Archive for the ‘Uncategorized’ Category

属人的ビジネスは本当に邪悪か?

Thursday, March 31st, 2011

題:属人的ビジネスは本当に邪悪か?
〜誰だって自分しかできないことで能力を発揮したいと思っている、ことについて〜

驚くべきことに「属人的」という言葉は、ある種の経営者たちにとってはネガティブな評価として人口に膾炙する単語のようだ。つまり、「あの仕事は誰々サンにしかできない」「誰々サンなしにはこのビジネスは成り立たない」というような事業の在り方では、そのひとに辞められたら会社経営に甚大な影響をもたらすので会社の安全保障上の問題がある、というワケらしい。「安全保障」ねえ…

だが、「非属人化」経営を声高に叫ぶマネージメント陣が、自社内の働く方たちに対して、「あなたたちは誰にでもできることを最終的にやって貰いたい、万が一、あなたがいなくなっても会社は安泰、という状態にして下さい」という経営的本音が、いかにも経営者にとって便利きわまりなく面倒のない一方で、スタッフ一人一人にとって、その存在価値や個性を否定しバカにした考え方に過ぎないか、自覚がない。こうした経営方針を口にすることによって、実のところ、会社の利益を追求している経営陣が、仕事をするスタッフのモチベーションを甚大に損なう(つまり生産性を低下させる)メッセージを発信していることの、ネガティブな側面に全然気付いていない。あろうことか、そうした非属人化経営(非個性化経営)ができるトップが、企業の優れた経営者だと勘違いしている。

「辞められたら困るので、その防衛をあらかじめ考えてスタッフの平均化を図った挙げ句、優秀な仕事人を失う」経営手法と、「辞める人が出ないよう、能力のある人を評価し、大事にする、その結果として辞める人は少ない」経営手法の2つがあるとしたら、どちらが経営手腕が高いのだろう。その答えは自明なことの様に思える。「リスクを取れ」と叱咤する経営者自身が、リスクを取らない、実につまらない経営手法を優れた手法と考えている。

考えてみれば分かりそうなものだが、「あなたにしかできないことをやって下さい。誰にも真似のできない個性を発揮して仕事に生かして下さい。あなたにできないことがあったら、それができる人を探して補完しますから、安心してあなたの得意な仕事をして下さい。あなたが個性的な能力を発揮し続けられる限り、あなたを大事にします」というメッセージを発信し続けている上司と、「あなたのやっていることなど誰にでもできます。あなたは明日からいなくなったって、その代わりになる人は幾らでもいます」ともとれるようなメッセージを発信している上司とがいたら、あなたはどちらの上司の下で仕事したいですか?

え? 自分が起業するので関係ない? であれば、皆のやる気の出せる賢い経営者になって下さい。社員を大事にしない経営者は、いずれ、その報いを受け、すべてを失うことになるでしょうから。

太陽の胎内は

Tuesday, September 6th, 1994

あのように世界を焼き尽くす獰猛な太陽の中はと言えば...

暖かいばかりであった。あのように真っ青な大洋の上にぎらぎらと皇帝のごとく君臨していた、その輝きの中は、思いのほか静的で時間が止まっているようにさえ感じられた。全てのトーンは柔らかく、例えばラジオやテレビでかかる音楽は、西洋のものであっても、それは全て日本人のテイストでもって巧みにフィルターがかけられていた。

日本人の作る西洋風の音楽は言うまでもなく、日本人が選んだ純欧米産の音楽でさえ、それは柔和を選り抜く目によって厳密に選別されていた。

音楽ばかりではない。高速道路のパーキングエリアにある自動販売機であっても、百貨店の地下の食料品売場に溢れるパッケージであっても、そこに存在するあらゆるデザインは、トーンが心憎いまでも抑制された、まさに「マイルド」で「ライト」なものであったのだ。そこここに溢れるかえるデザインやキャラクターに「意味」を求めようとしても、徒労に終わるであろう。意味などは最初からないのだ。マイルドで差し障りなく調和していることが最も「問題のないこと」だからである。

喫茶店で日本の「洋風ケーキ」を食してみれば、それはまた笑いを誘うように柔らかでトーンに抑制の利いた調和的味わいだけがそこにあるのが瞬時にみて取れた。

しかし、日本のビジネス界に身を投じて柔和を外部に供するべく「身を粉にすること」を依然として始めていない私は、日本における生活の厳しさや外部に於ける調和が、個人の内面にもたらすストレスの存在を無視してしまいがちである。社会的責任を引き受けずに、その美味しい部分だけを享受しているこの刹那では、この日本という国が世界的に見ても、何とも類希なる「暖かで柔和な温室のように居心地のよいところ」(要するに「天国」)、と言う風にしか映らない。

さて、世界の全体を見るに付け、あるいは繁栄を謳歌する国の日の当たらぬところを顧慮するにつけ、このように天国的な場所(東京の両親の住む実家)が、世界にかつて他に存在したことがあっただろうかと感嘆せずにいられないほどである。島であり、「存在の絶大なる正当性」を背負わされた「選ばれた土地」。

その内部たるや、生産への集中的従事だけが許されたあまりに奇跡的な場所であった。ひとつの国家が『太陽』として世界に輝き続けるために注意深く手入れをされた、まさに打ってつけの温室(昔風に言えば箱庭)であった。

私のニューヨークに残る親友の一人がいみじくも言った「卑怯者の天国」とは、まさにそんなところであった。さあ、仕事見つけるか。