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《本》という愛すべき「インターフェース」について

Monday, May 10th, 2010

Books Photo: OSIRIS BOOKS

本がなくなるかもしれないことについて、自分はノスタルジックな理由で心配はしない。自分が読んでいる本、あるいは読み続けるだろう種類の本が、電子書籍の形でしか存在できなくなるということは、「ほとんどあり得ない」と愛でたくも信じているからだし、万が一すっかり電子媒体に置き換えられてしまったとしても、すでに本の形で持っているものを簡単に手放してしまうことは考えにくいことだからだ。それはLPなどのアナログ盤を現役の音盤ソースとして変わらず自宅に維持し続け、またMP3化の時代に入ったからと言ってこれまで買い求めたすべてのCDというインターフェースを捨て去るわけではないことを鑑みてもあり得ないことだからだ。

むしろ自分が真に心配するのは、電子媒体に置き換えられることによって、現在自分に有益と思われる本を提供している出版社自体が存続できなくなる可能性が高いこと、であり、彼らが存続できなくなったら、自分が読みたいような書籍は、今後いったいどこから供給されることになるのであろうか? 電子出版者がそういった種類の書籍を本当にデジタル化してくれるという保証はあるのか? そういう心配なのである。音楽もアナログからデジタルへと移行した時、結局デジタル盤として再発されなかった作品というものが存在することを考えれば、この心配は決して杞憂ではないだろう。

単にメディアが変わるだけで、内容は一切変わらないと言うならあまり心配もないが、メディアの変遷が提供されるべき内容の安定供給に影響を与えるということであれば、それは単なるノスタルジックな心配というレベルの問題ではないのである。

それに忘れてはいけないこととして、「紙の媒体の特性」が厳然と存在することだ。簡単に言えば、電子媒体と紙媒体とで比べたときにどちらが耐久性の面で優れているか、という点である。一体電気の供給が止まるというような「有事」の際に、どれだけの電子媒体が世代を超えて生き残ることができるのであろうか? もちろん、そういうときは飯を食うこともできなくなるから本の心配どころではないヨと言う御仁もいらっしゃるようだが、飢えて自分が死んでも本は残り続け、いつか誰かによって読まれる可能性はあるのである。この点がどうしても譲ることのできない紙媒体の優位性だと感じるのである。それを姿を変えたノスタルギア(懐古趣味)であると仰るなら、それはその方の自由であるが、偏った想像力であるというべきであろう。

電子媒体の優れたところはひとつしかない、ということを言った畏友がいる。確かに彼が言うように、その優位性は無視できないほどに大きなものである。“検索可能性”がそれであるが、電子媒体が現れる前だって、それなしになんとかやってきた実績が人類にはある。検索可能性とは、その情報に信頼性がある場合に限るが、何かを「一瞬で調べる」ためには便利だということである。Googleの検索サービスがどれだけわれわれの生活を便利にしているかを考えれば、ほぼ疑いのないことであるように見える。だが、それだけで媒体の価値や優位性が云々できるのであろうか?

ひとつには検索可能性がわれわれの想像力や思考力を助けるわけではないことがある。実は想像したり工夫したりしなくていい、要するに「努力しなくていい」という点で、われわれの生活に供するものであり、それ以上でも以下でもない。仮想的に外部記憶装置の助けを借りて「物知り(博識)」になることは、文献学や博物学など、ある種の学問にとって必要条件ではあるかもしれないが、優れて独創的な学問的成果をもたらすためにはならないのである。むしろこうした情報を外部記憶装置に放り込んで「いつでもアクセスできる」という状態は、われわれの記憶のための努力を怠らせ、記憶力をつかさどるある種の知的な「筋力」を細らせるのではないか?

つまり、自分の関心に引き寄せて言えばだが、ある種の「学問的な総合」とは自分の努力によって記憶したことについての、知の総力を掛けての《総合》であり、自分以外の誰か(あるいは何か)に記憶してもらって成し遂げるようなことではないのである。たとえば、われわれの敬愛するエリアーデの博覧強記が、単なる膨大な知識ではなく、ある種の《総合》を目指して収集されていった《必然性を帯びた知識の集成》であったことを思えば、諒解できることに違いない。

同じようなことが、真に独創的な科学的な発見について、広く言えるに違いない。自分の脳でない誰かに覚えてもらっている人間が何かその記憶から生み出すことができるだろうか?

さてこういう、難しい話を脇に置いておくとして、便利という点だけとっても、その検索可能性という便利さに負けず劣らず、《本》という媒体に備わっている特性とは、機動性(可動性)とアナログ的な身体感覚による情報へのアクセス性である。本や紙の厚みや重み、あるいはある特定情報の存在する位置感覚が、指の先で感じられ記憶される。こうした物理的・身体的な情報も、「名状しがたい内容」の一部なのである。

それは、電子媒体を利用したeBookの様なものがいくら「本らしさ」をシミュレートしても、そう容易に獲得できないだろう、本と人間の間にある皮膚感覚であり、誰もがそれまで意識していなかったが、これからわれわれが「大いに懐かしむ」ことになる、優れたインターフェース性ということなのである。