Archive for March, 2005

思想も周縁的なものにこそ、耳を傾けるべき「ことば」がある

Thursday, March 31st, 2005

本橋哲也著『ポストコロニアリズム』を読み進む。表紙カバーをめくったところの解説によると、ポストコロニアリズムとは「植民地主義暴力にさらされてきた人々の視点から西洋近代の歴史をとらえかえし、現在に及ぶその影響について批判的に考察する思想」を言うらしい。最初、それを「イズム」で呼ぶ理由が今ひとつ自分の解読力では理解できないでいた。

しかし、フランス植民地時代のアルジェリア生まれの「いわゆる知識人階層」に属することになったアルジェリア人の精神科医フランツ・ファノン、そして徐京植(ソ・キョンシク)氏も季刊「前夜」で取り上げていたパレスチナ生まれのジャーナリスト、ガッサン・カナファーニーとその小説「太陽の男たち」、西ベンガルはカルカッタ出身のコロンビア大学教授ガヤトリ・スピヴァクあたりの解説になると、俄然本橋氏の解説しようとしている領域の意味が理解でき始める。私が一読して心酔したサイードにも1章まるまる割いている。

だが、「鱗から目が落ちる」ような強烈な体験は、後で一部引用するスピヴァクの「脱構築的姿勢」をまとめた4つのスローガンであった。ジャック・デリダの「脱構築」がどのようにこのポストコロニアリズムと結びつくのか、あるいはデリダ解説者の高橋哲也氏がどのようにして平和活動家となっていったのか、あたりの事情が、まったく想像もできないほどの自分の知識の欠如であったのだが、このスローガンというのを読んで、それってサイードの熱く語っていた「知識人とは何か」についての分かりやすいもう一つの定義ではないか、と膝を打ったのであった(電車の中で)。

(1) あらゆることに関して自分が学び知ってきたことは自らの特権のおかげであり、またその知識自体が特権であると認めること。そのことと同時に、それが自らの損失でもあると認識し、特権によって自分が失ったものも多くあることを知ることで、その知の特権を自分で解体し、いわば「学び捨てる (unlearn)」こと。

とある。「学び捨てる」である。ものすごい言葉である。同時に、これほど明解に相対化された自己批判の立ち位置というものが他にあるだろうか? これは、スピヴァクのような知の象牙の塔まで上り詰めたアカデミズムにおけるエリートだからこそ言えていることだと一蹴する向きもあるだろうが、われわれ「中途半端な知識人(衒学者)」においてもまったく無関係ではあるまい。結局真の学問やジャーナリズムというものを極めるほどに、知識人は本来どこまでもアマチュアであるべきなのだ、というのがそもそもサイードの言っていたところのことでもある。

僅かで至らない「知」であっても、それは自らが後天的に選んだものではなくて、ある種の特権のおかげだというのは、誰についても真である。だが、その特権的に得られた知というものが、われわれを盲目にもし、自分の立ち位置というものがあたかも自分の自由意志によって選び取られたものであるかの幻想を自らに許しがちだ。だが、特権はまた何かを見えなくしている訳であり、そうした立ち位置すらを解体しようとする態度こそが「脱構築」の眼目である、という訳だ。私の半可通の理解で分かって気になってはいけないが、だが「脱構築」ということの意味が電撃的に理解できたような気がしたのである。

(3) 脱構築はなんらかの具体的な政治的プログラムの基礎となることはできない。しかし脱構築は、「労働者」「女性」といった普遍性をよそおう大文字言語(マスター・ワード)が、じっさいには現実の対象者をもたないことを示唆してくれる。ということはつまり、脱構築は政治の行き過ぎや誤りや盲点を指摘する一つの安全装置となり得るだろう。

(4) 人がそこに安住することを望まざるを得ないような既成の構造を、執拗に批判し続けること。それこそが脱構築の基本的姿勢である。

上の二つは解説を必要としないほどの明晰さとシンプルさをもった主張だ。デリダのオリジナル版、ではなくてスピヴァク版の脱構築ではあるのかもしれないが、こういうハナシなら、「価値の相対化」こそがあらゆる偏見と暴力に結びつき得る乱暴な言説との戦いの主眼であるということに本能的に気が付いた、ほとんど20年来追求してきたまさに「そのこと」を指しているのではないかと、興奮している訳である。

(3)で「政治的プログラムの基礎となることはできない」とあるが、これは「非政治的」な机上の空論で終わる思考活動(形而上のお遊び)であるという風に、私は読まない。これこそ、きわめて「政治的」な言説であるし、だからこそ脱構築論者の幾人かが政治的運動にコミットするということにもなるのだと思う。これは反権力闘争という名の「反・政治」姿勢であるのだ。(というか、思いたい。)

今度はわれわれが「勝ち組」にいられる、と言うつもりか

Wednesday, March 30th, 2005

子供の頃のことだが、戦争の時代に幼少の時代を過ごした両親に、「どうしてお父さんやお母さんは戦争に反対しなかったの?」と訊いたことがある。今から考えれば満足のいく答えではなかったものの、「周囲のみんなが戦争することをいいことだと信じていたし、学校でもそのように先生から四六時中教えられていて、日本の正義を信じ、戦争を支持し、大きくなったら戦争に参加して国家に貢献するんだという考え以外を思いつくことが出来なかった」というようなことを言われた。「じゃあ、お母さんの両親はどうだったの?」と訊いたら、「戦争に負けた時、すごく残念がって怒っていたのを覚えている」と言った。これも答えとしては満足できるものではないが、先の戦争で私の両親の親たち(祖父母の代)が「勝てると思っていたし勝つ気でいた」ことは十分伺える。「勝つ気でいる戦争」であれば、おそらく正しい戦争を闘っているという意識が彼らの世代にあったらしいことも想像できる。

このことからいくつか考えられることがある。われわれの親を育てた上の世代の人たちは本当にどこまで「戦争の正しさ」を信じていたのか、ということがひとつだ。負けたときに見せたという祖母の「悔しさ」からは、戦争の正しさと日本の正義を信じていたように見える。だが、われわれの両親の世代が言うように、彼らを教育した当事者である親の世代が「自分たちの正義」のよりどころにしていた情報や知識というものが、すでに時間をかけた国家的キャンペーンの果てに、報道管制や戦争遂行者や支持者たちによってコントロールされていた(実際にそうだった)としたら、よほどの批評精神というものを伸長させていない限りは、知らされているわずかなこと以外の考えや思想に到達することが出来ない。近代化という明治維新以来の国家的目標を欧州の考えや方法を手本として踏襲していた以上、「植民地を持つこと」の正当性は、ある程度力ある国家にとって当たり前であって疑うべくもない価値観であったかもしれない。だが、そこには支配されるということがどういうことなのか、被支配者側がどのようにそれを感じるのか、という視点や想像力が完全に欠如している。というか、そうした欠如こそが植民地主義(コロニアリズム)を可能にするのだ。

実際問題、学習するほどに、両親の親の世代でも戦争に抵抗する論陣を張ったり活動した勇気あるひとびとが一部にはいたし、拷問の上殺された非協力者もいた。大正時代にはデモクラシーの思想的運動が席巻したことさえある以上、「知りようがなかったし、仕方がなかった」という、その後の時代の「捉え方」が完全であるとは思えないが、ほとんどマジョリティと呼ばれる大多数の人々が、当時の政治や軍部を疑わなかったとすれば、情報統制は相当に成功していたことも確かだ。だが、騙されたと言って自己免責をどこまで認めるかというのは別の問うべき問題なのだ。

翻って、われわれはまだまだその気になればいろいろなことを知りうる立場にいる。例えば、与党が提出する新しい法案等がそうだ。それに間違った政策やわれわれを暴力に駆り立てうる思想に反対を表明することも出来るし、また過去の国家的な暴力的行為をあえて肯定しない態度を採ることも出来る。

問題は、現在、子供を育てる親の世代になっているわれわれが、子の世代に何をして何を伝えるのか、ということである。われわれの親の世代が少なからず(加害国内での)戦争犠牲者であったし、周囲に戦火と災禍を広げたのに、われわれは再びやってくる「今日の戦争」の危機にどう対応したのか、ということが未来に問われる。悲惨を巻き起こした到底一方的に主張できない「戦争の正義」や、それへの消極的/積極的加担へと頽落していくとき、「お父さん、お母さんたちはそのとき一体何をしていたの?」と子たちに問われるのである。実際われわれは、自分たちがまずい方向に向かっていることに、実はほとんど自覚的ではないのか? 「仕事で忙しかった」とか「あなたを育てるのに忙しかった」とでも言うのだろうか? その「忙しかった」ことが、育てた子供を戦場に駆り立てたり、われわれ自身を空襲(今風にいえば「空爆」)の危機にさらす「時流」そのものをサポートしていたということに後から気付いて嘆くのか? そして今後起こっても不思議はない国の内外で個人に対して生じるあらゆる種類の悲劇について、かつての世代が「(独走した)軍部のせい」にして、“知らなかった”自分たちを「どうしようもなかった」と免罪して済ませようというのだろうか? だが、それは実際に正直とは言えないだろう。

60年前の戦争についても、「日本だって他の西欧列強と同じことをしただけなんだから俺たちだけが悪かった訳ではない」と言いたい人が今でもゴマンといるようだが、でもそうしたことを後世に伝えるのか? それとも、旧日本軍や財界が朝鮮半島や満州でしたことは、西欧列強の植民地主義と(その植民地政策による後遺症で今日も苦しむ)多くの新たな独立国がかつて体験したこと、現在でもし続けていることと同じものをアジアにもたらしたのだし、支配者側に都合の良い独善的な差別感情や自国民の一方的な優越観が支えた思想の結果だった、ということを正直に伝えるのか? こういう、選択の時期に来ているのである。

帝国アメリカ合州国がやっているというイラク戦争に対して、心情的に「不支持」であっても、過去の日本国民の所業が清算されていないということに無知であれば、結局われわれはまたしても清算しきれない負の遺産を子孫たちに残す側に再び立つだけなのである。

いまこそ、われわれの話す勇気が試されているのである。そして最後のチャンスをどう生かすかという一か八かの勝負が提示されているのである。

個人情報保護法は、明日から施行される。「人権擁護法」というメディア規制法もそこまで来ている。教育基本法の改悪も予定されていて、その後は憲法改正だ。今声を上げて子供たちを守ろうとせずに、一体いつ「羊たちの沈黙」を破れるというのでしょう? 羊さんたち!

PowerBook G4 12″を「洗浄」する

Tuesday, March 29th, 2005

誰もこんなことをスキ好んでやろうとは思わない。

だが、その事故は起こった。

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数日前に果糖ブドウ糖液糖の類いがたっぷり入った清涼飲料水を飲みながらPBG4で作業していたら、うっかりキーボードの上にスプーン小さじ一杯くらいの飲料水をこぼしてしまった。うわ!覆水は盆に返らない。キーボードの隙間に入り込んだ水分は自発的には外に出てこない。おーっと、みるみる中に入ってしまった!ように思ったが、気を取り直して、ティッスペーパーとかを使って吸い取ったら、あまり奥深くには染み込まなかったらしい。とりあえず、故障は免れた、ように見えた。まあ、自分でパソコンを床に落として壊しても無料修理をしてもらえるという「特別な保険」に入っているので、大丈夫だろうと頭のすみではタカをくくっていたが、壊れたらやはり痛い。おそらく修理担当者に、平気で「HD中のデータは戻りませんよ」とか言われてしまうからだ(そういう経験があるから知っているのだ)。なんで修理するのにいちいちデータを全部消去するんだよ、by the way!

問題は翌日で、おそるおそるPBG4のスイッチを入れたら何の問題もなく起動したが、問題は「ほぼ」乾いた清涼飲料水が、キーボードメカの隙間で固まっているらしく、その辺りを押すごとに「ぬちゃぬちゃ」と音を出すことであったし、ひどいボタンになると、押されて戻ってくるのにしばらく時間が掛かるということでもあった。

要するに、本体は故障を免れたのだが、キーボードが「果糖ブドウ糖液糖」によって固まってしまったのだ。しばらく我慢して使っていたし、キーボードだけ取り替えるとか言うことも考えたのだが、駄目もとで自分で「洗浄」することはできないか考えた。キーボードの取り外しなど、PowerBookのユーザのサイトなどを見るとかなり怖いオペレーションのことが写真入りで乗っているのだが、キーボードの取り外しのためには、キーのいくつかをまずそれに先んじて外す必要がある、とある。ならばそこからやらなければならないと決心して、おそるおそる1個取ってみたが、こつが分かると、キーボードのすぐ下には「パンタグラフ」というやつがある。それも全部外して、「ぬちゃぬちゃ」音を立てるキーボードをすべて外して、水で丁寧に洗浄した。そして、取り外したキーボードの下の部分も湿らした綿棒でよく拭って、最後は乾いたキーボードのパンタグラフをひとつひとつ所定の場所に戻し、キーパーツも元に戻した。場所を間違わないように。

それで、「こぼす」前のようにPBG4 12″のサクサクしたキーボード感触が戻ったのである。メデタシメデタシ。

いかなる事故死も悲惨である

Monday, March 28th, 2005

六本木ヒルズの回転ドアの事故原因究明のテレビドキュメンタリーを見る。

別にこの事故が重大じゃなかったと言いたいのではない。重大だ。それが一人でも生命を奪ったとすれば…。どのように、あの重量級の回転ドアが児童の頭を砕き、頸椎をへし折ったのかを、ダミーを使ってリアルに再現していた。それは正視するに痛々し過ぎるものであった。だが、それは、1日平均30人の命を公道で跳ね飛ばし骨を砕いているクルマによる人災を、なぜわれわれが当たり前のように「受け入れている」のか、というわれわれの想像力の欠如も浮き彫りにする(例えばだが)。どうして、回転ドアの事故原因を追求する「失敗学」は、クルマの「失敗」を追求しないのか? それは、もはや安全を問う必要もないくらい明らかだからか? それとも、自動車産業は、「回転ドア」産業よりも政治家を生活者を自分の側に取り込んでいるからか? 

われわれの生活をふと振り返って考えると、「事故原因」ということで言えば、自動車事故で死亡する人は、日本国内だけでも1年に10,000人を超える。10,000(いちまん)人である。母集合との人口比で考えなければナンセンスだとおっしゃるだろうが、イラクへ戦争に行ったアメリカ兵の方が、開戦から数えてもまだ死者は少ない。だが、この交通事故の死者の数をもって誰が大騒ぎしよう? 誰がこの死者の数をもって凶器たる自動車を禁止しようと言うのであろう。つまり、死者の数ではないのである。自動車による事故死に関しては、われわれその恩恵を受けている人たち全員が共犯であるが、回転ドアの必要をわれわれは自動車ほどに承認しない。言ってみれば、「常識」ってやつが回転ドアを有罪にし、「常識」ってやつがクルマを無罪にする。

われわれの住んでいる世界を支える常識ってやつは、こんな程度のものなのだ。断じて、便利は安全に優先される、という狂気の世界にわれわれは住んでいるのである。

人々の常識が「戦争の必要」に承認をすれば、「敵国」の領土に爆弾を雨霰と降り注いでも、それは免罪されるのであり、そうしたことに反対する一握りの人間たちを、「共犯関係だったはずだ」との無意識でもって、弾圧を加えるのである。

うそまみれのニッポン3

Sunday, March 27th, 2005

キャッシュカードを持っている人なら、ここ1月くらいの間に大抵の方々が銀行から「キャッシュカード限度額設定届けのご案内」みたいなDMを受け取っているだろう。そして、それに先立って「ある特定国」からやってきてカード偽造を組織的にやっているらしい「窃盗団」への警戒を促すメディアの過熱的な報道も見聞きしているだろう。「キャッシュカードが危ない。磁気式のカードは簡単にコピーできる。ICカードへの切り替えが急務だ。」こんな報道は、ひと月ほど前まではもっとも熱いニュースだった。

「限度額設定」というのは、面白いことに銀行からの一方的な通達でない、ということが実に注目に値する。つまり、カードを使っての自分の預金からの現金下ろしの額について、“銀行預金者であるわれわれが「自発的」に上限を設ける”という気の利いた手続きを採らせているのである。銀行が、預金者の1回に下ろせる現金の上限を決めるのではなく、預金者自身にその設定を「迫って」来ているのである。自己責任で。そして、一連の「キャッシュカードが危ない」という危機意識を煽る報道の波に乗って。

だが、ちょっと考えみれば分かることだが、銀行から下ろせるキャッシュの上限を設けたら、それは、本当に大金を必要とする事態が起きた時に困るのは、預金者自身である。たとえば、銀行が破綻してみるとしよう。そのときに起こることは、自分の設定した「上限」の為に、「自らが自らのために預けた自分自身のお金」を、自分の自由に下ろせなくなるという事態である。「取り付け騒ぎ」が起こった時に預金者が銀行に殺到しても、「お客様自身が設定した利用限度額」の契約のために、「これ以上、今日はお返しする訳には参りません」ということが起こる訳である。クレバーだね。

生涯遭ったこともないし多分遭うこともない「カード偽造団」への警戒心を煽って、「ご利用限度額」を自ら低めに設定した、銀行のお客様たちは、いざという時に、自分のお金を下ろすことができない訳です。それも自発的に設定した限度額のために。

だいたい、腹が立つのは、「ご利用限度額」という言い草である。われわれの稼ぎは、「給与振込」と「源泉徴収による税金支払い」の抱き合わせという世にも希なる不可思議な銀行都合の制度でもって、われわれのなけなしの稼ぎを根こそぎ「投資」させられているのであって、その給与をほとんど無条件に「ご利用」しているのは銀行であって、自分で稼いだ金を自分の好きな時に使うことを「ご利用」とは何事だろう、と思う。

いままでだって銀行からの「ご親切」は、われわれ預金者の利便のためだったことは一度もなく、無条件に巻き上げた人の現金の上にあぐらをかいている銀行のためだった訳だが、この「ご利用限度額設定」という「ご親切」も、そうしたことにオブラートを着せてわれわれを騙すだけの「ウソまみれのニッポン」の一例に過ぎないんじゃないだろうか?

うそまみれのニッポン2

Saturday, March 26th, 2005

もう一つの嘘。「ペイオフ解禁」という新聞や雑誌や広告でばんばん出てきている表現だって、陰謀臭い。だいたい「ペイオフ解禁」という言葉から、それの意味が理解できる人がどれだけいるんだろう? 「ニジマスの解禁」じゃあるまいし、「解禁」などというと、まるでわれわれ生活者にとって「得な」ことが起ころうとしているような印象があるじゃないか。だが、その実態は、単に、銀行はこれまであったような預金の保証をしなくても良いという、全然われわれにとって得でもなんでもない話だ。解禁って誰にとって得な「解禁」なんだよ。

3/22の新聞に載った政府公報。これがまさに「すべて本当」のことが書いてあるが、本当のことはできるだけ分からないようになっている。

政府公報「四月からペイオフ解禁!」

金融機関・農漁協等の預貯金は、預金(貯金)保険制度で守られています。ペイオフ解禁後は、全額保護される「決済用預金・貯金」以外の預貯金については、一千万までの元本とその利息等が保護されます

だと。「いっせんまんえん」なんて拝んだこともない額だからオレたちには関係ないって? そうかもしれない…。でも、これはわれわれのご先祖さんたちや両親には十分に関係のあることだし、もしあなたが相続を期待している「パラサイト系(及びその予備軍)」なら、ものすごく重要なことだぜ。この広告のトーンアンドマナーでは、まるで「保護される、だから安心でしょ」という風にミスリードしているとしか思えないじゃないの。これが政府公報が新聞にどうどうと打った広告である。「保護される」じゃなくて、「(わるいけど)一千万円までの元本とその利息等しか保護されません」でしょ。「これまでは保険制度で全額守られてきました。でも今後は銀行を保護するために、あなた方が血の滲むような思いで老後に備えて貯めてきたお金は保護されませんよ」というのが、真相でしょ。「あなた方の今までしてきた苦労は報われません。銀行(や郵便貯金)に貯めてきたお金が、破綻によって回収できなくなっても、「自己責任」です、と、われわれの最低限の生活を保障するべき政府が、その権力者としての義務を果たせません、放棄しました、と言ってきている訳ですよ。

「ペイオフカイキン」って何だって外国人に訊かれる。それって英語で訳すときは、「the end of the guarantee of full bank savings deposits」とか「removal of the full deposit guarantee」ってなるわけです。つまり、「普通預金の全額保証の終わり」「全預金額保証の撤廃」って言う意味です。これならその言葉の意味する本質が分かる。

それでも、こんな嘘だらけの「この国」に忠誠を誓う価値や意味があると、あなたはお思いですか? 郵貯がアメリカの投資ファンドにただ同然で買い叩かれて泣くのは、一体誰ですか? 

うそまみれのニッポン

Friday, March 25th, 2005

それらの名称だけから言うと、「個人情報保護法」には、「個人情報の保護」という一般生活者の権利保護という名目があり、「人権擁護法」には、一般生活者をメディアの餌食から守るという立派な名目がある。そして、ついにやってくる(かも知れない)「国民投票法(案)」には、国民が憲法改正などに関して直接投票できますよ、という印象を与えるものである。どれも、一般生活者の視点から彼らの権利を守るモノだと言わんばかりの名称と名目である。だがどれも嘘ばかりの悪法だ。

「個人情報保護」というのは名ばかりで、その法の遵守を迫る人々の本当の関心は、企業の機密情報管理だ。個人情報の保護という目的領域から完全に逸脱した拡大解釈もいいところだ。企業のための企業による企業人の管理を正当化するための「口実」にすぎないことが明らかになりつつある(だが、考えてもみよ、企業人だって家に帰ればただの生活者だ)。つまり、メディア規制の別働隊だ。「人権擁護」なんかに関して言えば、メディア規制が主たる目的にすぎない。そして「国民投票法」なんかは、投票権を下々の者に与える風を装って、その実、メディアには「何人も、国民投票の結果に影響を及ぼす目的をもって、新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、当該新聞紙又は雑誌に国民投票に関する報道及び評論を掲載し、又は掲載させることができない」(罰則は2年以下の禁固刑!)って一体全体何だよ。こんな乱暴なことを自民党は通そうとしているのか! そうなったら、「ものすごい数の人々」が読みにきている私のサイト!では、もし投票の結果に影響を及ぼす目的もって発言をしたら、タイホされる、なんて日も来るかもしれない訳だ。雑誌でも新聞でもないから大丈夫だって?(そう考えたあなたは「愛でたい」。)

これは、一体どういうことなのか? われわれの向かっている道というのはまさに闇ではないかの? だが、一体どれだけの人々が自分たちの問題として、こうしたことに関心を持って調べたり、話したり、耳を傾けたり、必要によっては声を上げたりしているだろうか? 

(孤独な戦いになりそうですよ。なんかあったら骨でも拾ってやって下さい。)

Suginami Trench

Thursday, March 24th, 2005

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オレの一日は大変だった。でもまだ一日が終わらないで、塹壕のような湿った溝の中を這い回ってボクたちに水を供給する仕事をしている人がいた。「あと、2時間ばかり」掛かるそうである。寝室の下で、工事のポンプの重低音が鳴り響く。午前1時に。

今日の獲物(元電柱)

Monday, March 21st, 2005

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元電柱ですが、一応住所表示として機能しています。

映画『パッション』を斬る:
われわれにはもうそのような巨大なイコン(遺恨)は要らない

Tuesday, March 15th, 2005

映画『パッション The Passion of the Christ』の映画の示した製作陣の想像力と創作力の欠如は、あまりに明らかである。メル・ギブソンがカトリックの信者であるとか、巨額の私財を投じたとか、あらゆるこの映画を伝説化する多くの美辞麗句を用いた風説が語られ、日本でも、呆れたことに、おおむね肯定的にその「衝撃」を受け入れているかに見えるが、それら一切が本作品の本質を語ることとは無関係である。

この映画は人間の想像力の衰退を映像的に補うという目的で正当化できるとでも言いたげな、だがその実、人々の想像力の欠如にむしろつけ込んだ映画であるとさえ言える。映画が、人間イエスの肉体的苦痛(だけ)にフォーカスしたことは、福音書の映画化というかつても存在したいくつかのプロジェクトの中でも、確かに今までにないアプローチであることは認めても良い。だが、人間イエスが通過した肉体的苦痛の映像的な再現とその強調表現というものを通して達成出来る「彼ら」のゴールとは、怒りと悲しみ、そして、それを成就させたある種のグループへの遺恨というネガティブな感情の醸成でしかないだろう。その結果としてなされることとは、「人と人を分つ」ということである。

確かに、聖書そのものに、そうしたネガティブな感情を作り出す側面があるということが、この際より明らかになったという意味で、別の評価も出来るものかもしれない(だが、それへの極端な反応が映画を見た人々による現代を生きるユダヤ人への憎悪の亢進という、ある程度予測可能だった異常な事態である)。だが、本稿は、聖書そのものの、あるいはキリスト教そのものへの批判を眼目としたものではない。そのような考察は容易にこの批評の範囲を超える。*

[* ましてやアンチキリスト教信仰者でもないばかりか、キリスト教のもたらした象徴的世界の<実現>のまさに渦中にわれわれ自身がいる以上、その宗教への安っぽい批判は、実のところ、その象徴的な出来事の<成就>に手を貸すことにはなっても、「批評できる以上客観的である」ということにも依然としてならず、いつまで経ってもその影響下から抜け出すことが出来ないというパラドックスに陥るのみである。だから、ここでは映画に対する批評にその射程を絞ることにする。]

もちろん、イエスが痛みを感じる存在 — 人間である以上、彼が体験した肉体的苦痛というのは、映像化されるまでもなく、新約聖書の福音書を読み、中世の時代から繰り返し描かれてきたキリストの受難を描いた絵画(イコン)を見れば、十分に想像出来るものである*。映画化されたショッキングな映像を通して初めてイエスに起きたことを悟るというのでは、まずは信仰者としてあまりにお粗末という以外にない。だが、映画はそうした現代人の想像力の欠如を最大限に利用して、むしろ宗教に対して熱心なばかりで怠惰であり続けられる自称信仰者を容易に間違った方向へ導くものである。

[* イエスが人間である、と(とりあえず)断定するこの文章を、イエスの神(もしくはそれに準ずる存在)であると信じる信仰者の側からすれば、笑止なものであると受け取る可能性があるが、「イエスが人間ではない」と信じたい人々に逆に訊きたいのは、もし人間でないとしたら、彼の体験した痛みに一体どんな意味があったことになるのだろう? 彼がわれわれと同じ肉体を持った人間であったからこそ、その「受難」に意味があるのではないだろうか?]

映画『パッション』は、新約聖書の(福音書の)中で描かれるイエスの肉体的な受難だけを、しかも最期の12時間だけを選択的に映像化したものである。そして、その抜き出し方そのものの中に、制作者の具体的意図がある。言うまでもなく、今回映像として抜き出された部分だけが聖書のすべてではない。しかし、受難だけを選択的にドラマ化したことによって、聖書を自ら参照することをせず、また自習しない極めて多くの一般的な(自称)クリスチャン、もしくは若いクリスチャンの精神に与える影響は無視することが出来ないほど絶大であると言わなければならない。

聖書の詳細を幾分なり知る者たちや、ある程度の自覚を以て読んだ者たちとっては、映画の大半を占める受難シーンの中に出てくるいくつかのエピソードは、一般教養のレベルで知っていることであろうが、映画で初めて知るというのに近い非キリスト教圏のほとんどの鑑賞者、そしておそらくほとんど日常的に聖書を読むことのない非常に多くのキリスト教圏の鑑賞者にとってすら、説明なしにそれがどのような意味を持ったエピソードであるのかが分かるような映像構成にもなっていないのである。

人間の残酷さとそれを受けるイエスの痛みという肉体的受難を描くことにひたすら傾注しているこの映画は、束の間、フラッシュバック的に描かれる「過去の出来事」として、聖書で言及されるいくつかの重要なエピソードが断片的に見せるだけである。だが、それは聖書を知っている人によるひっきりなしの注釈が必要なほど、不完全かつ不親切に描かれている。その点だけを考慮すると、最期の12時間に起こるいくつかのエピソードの扱いが、それらをある程度ベーシックな知識として了解している鑑賞者をターゲットと想定しているとも考え得るのである。また、極端な暴力シーンの連続であるこの映画は、残虐な暴力シーンを含む映画に対してもっぱら厳しいレイティングを施す合州国では、大半の子供が観ることが出来なかっただろうことは想像に難くない。この2点から言っても、イエスの受難劇をある程度了解している人(おとな)が、自分の聖書体験を映像で追体験、あるいは再発見しようというのが、鑑賞者にとって『パッション』を観る動機であるように思える。だが、もしそれが正しいとすれば、このことはイエスに起きた肉体的な受難が「どれほどにひどいものであったのか」という下世話な興味を満たす位の効果しかないことになる。分かりやすく言えば、この映画から学べることはほとんどなく、サディズムやマゾヒズムを満足させる映画なのではないかと邪推したくなるほど程度の低いものなのである。

したがって、逆にこの映画で初めて聖書の世界に入ってくるという人々にとって、これが適切なイントロダクションになり得るかということは、十分に検討されなければならない。

この映画を観る前と観た後で、われわれはどれだけ賢くなっているか。このことを問う必要がある。この映画はわれわれに何か新しい哲学的省察の端緒を提供しているだろうか? あるいは、聖書や宗教に対するあらたな視点というものを提供してくれるだろうか? イエスという「人物」の持っている根源的な矛盾や、イエスのもたらすメッセージ中のダブルスタンダード、さまざまな人間臭い悩み、そしてやがて「救世主」に成っていくことに付随するパラドックス、ユダヤ律法者やイエスの弟子たちのコミュニティに発生する対立や困難、親友の裏切り。こういった肉体以外の「受難」、人間集団にもたらされる受難をこの映画は描いているだろうか? あるいはポンティス・ピラト自身の立場やローマ辺境の地の政治的背景は描かれているだろうか? マグダラのマリアが一体どういう役割を果たしたのか? そうした一切が描かれていない。映画に登場する人々の半分は野卑に預言者に苦しみを与えることに喜びを見せ、残りの半分は苦悶するばかりであるが、何を苦悩しているのかが分からない。苦悩しているらしいことが、母マリアの顔を絶え間なく伝う涙や苦痛の表情を通して表現されるだけである。そこでは即時的な苦悩は表現されるが、人間のドラマが描かれることはない。息子が痛めつけられて苦悩することを描くのなら、普遍的に現在でも世界の至る所で起きているのであり、イエスと母マリアでなくてもいいはずなのだ。

以上のような聖書や人間イエスの周辺に現れるあらゆる矛盾や苦悩、そして何よりもイエス自身が通過しなければならなかった精神的な受難と変容。こうした内容がふんだんに盛り込まれているのが、ニコス・カザンザキスの原作を元にマーティン・スコセッシによって監督・映画化された『最後の誘惑 The Last Temptation of Christ』である。

様々な点で、『The Last Temptation of Christ』は、メル・ギブソンの『Passion』を凌いでいる。ほとんど比較するのもバカバカしいほどである。サウンドトラックの音楽に関してだけ言っても、後者のは、前者のサウンドトラックにおいて実現されたあらゆるアイデアの恥ずべき盗用と評価したくなるほど、「いいとこ盗り」である。聖書ものの映画にあのような音源を当てることを考えついたのは、Peter Gabrielの業績なのである。

メル・ギブソン曰く、「私の望みは、ユダヤ人を非難することではなく、キリストが我々の罪を償うために味わった恐ろしい苦難を目にし、理解することで、人の心の深いところに影響をあたえ、希望、愛、赦しのメッセージが届けられることだ」(公式サイトからの引用)。一見、いくらでも良心的に解釈できそうなコメントだが、彼は自分の語るところの「キリストがわれわれの罪を償うために味わった恐ろしい苦難」という彼なりの聖書「理解」を語ることで、図らずも現代における典型的キリスト教信者に共通して見出されるキリスト教に対する「大いなる勘違い」の領域から一歩も踏み出していないことを自ら露呈する。メル・ギブソンを含めて、過去の「実在の人物」に起こった受難が、その未来を生きる「今日のわれわれの罪」まで償うことになるというご都合者的な欺瞞、現在のわれわれを故なく免罪する論理上の破綻、その両者を容易に見逃す。キリストに起こった受難とは、その「4つの福音書」を通じて預言された<現在>を生きるわれわれにこれから起こる、そして既に始まっている受難を、象徴的に表しているものであるということにまったく気付いていない。

いくら語っても足りないほどだが、映画自体を(そして聖書そのものを)理解し、批評的に鑑賞することなしに、この映画がわれわれを哲学的省察に導くことはない。だが、もし人と人を分つことに働くならば(そして、おそらくそのようにしか働かない)、それは本来聖書の意図したことから大きく逸脱したものと言わざるを得ない。

聖書自体が最後にこう断っている。「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、私は警告する。もしこれに書き加えるものがあれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉を取り除くものがあれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」(ヨハネの黙示録22-18)と。これは、新約最後の預言書の、そのまた最後に書かれた警告であるが、それは、聖書全体に対する「取り扱いに関する注意」のようにも見える。聖書を一部引用してそれを「作品化」した映画『Passion』は、その点ではキリスト教原理主義者を喜ばすような体裁にはなっていても、聖書自体を正しく参照していないという点で、すでに原理(原典)主義的アプローチからもほど遠いのである。その点、一方の受難映画『最後の誘惑』は、何を参照しているのか、すなわちニコス・カザンザキスの哲学的省察をもとに作品化したことがきちんと最初に明記される。だが、映画『Passion』は、そのような断りもなく、大いに権威的なプレゼンをするのである。だが、よく言っても、あくまでも2時間に渡って延々と描かれる、メル・ギブソンの私財27億円をつぎ込んで造られたイエスの壮大な「苦しみのイコン」再創造プロジェクトに過ぎなかったのである(映像作品的には多くの盗用の末にできた再創造であるが)。誇大妄想狂の至った最後の作品が、キリストの受難だったというのは、いかにもありそうなことではある。

「聖書からの抜き出し方そのものの中に、制作者の具体的意図がある」最初に言ったのはまだに、そのためである。