Archive for March, 2007

改訂版 “3”の時代〜「元型的火曜日」(中)【挿入節】

Saturday, March 31st, 2007

伝統”数秘学批判──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [9]

“3”の時代〜「元型的火曜日」(中)【挿入節】に新たな図を入れて若干の改訂をした。

これをクリックする。

“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [16]
“5”の時代〜「元型的木曜日」#2

Monday, March 26th, 2007

■ 「数性5」の普遍的特性: Universal nature of the numericity five

まず「数性5」にまつわる一般論から始める。「数性5」と人間との関係というのはインド教(ヒンヅー教)の伝統、わけてもヨーガ哲学(そして仏教哲学)の中ですでに総括されていることを想起するのは価値のあることだろう。それは「五欲」とも呼ばれるもので、人間の「生存への指向」の五つの様態とも言い換えられるものである。

さまざまな表現の仕方があるようだが、この人間の心に存する五種の欲望の対象とは、概ねそれは財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲、と考えられているようである。あるいは、また五種の欲望とは「色・声・香・味・触」すなわち人間の五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に起因する欲求のことと考えられる説もある*。とりわけ仏教的な救済論、すなわち欲を断つ(回避する)ことで苦を超克する(因果の法則から離脱する)という哲学方針においては、克服されるべき対象としてピンポイントされる五つのテーマでもある。これについてはヒンヅーの伝統的教示画がテーマとして取り上げているものでもあり、往々にして五芒星、ないし外に向かって開かれた五つの花弁のような形状の図版の中に描かれることがある。

Five powerful enjoyments (Thames and Hudson)

図版:聖人を囲む聖餐式のグワッシュ水彩画。19世紀頃。「五つの最強の享楽(食肉、飲酒、食魚、特定の穀物、そして性交)」 from Tantra - The Indian Cult of Ecstasy (Thames and Hudson)

* ごよく 【五欲】人間の欲望を起こす色・声・香・味・触。また、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲のこと。

人間にとって超克されるべき人生のテーマが「五つ存在する」ということは、裏返せばその五つが人間性そのものである、ということをも意味する。このような人間の五つの欲望の対象とは、現代の価値観の範囲において*は、ほぼ逆説的に「社会人/成熟した人間」としての完成、あるいは「成功」した人生において当然の如く「獲得を目指すべき目標」であると言い換えることもできるのである。むしろこうした五欲を満たすことで、「人間」が完成するということになる。

* なぜなら成功は勝つことであり他者を負かすことである。他者より知力体力を鍛え、少しでも早く高みを極めることである。そこには他者を少しでも出し抜くこと等が含まれる。こうした勝利を伴う「人生における成功」は資本主義社会において美徳とされている。そこには仁愛や慈愛という観念が入る込む隙間はない。

ところが「完成した人間性」は、その完成の頂点を極めるや否や、腐敗への坂道を転げ落ち始める。人間とはまさに発展し滅び往く周回を特徴とする《生命》についての名称なのである。「完成」は、すなわちその後の崩壊を約束する。そして人間性の獲得と崩壊という繰り返しが、人類の歴史性を決定する。

個人のこうした完成と腐敗は、集合としての人間、すなわち文明そのものにも当てはめることができる。歴史性とはすなわち変化であり変化とは完成・腐敗・崩壊の周期性に外ならない。この、「あまりに人間的な」始まりがあれば終わりがあるという欲望が端緒となって、限りある未来に向かって走り出すものが「人間性: humanity」の実体(本質)であるという反省から、限られたエリート(選民)にとって「人間性を追求しない」という思想的オルタナティブが検討対象となる。こうして初めて「超人」を目指すのが目標となるような極めて例外的な(聖なる)状況において、それが克服すべき問題となるのである。こうした「人間性の完成」が、人間の欲望の五態という形を通して古代から逆説的に論じられていたのである。

それが「五弁の花の開花」という元型的な表現で歴史時代のある一区分に一致する形で出現してくるだろうという予言が、アジアの聖なる教典によっても保持されて来たのだ。

ここではまた、様の東西を問わず身体という人間における普遍的実体(ミクロコスモス)においても、それを「五体*」という言い方で捉えられる慣習があることが思い出される。

* ごたい 【五体】

身体の五つの部分。仏教では頭・両手・両足、漢方では筋・脈・肉・骨・毛皮。また一説に頭・頸(くび)・胸・手・足。また、その五つの部分から成る体。全身。

大辞林 第二版 (三省堂)による

五体投地

「五体」とは、日常において「全身」とほとんど同義との前提で用いられる言葉であるが、仏教用語としては、特に、頭・両手・両足といった、体躯の外縁五方向に向かって伸長する身体パーツを指しているらしいことが解っている。チベット仏教徒(ラマ教徒)などが行なう巡礼者の礼拝──五体投地(写真図版)──も、自己を諦め、運命を大地や天の思し召しに委ね、より偉大な絶対者に対し身体を放棄してみせるという意味を濃厚に持つ儀礼なのである。この「全身を地に投げ出す」その礼拝法は、まさにその「五体」への締念 (giving up) が表現となっているのである。それは翻って「五欲」の放棄を儀礼的に表した態度であると読むことができる。

Vitruvian Man Archetypical pentacle

そして五欲と同様にこの中心から五方向に向かう身体(五体)の描き出すものが、また「五芒星」と呼ばれることの多い「星状五角形: pentacle, pentagram」なのである。“Vitruvian Man”という呼称で知られるL・ダ・ヴィンチのヒトの身体素描は、ほとんど「ヒトのアイコン」としても有名で、商業主義も含めてさまざまなところに顕われる範型的図像だが、両腕・両足を拡げるこの図版は、人間の五方向へ伸長する五体の性質をよく表している一例であると言えよう。

ダ・ヴィンチ素描 (Vitrubian Man) 引用先

Leonardo da Vinci Biography

Vitruvian Man (ca. 1492) @ Wikipedia

以上見てきたように、「数性5」と「ヒト」との間には、人間性の本質(通俗性)に関わる暗示が存在するのである。それは数性の時代区分との関わりを一旦度外視したとしても、すでに存在して久しい伝統的な表徴である。それは、あたかも「数性2」が天(垂直方向)と地(水平方向)の混合を意味し、「数性3」が「天と地(上下)を結ぶもの」との強い関わりがあり、「数性4」が「全世界:四隅を持った世界」と強い関わりがあると捉えられたが如き種類の、もっとも大きな枠組みとも呼ぶべき前提的暗示なのである。これらのことは、後に再び想起することになるであろう。

地球温暖化を巡って考えられること

Sunday, March 25th, 2007

最初に言っておきたいのは、いわゆる米共和党政権の政治指導者たちが言うような「問題は現実のものではないし深刻でもない」というようなことではない。最初に言っておけば、われわれが問題すべき意味での「地球温暖化」は、「おそらくある」。

だが、その上でもわれわれが考えて損しないことも、「おそらくある」のだ。

永久凍土の喪失。極地方や高標高地域に於ける氷河および氷山の溶解、小諸島の海岸線の浸食、などなどの目に見える証拠によって、地球温暖化の危機については、さまざまな主張がある。特に、米元副大統領のアル・ゴアが火を付けた『不都合な真実』という書籍や映画によって、今後一層の話題となることは確実である。こうした主張の中で目立つのは、今すぐわれわれがアクションを起こさなければ、来るべき文明大崩壊の阻止に間に合わないというトーンである。それらのレポートの告げるところは、本当にそうなのかもしれないし、もしそうだとしたらわれわれの未来は、じっさい相当に暗い。

だが結論を急いで「急いて事を為損じる」前に思うのは、以下の二つのことである。

まず、地球温暖化は本当に在るのかということ(いや、怒らないで欲しい)。もうひとつは、在るとして、その原因は人類の文明活動にあるのか、という点。この二つのことを組み合わせると、以下の4つの可能性が考えられる。

(1) 地球温暖化は無い。存在しないものに責任追及は無い。

(2) 地球温暖化は無い。無いのは人類のせいである。

(3) 地球温暖化は在る。在るが人類のせいではない。

(4) 地球温暖化は在る。在るのはまさに人類のせいである。

(1)についてはどうもここ100年くらいのスパンの観測に因ればやはり「ありそうに見える」ので、おそらく除外できそうだ(その辺りが温暖化説に反論するひとから問題視されているようだが)。もちろん観測領野を数千年から数万年のスパンにしてしまうと、変動はあるが、冷却する期間もあり長い目で観て平均化すると「地球は温暖化していない」という主張さえ可能になってしまう。「地球は急速に寒冷化する」という主張さえある。だが、われわれはおそらくそういった超歴史的な長いスパンを問題にしているのではなくて、われわれの文明圏が「歴史」上、初めて体験する「ほぼ明らかな温暖化への傾斜」を見て、自分たちの経済活動や生活の基盤が脅かされるのを感じ始めたということだろうし、あくまでもその傾向が人類の代々限りない繁栄を妨げそうな勢いで明らかになって来たことを、真剣に問題にしているのであろう。いずれにしても現今の地球温暖化の議論のほとんどは、(1)の様な前提に則ったものではない。

(2)については上のような理由と、常識的に考えてもありそうもないことなので考察対象から除外できよう。

(3)については、おそらく人類のアクションを直ちに求める学者や運動家の人々から観れば噴飯モノであろう。あるいは「人類のせいかどうかはともかくとして」、とにかく温暖化が明らかな以上何らかのアクションが必要だという論者からすれば、このような「原因の究明」に時間を掛けているヒマはないということが出て来るのも、ある程度は頷けることである。これは、数年前にNHKが「地球法廷」というインターネットを使った自由な議論を基に、BS向けの番組を作って放映した時の内容も大同小異であった記憶がある。「原因はともかく急がなければ」というものだ。だが、「どうもあるらしい地球温暖化」の本当の原因が何なのかということは、はやり続けて検討されるべきことのように思われる。もし仮にそれが人類のせいでないとしたら、おそらくわれわれ人類の対処療法的な方策でどうにかなるというようなレベルの話ではないばかりか、その方策に掛ける時間や努力そのものが無駄になるからだ。努力をした後で、「実は私たちのせいではありませんでした」ということで済む問題であろうか? もっと良い「温暖化対策」というものがあったかもしれないのだ。もし地球温暖化(もしくは周期的気候変動)が人類の文明活動と関係なく存在し、しかも避け難いことであるとすれば、その努力は温暖化阻止ではなくて、むしろその「ほぼ明らかな地球温暖化」とどのように付き合っていくか、ということを考えることにしか無いだろう。台風の発生や進行を止められない人類が、温暖化という自然現象を止められるほどの力を持てると考えるのは愚かなことだ。

(4)は、おそらく現在地球温暖化を問題にする人々に共通の「考え」なのではないかと思われる。温暖化の傾向は便宜的に本当だろうと譲歩できるにしても、原因については少なくともそれは未だ「真実」ではなくて、可能性レベルの話である。また、可能性として二酸化炭素の増加が温暖化の原因になり得るという有力な説がある以上、程度問題はあるとしても、人類の文明活動はその増加を促進するものであることに間違いないので、やはり「地球温暖化は人類のせい」という因果関係への推測を支持する人々は増えることはあっても減ることは無いだろう。2007年3月25日の東京新聞の「読書」欄(書評欄)にも『地球温暖化の現場から』(エリザベス・コルバート著)の書評見出しとして「滅ぼされる命の現実を直視」というタイトルが付けられていた。これはそうとはっきり明言してはいないが「滅ぼす」と書く以上、人類が温暖化の責任を持っているのを前提としているように見えるし、そういった印象付けが無意識に採られていると言うことが出来るかもしれない。地球温暖化が自然現象なら「滅ぼされる」ではなくて「滅びゆく」とでも言ったところだろう。

いずれにしても温暖化はおそらくありそうだ(少なくとも2、3千年のスパンでは)。だが、その原因の真相はまだ解明されていない。したがってわれわれの努力の何を以てその阻止の方策とするのかは、実は分かっていない。二酸化炭素の増加を停めても温暖化は止まらない可能性さえある。そうなれば、先進国を追って今後経済発展が予想される諸国から、(京都議定書の様な)二酸化炭素発生の抑制の圧力は、国家間の経済格差を固定させるための政治的意図を持ったもので、『不都合な真実』などは政治的陰謀を担った環境運動キャンペーンなんだという意見が出て来てもおかしくはないのである。ゴア氏のファンには申し訳ないが、彼自身は良心的にやっていても、それが政治的に利用されているという可能性だってある。あるいは良心的環境活動家の仮面を冠った確信犯という可能性だってある。

既に発展してしまった先進国にとっては、二酸化炭素発生の抑制というのは、これから発展していきたい各国に比べて、遥かに実現可能性の高いホームワークだからだ。少なくとも、自分たちは世界を汚し放題汚しつつ発展したくせに、後から来る人々にはより高いハードルを課すことには違いが無いのである。

温暖化は否定しないものの、環境危機に関する全般的な捉え方については、運動家や政治家ではなくて学者側からの真面目な反論もある。ビョルン・ロンボルグ著『環境危機をあおってはいけない』などもそのひとつだ。ロンボルグ氏の研究に対して私の判断はまだ保留中だが、ゴア氏の著作を読んで浮き足立った方々にとっては、別の視点というものがあるという事を知っていても悪くはないと思うのだ。

同著に関するコメント

最後にもう一度言っておきたいのは、いわゆる米共和党政権の政治指導者たちが言うような「問題は現実のものではないし深刻でもない」というようなことではない。あらためて、われわれが問題すべき意味での「地球温暖化」は、「おそらくある」。というより、人類の文明の在り方を考えてみれば、それが永久に続く筈がない事は、おそらく直感的に小学生だって分かるレベルの事だ。「温暖化」はそうした環境破壊の一環に過ぎない。

しかし、その上でもわれわれが疑って損しないことも、「おそらくある」のだ。

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [5]

Thursday, March 15th, 2007

JR Logo JA Logo JT Logo JCOM

J Wave

J-League

■ 日本──もうひとつの“J”

日本が英語で“Japan”と表記されることには、覇権国アメリカの母国語である英語と、その言語文化圏およびその周辺における「日本の宿命的役割」の歴史的真相と不可分である。

日本に“J”の記号が付けられていることは、偶然と決めつけるにはあまりにも象徴的である。象徴研究の立ち場からは、図像形状の決定理由については、少なくとも歴史的経緯からだけでは説明できないある種の「申し合わせ」の暗示があるように思われる。ただしそれが最初から最後まで人為的な努力や制御によって可能であったと断じるには証拠が不十分であることは確かだ。

さて、もし英語などの表記が偶然であるとしても、今日日本人自身による“J”の扱いはきわめて意識的かつ恣意的であることに違いはない。仮にそれを選択する理由や重要な真相について、日本人自らが無自覚であったとしても、ここまで検討してきたさまざまな事情、そして英語が事実上の世界言語になった経緯を踏まえると、特定の国名の「頭文字」や「省略記号」が世界に向けて発信するイメージについて、われわれは改めて意識を向けるだけの価値があるということが、少なくともできるであろう。

■ 濫用/過剰使用される聖文字“J”

おそらく一番古くまで溯れる“J”をイニシャルとする日本の国際的に通用する記号の代表格は、放送局のコールサインかもしれない。コールサインとは国際電気通信条約に基づいて発行されるもので、商業ラジオ放送とテレビ放送には頭二桁が“JO”で始まるものが充てられている。“J”はJAPANの“J”であるが、“O”は「明朗な音が放送の将来にふさわしい」との理由で充てられたという説明もある*。ここで注意すべきなのが、「コールサインの頭文字が当該国名の頭文字を充てるのは必ずしも当然ではない」ことである。現に放送業のパイオニアであった合州国内の放送局のコールサインのほとんどは、“K”や“W”から始まるものであるし、英国では“G”や“M”が充てられている(“G”は“Great Britain”の“G”か?)。また例えばインドは“AT〜AW”で、中国は“X”や“BAA〜BZZ”であって、まったく国名のイニシャルを反映していない。放送コールサインに国名を反映させることが必ずしも普遍的でないことがここからも諒解できよう。だが、日本の商業放送局のコールサインが“JO”であることは特筆すべきであろう。

参考サイト

コールサイン基本的情報

通信用語等の基礎知識

Call sign @ Wikipedia

現在、日本に関わるもの、日本発の諸事物に付けられている“J”から始まる名称や愛称というのは容易に把握し切れないほどである。“Japanese”ないし“Japan”と呼ぶ代わりにそれを大々的に「J-」に置き換えるのがトレンドでさえある。幾つかの有名な事例を挙げてみよう。

日本の国鉄分割民営化で作られたのは「JR: Japan Rail」である。日本専売公社は「JT: Japan Tabacco, Inc.」となった。その他に「JA: Japan Agricultural Cooperatives(農協)」、日本プロサッカーリーグが「J-League: Japan Professional Football League」。ちなみに、国際通用性はないだろうが、和製ポップスの愛称は「J-Pops」である。

その他にも企業名で日本発の会社や「日本を代表する」を標榜する大企業に“J”が付くものが実に多い。J:Com, J-Phone(旧), J-Wave, J Sports, JOMO, J-Cast, J-Debit, J-Naviなどと枚挙に暇がない。そしてそれらのほとんどが80年代後半ないし90年代初頭に出現しているものである。現に最初の“J○”は、1987年の国鉄分割民営化の時期頃に始まる。また、1989年から日本タバコ産業の愛称が「JT」と呼ばれるようになり、また「J-League」が正式名称に代わる愛称として採用すると発表された1991年頃を境に、“J○”表記のブームは日本国内で一気に開花する。

この3−4年の間でも日本発の企業、イベント、サービス名など諸々を「J○」で統一し、いわば“J Brand”として世界に認知してもらおうという申し合わせがあったような勢いがあるのも事実である。これらが依然として“J Brand”の世界的認知を実現したものではなく、あくまでも日本国内に限定された、やや独り善がり的な動きに留まるものとしても、最近の目立った動きとしては、昨年紹介された日本発の日本の伝統や工夫をアピールできるすぐれた発明や開発製品に贈られる名誉的称号が、「新日本様式: Japanesque Modern」という協議会によって作られたことは特筆に値するだろう。Japanesque Modernの認証記号は、ずばりJマークである。これは、優れた工業デザインの製品に与えられるグッドデザイン賞のGマークにも似たものであるが、世界に通用する優秀な「ジャパンブランド」を積極的に売り込んでいくことに焦点を合わせた、日本の行なう野心的、かつ極めて意識的なアクションである。

ところでイニシャルが国を表す記号として普遍的かどうかの結論を得るには、各国の事情を別途見ていかなければならない。ここでは全てを検証できないが、幾つかの例を見ることにする。

英国の国有鉄道は、BritRailという名称で親しまれている。これはBritish Railを縮めたものであることは明らかであるが、“BR”と省略号になることはない。フランス国有鉄道は、Societe Nationale des Chemins de fer Francaisなので、SNCFの略号で知られているが、“F-Rail”や“FR”などの省略号で呼ばれることはない。一方、ドイツの鉄道はDeutsche Bahnと呼ばれ“DB”と略されることがある。同じグループ組織のひとつである旅客用のDie Bahn (The Rail) の社名にもこの“DB”が冠される。ただし欧州の中ではDenmark/Danmarkなど“D”をイニシャルにする国が他にもある中で、“D”と聞いて反射的にドイツを連想するのは難しいだろう。特に英語圏においてはGermanyと呼称されることもあり、なおさらそれは難しいと言わなければなるまい。「ユーレイルパス」で有名なヨーロッパ鉄道は、“Eurail”と呼ばれているが、この正式名はThe Eurail Group G.I.E.である。これは“Eurail”と呼ばれることはあっても“E-Rail”などと略されることも“ER”という略号で親しまれていることもない。欧州言語圏においては同じような省略号が多く存在できてしまう以上、そうした略号に全面的に依存することが出来ないのである。

参考サイト

Die Bahn

Britrail

Eurail

この点については、“J”が特別でありうるのは、第一に日本国内においてそもそも英字アルファベットが母国語でないためにそれが特別に際立って見えるためでもあろうし、また、その記号が国外的に利用可能なのであれば、それは「偶然」にも“J”をイニシャルにする国が多くないためなのかもしれない。

日本が“Japan”と綴られる歴史的経緯について(参考文):日本はなぜジャパンか?

■ 順列の機能としての“J”

欧州文化において、全てのアルファベットに特定の数価があると考えられているのは知られたことである。特にヘブライ・アルファベットについては独特の数価が存在することはユダヤのカバラの伝統に並んで重要である。アルファベットに付けられた数価は、文字が単語として組み合わされた時には合計数価として、その単語の持つ性格や宿命を決定/判断するものとしても機能する。ここでは詳述しないが、こうしたヘブライ(ユダヤ)の数秘学は「ゲマトリア: Gematria」と呼ばれる。

また何番目のアルファベットであるのか、という順列が問題になることがある。例えば、「Fは6番目である*」とか「Gは7番目である」とか「Mは13番目である」などに、特別な意味合いを読み取ることができ、またそれをある種の隠された暗号として機能させることなどは、欧州文化圏ではありふれた慣習である。

* 小説家、故 Philip K. Dickは、自著作品の中でFrederick F. Fremontという政治家を登場させ、それに三つの“F”が「ぞろ目」で並ぶイニシャルに注意を喚起させている。すなわち“FFF”というイニシャルで“666”という数字のぞろ目を表現できるという考えである。

その意味から言えば、英字アルファベットにおいて“I”の次に位置づけられることになった“J”は、実に第10番の記号なのである。これはヘブライ・アルファベットで同じ音価を表すYodh (“Y”音)が同様に10番目の記号であり、またゲマトリアにおける記号の意味も「数価10」であることから考えてもたいへん興味深いことなのである。あたかもヘブライ語のアルファベットのYodhに数価を一致させるために、後年追加されたのが“J”だったのではないかと穿ちたくなるほどである。このために結果として“K”は、10番目の地位から押し上げられて第11番のアルファベットになってしまった。一方、英文においては“J”がY音(母音)ではなく子音の音価を持ったために、ヘブライ語のオリジナルの音から離れていったわけである。

いずれにしても、“J”が数価10を持つことは数秘学的にも無視できない重要性を持つ。例えば、「10」とはタローカードなどにおいて解釈されているように、「ひとつの世界」における「完成」や「成就」を意味する数字である。また、聖数は7であると考えられ、広く信じられている一方で、それでもモーゼが神託として受け取った「戒め」は、十項目からなる「十戒: Ten Commandments, Decalogue」なのである*。

数字「10」に特別な意味が賦与され得るのは、それぞれの手に5本ずつ、しかるに計10本の指を持つわれわれの身体的構造に起因すると先ずは言い得ようし、十進記数法の発生原因とも共有される事情があったと考えられるが、数字の桁がひとつ上がる劇的な節目になる数性10が「完成」や「成就」などの意味を持ち得るのは、その辺りに事情があるのであろう。

* ただし欧州地域や聖書世界など(インド=ヨーロッパ語文化圏)において、「7」に次いで重要な意味を賦与されたのが「12」であるのはよく知られている(十二使徒、ユダヤの十二部族[ヤコブの12人の息子]、欧州共同体の発足時の十二ヶ国、二十四長老、などなど)が、「12 = 1ダース」をひとつの単位とする記数法に並んで、「10」をひとつの単位とする記数法も古代から広く採用されてきた。事実、十進記数法は紀元前に溯る古代エジプトの時代から伝わるものである。それが人間の身体的構造を発端とするのはほぼ間違いないが、モーゼの受け取った神託が十項目からなるのは、合わせた手が「祈りの手」であり、すなわち合掌のポーズから手を解いたときに、それぞれの掌に5つの戒めが顕われるということを、石盤に刻まれた十戒が表したのであろう。

さらに、10の数価(「数性10」)が5の倍数であることで、今一度それが濃厚な「数性5」を暗示するものでもあることも思い出す必要があるだろう。それは数字5を二度繰り返す表記上の作法とほぼ同様の意味を持つ(10 = 5 + 5)。例えばその応用としては、15なら数字5を、18なら数字6を、21なら数字7を、それぞれ三度繰り返したものと分解することができる。そして「繰り返し」は、何よりも数性の強調方法の基本である。

「数性5」の最大の特徴とは、“伝統”数秘学批判──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像(“5”の時代〜「元型的木曜日」#1)でも言及している様に、その「近代性/現代性」など、新しい時代性にこそある。今回確認された様に、アルファベット“J”が若い記号であった如く、その数性自体にも「完成」以外に「現代性:若さ」の意味合いが濃厚に潜んでいることが同時に言えるのである。したがって、現代社会においてこのアルファベットが繰り返し強調して顕われることは、時代性の象徴を鑑みても矛盾しないのである。「メイシーズの陰謀」によるクリスマスの慣習が比較的新しいこととも矛盾しない。

JJJ image

■ 反復される“J”

秘教的な数性が、2度ないし3度繰り返されることでその意味を伝達するのは『“伝統”数秘学批判』でも繰り返し見てきたが、特定のアルファベットに数価が潜んでいるとすれば、その記号が繰り返されることにも秘教的なメッセージの存在の暗示がある。

それが“JJJ”と繰り返される表現パターンである。そうした例をここでは羅列するに留める。そこにある暗示は、「周回する数字」の考え方から言えば、10 ? 7 = 3 という数式から10が第二周の「3」に相当することが諒解できる(「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [3] 序論(下): 数性と歴史の回帰の秘儀 http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=141165 を参照)。また、上述の様に「分解され反復される数字」の考えに乗っ取れば、10は「5」に相当する。

だが、今回の数字10が「周回する数字」の第二周に相当すると考えなければならない理由がこの度は見当たらないこと、また数価10を得るに至った元々の記号が「反復される“J”」に求められることから、特定数の倍数としての10を想定する方がむしろ自然である。すなわち、“JJJ”と繰り返される記号は、“555”を表現していると考えるのがおそらく妥当なのだ。その種の反復的暗示を持った例を挙げていく。

1950年代に活躍したジャズ・トロンボーン奏者にJ.J. Johnsonがいる。トロンボーンという楽器自体がまさに“J”の記号自体の形状の様に、直線とヘアピンカーブする曲線から出来上がっていることとの暗合は大変興味深いが、そのJazzプレイヤーが自分のステージネームに“JJJ”と繰り返される表記を充てたのは、その時代的の反映を思えば実に秀逸としか言いようがない。

J.J. Johnson photoTrombone

また、主に1970年代に活躍したアヴァンガルド・ロック・グループのHenry Cowは、Virgin Recordsから発表した初期の3枚の連続するアルバムに、「靴下の図案」を充てた。それぞれのアルバムカラーは、白(淡いグレイ)・青(濃い群青色)・赤となっており、「平等・自由・博愛」のトリコロール*を意識したとも、錬金術の3つの段階、すなわち白化(アルベド)・黒化(ニグレド)・赤化(ルベド)を意識したとも言えるような、秘教への濃厚な精通を思わせるコンセプトを採用している。そして、それは三つ並べると極めて象徴的な“JJJ”の図像となる。

Henry Cow 1Henry Cow 2Henry Cow 3

* ロシア国旗のトリコロールの並べ方は、blue, white and redではなく、white, blue and redになっている。ロシアの現国旗は2月革命(ロシア民主革命)と10月革命(社会主義革命、別名「レッドオクトーバー」)の間の、僅か8か月間だけ存在した、ロシア共和国の国旗の復刻したもの。フランスの民主革命に触発された三色旗である。ところが、赤と青の原色の間に白が入らず直接接触している(「火」と「水」の接触)もので、伝統的紋章学によれば極めて不安定なデザイン。資本主義(水)を象徴する「青」が、社会主義(火)を象徴するの「赤」を上から押さえ込む形に読める。また件のバンドHenry Cowが社会主義者であったことは、よく知られている。

まさに20世紀とは、失敗したユダヤ人 (Jewish) の絶滅プログラムとそれに引き続き発生した英米 (blue, white and redの三色同盟)によって工作されたエルサレム (Jerusalem/Yerusalem) のユダヤ人への奪還、イスラエル(ヘブライ表記:Yisra’el)建国の成就、それを達成した戦争、また、“Japan”の対英米戦争、そしてその敗北と復興などなどの事件に彩られる“J” (5 vs 5) の時代であった。この辺りの話は、未完の“伝統”数秘学批判──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像(“5”の時代〜「元型的木曜日」)の方でも引き続き論じていくことになる。

■ “J”に引き続く“K”

順列を表象する特定のアルファベットの存在は、同時にそれを引き継ぐもの、あるいはそれを超克するものの存在を前提とする。歴史の流れからすると、“I”は“J”によって引き継がれ、また“J”は“K”によって克服される運命にあるという解釈が可能である。そしてそのように読まれることで、“J”が“J”である理由が明らかになる。そして“J”やその周辺記号に賦与された象徴は目的を遂げ、その表現は完成する。

やがて“J”を超克するかもしれない“K”は、英語圏において「黙字: silent letter」としても機能する。もともとゲルマン系の言語において発音された“K”(特にイニシャル)の幾つかは発音されない“K”として英語圏に輸入された。このように英語圏において「発音されない音」の文字が用意されたことは興味深い。それが人為でなかったとしても、後々にある単語の上に任意に頭文字“K”を「加える」ことを可能にするだろうし、そうした人為的綴りの操作の下意識レベルでの前準備なのではないかとさえ穿った見方を可能とするからである。象徴的記号としての“K”は、すでに幾つかの場面で歴史に登場している。

その最右翼はク・クラックス・クラン: Ku Klux Klan / KKKである。19世紀後半に結成された白人至上主義のこのグループが、「反復する“K”」を持つのは興味深いことである。幾つかの致命的なスキャンダルの後に、その政治的影響力は急速に衰退したが、合州国社会における貧富の格差の拡大など、今日的な社会現象を背景に、再び勢いを盛り返しているという観測もある。基本的には伝統的なfamily valueや女性の貞淑(男女不平等主義)などを強調するKKK団員の思想は、反近代主義と片付けることも可能だが、むしろ民主主義や自由主義、そして何よりも平等主義への反動と考えるのが適当であろう。

KKK with Stars and Stripes

キリスト教原理主義とも結びついたこの結社が、ユダヤの民族や伝統を低く看做す反ユダヤ主義者であることも知られた事実だが、そのキリスト教自体がそもそもその成立まで起源をさかのぼれば、そこにはユダヤ人とユダヤの伝統があることを考えれば、皮肉のひと言に尽きる。

参考サイト

クー・クラックス・クラン@Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/クー・クラックス・クラン

図版引用先

The Real Flag Of The Ku Klux Klan

Ku Klux Klanが「団旗」として最も頻繁に用いるものが、合州国の星条旗であることを告発するサイト。南北戦争時の南軍の用いた軍旗 (The Confederate Battle Flag)ではないとして、実際に星条旗を掲げているKKKの写真の数々を掲載している。

Katipunanは、19世紀のフィリピンでスペインからの独立を目指してアンドレス・ボニファシオらによって結成された秘密組織。カティプナンという名前はタガログ語の正式名称「カタアスタアサン、カガランガランガン、カティプナン・ナ・マガ・ナナク・ナ・バヤン」(母なる大地の息子たちと娘たちによるもっとも高貴にして敬愛されるべき会の意)の短縮形であるが、「KKK」というシンボルマークでも知られる。スペインの植民主義者がカトリック教会の代理としてフィリピンを直接支配していたことを考えれば、Jesus主義である宗主国からの独立を目指した秘密結社が、KKKというイニシャルを持っていたことは極めて興味深いのである。

カティプナン@Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/カティプナン

ちなみにKから始まる国名は現在7ヶ国。Kazakhstan, Kenya, Kiribati, Korea, Democratic People’s Republic, Korea, Republic of, Kuwait, Kyrgyzstanだという。

■ “J”に対する概念としての“M”

こうした特殊な記号として機能する文字には“J”の他に“M”がある。

屹立した男根としての“J”は、女性原理の象徴たる“M”を常にパートナーとする。イエス(Jesus) は、処女懐胎によってMaryから誕生し、後には性的関係を囁かれるマグダラのマリア (Mary Magdalena: MM)と浅からぬパートナーシップを築く。現代においては“公娼”マグダラのマリアは、20世紀のセックスシンボル、Marylin Monroe (MM)によって象徴され、そのゴシップの相手はJackとの愛称で親しまれたJohn F. Kennedy (JFK) であった。

50年代に始まるモダンジャズ(Modern Jazz)のブームは、Modern Jazz Quartet, MJQを産み出した。

ウィリアム・ギブスンの短編小説『記憶屋ジョニイ』 (Johnny Mnemonic) は、映画化され、それは“JM”というタイトル名で流通された。

JM DVD JM VHS

興味深いのは、国内販売されたDVDジャケットデザインと北米で販売されたビデオパッケージを見る限りでは、“JM”という省略形のタイトル使用がどうやら日本国内に限られたらしいことである。北米では“Johnny Mnemonic”というフルスペルになっている。日本における省略タイトルは映画タイトルを覚え易くしたのが唯一の理由ではないであろう。

一方、前出の新日本様式“Japanesque Modern”は、“JM”という省略号を採用している。

いずれにしても“M”については、本稿の網羅領域を越えるので別途詳述することもあるかもしれないとだけここでは断っておこう。

Jの陰謀 〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論・完

Shit happens*

Wednesday, March 14th, 2007

YouTubeでも一気に有名になりつつあるらしい(今のところ英語圏で?)

Shift happens. の試訳。

訳を急いでやったので、不正確かも。間違いの指摘歓迎。

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Did you know…

ご存知だろうか?

時として、「大きさ」が意味を持つということを。

もし、あなた(米国人)が百万人のうちの1人なら…

中国には1300人ものあなたのような人がいる。

インドならそれが1100人になる。

中国におけるIQ値の上位25%は…

北米の全人口よりも多い。

インドならIQ値の上位28%が

北米の全人口に相当する。

教師のための参考資料:

その国では優等学位受賞相当の子供 (Honor Kids)が

われわれの子供の数より多くいる。

ご存知だろうか?

中国がまもなく世界で最も多くの

英語運用者になるということを?

もしあなたが米国内のあらゆる仕事を取り出して中国に輸出しても…

労働余剰になる。

このプレゼンの間にも…

米国内では60人の子供が誕生する。

だが、その間に中国では244人の子供が誕生する。

そしてインドでは351人が。

米国労働省によれば、

今日の学生は10から14の異なる仕事を38歳までに経験する。

米国労働省によれば、

4人の労働者のうち1人が雇われて1年以内の上司に仕える。

そして2人のうち1人が、雇われて5年以内の上司に仕える。

教育庁秘書官リチャード・ライリーによれば、

2010年に必要とされるトップ10位の仕事は

2004年時点では存在さえしていなかった。

われわれは目下、存在していない仕事のための準備を学生にさせようとしている。

それは、まだ発明もされていない技術を利用しての仕事であり、

それがどんな解答を必要としているのか知るすべもない問題を解くためでもある。

なぞなぞ:次の国の名前は?

世界で最も裕福

最大の軍隊を保持する

国際的ビジネスと金融の中心地

最高の教育システムを保持する

改革と発明の世界的中心地

世界の基軸通貨の保持者

最高レベルの生活水準を持つ

答え:英国

ただしそれは1900年のことだが…

ご存知だろうか?

ブロードバンド・インターネットの普及率は、米国が世界で20番目(最近ルクセンブルグによって抜かれた)。

任天堂は2002年単独で研究開発費に1億4千万ドルを投資した。米連邦政府は、教育の研究や改革にその半分の予算もつぎ込んで来なかった。

昨年、米国内で誕生した婚姻カップルのうち、8組に1組はネットで出会った。

MySpaceに登録したユーザ数は1億6百万人を超えた(2006年9月現在)。

もしMySpaceが国なら、それは世界で11番目に大きな国家となる(順位にして日本とメキシコの間)。

MySpaceの1ページに訪れる人の数は平均で延べ30人。

ご存知だろうか?

われわれは「幾何学級数的」な世界に住んでいるということを。

グーグル検索は月に27億回以上行われている。

B.G.(グーグル紀元前)、これらの質問は誰に対して成されたのか?

一日のうちに送受信されるテキストメッセージの数は、

地球上の総人口の数を超えている。

現在54万語が英語において存在する。

それは、シェイクスピアの時代の約5倍に相当する。

3000冊以上の新刊書が毎日発行される。

ニューヨークタイムズの1週間分の情報は

18世紀なら1人の人間が触れうる情報量の一生分に等しい。

世界で見れば、今年1年間で1.5エクサバイト(1.5 x 10の18乗)の

全く新しい情報が生成されるだろう。

これは、今年1年で過去5000年間に造られた情報量に匹敵する。

新技術についての情報量は2年ごとに倍増する。

これは、4年制大学もしくは専門大学で学習し始める生徒達にとって、

最初の1年で学習する内容が3年次には

すでに使い物にならない旧さになっていることを意味する。

そして、2010年にはそれが72時間ごとに倍増する

という事態になっていることが予想される。

第3世代の光ファイバーがNECとAlcatel社によって試験された。

それはファイバー経由で毎秒10兆ビットのデータを送り出すことを可能とする。

これはCDにして毎秒1900枚相当のデータ送信、あるいは

1億5千万回線の電話同時通話を可能にする。

それは半年ごとに3倍の速さで増大しており、

それが最低でもあと20年続くと考えられている。

光ファイバーは既に実用段階である。

前出の2社は端末の切り替えを進めており、

こうした改善に掛かる限界費用はコストゼロと言われている。

したがってeペーパーは、本物の紙よりも安くなるだろう。

全世界で4千7百万台のラップトップパソコンが去年1年だけで販売された。

「100ドル・ラップトップ・プロジェクト」は、

毎年5千万台から1億台のラップトップを

発展途上国の子供たちに届けている。

2013年までに人間の脳の電算能力を超える

スーパーコンピュータが製造されると見込みである。

2023年、今の小学1年生が23歳になり、社会人として歩み始める頃、

人間の脳を超えるパソコンが僅か1000ドルで販売されているだろう。

そして技術的予想が約15年のスパンを超えて出来ない以上、

2049年には1000ドルのパソコンは

人類の脳の電算能力を超えている可能性がある。

これらのことは何を意味しているのだろうか?

シフトが起こる(Shift happens.)

もう、知らないではすまされない。

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これはちょっと怪しげな流行系の啓発本の広告のような感じもするが、メッセージのうち、いくつかの指摘は興味深いものがある。あと「シフト」の起こる時期についても、興味深い暗合がある。(って何と?)

* Shit happens.

は、「ヤベー、やっちゃった」とか「もう手遅れ!」というような意味。

Shift happens. は、それを文字ったのであろう(たぶん)。

今後起きてくる「Shit」は、合州国人にとってそうなら、日本人にとってもおおむね同じ意味を持つであろう。

理由:日米安保条約、その他によって、同じ文明圏に取り込まれているから。

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [4]

Thursday, March 1st, 2007

【特記事項】

以下の記述は、救世主としてのイエスの史実性(実在)を前提としたものとして読めるかもしれないが、筆者の立ち場は必ずしもそれを認めるものとは言えない。だが、テーマが異なるのでここでは詳述しない。それについては例えば「「異端派」思想の「あれ」を「これ」から区別せよ〜聖書関連ニュースとその余波」などを参照のこと。

筆者にとって聖書(特に新約聖書)に対する最大の関心事は、常に、その記述が歴史的事実を反映したものであったかどうかということにではなく、それらの圧倒的なまでの《象徴的な価値》である。もちろん、その物語が現在に見られるような形として編まれた歴史的経緯に対しては、一定の関心があると言って良いだろう。

Yellow Star (6-pointed star)

図版引用先:Hidden Children and the Holocaust

■ 20世紀最大の犠牲者“J”

20世紀になって欧州を民族殲滅の狂乱の嵐が巻き起こった。第二次欧州戦争におけるナチスドイツによる組織的な「民族浄化」政策である。それによってまさに「燔祭(Holocaust)の羊」となったのは外ならぬユダヤ人 Jewish であった。ユダヤ人虐殺という一民族の完全な殲滅を目指す運動には、単に政治的な目的の完遂ということだけでは説明できない、ある種象徴的な意味合いがあることに気付いている者は意外に多い。むしろ、その象徴運動の完成のために一般民衆の感情や戦争を含む政治自体が利用されたとも言えるのである。だがオカルト的な地下水脈の存在を一般民衆が自らの問題として容易に理解できるわけではないために、運動の完成のためには「社会の寄生虫」といった単純で解り易いイメージを必要としたのである。そうしたイメージはプロパガンダの中に見出すことができる。

さて殺害されたユダヤ人の正確な人口については諸説あるが、第二次欧州戦争を通して、最大の被害者の一群となったことにおそらく疑いはない。そして殺害を免れた人々でも、なんらかの明白な迫害や差別の扱いを受けた事実に変わりはない。殺戮の具体的規模については、その真相が如何なるものであるにせよ、重要なのはその「事件」が世界に報道され、ユダヤ民族の確たる存在とその者たちの上に降り掛かった受難は語り継がれ、決定的に「歴史化」された(「取るに足らない歴史修正主義」との汚名を着せられた研究者による若干の反論は居るものの)

いずれにしても、第二次世界大戦の「意味」のひとつとして、ある特定民族の受難の再現もしくはその「国際社会」における認知と固定化があったことは、特記すべき筆頭に挙げられるであろう。

20世紀においては、ユダヤ人迫害に実際の手を下したのがナチス・ドイツの政権およびその政権を支持した人々であったのだが、ユダヤ人に付けられた最初のネガ・イメージの雛形は、今や世界教となったキリスト教の原典「新約聖書」の中に求められる。外ならぬ新約聖書の英雄イエス・キリストを磔刑の憂き目に遭わす間接的な加害者(殺害の動機を持つ者)として、そして新興教団(同胞団)の仮借なき批判の的であり、彼らの論敵として「ユダヤ人(律法家)」が登場し、保守勢力側の重要な役割を演じる――イエスという「善玉」に対する、言わば「悪玉」として。実際にイエスに死刑の審判を下すのも、刑を執行するのもローマ人であるが、イエスをユダヤの律法では極刑にできない反動のユダヤ人たちが、その極刑をローマの司法機関に求めたと解釈できる以上、イエスの死に関しては、ローマ人もユダヤ人もほぼ共犯関係にあると言うべきであろう。

したがって、「イエスの磔刑にユダヤ人は関係なく、実はローマ(イタリア)人に責任があった」という言い方は、ユダヤ人を弁護する人間の口から聞かれることがあるが、聖書の記述に歴史的根拠を求める限り、それはどう控え目に見ても公平とは言い難い。聖書の記述を歴史的事実として信じるならば、当時を生きたユダヤ人にイエスの死の責任があることも同時に受け入れざるを得ないだろう。イエスの物語自体を虚構とする捉え方以外に、そのことを否定することは出来ないのだ。

さて、「人の子」イエスが世界宗教の担い手になったのは結果として否定しようがないのであるが、そもそもの発端はイエスらを中心とするユダヤ教/ユダヤ文化/被抑圧ユダヤ人社会の改革運動であり、またユダヤの民の民族自決(ローマからの独立)を目指す政治運動の側面もあったはずで、あくまでもユダヤ出身の《ユダヤ人イエス》によるユダヤ人コミュニティ内の内輪もめの性格を持つ一例に過ぎなかった。また、イエスの敵としてユダヤ人がある、あるいはユダヤの敵としてイエスがある、という言い方がやや滑稽なのは、イエス自身が紛れもないユダヤ人に外ならなかった《隠されざる前提》が、当然のように度外視されているためでもある。このことを無視してはキリスト者とユダヤ人の歴史的反目という関係自体が成り立たないのである。

一方、当初十二使徒の一人であったユダ Judas が“裏切り者”であるとされた決定的なネガ・イメージは、現正統派の原典たる新約聖書において「四大福音書」として選択されているテキスト中に記述されている重要エピソード、すなわちユダが主イエスをローマの官憲に売り渡すという裏切り行為が根拠となっている。そして、それがユダヤ Judah, Judea人のキリストに対する「裏切り」のイメージを強化しているということは多くの人々によって指摘されているのであるが、それは正しくもあり、また正しくない。少なくとも、ここには意図されたのではないかと勘ぐりたくもなるある種の「混乱」があるのをわれわれは認めても良いだろう。

この混乱を単なる「混乱」として片付けられないのは、事実、語源的には元十二使徒のユダの“Judas”とユダヤ/ユダ国の“Judah/Judea”は同じであるためだ。このことは記号論的にはきわめて衝撃的かつ重要である。ところがこうした捉え方は、英語圏においても決して一般的であるとは言えない。これはおそらくイニシャルが同じ“J”であっても、英語表記にはそれぞれ異なる綴りが与えられているためであろう。だが、控え目に言っても語源が同じである事実においては、このふたつの名が象徴的には共通の何かを指し示すものであると言うことはできる。

ユダヤ人に対するネガ・イメージの根拠は、ユダの裏切りのエピソードにあるのではなく、ユダヤ人がキリスト殺害の動機を持っていたに違いないという新約聖書からも無理なく読み取れる理由のためだ。このことをわれわれは改めて認識すべきである。ばかげたことであるが、ユダがユダヤ人であったということを言い出せば、新約聖書の登場人物のほとんどが、ユダヤ人なのである。ユダヤ民族の伝統法が前提となっているからこそ、マグダラのマリアが安息日に客を取った(仕事をした)ことを責めるエピソードが成り立ちうるのである(マグダラのマリアもユダヤの律法を守るべきユダヤ人だったから)。イエス本人にしてもその例外ではなく、このドラマ自体がユダヤ民族おける内輪のできごとを扱ったものだから当然なのである。

「裏切り」を言うなら、最初に裏切ったのはイエスの側であるという視点も存在する。彼はユダヤの律法を相対化することで最初にユダヤの伝統法に対して背信した。そして新しく、よりユニバーサルな改正律法を打ち立てようとした。そしてそのためにこそ、後にキリスト教が世界的な普遍宗教として羽ばたくのである。そしてそれを阻止するためにはユダヤ人律法家たちはイエスの排除(殺害)さえもオプションとして視野に入れざるを得なかったはずである。

しかし、ここまで確認をした上で、われわれはJudasとJudah/Judeaが語源をひとつにするということの象徴的な意味についていよいよ迫ることができるのだ。

キリスト教は、その成立の起源から言っても、ユダヤ教 Judaism とは切っても切り離せないが、キリスト教を今日知られるような規模の普遍宗教として発展させるためには、最古の教典のひとつを独占するユダヤ民族の経典の大半を簒奪、もしくは「相続」することなしにはそれをなし得なかった。また、ユダヤ民族にしても、己がそのアイデンティティを堅固に保持したまま生き残るためには、世界宗教としてのキリスト教を引き立たせる「アンチテーゼ」として、キリスト教文明に付かず離れずの距離を保ちながら生き延びるしかなかった*。そして彼らはとりわけ白人社会において独特の畏怖と崇敬を同時に受け続ける不動の地位を確保した。当然、キリスト教社会が危機に陥った時、繰り返し現れる反ユダヤ主義 (anti-semitism) によって迫害の的になるというリスクと背中合わせではあるが、彼らの繁栄もキリスト教社会の成功に支えられて来た面がある――きわめて逆説的ではあるが。言い換えれば、キリスト教文明の危機が訪れれば、ユダヤ民族も危機に陥る可能性がある。

* もうひとつ忘れてはならないのは、ある民族を「保存」するためには、徹底してその民族を差別して叩くことである、という言い方ができる。何故なら、差別され弾圧される理由が、その民族のアイデンティティにあるということをその民族は強く意識せざるを得ず、周囲の「異民族」と同じ人間であるという意識を幾ら持っていても、その意識は現実の差別待遇によって常に打ち砕かれる。そこで起こることは、その民族的アイデンティティを捨て去ることではなく、むしろそれを誇りとして堅持する方向へと働く。そして降り掛かる受難さえも自分たちが選民であることの意識を強化する。つまり、ユダヤ人であるという意識は、ユダヤ人本人たちによってよりは、むしろその周囲の人間の差別意識によって創作され強固にされたと言うべきである。

ある民族を本当に地上から消滅させる最も手っ取り早い方法は、その民族を異民族として考えず、徹底して自分の民族と同じ待遇をすることである。差別の完全な滅却により被差別民そのものの存在理由(レゾンデートル)も自己同一性(アイデンティティ)も曖昧になりやがて無くなるのである。事実、そのような在り方によって幾つもの民族は他民族社会へと同化し消滅しているのである。失われた民族たる彼らは卑怯なのではなく、名前やアイデンティティよりも、生存すること (Quality of Life) を選んだのである。

キリスト教はその教義の普遍性を強調するために旧弊な伝統を保持するユダヤ人やその律法主義を引き合いにする以外になかった。事実、新約聖書自体が他者を否定することによって存在理由を勝ち得ている面があり、またそのように編まれていることは否定のしようがない。つまりキリスト教は本性的に敵を必要とした。それは、自らを死によって犠牲化し(殉教し)、聖別し、絶対化するために、裏切り者(ユダ: Judas)を必要としたことがひとつである。英雄は自殺によっては聖化されない。他者による殺害によってしか聖別されないのである。また彼らの、宗教としての成功と繁栄は、被抑圧者としての「ユダ」、そして何よりも「ユダヤ」 (Judah/Jew/Jewish/Jude) を必要としたのだ。

一方、神への供物として選ばれたユダヤ人は、現代人の記憶に残る史上最大級の《燔祭: Holocaust》を自己犠牲を中心に劇的に演出することを通じて、誰によっても絶対に取り上げられることのない免罪符を得た。すなわち予言され続けた「イスラエル建国」の口実を得たのだった。そして「地上のエルサレム」は、キリスト教を言わば「国教」とする「帝国」内のシオニストによって大いに守護され、打ち立てられたのであった。

ある種の供儀物/犠牲を必要とする点において、キリスト教にとってユダ(Judas)とユダヤ(Judah/Jew)には共通する何かがある。そしてそれは頭文字“J”を持つ類似名を保持しているのである。

■ 神の名としての“J”:Jah/Yah

以上の様になり得た理由のひとつには、単にヘブライ語の男性名がIa, Io, Ie[英字による便宜表記]などの音から始まるものが多いためという説明が当然成り立つのであるが、それでは何故そのような音から始まることになっているのか。それについてはあまり広くは説明されていない。だがこの事実はこれら男子名の接頭語が「神」を意味するYahweh(英語化されたYHWH/YHVH, ドイツ語化されたJHWH)の名前の一部“Yah”を共有するため、という事情まで溯ることができるのである*。その点に言及することによってこそ、初めて聖書の登場人物の名前に強迫的に繰り返されるかつての(ヘブライ語の)“Y/I”、転じて、のちの“J”のイニシャルの多くが説明できるのである。

その音は、例えば卑近なところでは神を称える常套句であるHallelujah**(「ハレルヤー」)の最後の「ヤー」の音にも見出されるもので、「讃えよ、神を」の「神」に相当する。名前の一部が「神: J/Y」であるという例は、すでに見てきたようにこれほど多く見出されるのであるが、たとえば旧約の「エレミア書」のエレミア/イェレミア(Jeremiah, Jeremy)もその一例である。ヘブライ語のYirmeyahuに語源があり、その意味は「May Jehovah exalt」(神が称賛せんことを!)である。新約に登場する幾人もヨハネたちは、ギリシア語の「Iohannes」が転じてJohannes, Johanne, Johnなどになっているが、語源的にはミシュナー・ヘブライ語の「ヨハナーン: Yohanan」から来ているもので、その意味は「神は慈悲深い」である。ユダは、ヘブライ語が「Judas」ならびに「Judah」に転じたものだが、そのヘブライ語の意味は「The praised one / The one praised (by God) 」「(神によって)讃えられし者」である(これはこの名の付いた者の辿った運命を考えると実に興味深い)。ヨセフ/ヨゼフは、ヘブライ語の「Yosef」、アラム語の「Yosep」から転じたものであり、その意味は「The Lord will increase/add」(神は殖し給う)である。***

つまり、多くの欧州言語において強迫的に繰り返される男子名のイニシャル“J”には、否定しようのない聖なる意味、神との関連があったのである。

* http://en.wikipedia.org/wiki/Yahweh#J.2FY

http://www.pickbabynames.com/_alphabeth/J.html

** “Halleluyah”や“Alleluia”などのスペル違いがある。“jah”, “yah”, “ia(h)”などのバリエーションがあるのものの、「ハレルヤー」に限って言えば、英語圏でもスペルが「jah」でありながら「yah」音で発音される。これはJ音を“juice”の音で発音する英語圏でありながら例外的と言うべきである。

*** このあたりのアルファベット表記には理想的には長母音を表す特殊記号などが用いられるべきなのであるが、ネットにおけるコーディング技術上の理由でそれらは通常アルファベットに変換してある。