 逆さ福如来宝珠