Archive for the ‘Concert Memoir’ Category

レオン・フライシャーという現世への《贈与》

Saturday, December 5th, 2009

『羊は静かに草を食み』ピアノ版。この、静かに連打される和音。これは一体どこから聴こえて来る音なのだろう? 天か? それとも内奥からか? いや、それは購入からもう15年経つ旧いテレビの小さなスピーカーから聴こえて来ている。

Concert Memoirという本ブログのカテゴリは、自分が足を運んで見聞きした主に音楽パフォーマンスについての備忘録のはずであったが、テレビで放映していた音楽にこれほど感動したのはまれなので、書いておく。これは内田樹式に言えば《贈与》である(「恩寵」と言いたいところだが)。だが、それはテレビといういまや「死にかけた」メディアから流出して来た愛でたき《贈与》だったのである。

レオン・フライシャーは、Columbiaの往年の有名録音を集めた廉価版シリーズのCDでセルと共演していたラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」で知っていたが、音盤を追いかけたこともなかったし、特にどんな演奏をする人なのかという印象も持たずにいた。

Freisher-Rachmaninoff

しかるに、この日12/4にNHKで放映した彼の闘病についてのインタビューとその後の演奏実況を聴いて大いに感銘を受けた。そこで聴いた音楽のいくつかは全く初めて聞くものだった。

例えば、J.S. Bachの『旅立つ兄に思いを寄せる奇想曲』BWV992、SchubertのピアノソナタD960。この2つは是非もう一度聴いてみたい。Schubertは、特に愛聴する作曲家ではないが、こうして美しいものの存在をこの歳になってひとつひとつ発見していけるのは、実に幸運という他ない。(それにしても美しいものは、ただ単にそこにあることに気づくというよりは、それへの一瞥を与えるための、第三者による眼差しなり、実際に奏でられる具体的な奏者による音を通して常に行なわれるのである。あたりまえではあるが、こうした媒介者の存在は再現芸術に関しては過小に評価されることが多いように思われるのだ。)

芸術劇場 −レオン・フライシャー ピアノリサイタル−

桜の樹の下のバサラつぎ

Saturday, October 13th, 2007

10/13(土曜日)19:00頃から。

【以下敬称略】狛江の泉龍寺境内で行われる野口祥子(のぐちさちこ)の主宰するひめしゃら塾の舞踏公演(と呼んでよいものか…)の第二回なるものに友人の誘いもあり、行ってみた。夜の冷気も迫り肌寒くなりつつある境内に優に二百人は超える観客が徐々に集まった。

全体の印象としては薪神楽や薪能に通じるようなものだが、文字通り天井がなく桜の木下に設えられた特設の野外舞台を中心に創られるパフォーマンスというものは、そうしたものとはまた異質の非日常空間を生成しつつあり、それはまさに幽玄を絵に書いたようなものだった。

泉龍寺の桜の木は実に立派で、それ自体が鑑賞に値するものだが、天然の木をそのまま舞台装置の一つとして取り込み、また背景に位置する鐘楼は、前方で静々と進む静的な舞踊とコントラストをなす動的な舞踏の第二のステージ(関係は逆になることもある)とも言うべきもので、前後の関係にあるこの二つの舞台は、それ自体でもこの場所ならではの特有の遠近法を創り出すのであった。

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公演が始まる前の“舞台”全景。右手に見えるのはシタールとドラム奏者の演奏場所。注連飾りのようなものを締められた中央の桜を囲むような形で舞台が造作されている。

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神巫(かむなぎ)の様な装束と仮面で現れた野口祥子の踊り。着物姿で左端に見えているのは、後に舞台に登って踊ることになる二胡奏者の向井千恵。

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右端に見えているのはシタール奏者の鹿島信治。鐘楼の上でも若干の演出的な「動き」が…

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野口祥子を除くとひめしゃら塾の舞踏家は6人(向井千恵を含む)。そのうちの3名。衣装は次々に変わっていく。

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基本的に仮面を付けて登場し、それは外され、舞台装置の特定の場所に置き去られる。それは他の登場人物によって再発見され、また盗用される。パントマイムの様でもあり、劇の様でもあり、舞踏の様でもあり、そしてまたそのどれでもないようでもある。

そして最もこれらに相応しい呼び名は「神楽」であろう。だがそれは神社や民間に伝わる、例えば鍛冶術に関する神話(どうやって刀が造れるようになったか、などの)の伝承などの目的はなく、独創的かつ現代的なものだ。また心理学的な解釈を施す誘惑を感じてしまう類のものである。

廬佳世さんのアルバム来る!

Wednesday, November 16th, 2005

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一度以前にこのブログでも「オブリガートなオーボイストになった夜」というタイトルで書いたが、私がオーボエで参加した廬佳世さんのアルバムがついに出来上がった。廬さんご自身から嬉しいメッセージと供にサンプルのCDが送られてきていた。

私が吹いているのは3曲目の「かたち」という曲。

いきなり冒頭のイントロで素朴なメロディで登場し、最後に渋く(?)オブリガートで彼女の歌と絡みます。彼女の飾りのないストレートなメロディーと歌声を是非お聴き下さい。

歌詞やアルバムジャケット、また廬佳世さんのプロフィールなどはこちらに詳しく載っています。ぜひご覧下さい。

オブリガートなオーボイストになった夜

Wednesday, July 27th, 2005

矢野敏広さんは、李政美(イ・ヂョンミ)さんや、enteeが敬愛する趙博さん(パギやん)、朴保さん(パク・ポウ、パッ・ポオ)[以下敬称略]などの弾き語り系のバッキングメンバーとして欠かせない「オチることなく、いつも寄り添うようにそこにいる」繊細緻密なギター + マンドリン奏者である。彼の伴奏ギターの音を聴いていると「信頼される理由を持ったプロだなあ」と嘆息させられる。いつも日本中を旅して回って大忙しである。

2年ほど前に即興 + コリアンロックの佐藤行衛さんを通じて知り合った。なぜか矢野氏も不思議な縁を感じる人。行衛さんを通じて知り合った関係で、行衛→韓国→矢野という流れであるにも関わらず、私は別の「系統」でも矢野さんと「コネクトした」のである。アメリカ滞在期間中、その当時、西海岸で「快進撃中」だった超国籍的レゲエの朴保バンドの音源だけをビレッジに住むある友人夫妻を通じて聴かされていたからである。しかも朴保の名前を自分は十年以上失念していた、というオマケ付きである。

一年前か、矢野氏に<もんじゅ連>ライブのゲスト出演をして頂いた後、自宅近くで飲んだ。その時、私が何度も聴かされた「忘れられないあの音楽」が朴保本人であることが劇的に判明したのだった。その後、朴保のことをいろいろ調べたまくったところ、全ての条件が符合したので。それが彼であることに今は一抹の疑いさえない。

だが、矢野さんがその朴保のグループの永年のメンバーの一人であったとは! これは以前にも、別の「音つながり」の縁の不思議についてentee memoで語ったとき、言及しているので知っている方にとってはもはや退屈なだけの話であろう。

さて、その矢野さんとAquikhonneの3人で10月にライヴを予定している。これは、これまでの自分の経験にない「癒し系朗読」パフォーマンスとなるかもしれない。このようなことを書くと早速「共演者」からもお仲間からも反発を買いそうだな…。案外この一言で流れたりして(口は災いの元なのだ)。

その矢野さんから先週末電話があり、廬佳世さんの新アルバム録音でオーボエを吹いてくれないか、と言うのであった。矢野さんはどうやら本アルバムのプロデュースもやっているようである。ありがたいオファーであったので、自らの未熟さも顧みず、二つ返事で引き受けた。「歌もの」でイントロとオブリガートだけの演奏であるが、バラード風の曲のそうしたオーボエ伴奏は、一度心底からやってみたかったことだったのだ。

仕事が終わった後、楽器を抱えて雨の中を新宿の某スタジオに向かう。想像した通り、スタジオは地下室。集中豪雨になって大量の雨水が流れ込んだりしたら嫌だななどと思ったが、思いのほか雨はひどくならず。

スタジオの皆さんは初めて会うような気がしないほどに気さくな方々。おかげで無用の緊張を強いられることはなかった。

9時近くからスタートして、11時半頃に終了。実にいろいろなことを学んだ。既に録音済みのトラックを聴きながら、音を重ねていく典型的スタジオ多重録音の作業であるが、イントロと間奏部以外をどうするかは明確に決まっていた訳ではない。一つは自分がどう出来るかが試されるのであるが、エンディング部でついにネを上げ、私が「最良のオブリガート」をアドリブできない(出来るんだろうけど、いつ最良テイクが録れるかが見当もつかない)ことが判明し、急遽、矢野氏のお仲間のアレンジャーが20分ほどでオブリガート部を作成する。いわゆる「緊急現場合わせ」である。しかし、彼の作り出したオブリガートの美しいこと! 鉛筆で書かれたこの世に一つのパート譜を見て、「そーゆーふーに書くのか!」舌を巻いた。譜面化されたオブリガートを基に、それを何度か吹いてオーボエトラックの完了。ちょっと悔しくもあったが、実に面白かった。

おわったら廬佳世さんの歌の詩がますます心に染みてきた。

アルバムはうまく行けば10月頃にリリースの予定らしい。

先日ちょっと参加した石塚トシさんのアルバムも秋頃リリース予定だし、いろいろ楽しみな秋なのである。

こういうことが週中に起こると、興奮して眠れなくなって、翌日ほとほと困るのである。

中島淳一の独り芝居:その人に相応しいものに成るということ

Tuesday, July 12th, 2005

7/12(火)。噂に聞いた“多極 美術家”の中島淳一氏の<独り芝居>。その「マクベス」東京公演を東京芸術劇場にて観劇。芝居そのものが、長らく親しんで来たものではないが、梅崎氏達との出会いを通じてついに観に行く事に。

これが「演劇」と呼ばれるものなら、その<劇>は年に一度とかではなくて、週に一度でも!と思えるほどの感動と親しみを覚えるものだったし、これが「独り芝居」と言うものなら、こうであって欲しいと自分が勝手に願っていた「個人が達成できる表現の理想」をすでに実体化しているものだった。このような夢を実現してる人間を間近に見、その人の呼吸を、言葉を、そして冗談や笑い声を、同じ空気の中で共有し、また自分も共に笑い、楽しんだということは、ほとんど夢のようである。最近、立て続けに起こっている「学びを伴う贅沢」のダメオシである。

とにかく自分の貧困な想像を、さまざまな意味で裏切ってくれた<芝居>だった。こうした裏切りは、もう驚きを超えて痛快なのである。

始まるまでは、最初から最後まで中島淳一氏がマクベスひとりを演じる「独白もの」なのかと、ちょっと想像したりもしていたのだが、左に非ず。シェイクスピアの「マクベス」に登場する主たる登場人物、すなわちマクベス本人、マクベス夫人、ダンカン王、マクベスに仕える士官、などなど、「本筋の語り」に必要な人物をすべて「一人で演じ分ける」と言う、いわば落語家が一人で何役もこなす、というのに近い芸である(奇しくも後で、その昔落研にいたことも判明)。しかも中島氏は、おそらくマクベスにこそ相応しい唯一の衣装を身に着けて、それを変えずに最後まで、演技と声色だけで幾人もの登場人物に成りきる。そして、その人物の変転にも中島氏の演技の妙がある。そして、華飾を省き、エッセンスは逃さない、という実に個性的で簡潔な脚色が、その魅力だった。しかもその脚色は、後から本人に聞いた所によると、オリジナルにない解釈や付随のエピソードまで含むものであり、しかもどんどん本番中にアドリブされているものであり、原作をよく覚えていない私などは、「ふ〜ん。そういう話だったかな〜」と容易に騙されてしまうのである。こういう「高度な騙し」に騙されるのは全然悪い気がしない。それだけ、「中島淳一の世界」に連れて行かれてしまっているのである。

中島淳一氏の言葉

最初に、中島氏が英語(原語?)のセリフを喉から絞り出すのを聞いた時、「おいマジかよ、まさか最後まで英語でやるの? だとしたらそいつはツライな〜」と正直思ったのだった。しかもシェイクスピアなので、2,3時間の独演は普通だろうと勝手に想像していたこともあり、そうなると「かなりの集中が要するぞ、これは!」とちょっと覚悟を決めかけたのだが、そういうことではなかった。後で御本人にそのことを話したら、やるたびにあちこちで同じことを思われてきたようで、最初の「一瞬の誤解」を楽しんでおられるようでもあった。確信犯なのである。しかも彼が英語のセリフをまわすことには、それだけでない必然性があるようだ。「自作英詩の朗読」というのが、彼の音声関連表現の始まりであったとも聞き、彼が「英語を選ぶこと」についても妙に納得をする。

なぜ、妙に納得をしたのか。ここで自分の話をするのは本来不適切なのだが、敢えて書くと、自分も日本語で「詩らしきもの」を書き始める以前、最初の「それ」は、留学中に英語で書かれたものだった。それは、滅多に人前で音読されたことはなかった(機を逸したと言っていいだろう)が、英語で書くことしかできない内容だったし、それを日本語に「逆翻訳」するなどということは、当初思いもつかないことだった。それらは英語で出来上がったのだし、英語を母語ではなくひとつの「記号」として、それらの持つ強い日常的意味や通常の単語運用に囚われることのない外国人として、純粋に「詩的」なツールであったのだ。中島氏が「自作英詩の朗読」から始めたというのは、だから実感できることなのだ。

中島氏の声色(こわいろ)の七変化には感動を禁じ得なかったが、そういう技術的なことの前提となる、その根本的な声質と言うか、舞台上で発声される響きのある<音声>自体が、黒く太い骨格とそれの描く鋭角な線に虹色の縁取りがされた「あれ」であったのだ。

そして、オーボエソロの本間正志氏が、この「独り芝居」の音楽担当。本間氏は、留学中に私がいろいろお世話になったオーボエ奏者のH君の師匠であり、多くの本間氏の「教え」を間接的に彼を通して「体験」していたのだ。が、このたびは、その師匠ご本人の「お出まし」なのであった。

梅崎氏の“ケルビーム部隊”が本公演を全面バックアップした。その梅崎氏が中島氏と深くつながっていて、中島氏が本間氏と20年来の「腐れ縁」なのだという(そして古楽合奏団のオトテール・アンサンブル「ぐるみ」のお付き合いでもあるらしい)。嗚呼、どこで誰がどのようにつながっているものやら! その辺りのいきさつは公演後の打ち上げで、おもしろおかしく聞かせて頂いた。

本間正志氏はフラウト・トラヴェルソの有田正広氏と並んで押しも押されぬ日本の古楽器界のパイオニアの一人であるが、中島氏の「独り芝居」ではモダン楽器による演奏(最近はモダン楽器の演奏が中心と聞いた)。それは4時間前に完成したという「自作曲」であり、したがってその音楽は「記譜」さているのだ。実は、これが私にとってこの夜の最初の驚きで、2つ目の意外さは、オーボエと台詞のリアルタイムの「インタープレイ」を見せるというのではなく、劇の始まりと終わりに来る挿入曲的な音楽のあり方だったのだ。

本間氏のパーフェクショニスト的なアプローチや古典楽曲を追求する、人を容易に寄せ付けないかの美学を思えば、記譜された音楽を音符の告げる通りに(つまり自分がプランした通りに)演奏するというのは、まさに必然として理解できることなのである。ただ、私の浅薄な思い込みが、私に驚きをもたらした。そして、音楽自体の完成度の高さには舌を巻いた。しかも、それを完璧に演奏するための修練も技術力もある訳だから、本間氏にとって、「それをもう一度やる」ということになれば、それを何度でも「再現する」ことができるはずである。

中島氏の演技との劇中におけるインタープレイや即興の可能性については、お二方は当然検討したらしい。だが、今のところは中島氏の演劇の内容を尊重すればこそ、安易に採用できないという事情でここまで来たらしい。それはそれでまた理解できることなのである。

これは、即興を主たる創作音楽の方法として採用してきた自分にとっても十分に考察することができる問題提起である。特にテクストとの共演に関しては、即興の匙加減というのは常に検討課題なのだ。うまくいったときは、「作曲の効果」を容易に凌駕する結果があるが、失敗は相当に悲惨な場合がある。実に即興においては成功と失敗はコインの裏表であり、リスクとは背中合わせである。

本間氏、最近は古楽器演奏の頻度は下がっているようで、むしろ都響の有志メンバーで作っているスイングジャズのビッグバンドでサックスを吹くという「不良な趣味」にご執心なのだそうだ。また、その日アンコールで演奏された「独り芝居:吉田松陰」のための音楽の秘密を譜面を見せて教えて下さった。

独り芝居と観ている間、学生時代にスコットランドを通過した際に訪れたインヴァネス近郊のコーダー城を思い出していた。マクベスの生きていた11世紀には現状のような城はなかったらしく、訪れたコーダー城自体は18-19世紀に「復元」されたものらしい。あの物語の舞台になったスコットランドは、牧草と花の生い茂るひたすらに静かな平原野であり、そこであのような悲劇が起きたことを想像するのは難しい。いろいろ実在のマクベスについて調べてみると、マクベスとダンカン王との確執は、暗殺ではなくて戦場における実体的な戦闘によって勝負がついたのが真相のようで、シェイクスピアの戯曲自体がすでに史実から遠いフィクションであることが分かる。シェイクスピアは謀殺(殺人)を現世におけるひとの生きる手段としたときに、その人間に降り掛かる事の顛末という普遍的な因果の悲劇を描くにあたり、実在のマクベスや彼の生きた場所、そしてそれにまつわる伝説を作者は利用したのだろうと想像される。

虚言にして箴言。虚構にして普遍。中島淳一氏は、現代の独演狂言師(虚言師)と呼びたい真の創作家だ、と思った。

中島氏にしても本間氏にしても、何を実践しているのかという具体的内容云々ではなく、その人物の人間性や大きさに相応しい存在に成るということ(すなわち「真の成功」)、一見単純そうで、それこそが人生の大問題であるところの到達し難い「自己実現」を成し遂げている人物の心のありように、最も大きな興味を抱いているのである。だからただ羨望の眼差しを投げかけるのは、もうやめなのだ。

「日本的なるもの」へのわれわれの音楽的取り組みとは?

Saturday, May 21st, 2005

「日本的なるもの」へのわれわれの音楽的取り組みとは?

とか、小難しい題を付けたが、これはひとつのライブイベントを聴いたときの単なる印象である。「日本的なるもの」への取り組み方をとっても、3つのユニット(ソロを含む)がこれほどまでに違った結果をもたらすというのは、実に興味深かった。また、「日本的なるもの」がそれぞれの出演者たちによってどのように解釈されたのか、というアプローチに相違によって、他でもない自分がどこに立つべきであるのか、を図らずも考えるきっかけとなったのである。

自分は、日本人でありながら、西洋音楽の楽器を手にして、西洋発の「音階解釈」によって限定されている音楽表現に取り組んでいる。

自作楽器を用いて日本の古典を奏でるというアプローチ。非日本発の楽器や表現手法を使いながら、日本の古典楽器と伝統唱法とコラボレーションするアプローチ。そして、日本発の楽器をバンドに組み込んでジャムるというアプローチ。

果たして、自分に「日本的なものをせよ」と迫られたときに自分が出来ることとは何であろう。自分の立ち位置を変えてまで、日本的なものを奏しようと思うのであろうか? 日本的なものを取り上げるとき、われわれは日本の古典に戻らなければならないのであろうか。日本的なものとは古典の中にこそ見出されるものなのであろうか。などなど、つらつら考えてしまったのである。これは早い話が、人がどうだったという以前に、すべて自分が考察するべき問題なのである。もちろん、「日本的○○」というものに全くこだわらないというアプローチがあっても良い訳だが。

さて、昨日金曜日の夜は、尾上祐一氏「ライヴシリーズ日本の味 初夏の巻」を聴きに国立・地球屋へ。実に有意義な時間を過ごした。

以下データはウェブからの転載:

尾上祐一(回擦胡、RibbonControler)feat.亜弥(舞踏)

(「コントローラ」は、スペルがControllerのはずなんだけど。)

尾引浩志(=倍音S、ホーメイ、イギル、口琴)

今井尋也(能うたい、小鼓)

ヒゴヒロシ(ベース)

つの犬(和太鼓セット)

森順治(バスクラ、笛、尺八)

尾上(おのうえ)氏とは無力無善寺のライヴイベントで以前ご一緒したことがある(噂では某社「カ○ス○ッド」の開発者でもあるとか)。そのとき、印象深い「回擦胡」という自作楽器を演奏していた。「二胡」(二弦琴)の一種なのであるが、通常に非ざるところは、あたかもフィッシングロッドについているリールを回すように、ひたすらくるくると楽器に付いたノブを回すことでパーツが微妙に弦をコスり、音を出す。弓(ボウ)なら一定の所まで弓を引いたらどうしても「返し」が来るが、この楽器は基本的に一方向にくるくる回すばかりだから、延々と長いロングトーンを奏することが出来るのだ、弦楽器のくせに。しかも吹奏楽器にはどうしても関わってしまう肺活量やブレスとも無関係に伸ばせるのであるから、原理的にはハーディガーディのようでもあり、感覚的にはバグパイプのような持続音が造れる楽器な訳である。実に妙な楽器だが、その音色はまるでシルクロードを西の端から東の端までを一気に横断する(Aquikhonne曰く、音の「アカシャ年代記」の)ような懐かしいエスノ感覚がある。「日本の味」と言うよりは、「二本の味」。つまり2本の弦でドローンとメロディを作り出す「シルクロード沿いの味」というのに近い。しかし、アジアの味をエスニックと感じてしまう自分って一体…。

今回は、回擦胡以外に、尾上さんのもうひとつの自作楽器、「リボンコントローラー」の演奏を聴くことが出来た。これは、まるで大正琴のように膝の上にボードを横に置いて両手で演奏するのであるが、まったくもって見事な手さばきである。単音しかでない初代モーグシンセのようなアナログ的な音であるが、原理的には発振している音源部はアナログで、加工(エフェクト)している部分はデジタルであるそうな。だが、その音たるや、尾上さんの趣味でそのような音を選択しているのであろうが、実に古色蒼然としているのであるが、それが実に心地よいのである。オンドマルトノを思わせるピュアな波形を選んでいるのだろう。なかなか強烈なシンプルさである。温度でアナログ発振部の回路に影響が出て音程が変わってしまう(らしい)あたりも、実にアナログ的な楽器の難しさを残した名器(名機?)なのである。それで、尾上さんは日本の唱歌や黒澤映画『羅生門』のテーマなどを奏でたのであった。渋い。

第2部の尾引氏は、初めて聴いた。そのホーメイや口琴の表現力。あれは一体なんなのだ。どこで修行をしたのだろう。彼の口琴は文字通り「人間テクノ」ではないか。「日本の味」と銘打たれたライヴにも関わらず、ソロでは、徹底して自分の「立ち位置」「守備範囲」でその芸を見せる。その潔さが良かった。言っては何だが、全然「日本の味」とは関係がない。だが、彼がゲストとして共演した今井尋也氏(能うたい、小鼓)とのコラボレーションで、初めて「日本の味」の合作をした訳である。ゲストとは言っても、後半の二人による共演は筆舌に尽くし難い「互いの良さを引き出す」シナジー効果を見せ、ゲストを呼んでまでやる意味というのを見せつけてくれたのである。すでに倍音sのCD録音でも聴けるらしい今井氏との共作を今回はライヴ状況において2人で再現してくれたらしいが、鼓を叩きながらの掛け声や能謡の発声と尾引氏の倍音唱法が全く自然なものとして解け合う。今井氏のオリジナルテクストを謡いの様に2人で朗吟するところなど、岡本喜八の『ああ、爆弾』の冒頭を思い起こさせる。なにしろ、こういう日本の古典芸能の発声法で二人の声が「合わさる」ことで醸し出される力というのは実に強烈だ。あとで、今井氏に話を聞くと、「謡い」に関しては今井氏本人がリハを通じて尾引氏に「稽古を付ける」結果になったと言う。実にうらやましい共演(共犯)関係である。

第3部のセットに関しては、いろいろ言えることがある。一言で言うと、それは「何か」だった。悪く言えば、それぞれの演奏者の立ち位置というものが「見えない」ところが残念。言うまでもなく、良いところは何ヶ所もあった。だが、それぞれのメンバーが押しも押されぬ一級の奏者でありながら、演奏を聴いている間中「普段の守備範囲外のことをやっている」という居心地の悪さに終止付きまとわれた。森さんを始めとして、普段やっている「自由形」の即興演奏を通じて、いくらでもそこから底はかとなく滲み出てくる「日本的な情緒」というものを垣間見ることが出来ると思うのだが、日本の民謡その他(日本を思わせる旋律)をそのまま笛で吹く、そのアプローチはいかにも残念だった。今まで素晴らしい演奏を何度も聴いているので、それは意外な驚きなのであった。

つの犬さんのいつもの破綻寸前まで感情的に盛り上げるそのスタイルとエンターテイメント性には、今までと同様の共感を覚えつつも、彼から働きかけられる共演者への「音と眼差し」を通してなされた折角のコミュニケーションも、ある種の疎通不全(私にもよく起こるらしいものだが)、そしてヒゴさんのベースが良くも悪くも絶対に揺るぐことのない音楽的基盤を決定していて、活かされないのであった。

ただ、どんな結果であるにせよ、それが3人が考えた上、どうしても実現したかったプロジェクトであるということには一定の理解は出来る。オリジナル曲を提供したヒゴさんにとってもそれはやりたかったことのひとつであったには違いない。彼の個人的な音楽の嗜好の一部を垣間見ることができたし。だが、あれがほんとうに「それ」であるのか。それはどう見積もっても、もっと良くなる余地のあるプロジェクトであり、その「胎動期」に自分は立ち会ったのだ、と考えることにする。(いや、「曲」をグループ演奏していない自分が偉そうなことを言えた立場じゃないんだけど、まったく。)

註:赤字部分は、尾上氏自身のチェックにより入った「赤」である。まことに尾上氏に感謝なのである。(05/31/2005記)

「文学」と「歌謡」の1日

Saturday, May 14th, 2005

■ 日本古典文学朗読研究会(仮称)の第一回@荻窪

16:00-18:00。

声に出して読みたい(ってなんか本の題名みたいだが)「日本の古典」を持ち寄って互いに朗読する、というのが目的で集まる。まず、参加者は自分を入れてたった3人からのスタート。永山と富岡さんと私。今後どのような展開になるのか楽しみ。

永山が選んだのは、いきなり日本古典ではなくアントナン・アルトーの『ヴァン・ゴッホ』。ゴッホ体験の直後でしかも今読み進みつつある書籍ということで理解できるし、確かに古典は「古典」かもしれないが、翻訳物。いきなり初回から原則破りを。おいおい。富岡さんはいろいろ持って来ていたようだが、結局彼が朗読用に今回選んだのは幸田露伴の短編『観画談』。自分は河上肇の「経済上の理想社会」という短い論文。

『ヴァン・ゴッホ』は、言葉で読まれるとなかなか頭に入ってきにくいというのが最初の印象。幸田露伴は、情景描写が極めて精緻で映画を見ているようなリアルな視覚的体験をする。場面の匂いまでしてきそうな感じである。非常にプレーンな富岡さんの読み方が露伴の短編の世界に誘う。このような、自分の知らない世界を知るきっかけが欲しい、というのがこの朗読会の目的のひとつでもあるので、自分には嬉しい。自分が朗読した河上肇の論文は、内容もさることながら明治時代のその文体の格調の高さに驚き、どうしても大きな声を出して読んでみたいと思ったのが理由。読まれたテキストがどのくらい頭に入ってくるのか興味があったので聞いてみたが、2人とも「よく頭に入ってくる」という答え。

一度、各自が自分の持って来たものを読んだ後、ひとつの本をみんなで回し読みして通読するのはどうか、と考え、まずは富岡さんの持って来た『観画談』の続きを永山と私も読んでみる。聞こえてくる文体は思いのほか口語体で現代風なのだが、書かれているスタイルを読むために視るとやはり時代を感じる。これがなかなか読みにくいのである。『観画談』を最後まで回し読みした後、残った時間で「経済上の理想社会」の続きを二人に音読してもらう。なるほど、確かに人に読まれても頭に入ってくる言語なのである(古いのに)。

自分は当面こうした「マニフェスト」的な明治時代の文章を音読したい。他のお二人には小説の類を音読してもらうのが良さそうだ。しばらくは、このような感じで読み、聞き、感想を述べ合う、という形で、この朗読会は続きそうである。永山は文語版聖書を取り上げるらしい(それって「日本の古典」か?)。私は、河上肇をしばらく読み、おそらく富岡さんは日本の古典を取り上げるのではないか。

終わった後のミーティングで確認したのは、やはり「日本(語)の古典を声に出して読む」というところに収まった。それにしても、日本の古典文学は奥が深そうである。親しんで来なかった自分には実に良い機会。来月は6/11(土)16:00からの予定。

■ 竹内紀氏のCD発売記念ライブ@渋谷

荻窪での「打ち合わせ」の後、渋谷に3人で向かう。竹内紀さんの弾き語りライヴを聴きに。2日前の梅崎さんとのライヴで竹内さんのライブの日程を知ったのだ。しかもCDの発売記念も兼ねていると言う。それなら、ということで足を運んだ。前回ほどひりひりするライヴではなかったが、はやり、「身とギターを削る」ような熱演。好きな歌詞はどんどん胸に迫る。

それにしても実に良い音で聞かせてくれる店だ。これについては私がいまさらあれこれ言うことではあるまい。パフォーマンス終了後も11:30過ぎくらいまで残って竹内さんやギターの共演者(稲生座のマスター)、そして店のマスター氏らと呑みながらの歓談。実に楽しいひとときであった。竹内さんのケイデンツの分かりにくい間奏とシンコペで、「入りが大変だ」という稲生座のマスターの話もリアルで面白かった。聴いているわれわれからすると、「音楽的に破綻」しても全然大丈夫なのだが、竹内さんはやはりそれを回避したらしい。ところで、竹内さんは身体的に少し無理をしておられるようで、ライヴパフォーマンス中に「どうにかなりそうだった」というが、そのような感じは聴いているわれわれからは全く分からなかった。翌日も高円寺でライヴとのこと。身体を大事にしてもらいたいと願う(ってすごくありきたりな願いだけど本気だ)。

知と本能が円環を成す

Saturday, April 9th, 2005

自分が実現できること以外の、多様なもの、別のもの(オルターナティブ)、が世界にあり、人々は自分が供給できる以上の様々な何かを求めさえする、ということが自覚できれば、何をやっても良い。自分の気質や体癖というものがある。それに根ざした表現が必要であれば、それは「出されなければ」ならない。多様であるということの重要さを理解すること、一方、自分が自分でしかなくそれを結局は追求せざるを得ないこと。そして限界と可能性に自覚的であること。それが必要なだけだ。それはその本人がより良い生を生きるために、その個人にとって重要な生きる「よすが」だからだ。

だが、その選択の余地のない表出方法を、「芸術らしきもの」であるという理由で、芸術であると無条件に呼ばなければならない訳ではない。

自覚的であることが芸術であるとU氏は言った。それだけではないだろうが、その考え方は理解できる。

あの日常行為に非ざる朗読の発声法は、自分で到達したものだと言う。確かにそうだろう。疑うべくもない。それは、ある種の伝統芸能に見出される特徴的な発声法とまったく同じではないものの、それに至るのではないかと想像できるような伝統的表現の初期的萌芽があるように思う。だが、そこで安易に伝統的な技術の習得に走るということをせずに、今やれることをいまここで実践している。そして、そのやり方の正しさを信じて邁進する、その強さには尊敬を超えて脅威さえ覚える。同時に、その強烈さ故に、さらに、その手法に追随する人間を作り出す。

落とし穴もある。自由への外的な脅威から逃れ、全体主義的に堕する世界に背を向けて、あるいは、それに反旗をさえ翻しているにも関わらず、自由獲得のための闘争と個性保存のために集った人々が、知らず知らずにその内部的な教義に従うという非民主的な(不自由な)選択を採っているかもしれないという矛盾の萌芽もある。だがそれは、追従するものが自分で最終的に気付き、乗り越えて行くべきテーマであって、氏自身の問題ではない。だが、一通りの追従者で自分の周りを固めることで満足したら、それは小さな王様をもう一つ作ることに過ぎない。それ自体が悪いのではないにしても。多様な価値観に意義を見出せる私は、「だが、それで良いのかも知れない」と感じたりもする。何を教義としているのか、ということは個別に検討される必要があるからだ。少なくとも悪しき者たちの支配下に置かれることのない王国を作ったことにはなるのかもしれない。少なくとも。

どこまで自覚的たれるか、ということが大事なのであれば、そうした自分や周囲の支持者たちに存する傾向にさえ、自覚的であることが、客観化であり、本当の解体だ。解体は、彼の目的なのか? いや、そうではないのだ、おそらく、明瞭なまでに。

生きる目的、表現する目的、ということが言及された。しかし、それが何であるのかという分かりやすい答えは用意されなかった。(当然と言えば当然だが。) 表現することと生きる目的。これは一致するものだ。そしてそれが重要な認識であることは否定するまでもなく明らかだ。だが、それ自体が芸術の何たるか、の答えではない。

私には分かっているが、容易に文章化することに、ためらいがある、そのこと。私の考え方では、芸術は、「伝統」の中で受け継がれてきたあるサイン(徴)の中にある。だが、「芸術は、伝統的な職人の中にはない」とU氏は断定した。(だがそれは違う。)彼はこうも言った。「職人世界の中に芸術家がいたらそれはその中に居られない」と。その意味は分かる。だが、それが芸術家の定義であると言うのであれば、私はこう言うだろう。それは、近代以降の「芸術」家の定義ではあるかもしれない、と。そして、それは芸術家の定義ではなく、むしろアウトサイダー(局外者)の定義だ。

むろん、今の時代、アウトサイダーが表現手段を見出して<芸術家>になることはあり得る。幸運なことだ。だが、もっと言えば、近代以降はアウトサイダーによって芸術の精神が僭奪された。(これには確信犯的な目的があった可能性もある。)そして、それこそが芸術の本質である、ということになった。だが、アウトサイダー=芸術家、ではないのだ。どこまでいっても。おそらく、近代以前は、ほとんどのアウトサイダーがこれまで芸術家であることを見出されずに、世界に対する居心地の悪さ、あるいは明確な憎悪の中で、生き延びたり死んだりした。そして、今から見れば、彼らのほとんどが、歴史に省みられることもなく、アウトサイダー(ロマン主義者、あるいは敗北者)として終わった。

おそらく、この歴史自体については氏も否定はしないだろう。アウトサイダーの中で、あるものは宗教家的な幻視者になったかもしれないし、極右/極左の政治活動家になったかもしれないし、戦争という異常事態における英雄の類になったかもしれないし、はたまた性犯罪者になっただけかもしれない。あるいは表現手段をもたない単なる狂人に。だがそうした猟奇的な傾向というのが、そのまま芸術家であるということにはならない。怒りや悲しみの表現だけが芸術の目的ではない。重要なテーマの一つであることを否定する由もないが。 問題は、最初に戻るが、多様性への要望と限定的な存在である自己のあり方への自覚なのだ。

改めて、そして敢えて言うなら、氏の定義したるところの「芸術家」とは、個人が表現手段を徐々に見出し始めた近代以降の芸術家達のことである。それはおそらくあらゆる創作行為を通じて「あるもの」を伝えてきた表象活動の連なる数千年以上に渡る人類の歴史そのものの中でも、ごくごく最近、長く見積もっても、三,四百年位の歴史以上の長さをもたないものなのだ。つまり、妥協なき自己実現を人生の目的に、と設定することが始まった時点以降の話である。そしてその始まりは、資本の蓄積や技術の近代化という歴史的側面とセットになった現象なのである。

極端なことを言えば、氏の言うことを字義通りに鵜呑みにすれば、近代以前には「芸術家」はいなかったことになる。氏の定義を前提とすればそういうことだ。すべての論理には前提がある。氏の指すところの「芸術」は「そうであるべき」と信じるその定義も、その前提性を免れない。ファン・ゴッホを自己表現のあくなき探求者であり、芸術家と呼ばれるにふさわしい人物の「ひな形」であるという考え方自体が象徴的である。ファン・ゴッホをして芸術の定義とする、という事自体がきわめて分かりやすい、広く現代人の参加できる芸術活動である。

だが、その前提を肯定すれば、それ以前の表現のすべては、まだ芸術でさえなかったということになる。だが、これに対し、私の芸術理解は断じて「否」と言うのである。

芸術は、人類の歴史の偉大さと卑小さ、自分という個人の、ある壮大な出来事の中における卑小さと有意味性、あるいは、卑小さの中にこそ偉大な精神が潜み得ること、そのすべてを一瞬に鳥瞰的に教示するものである。しかも隠しながら。それは、もちろん、それをそのように受けることのできる知識と知性、徴を感知できる感性とそれに驚くことのできる感情(畏怖)、そうした一切が要求されるものである。知識や知性は、芸術理解と無関係ではなく、加えて、連想や想像力という力を借りた真の洞察力(推理力)こそが要求される。そうした一切を備えている人間の心臓を一気に打ち抜くものが、(私がカギ括弧なしで呼ぶところの)芸術なのである。

氏の「芸術」の概念は、近代以降の時代、まさに現代を生き、生きる意味や表現のありかたを知恵を絞って追求するわれわれにとって切実なものであることにまったく異論はない。だが、それでもなお、それを芸術であると呼ばなければならない理由を十分に説明していないのである。切実さを生きれば良い、ということが主旨であるのであれば、その名称にこだわらずに自分の信じる行為に自己を投機すれば良いことなのである。だが、われわれにとって切実な行為の結実が、未来の人類にとって<芸術>の名に値するものであるかどうかは、現代を生きるわれわれには知る由もない。そして、絶対的にそれが将来においても芸術であるだろうという保証をわれわれは、もたないのである(だが、それが何だというのだ!)。そして、その保証なき自己の内観的行為に投機(投棄)する以外にない、という時代を、われわれがまさに生きていることに自覚的でありさえすれば良いのである。

その点に関してのみ、(芸術的であると現代のわれわれが信じている)ゴッホと同じ立場にわれわれが立てる、ということなのである(それ自体が大変なことである事実を割り引く意図はない)。ゴッホは自分がどのように位置づけられるかということに本当に自覚的であったかどうかは分からない。むしろ、彼にとって果てしなく切実なことに投機したというその生き様を受け入れ、肯定することでこそ、われわれの現代的な生き方や表現も(悲しいことだが)一気に肯定されるのであり、未来を予測できなかったという点では、われわれもファン・ゴッホも同じであるはずである。

人間の行為がすべてアート(芸術)である、という最も広範なアートに関する定義は、個人がどう表現するのかという切実さを追求する動機からすれば、この際、もはや重要ではあるまい。だからアートが本来どういうものであったのか、という前提に立ち戻る必要は(われわれせ俗人にとっては)ないのかもしれない。だが、歴史そのものが最も巨大なアートであるという前提で、「最大最長のアート」を鳥瞰するとき、その人類の行為自体がアートそのものである、というその捉え方は、われわれの議論の俎上に再び戻ってくる。

個人性の追求(それには即興創作が典型として含まれる)、そしてその果てにあるかもしれない創作物/作品。それを「芸術」と呼ぶ考え方。一方、歴史上無名であったかもしれない無数の職人や、集合的無意識が有形無形の方法で今の時代に遺し伝えてきたサイン(徴)の顕現をこそ(カギ括弧抜きの)芸術と呼ぶ考え方。果たしてこの全く異なる二者を総合する芸術における「統合理論」というものはあるのだろうか? 私の直感は、あると言う。それを見出したような気がしたこともある。だが、限られた時間の中で成果を出そうという日々の欲を優先すれば、どのようにそれに至るのかという経験的な方法や知的アプローチを、容易に置き去ることはできない。つまり、1000回行う即興より、より大きな確率でサイン(徴)の顕現を果たすという方法があるのではないか、という知的な創作の選択への誘惑も、それはそれで断ち難いのである。

そして、またトランス(忘我の境地)の中で作られていく即興の劇的性(物語性)を見つめたい、そのなかにサインの顕現を認めたいという誘惑も、同じく断ち難いのである。つまり、「二芸術領域の統合理論」を体験によって実感したいのである。

そんなこんなを、改めて考えさせてくれるU氏との出会いであった。縁とは誠に不可思議なものである。

Cavalet Waikiki @ SCUM 2000, IKEBUKURO

Sunday, March 13th, 2005

三鷹の病院に入院している知人の見舞いに午後から出かける。その行き帰りにまた武蔵野市の空と「地平線」を眺める。その後、三鷹からバスに乗りひばりが丘に出て、西武池袋線で池袋に。

そして japanoise の伊藤まくさんの主催する舞踏と即興のライヴに向かう。場所は SCUM 2000 という地下にある10人強も入れば狭くなってしまうほどのハコ。前日に御之道似奎さんからメールで今日のパフォーマンスの連絡を受けたので、行くことにしたのだ。アートランドでの『続・矛盾律の椅子』でも対バンになった<水晶の舟>の二人組、そして当日別演ではなく彼らと共演することになったというイシデタクヤさんのパフォーマンスも観る。

似奎さんの相方は主催者の伊藤まくさん自身。似奎さんたちのパフォーマンスについて。床に横たわってから起き上がってくる後半あたりから最後に向かう展開には感動を覚える。貧困な想像力だと言われそうだが、あの場面は私の大好きなタルコフスキーの『ソラリス』のあるシーンを想起させるものあり。死ぬことが出来ないハリーが「自殺」を図って「壊れた」後に、しばらくして身体に「生命」が回復してくるシーン。衝撃的な場面だが、似奎さんの踊りにも「壊れた」あと、長過ぎるくらいの時間経過があって、徐々に生命が戻ってくる。冷えきった身体に「生きる苦しみ」が戻ってくる。そして、痙攣が、息吹が、身体の各部に発生してくる。そんな感じ。また、その部分、特に伊藤まくさんの作り出す加速するディレイのギター音とのシンクロがすばらしかった。

今まで、自分は純粋に音楽を追求してきたつもりだったが、舞踏やダンスとの共演というのにも以前より関心が湧いてきている。今回は、どのように関わり合えるのかというヒントが随所あったように感じる。

終わった後、まくさんと外でちょっとお話をした際、どれくらいの決め事をしたのかと訊いたが、「完全に即興だった」とおっしゃっていたので、ちょっと驚く。まくさんの即興にパーツパーツに分かれたある種の「モジュール構造」を感じたので、それら「モジュール」の選択や提示の順序などがダンスを演じる似奎さんの方から、ある程度指定されているのかと想像したのだった。でもどうやらそういうことではなかったらしい。ひょっとすると、まくさんの中では頭ではこうした音楽的アイデアのパーツをある程度準備したのかもしれないが、それは打ち合わせによって決められた内容ではなかったということになる。経験的に、良い即興には共通のことだとは思うが、特に複数者による即興が旨く行ったときは、「到底打ち合わせをしていたようにしか思えない」展開になることがある。その日のパフォーマンスにも、そんな感じがしたのだった。まくさんの方も踊りに擦り寄っていこうというような感じもないにも関わらず、昨夜の似奎さんの踊りとまくさんの音楽は、実に自然にシンクロしていた。

その次は、トリとして<水晶の舟>の爆音的なライヴ演奏をバックにイシデタクヤさんが踊る。かなり長いインストだけの部分が続き、どんな風にイシデさんがあの狭い「ソデ」から登場と相成るのか、興味津々で観ていたら、なんと「控え室」となっていたカウンターの後から、狭くて1メートル以上の高さがあると思われるようなカウンターをよじ上り、会場側に迫り出してくる。その狭いカウンター上で、危ういバランスをとりながらのパフォーマンスにかなりの時間が経過する。猫が狭い塀の上でリラックスできるように、イシデさんにとっては実に踊りを踊るのに快適な空間なのであろう。その後、ほとんど隙間なく会場を満たす爆音の中にイシデさんは体を投げ出し、踊りのために確保されたごく限られた床を使って無駄なく身体表現をする。会場全体を押し流さんばかりの爆音の流れの中に「水没」している状態で、踊るのだ。今日的な舞踏の在り方というものを、足のつま先から眼球まですべてを駆使して、顕現させる、そんなベテランならではの自信と日頃の稽古の成果を、とっくり見せて頂いた。

自然体の伊藤さんの飾らない挨拶にも共感。

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小川さんのダブルヘッダー(ボクの予行演習)

Sunday, February 6th, 2005

ライヴの数を減らそうと思っていたので、今月は「風の、かたらい」への出演を断っていた。しかし、連れ合いが出演するので結局グッドマンに向かう。新しい録音装置のテストも兼ねて観客の一人として、と自分に言い聞かせながら。前回登場できなかった石内さんは、1回のブランクを埋めようとでも言うように、熱烈な(というかほとんど天井知らずの激烈さで)朗読パフォーマンスを見せてくれた(なんどもなんども)。嬉しくなって、思わず連れ合いと顔を見合わせて笑ってしまうことしばしば。あれには、そうとうなカタルシスがあっただろうな、石内さん… 。

休憩時間中に、石内さんがボクに、「小川さんは、今日このあとヴィオロンでライヴなので、行ってあげて」と言う。え? ということは、小川さんは昼のこのライヴと夜のライヴとダブルヘッダーなんですか? 

特に、ヴィオロンでの小川さんのライヴが「ソロ」だとは知っていたので余計に驚くが、本人に確認するとやはりそうだと言う。石内さんが共演者の小川さんに確認しないでブッキングするからこう言うことになるんだよ。まあいいや。しかし、これから「ソロライヴ」をやる人とは思えないほどの熱い演奏を「風の、」でも繰り広げていた。まったく惜しみない自己投機的な演奏。ゲストが多く出入りする「風の、」も面白いが、こういうレギュラーだけが作り上げるパフォーマンスも捨てがたい。この日の「風の、」を聴かなかった人は、音源を聴いたらおそらく羨ましがるほどのものだったね。「お客」として聴くのも良いものだぞ。

結局、ほとんど強制的なプッシュに答える形で自分もちょっとピアノを弾いたりはしたが… 。断るこれといった理由もないが、断れない雰囲気でもあるのだ。ただ、純粋にお客でありたいということも正直ある。

「風の、」の後、連れ合いは石内さんに付き合って買い物に出た。ボクは小川さんと共に別行動。「本番前に居酒屋に行きたくない」という小川さん(とボク)と、阿佐ヶ谷の具体的な居酒屋を指定してくる石内さんとの間で割れたのである。小川さんとは、荻窪駅西口の魚介系定食屋「さかなやの親戚」に行く。ここは、日本酒でも出したらそうとう「呑まれる」だろうと思うようなうまい魚料理(どんぶり中心)屋なのだが、ビール一つメニューにない。だから、というわけではないが(酔客を相手にしたくないのか)、このような界隈にあって妙に清潔な印象を受けるお店なのである。とにかく安く、美味い。サーモン+イクラ丼や中落ち丼なんかを800円以下で食べられるのであるから実にお得である。お通し代も請求されないし、お酒を飲まない人には一押しでお薦めなのである、「さかなやの親戚」。

7時前にヴィオロンに小川さんと行き、まだ時間があったのでいろいろ話す。話しているうちに、小川さんは録音する用意もないというので、ボクが持ってきていた機材を「ダメもと」で試してみることに。いつも使っている自分の標準マイクは持ってきているが、グッドマンと違ってヴィオロンにはマイクスタンドがない。椅子にテープで固定しての簡易録音となる。

店の床の低くなったところを「ステージ」とするが、そのための座席やテーブルの移動にはどうもルールがあるようで、それをマスターに教わる。これは今週金曜の自分のライヴのための予行演習のようなものだ。小川さんのために録音を設定したりしながら、電源の位置なども確認できたのである。最悪の場合、録音に「電源」は要らないが、ほかの機材には電源が必要だ。いろいろやりながら今度のライヴのための立ち(座)位置などを想像したりする訳である。

小川さんのライヴは7時を少し過ぎてから始まった。ライヴに来ることさえグッドマンに行くまで定かでなかったのに、当日しかも演奏前の1時間くらい前にいきなりゲスト出演を頼まれた。前半と後半のそれぞれ1回ずつ、ピアノを弾く。この重たいアップライトピアノを弾いたのは永山とのデュオライヴをやって以来。これも計らずに予行演習のたぐいとなる。しかし、小川さんとのデュオというのも、いつやっても楽しい(後半のときはやや苦しかったが、苦しみが頂点に達したときにブレイクスルーがあった)。

「店によって(客層によって)演奏の内容をある程度変えた方が良い」とお客さんを選ぶようなことを言うひとがいた。その意見は確かに理解できるのだが、そうすることがお客さんのためにも、自分のためにも良くないということが、あるのだ。お客さんの「聴き分ける能力」というのを過小評価してはいけないのだ。ただ、自分にはそうした「正論」はあっても、その意見の意味もそれはそれで分かるのだよ。問題は、そんなに器用に自分を使い分けられていない、という技量の問題でもあるんだけど。聴きやすい音楽を、という個人的なテーマはある。だが、それを急に頼まれたフリー即興の(それも小川さんとの)ライヴでやるほどに自分をまだ鍛えていない、というのが真相。